「JETS」の崩壊


 95年シーズンは、多くの意味で転機のシーズンだった。ブラジルトリオと呼ばれる、ジーニョ・サンパイオ・エバイールの3人を核に、山口、前園、森など人気選手を擁し、加茂イズムを継承した木村監督率いる横浜フリューゲルスは、優勝候補などとスポーツ紙などでも前評判が高く、サポーターとしては随分気持ちがよいものだった。前シーズン「持ちすぎ」と言われたバウベルは、パルメイラスに移籍した。実は偶然、この移籍直後のバウベルがリベルタドーレス杯の予選(相手はコロンビア?のチーム)をサンパウロで戦っているビデオをもらったのだが、素晴らしいパフォーマンスでハットトリックを決めていたのは驚いた。2年後にバウベルが復帰したときその話しをしたら随分と驚いていたが。

 この年、JETS内で応援の大きな変化があった。サンバの本格導入といったらいいのだろうか、ブラジル人(女性)を講師に招いて、本格的なサンバの練習を始めたのだった。すごく寒い時期だったので、おそらく2月か3月だったと思うが、横浜スタジアム地下のテニスだかゴルフ練習場で練習をしたのを覚えている。今にして思うと、それまでの「サンバ」というのは使う楽器がブラジルの楽器で、なんとなくブラジル風の応援だったものが、完全に楽器が応援の主体となり、よくカーニバルなどでも演奏される「バチカーダ」とよばれるものになっていた。個人的にはブラジル音楽もカーニバルも大好きだが、この「楽器が応援の主体となり」というところが、音楽と応援の大きな差としることになる。

 また、その時に作った応援のうち、「ワオ ワオ ワオ サンパイオ アニマル」というサンパイオ選手のパターン(聞いたことない人の方が多いと思うが、、、)は、悪童エディムンドの応援のパクリで、紳士のサンパイオは「すごく○○かった」と述懐したそうだ。

 開幕2連勝し、加入したばかりのエバイールが2試合目にして得点を上げたことに安堵した。前年の服部が初得点まで苦労したことが妙に引っかかっていたものだからかもしれない。しかしその後が悪い。チームワーストの9連敗を喫したのだった。特に九州での試合には全く勝利できず、九州のサポーターの方達は随分悔しい思いをしたと、後に聞いた。

 長男が産まれたばかりだったので、あまりアウェーにまでは行けなかったのだが、5月3日に磐田へ応援に行った。試合はジーニョが得点するものの、スキラッチ(ちょっと懐かしい)の技ありで試合は落とした。帰りの新幹線掛川駅で選手の一団と遭遇した。この頃は私も一サポーターでしかなかったのできょろきょろしていたが、木村監督を見つけて握手を求めた。「頑張ってください」「ありがとう、次はがんばるよ」 しかし次の熊本での試合で平塚に完敗し、木村監督は休養(後に退任)する事になったのだった。

 この年、私は勝手に「魔の95年」と呼んでいるのだが、この年の不調には幾つかの要因があると思う。まず、大幅なメンバーの交代。それまでのサッカーは中盤からプレスをかけて、相手が自陣前にくるまでに相当無理をしないといけなかったものが、中盤は比較的自由になってしまってフラットなDF(特に左右どちらかが上がったりしていると)では対応できない。当然意識の統一ということはあったのだろうが、ボランチが本職のサンパイオとDFの意識がずれていなかったとはいえないと思う(信じられない事だが、この年のサンパイオ選手の評価は総じてあまり高くない)。また、モネールがあけた左サイドの穴も大きかった。ただ、この一年がなければ今の三浦選手もないのかと思えば得心いくのではあるが。監督の問題はやはりあったと思う。木村監督の後任のシルバ監督もこの不調を脱するには至らなかった。

