第6回 遠藤喜久の会
2013年4月21日(日曜日)
終了しました。
ご来場ありがとうございました。




公演後記
おかげさまで無事に6回目の公演が終わりました。
ご来場賜りましたお客様有難うございました。
またお手伝い頂いたスタッフの皆様、ご支援頂いた皆様
沢山のお花を頂いた皆様。本当にありがとうございます。
今回は、「能と朗読」という企画公演で、
能としても難易度の高い演目を、初めて能を見る方にも楽しんでいただこう!
という企画シリーズの3回目でした。
おかげさまでアンケートには、はじめての能でも楽しめた、分かりやすかった。面白かった。
とのご意見が多く。ヨロボシというちょっと難しい演目でも、公演のやり方次第では初心者でも楽しめるのだと
わかってよかったです。結局、物語の背景と、言葉の問題を少しクリアーできれば能はそんなに難しくないのです。
むしろ複雑なストーリーを削除した分。心に訴えるものは強いのですね。

ヨロボシは、今回の説経節をはじめ、文楽、歌舞伎、落語、演劇、小説にまで発展した作品なので
それと比べて、能のオリジナリティーがよく分かりましたし、改めて能の描き方、主題に集中する演出のありようを
演技の特異性よく感じることが出来ましたし、今後の能を演じていく上で、物凄く重要なことを学びました。

なお、今回の舞台は、企画公演のコンセプト「能の難しい演目を初めて能を観る方にも楽しめるように」にしたがって
公演パンフレットの解説や、現代語のしんとく丸の朗読。また、盲目之舞の小書きと写実的な替えの型などを
入れさせていただきました。こうしたリアルな型は、昨今あまりやらないので、下稽古から打ち合わせをさせて
頂き、大変貴重な経験でした。これを踏まえて、写実的な型をそぎ落として現代の能に進化洗練してきたのだと
やりながら凄く実感しました。この「そぎ落として」も、その分が無くなるのではなく、その分凝縮して濃くなるということです。
これが感覚として今まで以上に体感出来たのは私にとっても大変貴重な経験でした。
もしまた同じ演目で演じることあらば、何もせず微動だにせず、音も立てずに杖をついて
今回以上の舞台に出来るように精進していきたいと思います。

今回、朗読の飯島さんも3回目のご出演でしたが、能舞台にも慣れていただき、台本も面白く
朗読シリーズでは一番組み合わせがうまく行ったように思いましたが。如何でしょうか。
また、ご意見などメールいただけばありがたく存じます。
まずは、今年の前半線の大きな山場を一つ越えてホッっとしております。
ありがとうございました。

次回公演ですが、
また決定次第お知らせます。
次はどんな企画でやれるか楽しみです。
乞うご期待。










公演日 2013年4月21日(日曜日)
午後2時開演(開場1時30分)
会場 東京神楽坂
矢来能楽堂(新宿区矢来60番地)
東西線神楽坂矢来口より2分
入場料 S席(正面指定席)  
A席(正面指定席)
B席(中正面・脇正面指定席)
自由席
学生自由席 
内容 仕舞 観世元雅作(能 弱法師の作者)
    歌占
    隅田川より
朗読 しんとく丸
   (説経節版の弱法師を原作とした朗読)

能  弱法師
申込方
@遠藤能楽事務所にメールで申し込む  
取り扱い終了しました。
A矢来能楽堂に電話で申し込む 
 рO3-3268-7311
 当日券あり。終了しました。
B観劇ポータルサイトカンフェティ」のシステム利用
取り扱い終了しました。
今回のテーマは俊徳丸。
もうヨロボシというのは、説経節や浄瑠璃や落語や小説や演劇など古典から現代劇まで取り上げられる大変有名な題材です。
高安長者伝説という中世にあった説話を世阿弥の息子元雅が世阿弥の作った詞章を交えながら能劇化した作品として知られています。
この元雅さんは、父世阿弥よりも早く世を去り父世阿弥は大変にその死と才能を惜しんみ嘆いたと伝えられます。
あの名作「隅田川」も彼の作品と伝えられます。
元雅自身、世阿弥の子として生まれながらも権力者に翻弄され決して恵まれた立場ではなかったようです。
祖父観阿弥、父世阿弥のような目覚しい栄達もなく若くして謎の死を遂げます。
それ故か後世の我々は彼の作品の中にある独特の翳りに特別な思いを持ちます。
そして厳しい運命の中で生き抜く主人公の強さと切なさに深い感銘を受けるのです。
今回は親に感動され盲目となった青年の光と影を演じて見たいと思ます。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。遠藤喜久
























