舞の稽古 の イロハにほへと
*ここに書いたことは、私の個人的体験を通じて得た情報と考えであって、能全般について、また他の演者、指導者につい て規定するものではないことをまず最初にお断りしておきます。
この道は、奥深く。未だ知らないことだらけです。
また、多くの秘伝口伝研究が存在します。
そのことをご理解頂いて、ひとつの私見としてお読みいただけたらと思います。2010.2 遠藤喜久

舞の稽古 イロハのィ  「型」

舞の稽古は、まず【仕舞】(しまい)という、謡いに乗って舞う稽古からだと思う。
仕舞とは、ストーリーを持つ能の一曲の中で、主に主人公(シテ)が舞う一部分のパートで、2分から5,6分以上位の長さの ものまで曲によって様々ある。
能の古典作品は200曲以上あるわけだから、単純に計算してもそれだけの数の仕舞があることになる。
この舞は、「型」という動きをしながら舞台の中を移動し、数分間で完結する歌「謡い」と一体となって表現する。

この仕舞の舞の動き、動作自体は抽象的で、それ自体に特別なリアルな意味を持つものは少ない。
また、日本舞踊のような、多種多彩の細かな型はなく、基本的な型は数十種類である。
たとえば、右片腕を前に出し、次にそこから両腕を横に広げる。観世流ではサシコミ ヒラキというが、そいう一見簡単な動き が型の基本になっている。
しかし、その一つの型で、千変万化の表現を生み出す多様性がある。
これは型の抽象度があがれば、より多くの具象的な意味合いを内包することによる。


まず最初に覚える動きとしては、ゆっくりした体操とそれほど変わらないようにも感じるかもしれない。(もちろんその動作を 早くやる事もある)
しかし、能独特の身体の構えと運び(歩き方)、身体のバランスのとり方、また呼吸や精神の詰め開きなどを使って身体を律 しながらその動きを行うと、その一見単純な体の動きが存在感の強い、また人から見ても美しいと感じさせる身体表現に成 り得る。
それは単なる外形的な造形美ではない内面的な強い表現と品格というものも感じさせるし、表現し得る。それは人間だから 感じえる美意識である。

例えは、前述の「サシコミ」という型で動く腕は数十センチの、あるいは数センチの身体運動だが、能役者はおそらく一生こ の動きに研究と修練をし続ける。
武道で真剣の太刀を持つ者が、その零コンマ何ミリの太刀筋に全存在を傾けるのと同じように。あるいは、ダンサーや舞踏 家が自らの手足や体から作り出される舞に一生を捧げるように、信じる表現の完成に、その望むべき高みへと人生をかけ るのだ。
こうして長年をかけて型が身に沁みて定まってくると、演じる者の思いが自ずとあふれ出す。
こう成った時、型は初めて単なる「型」ではなくなるのだ。
能では自らの内面を解放し意図的に溢れさすのではなく、抑えてもなお自ずとあふれ出すのだ。
言葉にすればそういうことになるが、そう簡単なことではない。

しかし、ここではまず、一般に興味を持たれて稽古を始めたアマチュア初心者の仕舞の稽古の話を例に解説してみよう。

初心者の指導は、その曲目を多少なりとも勉強し、謡を覚え、その仕舞の型、数分間にどう舞台を動くかを覚えて、一通り曲 に合わせて自分で舞えるようになると、そのテーマ曲は一旦完結する。(稽古というもは、螺旋階段をあがる様に少しづつ上 達して行くようだ。だからゆっくりと階段をあがる。一つの曲が一旦完結しても終わりではない)

その曲の持つストーリーや役の情感というものを表現出来るかという事は、もう少し先の課題で、初心者においては、まずは 基本的な型の完成、身体の動かし方をマスターすることを目指す。

型というのは、まさに「型にはまると強い」といわれるように、長い間に完成された身体表現なので、生半可な内的な心情表 現を身振りで表現するよりも的確で、強い表現力をもっている。
「型がビシッと決まる」などというが、体を律して作られた姿は誰の目から見ても心地よいものだ。
こうした型の動きは、結果的に視覚的にも抽象的で幾何学的な美しい線を空間に描く。
それは、象形文字から一つの文字に変化したようなそぎ落とされた形で、どこかユニバーサルデザインに通じる普遍性があ る。
自らの身体を正確に、かつ自在にコントロールして体全体で形を作りだすのだ。