 JETS内部は、初夏にかけて大幅にもめだしていた。原因はサンバだった。当時JETS内に「ハッピ隊」というグループがあったが、楽器中心の応援では自分たちの声が届かないという趣旨で、「新サンバ」の応援に反対していた。また、JETS以外のサポーターやファンからの苦情に近いメールやパソコン通信上の書込も増え、一種スポークスマン的な立場にあった私もすっかりまいってしまった。「新サンバ」の応援は試合の流れとはほとんど関係なく進む。中にはゴールされてもまだ楽器がなっていたなどというありえない状況も出現したそうだ。このような事が続いていたので、JETS内で応援についての会議を持つことになった。

 会議は大いに紛糾した。応援についての議論が集中したが、その場で「新サンバ」の使用の限定(試合開始時とハーフタイム時のみ)などが決まり、さらにリーダー、サブリーダーの選出も行なわれた。この会議がJETSにとってのターニングポイントになったといっていい。それまで代表のYさんの方で企画から運営(楽器やフラッグ類の輸送も!)までほとんどすべてを仕切っていたのが、サポーター自身で物事を決める仕組みを手に入れたことは大きかった。

 各リーダーを中心としたグループに別れての動きは素早かった。ビックフラッグ(2代目のもの、3代目のフラッグはアルゼンチンで作ってもらった日本最大の旗だったが、国立競技場で一度広げただけで裂けてしまい、その後使われることはなかった)のオペレーションなど、それまで他のチームのサポでは当然のことも、当然のように行われるようになっていった。しかし、ここで一番の問題となっていた項目、それはTIFOSIとの関係修復であった。

 Jリーグも開幕して3年目を迎え、この年の後半くらいから三ツ沢の観客席に空席が目立つようになってきていた。「JETS」ともう一つのサポーター団体「TIFOSI」は分裂してから2年以上経過し、ほぼ完全な敵対関係となっていた。同じチームを応援するのにJETSはバックスタンドで、TIFOSIはゴール裏でそれぞれ違った応援をしていた。

 この頃私が強く感じていたことが一つある。選手がゴールをする際に喜びを分かち合いに行くのは圧倒的にTIFOSI側だった。TIFOSI=アンオフィシャル、JETS=オフィシャル という概念以外のものが選手にあったということが後にわかる。(すでにこのころJETS内にも「選手はJETSが嫌いな人が多いらしい」というウワサは流れていた。JETSのメンバーの中に、選手にTIFOSI側に行かないでほしいとクラブに要望した人もいたらしい。)

 TIFOSIとの関係修復は水面下で行われていたが、ある時(アジアスーパーカップ優勝の2週間くらい前だったか)、TIFOSIのメンバーとJETSのメンバーで横浜駅そばの居酒屋で飲むことになった。JETS側もTIFOSI大嫌いもあり、応援を全部変えてでもTIFOSIと合同すべしという人までいるわけだから参加しない人もいた。私ははじめてTIFOSIのコアなメンツにあったが、正直この時の印象は良くない。酒が入っていたこともあって、若さ先行の大暴れであった。

 しかし応援面でも、その他の面でも徐々にTIFOSIとJETSの関係は改善しだした。特にアジアスーパーカップ優勝時の騒ぎで同じチームのサポーターであることを確認した。しかしJETS内ではそれをよしとしない人もいたので事は複雑だった。そんな中でYさんから提示された応援位置移動案が不安定になっていたJETSを一気に崩壊へと導いた。

 それまでJETSはバックスタンドのホーム側に陣取って応援していた。それを急にもっとバックより(ゴールラインよりもゴール裏よりで)で応援するようにということだった。YさんはJETSの代表であったが、それまで応援をしていた場所を動かすというのは簡単なことではない。ましてやリーダーやサブリーダーといった仕組みが出来上がっているわけだから、きっちり説明していかなければならなかったと今にしてみれば思うのだが、それはなかった。しびれを切らした我々は、夜の11時に三ツ沢にYさんを呼んで説明を求めたが、なかなか双方納得できるものではなかった。

 JETSを解散するということを聞いたのは、最終節の少し前だったと思う。Yさんはサポーター関連の業務から降り、変わってSさんが担当することになるという。三ツ沢の最終節をもってJETSはほんとうにあっさりと解散した。反対の声も、解散を惜しむ声すら上がらなかった。すでにJETS内はがたがたになっていたのだった。





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