第6回 遠藤喜久の会
2012年の公演は無事に終了しました。
ご来場有難うございました。
心より御礼申し上げます。

仕舞に続き、飯島晶子さんの解説風朗読語り「平家物語」
で藤戸の世界に誘われ能が始まりました。


前シテ 母  遠藤喜久 佐々木盛綱 野口能弘 従者 遠藤博義
戦で戦功を立てた佐々木盛綱が藤戸の所領をもらい赴任してくる。
そこへ息子の漁師を殺された母が訴えに来る。
母は殺害の真相を知り、自らも同じように殺してくれと盛綱に迫るが、退けられる。
盛綱は漁師の弔いを約束し、生き残った家族の補償を約束する。

後シテ 漁師の亡霊 遠藤喜久 佐々木盛綱 野口能弘
盛綱が数日間に及ぶ法要を営でいると、亡霊が海から現れる。
そして、因果応報なのかもしれないが尽きぬ恨み云いに現れたと述べ、盛綱の仕打ちの非情さを訴える。
そして、自らの最後を壮絶に再現するであった。


やがて亡霊は恨みを晴らさんと盛綱に襲いかかろうとするが、
思いもよらぬ弔いを受け憎しみを和らげ彼岸へと向かう。
漁師は憎しみと執着の杖を浄土に向かう船をこぐ棹と変えて、
彼岸へと漕ぎ渡り、最後にその執着の(杖)を手放し成仏する。
                     
撮影 芝田裕之 (写真には著作権肖像権があります。無断転用を禁じます。ご注意下さい。)

毎回のことですが、1曲にスポットを当てて自分なりに掘り下げて演じるのですが、
今回はこの曲のセリフに出てて来る「因果」ということが、凄く心にひっかかりました。
漁師の母も、漁師も最初に口にする言葉。
因果だから仕方ないが。でも。。。。
人の一生がもし一回きりでなくて何度も転生するものなら。
そして因果応報があり、加害者と被害者が逆転するなら。
被害者は、前世に自分がやったことが今度は自分にやられているんだと、
そう思って諦めがつくのでしょうか。
そもそも、魂は不滅なのでしょうか。人は転生するのでしょうか。
それは何の為に。
そして因果応報はあるのでしょうか?
全ては人が考えた事なのでしょうか。
それとも本当に・・・・。

そういうことをこの公演の稽古をしながらずっと考えていました。
私なりの結論は、こう考えると、少しだけ弱者に心の逃げ道が出来るのではないかということ。
そう考えると心が救われる部分があるのではないかということです。
弱者が前世では強者の立場であり、今生では役割が反転する。
そう考えると、現実を超えて立場が逆転し、弱者が強者になるのです。
しかし、それもまた仮の姿なのです。
弱者救済と鎮魂。
それがこの能の目指した主題の一つなのは間違いないと思います。

魂の仕組みについて、因果について、それ以上のことは死んでみないと分からないということ。
そしてそれが真実であれ想像であれ、どっちにしろ罪を犯すことはよろしくない。
小学校で習う一番簡単なこと。
自分にされたら嫌な事は、他人にしない。
新たな因果を作らない。
これに尽きますね。

しかし、人は生きるために時として罪を犯し正当化してしまう。
子供でもわかる簡単な事が出来ない。
そうした人間の業を強く戒めているように思います。
私自身の中に思いあたる節があるのか、ストーリーとは別にそんな事をずっと考えていました。

私自身はこの漁師をなんとか成仏させたいなあ。彼岸へと渡らせたいなあと願っていました。
人をずっと恨むのは苦しいです。それを手放せたらいいのになあと。
そういう風に演じて終われたらいいと思っていました。
当日パンフに書きましたが、800年たった平成元年に、
この二人の末裔が再会し先祖の恩讐を超えて笑顔で握手を交わしたと新聞で報じられました。
それを知ってほっとしました。
そして、それが答えなんだろうなと思いました。

能の最後に杖を放したとき。
それがスッと真っ直ぐに落ちたと聞かされて
(演じている時は見えていないので、そうなればと思っていましたが)
うまく成仏したかなと。
私なりにこの物語は完結しました。
能劇のフィクションではありますが、毎度本当にその人がいるかのごとく思ってしまうのが、
なんとも不思議であります。母親や漁師は私自身でもあるのです。

