ブラジルトリオ


 94年に入って、日本代表にはそれまでの大嶽選手に替わるように山口・前園両選手が呼ばれるようになってきていた。天皇杯優勝を機に、中堅から上を目指すチームに横浜フリューゲルスは変貌しつつあった。前期のサントリーシリーズは2位まで浮上しながらも5位。後期のニコスシリーズは、結局は8位となった。早い展開からのゴールシーンが多く見られるなど、素晴らしい試合も多かったが、一方でチームとしての問題点を感じさせる試合が多かった。アマリージャ選手の退団、バウベル選手のプレースタイルの問題などもさることながら、DFでもメンバーがかわるとちょっとしたタイミングの差で裏をとられてしまうなどの厳しい状況で勝ち星を重ねているのだった。また、「九州で勝てない症候群」とも言うべきか、九州ホームの試合で連敗が続いた。

 この頃から、NIFTYの会議室では応援の問題について激しいやりとりが行われるようになっていた。JETS内でパソコン通信をし、ある程度の状況把握が出来るのは私だけだったので、いつの間にかJETSのスポークスマン的な役回りをする事になった。感情的な書き込みはともかく、応援に関する考え方などの指摘の多くは「よくわかる」ものだっただけにこたえに窮することもしばしばだった。これは翌年のJETS解散まで続くのだが、サポーターとは何かという命題に最後は行き着くのだった。

 94年のニコスシリーズは9月から10月にかけてアジア大会のため約1か月の中断があったが、クラブは福島県でミニキャンプをはり、キャンプの仕上げとしていわき市でこれまたキャンプをはっていたマリノスとの練習試合を行った。横浜から日帰りで見に行ったこの試合で、エドゥー選手は相手DFの執拗なマークと、審判のジャッジの甘さに怒って退場?してしまうのだが、その数か月後にその場面が鮮明に思い出されることになるとは。

 10月13日にはフリエ元町が開店。当時あのようなオフィシャルショップを持っていたのはヴェルディだけで、おまけに場所が東京の青山というから今考えると結構間抜け、いや、先見の明があったと言っておこう。が、ともかく2チーム目だったと思う。元町の一等地にかなりの大きさの店を出したこともあり初日から盛況だった。他のクラブからの見学も後を絶たなかったというが、単年度黒字を出した年だからこそ許された投資だったのかもしれない。

 日本代表にもこの年の後半に動きがあり、ブラジル出身のファルカン監督の後任に加茂監督が内定した。クラブは10月29日付けで加茂監督を顧問とし、木村文治コーチの次期監督への昇格を発表した。この時期と相前後して、クラブは主力の外国籍選手エドゥー・モネール選手らの解雇と、ブラジル人3選手の獲得を発表したのだった。

 それまで「選手が移籍する」ということに慣れていなかったこともあって、一体全体どうなってしまうのか、不安に思ったことを覚えている。自分にとってエドゥー選手もモネール選手も親しみやすい存在だったし、第一サッカー自体が面白いと思えるようになったのは彼らによるところも大きかったのだ。しかし対するパルメイラスの中核3人の実力は、先だっていやと言うほど見せつけられている。悲しみと期待がごちゃ混ぜになりながら94年は暮れていった。

 95年に入っての第一の吉報はアジアカップウィナーズ選手権優勝だった。94年の11月27日三ツ沢で香港のインスタント・ディクトとの試合に勝利し(この試合が加茂監督の最後の試合)、1月20日にUAEでタイのT.O.Tを逆転で下し、同22日に地元アル・シャハブとの決勝に勝利してクラブとして2つ目のタイトルを獲得した。この年の1月17日に阪神・淡路震災が発生している。





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