初心者においては、内的な表現を体で表すことよりも、まずは型の完成を目指すべきだと私は思う。(勿論、物語や謡われ る詞を勉強したり、心情を想像したりしないということではない)

初心者が内的な表現を意図的にしようとすると、感情的で生なましく変化に富んでいるが、型が身についてない者が行うと、 バランスが悪く身体を律することが出来ないから美しさに欠け極めて即興的で不安定な舞いとなる。
そして心の階層の上澄みにある感情の表現は浅い。顔の表情や即興的な動きを使えない能の舞ではうまく行かない。
最終的には、面・装束でがんじがらめに動きや視界を拘束されてもなお、それを突き抜けて行きたいのだ。

それにはます、なにも考えずとも型を極めれば、表現はシンプルで強く、それでいて多くを内包する表現となる。型とは器で あり、器をきちんと作ればそこに中身が自ずと入るという考え方もある。現代演劇の内的感情から表出する身体表現とは、 アプローチの仕方がちがう。

もちろん、一朝一夕に体をコントロールして、構えや運びや型がきちんと身につくわけではないから、いろいろな演目に触れ ながら徐々にレベルを上げていくのが一般的ではなかろうか。
こうして10曲程度の比較的易しい演目を修得すると、基本的な体の使い方や型、またそうした型の名称や仕舞の持つ表現 の面白みが分かってくると思う。
また、【歌】の部分の勉強を同時にしながら、謡いの魅力、物語の魅力へと興味を広げていくことだろう。
本来、仕舞は物語の詞章である謡い(うたい)に合わせて舞うものであり、歌に誘導され思いが型を通してあふれ出す。
主になるのは謡いである。(*ここで云う謡いに合わせるとは、いわゆる音楽や言葉にあわせての当て振りとは違う)
したがって謡いの稽古と曲の理解は必須である。是非、仕舞と共に取り組んで頂きたい。


私の指導する稽古場では、成果発表を必ずする。
能にしろ、仕舞にしろ、謡いにしろ、それは閉ざされた密室で他人と交流せず、稽古のみで終わるものではないとの自論が あるからだ。表現は人の為にある。舞いも人の為にある。
その為に稽古をするのだが、最終的には人の目に触れ、自らで表現することが大切だと思う。


こうしていくつかの過程を経て経験を積めば、囃子の音楽で言葉のない世界で舞う事や能一曲を舞うというような、より高度 な世界へ上ることも出来る。
私の社中にも、そうしたところまで稽古を進めた人が何人もいる。そして、生涯1度でも能楽堂で一曲の能が舞えたら、この 道を嗜む者にとって大変な幸せと励みではなかろうか。
是非大いなる希望を持って、稽古に取り組んで頂きたい。

イロハのロ  構えと運足      ( この項目は書きかけです。)

歩行の基礎は、およそ1足ほどの歩幅を基準として、足の裏を舞台に擦り付けて歩く。
また、上体は腰を返してヒップアップして、胸を張り、いわゆる出尻鳩胸に近い姿となる。また腕は脇を絞めずに肘をはる。
これが能衣装や紋付ハカマをつけた時に、姿が良く、能の表現にとって良いとされ、更に謡を謡うのに合理的な姿といわれ る。

慣れるまで楽な姿勢ではないが、下半身は大地に根ざす如くどっしりと構え、上半身は天へと伸びる。
体が慣れてくると弛緩と緊張が一体となる構えが身に付いてくる。
武道で言うところのタメのある状態がこの構えであると思う。

すでにタメがある状態なので、次の動きはすぐに動ける状態である。
その状態は、止まっていても動きを感じさせる。
しかし、この姿で自在に舞台を移動するのは修練を積まねばなかなか簡単に出来るものではない。
ある意味、非日常的な幾何学的姿勢なわけで、その非日常性ゆえに現実の枠組みからはずれ、抽象的な表現を可能にし ているともいえる。
身体は日常的な生活をする為の合理的で楽な身体から、舞うための表現するための身体に生まれ変わるのだ。