とにもかくにも今年の私の自主公演は終わりです。
次回は来春4月です。
盲目の青年 俊徳丸のお話。乞うご期待です。

今回朗読の飯島さんと作った新しい解説の試みをさらに次回発展させて
能をあまり観たことのない方にも楽しめるスタイルを作りたいと思います。
また来年もよろしくお願いします。
ありがとうございました。遠藤喜久

当日プログラムの裏面です。



公演前記
これは平安時代末期の源平の争乱に巻き込まれた漁師の親子の物語です。
20年間に渡り世の中をほしいままにした平家一門隆盛も木曽義仲・源頼朝・義経の登場で
ついに都を追われることになりました。
義仲・頼朝の源氏同士の戦いに発展し、その間に一時は勢力を盛り返した平家軍でしたが
源義経の快進撃により再び平家は劣勢に陥ります。

そして、今の岡山県の藤戸の辺り。当時はここも海の中に小さな島が点在して
その中の児島を平家軍は海上要塞として前線基地を築いていました。

ここを何とか攻め落としたい源氏軍でしたが、源氏軍には船が無く、皆攻めあぐんでいました
源氏軍の武将達はなんとか先陣を切り功名を立てたいと、いきり立っていました。


源氏軍の佐々木盛綱は、地元の漁師から馬でなんとか泳ぎ渡れる浅瀬を聞き出します。
そして、馬で一気に渡って奇襲をかける作戦を思いつきます。
しかし、この漁師の男から秘密が漏れることを恐れた盛綱は、藤戸の浮き州に男を誘い、口封じに
殺害してしまいます。漁師の男は、そのまま海の藻屑と消えたのでした。
翌朝、盛綱率いる騎馬隊数騎が、海を渡り奇襲を敢行。それに源氏軍が続き、平家は撤退し
児島は陥落したのでした。この戦功により、佐々木盛綱は島を所領として賜り、着任します。


さて、能の物語はここから始まるのです
着任した盛綱の前に一人の女が現れます。
その女こそは、あの盛綱が殺めた漁師の母親だったのです。
母親は、盛綱の罪を告発します。

やがて、母親の鬼気迫る姿に、盛綱は真実を語るのでした。
そして、母親を哀れに思い、漁師の弔いを約束し、また、家族の面倒をみることも約束します。

この命の取り合いをする戦場の中で、子を思う母親が子供の死の真実を、名誉を回復しようと
命がけで権力者に立ち向かう姿に心打たれます。

こうした作品は、それなりの年齢にならないと演じるのが難しく、今回ようやくの挑戦です。

後半は、その弔いの中に、亡き漁師が海のそこから現れるのです。

この後半の場面が有名ですが、実は、前半の場面がこの作品の肝なのです。
今回第5回の公演にあたり、やや重いテーマの作品ですが、親の情けや人間の生きることを
突きつけてくるこの作品を、今この時代だからこそ演じてみたいと思い選曲しました。
精一臂演じて見たいと思います。

なお、前回好評でした、現代語風の原文朗読を今回飯島晶子さんにお願いしました。
もう朗読だけで聞き応え充分です。二つの物語をたっぷりとお楽しみ下さい。



事前講座で作った資料をUPします。
この曲は、前半は現代劇のようなお芝居なのです。
領主と、子供を失った母との対話劇になっています。

能 「藤戸」超訳テキスト 

主な登場人物  佐々木盛綱 猟師の母 猟師の亡霊
場所 現在の岡山県 児島 藤戸の浦

盛綱・従者 春の終わりに咲く藤の花 私達の行くところも藤戸の渡しの港である
盛綱     私は佐々木の三郎盛綱である。
        今度の藤戸の戦いの先陣を勤めた恩賞に児島を賜った。
        今日は日もよく、国入りを果たすことした。
盛綱・従者  今この日本は波静で泰平の世。波も静かな島めぐり
        松吹く風ものどかでまことに春めける朝の景色。
        船路も順調で、早くも藤戸に着きました。

盛綱     急ぎましたので、はやばやと藤戸の渡りに着きました。誰か来なさい。
従者     はい。御前におります。
盛綱     誰でも訴訟ある者は出て参るように、この土地の者に伝えなさい。
従者     かしこまりました。
従者     いかに皆々たしかにお聞きなさい。
        この浦の御領主。佐々木殿のお国入りである。
        何事でも訴えごとのある者は出で来て申しなさい。
{登場の出囃子があり、一人のやや年たけた女が登場}

