天皇杯優勝(2)


 翌週の博多での試合はテレビで見た。あるいは録画だったか定かでないのだが、前半の同点を、前田治の後半の追加点で突き放し、それまでほとんど勝ったことがなかった(という)川崎に勝ってしまった。この試合で得点こそしなかったが、明らかにアマリージャが周りと合ってきているのがわかった。アマリージャ自身も周りの選手にどう使われるか、気を使いながらプレイしていたようでもあった。新しく加入した選手がチームに馴染んでいく過程を見ることができたような気がしたものだ。

 加茂監督の采配というのは今一つ記憶にないのだが、少なくともこの頃から「ゾーンプレス」という言葉が新聞などにも出るようになってきたと思う。「最新の戦術をもって優勝を目指す若きチーム」というイメージが醸成されていった。

 準決勝の相手は広島だった。この日は仕事をしていたため試合の記憶は全くない。今の家内へ電話をして辛くも勝利したことを知った。今のようにインターネットもあまり普及していなかったので、翌日の新聞でモネールとGKの森がそれぞれ累積で元旦の決勝に出場できないことを知った。モネールはともかく、森の累積は予想外だった。

 93年当時はパソコン通信のニフティサーブの会議室もそれほど大規模ではなく、会議室もマリノスと合同だった。今思うと平和な時代だったのかもしれないが、その分アクセス件数も少なかった。後にこのニフティサーブ会議室の常連が中心となって「人格社」なるグループ(というかもっとオープンなもの)が出来上がるが、この人格社の語源である人格者とは、あのモネール選手よりとったものだそうだ。試合中あまりにも熱くなってしまい、イエローカード連発のモネール選手に「人格者たれ」ということであったのであろうか。

 この天皇杯でもその人格者ぶりを発揮してしまったということらしかった。

 GKの森選手は、若くはあったが礼儀正しい選手だという記憶が残っている。もちろん一番の目印はドレッドの髪型であったが。この翌年に練習場などでも森選手に会う機会が随分あったが、非常に丁寧な応対をしていたのに感心したものだった。

 加茂監督の敷くフラットな4バックシステムでは、DFラインを抜かれたときのスイーパー的な役割がGKに要求される。反応速度そのものもあるのだろうが、前に出る思い切りという面で森がスタメンで入る事がほとんどだった。ただコーチング面ではやや難しい面もあったのだろう、DFの要岩井選手がその役を補完していたようだった。

 元旦の決勝戦進出は、(こういってはなんだが)私にとって予想外の出来事だった。あの栃木での「ダメだと思うけど………」というのが一般的な見方だったと思う。この年の天皇杯のチケットはJブームの影響もあって完売していたし、相手は前期優勝の鹿島なのだから、チケット獲得は大変なことになっていた。

 JETSがクラブ枠のチケットを放出し、また決勝にすすむと信じていたベルディ川崎のサポーターからもチケットが流出したこともあって、なんとか元旦の国立競技場に滑り込むことが出来た。

 試合そのものはTVなりビデオなりでご覧の方も多いと思うが、あの異様な雰囲気は言葉では言い尽くせない。試合を前に鹿児島や熊本のJETSなどから前祝いと称して「焼酎」の瓶がスタンドを回っていたし(下戸の私も少し口にさせてもらった)、優勝の瞬間に割るためのくす玉があったり。それにも増して、見ている人の「サッカーを見に来る」というよりも「優勝の瞬間を見たい」という心理が、周りの誰彼とでも話をしてしまうというような状況を作っていた。

 後半のロスタイムに、追いつかれた時は正直ダメだと思った。それまでの観戦で、追いつかれてから勝ったことを見たことがなかったからだった。しかし、なにかいつもと違っていた。渡辺選手の素晴らしいヘディングシュートが事実上試合を決めた。天皇杯はVゴール方式ではなかったので、延長を前後それぞれ15分ずつ行ったが、1点を背負った鹿島は果敢に攻撃にシフトした。その広大に空いたDFの裏が、アマリージャの突き放す得点へと結びつくのだった。

 私が初めて見た天皇杯で、横浜フリューゲルスは優勝した。





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