「オーレ ヨコハマ」の独立


 「JETS」が崩壊して、翌年から応援をどうしようか、色々考えるところがあった。新しく担当になったSさんは、実はまったくの新任というわけではなく、チームのイベントなどを陰で支える仕事をつづけていたので随分面識もあった。

 新しいサポーターチーム制度を作るのにあたって、浦和のそれを強く意識したことは間違いない。それまでの公認1団体という形から、5人以上の団体として登録さえすれば基本的には公認サポータークラブとして認定されるようになったことは大きな変革であったし、公認だからといって大きくたががはめられることもなかった。#一応事務局からは「標準応援」的なものが出されていたが、それをやらなければならない義務はなかった。

 初めは「どこの団体に所属しようか」と考えたのが本当のところだった。しかしいざリサーチしてみると、旧JETS内で応援をしようというまとまりになっているのは旧「サンバ隊」だけだった。TIFOSIに合流という流れも実はあったのだが、この段階ではそれが実現するとは思わなかった。

 自分の声で応援したかった。頑張っている選手に、自分も精一杯でこたえたかった。また、それまでの2団体分割をさらに多分裂にしてしまうことは心配ではあったが、どちらにしても団体数は浦和のように激増するのだし(とその時はそう思っていた)、逆に自分たちが接着剤になって最終的に団体は複数、応援は一緒という形に落ち着ければという希望ももっていた。声の応援・参加自由・冷静で熱い。「オーレ ヨコハマ」は7名で立ち上がった。

 1996年のシーズン、三ツ沢のホーム開幕戦ではじめてわかった事は、家族サポーター団体あり、仲間でのサポーター団体ありと団体の数は予想通り激増したが、結果としてどの団体も自ら応援をスタートさせるには至らなかった。ASA AZUL(旧サンバ隊) TIFOSI オーレ横浜 の3鼎立となってしまったのであった。

 オーレは当初故意にASAとTIFOSIの中間に陣取って応援を行っていた。ASAでもTIFOSIでも、いい応援には合わせていこうという主旨だったし、一時期はそれなりだったが、最後はうまくいかなかった。

 オーレ横浜は、横浜フリューゲルスでもっとも早くホームページを立ち上げたサポータークラブだった。それまでのパソコン通信の枠にとらわれずに表現できるインターネットは、サッカーチームをサポートするのに最適だった。またこの時期から試合ごとのレポートをまとめるようにしていた。現在でもそれは参照していただける。オーレヨコハマのホームページ(保存版)

 新たに監督オタシリオを迎えた横浜フリューゲルスは、その持てる力を発揮し出した。去年あれだけ厳しい結果であったのが、気が付くと優勝寸前まで行っていた。この年の前期最終戦(なぜかこの年だけ1シーズン制だった)の国立での鹿島戦は、横浜フリューゲルス最高の試合だったと思っている。





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