母      年をとった今もなお、この藤戸に暮らすわが身に、楽しい昔の日が帰ってきて欲しい
       (そう云って女はさめざめと泣く)
盛綱    どうした事だろう。
       ここに来た女の、訴えごとのありそうに私を見てさめざめと泣くのは。一体何事か。
母      「海人の刈る藻に住む虫のわれからと、音(ネ)をこそ泣かめ世をばげに、
        何か恨みんもとよりも」
        と、歌に詠まれるように、こんなつらい目に合うのは自分に原因があるのだから、
        泣くことはあっても、どうして世の中をうらんだりしよう。
        何事も前世の因果で、この猛々しい領主が、息子に課した刑罰は、
        前世の報いなのかもしれないが、
        わが子のことではありますが、あまりにも惨い仕打ち。
        罪もないのに、また前例もないのに波の底に、沈めてしまった非情のお振舞い。
        領主様に訴え申すのは、はばかりあるけれども御前に出て参ったのです。

盛綱     なにをいうのか! お前の子を波に沈めたなんて事はしらぬ。
        恨まれる覚えもない!

母       御領主様!しらを切るのですか。私の子を波に沈めたことを、
         知らないというのですか!

盛綱      ああ声がい、静かになさい。なに、なんだって云うのだ。
母       もうし、まだあなたは知らないというのですか。真実を語って下さい。本当の事を。
        そして、その息子の亡き跡を弔い、
        生き残った母である私を訪いたずね慰めて下さるならば、
        少しは恨み も晴れますというのに。

地謡     いつまで隠しだてなさるのでしょう。
        隠しても人々の噂もしきりで、いつまでも隠せないのに。
        どうしていつまでも隠そうとなさるのでしょうか。
        所詮この世は、いつまでも住み続けることが出来ない仮の宿のようなもの。
        親子といっても、それは束の間の幻のような関係なのに、
        いざ別れてみれば悲しくて、その悲しみは来世までも続き、
        苦しみの海に沈むでしょう。
        どうぞせめてわが子を弔ってやってください。
        お願いします。どうかお弔い下さい。

盛綱      なんということだ。このような不憫な事があるだろうか。
         今はもう何も隠さず真実を語りましょう 
         それではその時の有様を語って聞かせよう。近くに来てお聞きなさい。

          さて去年三月二十五日(吾妻鏡では12月7日。平家物語では9月25日とある)
          の夜になってから、浦の男を一人呼んだのだ。
          そして、この海を馬にて渡れる浅瀬のようなところがあるかと尋ねたところ、
          その者が申すには、 
                                          
「それならば川瀬のような浅瀬の渡れる所がございます。それは月のはじめには東にあり、
月の末には西の方にあります。」
これを聞いて、これぞ八幡大菩薩の御告げと思って、家中の者や若い者達にも秘密にして、
その男と唯二人、夜の闇に紛れ忍び出て、この海の浅瀬の通り道を確かめたが、
その時、ふと心に思ったのは、いやいや身分の卑しい者は節操がないのだから、
もしかしたら、この秘密を人に話してしまうかもしれない。可哀想だとは思ったが、
その男を引き寄せてふた刀刺し、
そして、そのまま海に沈めて帰ったのだ。

