JETSの問題


 横浜フリューゲルスの応援が2つに割れた原因については正確には知らない。私がスタジアムに足繁く通うようになった段階ではすでに応援は二つに分かれていた。

 このうち一つは、クラブが正式に認可したサポータークラブ「JETS」であり、もう一つは「TIFOSI」であった。そのうち「JETS」は公認ファンクラブよりも、より応援に特化した「サポーター団体」として設定され、長崎・熊本・鹿児島にもそれぞれのJETSがあるなど広範な活動をしていた。

 全日空(JSL)時代にはANNA(アンナ)というチアリーディングチームもあったりで、もともと「自分の会社のクラブ」の応援は自分の会社で行うという実業団的な部分は多かったようだ。J発足時にも、それまで応援していたファンに声をかけて応援組織を作ろうとしていたのは全日空だった。これは当時のクラブのあり方からして当然だったとも言える。日産や読売などそこそこファンの多いところはともかく、そうでないところは社員を動員したりしていたわけだし、そのことが特に問題視されることもなかった。しかし問題は、その応援の組織化を「外注」してしまったことにあったようだ。応援団という、良いときは素晴らしく力強い味方になってくれるが、一度対応を誤れば、大変なことになる「お客さん」を自らの手でコントロールする自信がなかったのだった。

 「JETS」の代表であったYさんは、元々イベント会社を経営していて、そのノウハウという部分では適切な人材だった。92年のナビスコ杯の時は大規模な応援をできなかった(らしい)横浜フリューゲルスの応援を、急速にまとめ上げ、形にしたのはYさんの功績だろう。ただ、やはり立場上の限界も大きかった。Yさん自身がいかにフリューゲルスを愛そうとも、人は後ろにあるものにも目がいってしまう。無私の気持ちで動いていた他チームのサポーターからすればきっと納得のいかないことだったろう。あるサッカー誌にも「商業主義的だ」と書かれたことがあるそうだから、そういう批判はあったのだと思う。

 特に93年6月頃に勃発したらしい「サンバ事件」は、94年当時も語り継がれていた。クラブ側からの要望もあって、見栄えのする独自色の強い応援にしたいと言うことで、サンバ形式の応援を取り入れることになったというものだ。それまで応援していた人たちにも得心がいくような相談があったわけでなく、その一方的なやり方、応援スタイルのそのものの問題(後述する)もあって、それまで応援していた人の一部が「JETS」を離れていった。その人たちは「私設応援団」を結成し、やがて「TIFOSI」への流れとなっていく。

 当時の応援には、その分離していった人たちが残していったものが多かったようだ。「フリエ」という造語も、パターンの多くもそうだった。分裂した当初はおなじ応援が多かったので、片方が応援を始めると他が追随していくということが良く見られた。93年のナビスコ杯の時なども、場所は離れていたけれども応援のパターンはおなじようなものだったし、お互いに親指を立てて励まし合ったりさえしていた。

 しかし、徐々に独自の応援が出来るようになる。違う組織なのだから当然だが、一方は他方の応援がわからなくなってしまう。悪意があるわけではないが、おなじシーンで違う応援がスタートしてしまうことがおきるようになると急速に関係が悪化してしまう。このようにして、分裂応援が定着してしまった。

 6月半ばにサントリーシリーズが終わって見ると、12チーム中5位という成績であった。一時期は2位まで浮上したものの、後半ややペースをつかめずに順位を落としていた。パラグアイの爆撃機、アマリージャ選手が突然退団したのも、このサントリーシリーズの直後だった。当初アマリージャは恥骨結合炎で帰国し、引退というような説明だったが、パラグアイで再度現役に復帰するなど、未だに謎だらけ。その後パラグアイリーグのチームで監督をしているというが定かではない。また、このシリーズで印象に残っているのは、磐田スタジアムでのエドゥー選手のロングFKだろう。センターライン近くから直接ゴールをねらうあたりはさすがにエドゥーだが、それを入れてしまうあたりもやはりエドゥーだった。

 三ッ沢でのホームゲームはいつも満員に近く、よくサポーターが中心になって自由席の席を詰めて、座れない人が入れるようにしたりしていた。新しいスタジアムの建設が取りざたされていたのもそのころだったろう。後で聞くところによると、この年横浜フリューゲルスはクラブとして単年度黒字を計上したそうだ。あれくらいお客が入らないと黒字にならないということなのか、と後に思うことになる。それにしても、94年はアメリカW杯の年であり観客も多かったのだろうか。いや、前年の「ドーハの悲劇」によって関心が高かったのかもしれない。今になって見ると、あれは悲劇ではないのだが………。彼我の力量の差を日本人が初めて面前で見せられたという意味での悲劇だったのかもしれない。

 そのオフを利用して、7月16日に「パルメイラス」を横浜スタジアムに招き、プレシーズンマッチを行った。横浜スタジアムは人口芝なので、5m四方くらいのブロック状の芝(福岡県で育てていたものだそうだ)を運び込んだ。当時、川淵チェアマンの「青い天然芝でサッカーを」という意識が定着してきていて、人工芝でサッカーをやるという雰囲気ではすでになかったのだった。余談だが、この年の夏の雨と高温によって三ッ沢の芝がダメになってしまった時に急遽持ち込まれたのが、このおなじブロック状の芝だったらしい。後にブロック部分ををとり去って、そのまま三ッ沢に定着させたと聞いていたので、少なくとも99年の春に三ッ沢が改修されるまでは、芝を張り替えていないとすれば、その芝がそのまま使われていたのかもしれない。

 エドゥー選手がパルメイラス出身ということは知っていたが、肝心のパルメイラスというチームについての知識は決定的に欠如していた。試合当日に一緒に応援している人から聞いた「ブラジルでも相当強いチームらしい、サポーターが暴れるので有名だ」という事ぐらいだった。

 パルメイラスは、後に95’96’とサンパウロ州選手権を連覇するなど波に乗ってきていた時期だったし、サンパウロを代表するビッククラブであった。また、パルメイラスに限らずブラジルのサポーター(ブラジルではトルシーダと呼ばれるが)は過激で、法律で活動を禁止されたクラブが3つあった。パルメイラスには大小200近くのサポーターグループがあるそうだが、その最大の「マンチャ ベルデ(緑のおばけ)」は、幹部クラスが殺人事件を起こすなどで、ブラジル国内では「緑のおばけ」のトレードマークを身につけることさえ禁止されていた。

 このときの出場選手の事を調べようと思ったのだが、なかなか資料が出てこない。公式の試合記録などはかなり残っているのに、なぜかこういう試合の記録は残っていない。当初、日付を3月だと思っていたが、それは別であったのが柴田さんのホームページで明らかになり、得点者もエバイール2、フラビオ(コンセイソン)、エジルソンということがわかった。

 試合は0−4で、散々だった。だいたいパスの初速からして違う。もちろん世界有数のクラブチームなのだし、うまいのは当たりまえなのだろうが、基本的なパスが素晴らしかった。後半はパルメイラスが手を抜いているのが素人目にもはっきりとわかるほどの戦力格差で、落ち込むというより、「やっぱり世界はすごいや」と思ったのだった。この試合が元で、後のパルメイラストリオが来日することになったというのは本当のことらしい。





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