クラブからの電話


今でもあの電話のことは覚えている。秋も深まった1998年10月28日夜、柄にもなく西麻布で会社の同僚と飲んでいた時に携帯電話がふるえだした。家内からの電話だった。

「今、クラブのKさんから電話があって、至急連絡してほしいって。なんか暗かった。良くなさそうな話みたいだよ」

「ああ、そう。じゃかけてみる。」

 思い当たる節がないでもなかった。その年から、私のサポートしてきた横浜フリューゲルスは、そのホームスタジアムをよりによって三ッ沢から7万人収容の横浜国際競技場に移していた。陸上のトラックをフィールドと観客席の間に挟んだその新しい競技場については、賛否両論があり、その点に関してのレポートをサポーターチームとしてクラブ提出してあったので、その回答という可能性もあった。そろそろ次期の競技場分配が確定してくる頃合いでもあったからだ。
 ただ一つ不思議だったのは、なぜこの時間にということだった。それまでも、クラブから電話が入ることはあったが、こんなに夜遅くなったことは一度もなかった。

 電波状態の良いロビーまで出てからクラブに電話をすると、すぐに担当のKさんにつながった。たしかに暗い。
「竹内さん、どうも。実は大変申し訳ないことになってしまいました。今日はお話できませんが、非常に重大な発表が明日あります。明日の夜、新横浜のクラブ事務局まで来て下さい。」 随分と距離を置いた話し方だ。

「Kさん、どういう内容か、教えて下さいよ」

「いや、絶対に言えません。言えないと言うことで理解していただきたい」

これはいつもと違う。血の気が引いてきていた。

 Kさんとは、同じチームをサポートしているという意味では意気投合していたが、クラブの担当者とサポーターとしての距離はうまく保たれていたと思う。そのKさんが「言えないということで理解」というのだからただごとではない。

 帰りの電車の中で色々考えたが、この状況下では「廃部」あるいは「Jリーグからの撤退」ではないかという結論を自分なりに出していた。横浜フリューゲルスのメインスポンサーの一つである佐藤工業が苦しい状況にあることはもちろん知っていたし、今年一杯でスポンサーから降りるということも聞いていた。ANAはパートナー探しをしていて、つい数週間前に新スポンサーがみつかりそうだというウワサを聞いたばかりだった。ただその交渉が不調に終われば「廃部」の可能性は高いだろう。逆にその交渉がうまく行きすぎれば「身売り」になるのだろうが、さっきのトーンはそんな感じではなかった。

 家に帰ってすぐ、サポーターチームの仲間にクラブからの電話内容を連絡した。みな一様に不安げ。そうこうしているうちに、別のサポーター団体からも電話が入る。なにか新しい情報があるんじゃないかということらしかったが、残念ながらこちらもご同様さまだった。





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