さてはその男が、お前の子であったのだな。
よしよし何事も前世からの因縁だと思い 今はもう恨み晴しなさい。

母  もうし では、わが子を沈めたその場所は、どの辺りなのですか。

盛綱 あれに見えている浮洲の岩の、少しこちらの水の深いところに死骸を深く沈めて隠したのだ。

母  さては人が噂でいっていたのと、少しも違わなかった。 あのあたりだと云っていた。

盛綱 夜の事だから、誰も人は知るまいと思っていたのだが・・・。

母  それは隠し通せることではなかったのです。息子を始末した跡を

盛綱 深く隠したと思っていたのだが。

母  そうはいかなった。よい事はなかなか広まらないが 悪い事はすぐに千里先まで伝わる。

地謡 その千里先まで行っても子を忘れないというのが親であるが、
    その大切な子をあなたは奪ってしまった。
    これは一体どのような前世の報いであるというのですか。
地謡 (母の心情を謡う)
    まことに「げにや人の親の、心は闇にならねども子を思う道に迷いぬるかな」藤原兼輔
    と読まれた、子供の事になると、わけがわからなくなるという事を
    今こそわが身に思い知りました。
    もとよりこの世は定めないものという世の理をまのあたりにして、
    老少不定と云う通り若い息子を先立て亡くし、ひとり生き残り。
    老いた鶴の眠りの中の出来事のようだ。
    まるで夢のように過ごした親子の二十年あまりの年月。
    少し離れていただけでも、会うのを待ち遠しく思っていたのに。
    この先いつの世でわが子に追う事が出来るのでしょうか。
   この世に住めば、つらい事も節の多い川の竹のようにたくさんあって
   杖柱のように頼みにしていた息子が世を去ってしまった今は、
   一体何を頼りにいいていけばいいのでしょう。
   いっそうのこと亡くなった息子と同じように殺してくださいませ!!

   そう云って人目も知らず転げまわり、息子を返して下さい!
   とすがり正気を失った有様は、見るも哀れなで、可哀想なことでありました。

盛綱 ああ、可哀想な事であった。しかし今は恨んで仕方のない事であるぞ。
    その者の菩提を弔い また妻子も世に取り立て保障をするから
    まずは自分の家に帰りなさい
  
*下人は母を慰めながら家へと送り 
この地を17日殺生禁断として浦の男を音楽法要で弔うことを皆にふれてまわります。

*盛綱は「大般若経」を読み、浦の男の弔いをします
 やがて浦の男の亡霊が水上に現れて、わが身の不運を嘆く
* 亡霊は自分の最後を再現して見せあと悪龍となって恨み晴らそうと思ったが
   手厚い弔いを受け成仏できたと述べる



 盛綱・従者 さまざまにお経を読み管弦をして、弔いの声を立てて波打ち際で仮寝して、
        夜となく昼となく弔いを続け、大般若経を読誦する。
        やがて知恵の舟が、その艫綱(トモズナ)を(説く)解いて、
        彼岸へ渡らしてくれるだろう

                                                3
 盛綱     一切有情、殺害三界不堕悪趣。
         (あらゆる生物を殺しても、大般若経を読誦するならば
          地獄などの悪道に落ちることなく救済される)
 
浦の男    辛いことを思い出すまい、
        忘れようと思う心のほうが、忘れないでいるよりもかえって優鬱なことをだ。
        それにしても、わが身は波のように定めないみであっても、
        罪によって咎を受けたのなら思い刑罰でも仕方がないが、
        藤戸の浅瀬の海路を教えて渡っただけなのだ。
        つまらない事をしたばっかりに、
        思えばそれは三途の川の瀬を歩いてしまったのだ

 盛綱     不思議なことだだ。
         はや明け方の水上から幽霊のような人の見えたるは
         あの男の亡霊が現れたのかと、なんとも奇妙だと思っていると
浦の男    御弔いはありがたいですが
         恨みは尽きることなくその妄執を申し上げる為に参りました。
盛綱     何と恨みを云いに来たのか  その夜の事に立ち帰ってみると
浦の男    藤戸の渡り教へよという重い命令に従って、岩波の瀬のようなる浅瀬の海路を
盛綱     教えたとおりに そのままに渡って
浦の男   先陣の名を上げるだけでなく、
        昔より今に至るまで馬にて海を渡ったことは世にも珍しい活躍だったと、
        この島を褒賞に賜るほどの喜びも、みな私が教えたからなのに 

盛綱     どのような恩賞も私に下さるべきだったのに
地謡    思いもよらず、私の命を召されたのは、
       馬にて海を渡すよりももっと世にも珍しいことでした。
       それにしても忘れられないことだ。
       あれなる浮洲の岩の上に私を連れて行って、
       あなたは氷のような冷たい刀を抜いて私の胸のあたりを刺し通し、
       わたしは刺し通されて息も絶え絶えになったところを、そのまま海に押し入れられて、
       深い海の底に沈んだのだ。
       折しも引き潮で、その潮に引かれて行き、
       埋木のように波に浮き沈みして岩の狭間に流れかかつて
       もうこうなれば藤戸の水底の悪竜の水神となって祟りをなそうと思っていたところ
       思いもよらぬ弔いを受け、仏法の功徳により御法の御舟に法を得て、
       衆生救済の弘誓(グゼイ)の舟に浮かむと水馴れ棹をさしたり引いたりして
       漕ぎ行くうちに生死(ショウジ)の海を渡って、
       願っていた通りにやすやすと彼岸に至り着きました。
       そして成仏得脱の身となって一切の苦しみを離れた身となりました。
       成仏の身となりました。


