天皇杯優勝(1)


 93年秋頃、横浜フリューゲルスの戦績はあまり思わしくなかった。リーグ戦前期であるサントリーシリーズは10チーム中7位の成績だったし、後期のニコスシリーズも出だしからあまりよい状況ではなかった。監督である加茂周氏は日産時代に多くの優勝経験があったとは知っていたが、監督の採用した4バックシステムと中盤での継続的なプレッシングを特徴とするシステムは、選手に大きな負担を強いるものの、ツボにはまると素晴らしいゲーム展開となった。しかし若いチームは素晴らしいパフォーマンスを見せたかと思うと、突然大くずれしたりと安定した力を出すにはいたっていなかった。後にオリンピック予選で大活躍することとなる前園選手も、この当時はフィジカル面での問題が大きく、90分フルで出場することはほとんどなかった。素晴らしいドリブル突破を見せるが、激しいプレッシングサッカーでは90分もたなかったのだろう。クラブが急遽補強したアマリージャ選手もリーグ戦ではなかなかうまくかみ合わず、結果を出すには至っていなかった。

 そんな試合観戦の中で特に親しくなったのがKさん夫妻だった。家が近い(車で15分位)ということもあったが、今までサッカーをほとんど見ていなかった私達に、各チームの特徴から、戦術などまで色々と教えて頂いたり、チケットの件などでも一再ならずお世話になった。試合に関してはかなり激しいことを言いながらも、最後までフリューゲルスというチームが一番好きだという根本を忘れることはなかった。サッカーの「ツボ」がようやくわかりだしてきていた私達は本当に勉強させてもらったと今でも思っている。

 この年の天皇杯、3回戦は三ッ沢での田辺製薬戦だった。この時は大塚製薬対浦和の試合とのダブルヘッダーで、同じ側になった大塚製薬の「ポカリ」と「カロリーメート」の着ぐるみと、阿波踊り式の応援が妙に記憶に残っている。試合は浦和と横浜フリューゲルスが勝ち進んだ。

 私が本当にサポーターになるきっかけとなる重要な試合、12月11日の栃木グリンスタジアムでの天皇杯対浦和戦を迎えることとなった。

 この試合は、JETS主催のバスツアーで行くことにしていた。朝早くに東京駅だかに集合して、貸し切りバス1台で、栃木に向かった。バスの中では選手の応援CDなどをかけながら東北道を北上、一般道に降りてから渋滞にはまったりしながらもスタジアムに無事ついたのだが、今までの試合と状況が全く違っている。相手サポーターの方が圧倒的に多いのである。

 それまでの国立にせよ三ッ沢にせよ、私が見た試合では相手サポーターの方が多いということはなかった。しかしこの栃木では多くの浦和サポーターが詰めかけていて、アウェー側のゴール裏は完全に赤く埋まってしまっていた。横浜フリューゲルスも調子がいいチームではなかったが、それ以上に浦和レッズは「Jのお荷物」とまでスポーツ新聞で酷評されるなど不調を極め、93年のシリーズは最下位で終わっていた。それなのにこの状況はどういうことだ、とその時は思った。浦和が元々は三菱重工というチームで、長らく地元に密着して活動しており、すでにJSLの時代から熱心なサポーターに応援されていたということはこの時点では知らないことではあったのだが。

 一方のホーム側はというと、もちろんフリューゲルスの青い旗も多いのだが、どちらかというと浦和側が一杯になってしまってという地元の方が多い。Jリーグが栃木にも来たということで、もうお祭りのような騒ぎだったし、周りの工場団地中路上駐車があふれていた。しかし横浜なり近県から駆けつけた横浜フリューゲルスサポーターは少なく、応援も人数の問題もあって苦しい状況だった。

 しかし、そのような状況の中で選手は素晴らしく奮闘した。前半一時3点のリードを許したものの、エドゥーのハットトリックと前田治の得点などで4ー3と逆転し勝利した。気落ちした味方選手を励まし、自らのFKで反撃を開始したエドゥーという選手に惚れた。FKの名手であり、実際目の前で何度もFKやCKからの直接ゴールなどを見せつけてくれた選手ではあったが、それ以上に試合に対しての強い気持ちに感動した。そして振り返って、自分たちファンが、そのフィールドで頑張っている選手にどれだけの事ができるのだろうか、今回のようなアウェー状態で、どのようにしていけば良いのだろうかと思わずにはいられなかった。

 それまでも周りにつられて声を出したり、手をたたいたりはしていた。「ガンバレ〜」などと一人声を上げていたことさえあった。しかし試合が負け込んでくると次第に声が小さくなり、手もたたかなくなりしていたのではないか、「今日の試合展開は……」などと愚痴ってみたりしていたのではないか。

 アウェー状態では当然選手も苦しい。そんな状況を少しでも打破出来るのは、選手と同じく横浜から遠征してきている私達以外ないのではないか。今まで見る人(見物人)の側にいたが、あの栃木の状況をみたら、とてもそんな気持ちでいられなくなってしまった。

 その次の試合は、川崎と九州での試合だったが、その川崎に過去5年近く勝っていないということは知っていた。当時JETS代表で応援の指揮もしていたYさんが「ダメだと思うけど、九州でも応援を頑張ってくる」と言っていたのは悲壮感にあふれていた。

 3点差をひっくり返したこの試合は、今でも自分にとって印象深い試合だ。逆転した我々のほうは嬉しいが、逆転されたほうはたまったものではないだろう。バスに帰るとバスの側面に足跡がいっぱいついていた。バスガイドは「バスを蹴られた」と本気になって怒っていたが。





next
top