この曲。いわゆる囃子にのって優雅に舞う舞事は一切ないのです。
大変ドラマティック作られた写実性の高い作品なのです。
セリフ劇といってもいいかもしれませんね。
それだけに芝居が問われる作品でもあります。
しかし、能でありますから、そこは普通の芝居とも違う抑制があります。
それをどう打ち破れるかが、見せ所ということになりましょうか。
ともかくも毎度の事ながら精一杯勤めます。
よろしくお願い申し上げます。(遠藤喜久)





当日のお仕舞は追加変更があります。


この公演のチケットは、カンフェティーオンライン(席が選べます)
 
                         Confetti(カンフェティ)
                         観劇ポータルサイトオンライン
                         チケットサービス  
                         
                           0120-240-540(平日10-18時)
                          オンライン予約受付中
                                         *予約後すぐに、お近くの
                                セブン-イレブンでチケットを受け取れます。
                               *代金はチケット受け取りの際に
                                 セブン-イレブンでお支払いいただきます。

もしくは、私にメールでお問合せ下さい。
*住所ь*シと、希望の席種類と枚数明記下さい。

メール遠藤能樂事務所
*2日以内に私から返信が無い時は、メールが届いていない可能性があります。
その場合お手数ですが、再度ご連絡下さい。


また、矢来能楽堂でもお電話で承りしています。
03−3268−7311
矢来能楽堂
観世九皐会事務所











前回の公演は・・・。
第4回 遠藤喜久の会
公演終了
ありがとうございました!!




   今回の当日パンフの外側。写真もデザインも一人でやることに。大変でしたが、これが自分では案外納得のパンフになりました。
   あの光はなんなんでしょうね。ほんとうに。
   
     
     公演後記
     まだ、終わったばかりで自分の中では総括できないですが、今回も多くの関係者の皆様のお力添えで無事
     に終了しました。公演としては、朗読の飯島さんにご出演した頂けたのが、とてもよかった。
     野宮は能の世界では名曲だけど、能を初めて観る方、一般の方がいきなり来て、源氏の世界と能の
     ゆったりとした世界を楽しめるか。
     それがこの曲を上演する一番の問題でした。それをなんとかクリアーしたいということで現代語による朗読。
     いつもの解説とも違った原作の魅力が伝えられ、登場人物のキャラクターや物語の背景がよくわかったと
     思います。 今回、客席の集中度が凄く高いのが演じていてもよく伝わってきました。
     それもありがたかったです。
     お囃子のメンバーは、よくご一緒する方々なので、絶対の安心感がありましたし、地謡も観世喜正師と
     同門メンバーなので、もう互いのことは良くわかっていましたので、よく集中できました。
     前半の居グセは、もうこれは地謡の世界ですから、そのじっとした感じの中にも物語が浮き出したいいなと
     思っていましたが、どうだったですかね。
     自分としては、ここは大事だったわけです。勿論、登場の独り言のように謡い語る下りも、
     後シテの車争いから序の舞への流れ、そして破之舞。きわまってくる感じがしました。

     能の型は、出るか下がるか廻るかなんですが、この抽象的なシンプルな動きが、実にこの曲には合うよう
     に思います。その一足に、多くの意味が投影される。
     アンケートの感想を読むと、色々に感じて下さったのがわかります。
     六条という女性がまた感情移入しやすいのですね。
     さすが千年読み継がれた作品の主演女性の一人です。
     終わってみると2時間と、やっぱり長い能ではありました。
     自分の中では留め拍子で、何かひとつ完結した感じがしました。
     演者としての技術的な反省点とかは、勿論沢山あるわけですが、今回自分なりに野宮ワールドに少し触れ
     られたように思いました。ともかくも、ご来場賜りました皆様、関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
  今回2年ぶりの自分の会だったのですが、なんでも自分でやるのは大変ですが、色々なことが全部勉強に
     なります。
     次回は2年明けずに、来年の暮れにトライしようと、まあ頑張ってみます。
     また覚えていたら是非見に来てください。
     ともかくも本当にありがとうございました。9、27早朝
     

 


赤バージョン 紅葉!!




さて、遠藤喜久の会も第4回になりました。
毎回、自分の取り組みたい演目をさせて頂いておりますが、
今回は、能の世界では3番目物とか、蔓物とか呼ばれる演目
能の演者が一番挑戦したいジャンルかも知れません。
写実的な所作を廃し、謡いと舞に心の有様を昇華させて
演じる曲。煎じ詰めそぎ落とした表現。野宮はその途中に
あるのではないかと思いますが、言葉で言い表せない思いを
何処まで出せるのか。挑戦したく思います。

今回は、今までとは公演形態も変えて、企画公演の形を取りました。
能樂初心者、古典初心者の方でも、ある程度お楽しみいただけるように
源氏物語の朗読を、解説に代えて入れさせていただきます。
どうぞ源氏物語の世界をお楽しみ下さいませ。6、13記

また、このページ、ブログなので、公演についての情報を書かせて頂きます。
チケットの申込など、更に詳細が決まりましたらUPします。

時々ご覧下さいませ。よろしくお願いしたします。

      9月25日(日)
   第4回「遠藤喜久の会」
 源氏物語の世界 能と朗読「野宮」
8月31日 チケットは指定席,自由席ともに
全席完売いたしました。
ありがとうございます。
今回は、全席完売で当日券がございません。
よろしくお願いいたします。

    Confetti(カンフェティ)
    観劇ポータルサイトオンライン
    チケットサービス 

   0120-240-540(平日10-18時)
   7月25日オンライン予約開始
     *予約後すぐに、お近くの
  セブン-イレブンでチケットを受け取れます。
   *代金はチケット受け取りの際に
  セブン-イレブンでお支払いいただきます。
     携帯用QRコード





野宮の前半のクセと呼ばれる聞かせところの謡いは、
七五調で語られる言葉のリズムに変化を与え、また節にも工夫を凝らして
まさに「曲・くせ」のある部分です。
野宮は、能の究極、「居グセ」という、地謡だけの語りが、聞かせどころの一つです。
能の場合は、無本(朗読ではない)なのですが、古典の詞章による語りの極みです。
語り芸としての能の見せ所です。
この7,8分i間の間は、シテ(主役というのですかね)は、じっと舞台に座っているのです。
現代でいうと、本人の語りや独白とナレーションが一つになったような、能独特の演出です。

前半は、野宮の旧跡を訪れた旅僧の前に現れた謎の女が、少しずつ六条御息所のことを語ってゆき、徐々に六条の姿が
現れて行きます。

いわゆる舞事の部分は、後半に現れる昔姿の六条御息所が舞うわけです。

能では、源氏物語をそのままではなく、源氏物語の話を下敷きにした、六条が亡くなった後の話なのですね。
                     
源氏物語を知っていると、能は更に面白く見れるわけです。
ということで、今回は、原文(現代語訳)の源氏物語のなかで、能「野宮」に絡むところを
飯島さんに朗読していただこうとiいう趣向です。どうぞ、ゆっくりとした時間をお楽しみ下さい。



*お席最新情報
お陰様で、チケットは今回は早々に完売しました。

矢来能楽堂って、何処からでも舞台が近いので、特に自由席のワキ正面サイド後方補助席はおすすめです。
あと、足が大丈夫なら、桟敷席の正面2列目が自由にしてありますので、ここも正面から見えてお勧め。(あぐらもOKですよ)
桟敷御簾の間の3列目からは、ベンチシートで、正面はB指定になっていますが、
桟敷席の左サイドのベンチも自由席になっています。
今回の私の公演では、いつもの矢来能樂堂の定期公演とは、席の種類を変えて自由席を多くしてみました。
気軽に観ていただければと思います。

能楽堂の席は、舞台を囲んで、正面と橋掛かりよりワキ正面、中正面サイドに席を取っているのが普通です。
席のお好みは様々で、舞台を斜め後ろから見る席が好きという方も結構いらっしゃいますね。
自分が舞っているような臨場感があるそうです。(そこからだと正面の客席が良く見えるのです)
地謡を真正面から見る席とかね。自由席の方は、どうぞお好きな場所をお選び下さい。

矢来能楽堂は、昔は椅子ではなく升席と桟敷席だったそうです。
私が子供の頃に椅子席が据え付けられたらしい。
なにせ登録文化遺産の戦後直ぐに再建された木造建築ですからね。
能楽堂の趣も楽しんでいただけたらいいです。



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