仕舞というのは、歌(謡いという)と舞から成り立っている。
舞っている最中の地謡は本人が謡うことはなく、「歌舞」の「歌」の部分は地謡が受け持つ。本人は、もっぱら「舞」に専念し、 その地謡、もしくは自らの心の中に流れる謡いに乗って舞う。

さて、ここで謡をやめてしまうとどうなるのか。
現代舞踊の無音のコンテンポラリーダンスなどは、音楽もなく舞う人の身体表現のみで何かを表現することがある。
それは具体的な事物であったり、心模様であったり。
また武道の空手なども型の試演があるが、あれは芸術表現として行っているわけではないのだろうが、流れるように美しく力 強い。
それと同じことを、仕舞の型のみでやってみるわけだ。

面白いもので、はじめは舞には見えない。
初心者が謡いもない無音で舞うと、型も定まらず思いも体現出来ないので、何かうつろな人の、或いは歩行困難な人のパン トマイムのようである。
身体を滑らかに、美しく動かして行くというのは、思ったより難しいものだ。
この文明の進んだ現代でも二足歩行ロボットが登場したのは最近のことだから、人間はかなり高度なことを簡単にやってい るわけである。
その長年自分なりに行ってきた日常的なバランスの取り方や運足の方法を、能の独特の摺り足のバランスに変えるわけで、 それに慣れるには少なからず時間がかかる。
しかし、舞それ自体の型を鍛え、表現力をあげるには、この無音の舞の稽古が、よい訓練の一つではないかと思う。
舞う人の、構え、すり足、その運足の美しさ、まさにその足運びのリズムによって表現は広がる。さらに、扇を持つ手や腕が 空間に描き出す動きは、より立体的な表現になる。

さらに舞う人の呼吸の詰め開き、精神の集中や存在感といったものまで追求してゆくと、他の舞踏芸術と変わらぬ、あるい はそれを超える多用な表現に行き着くのだ。

その為には、まず一足の運びから学ぶことにある。
能は奥義に入れば入るほど、動きが少なくなる。たった1歩の動きが、千里の歩みを表し、遥かなの時を跨ぎ、生涯の思いさ えも表現するようになる。
結局は一歩に始まり一歩に終わる。

昔から、優れた仕舞は、能一番をも凌ぐといわれる。
そんな仕舞を舞えるようになりたいものである。

イロハのハ 「曲」
ある程度、型が身についてきた頃には、舞っている曲の言葉やムードといったものも感じられるようになるのではないだろう か。また謡の節やリズムや流れ、その表現する世界も自ずと理解が深まってくるだろう。
そぎ落とされた抽象的な美しい型といっても、それが表現するのは演じる曲の内面世界であり、さらにその先に心がある。
一見無機的な意味不明の姿に見えていた型が、やがて、曲につながり、心へと繋がるようになる。
そして思いが溢れてくる。
心には形がないのだが、美しい型や姿と繋がれば、美しく表現出来る。
形のあるものと形のないものが一つになった時に、舞は完成するのではなかろうか。
もっとも、それがそう易々とは行かないわけであり、
それに近づく為には、形の向こうにあるものも探さなければならない。

その入り口として「曲」を理解し感じる事が大切であると思う。
書画にいうところの「気韻生動」ということは、舞にもまた同じであると思う。
そんな舞が舞えるようになりたい。
なにやら気がつけば、堅苦しい難しい事ばかり書いてしまいました(笑)
感覚的な言葉も多いので分かり辛くてすみません。
私自身もまだまだ遥かな道のりをゆっくりと歩んでいるのです。
先人に道を聞きながら、私が手にしたコンパスの方向は、そんなに間違ってはいないだろうと思い、ここに書き記し
ましたが、もしかしら見当違いかもしれません(笑)
そんな程度に思って、もし気に入れば参考になさって下さい。
つたない言葉では伝えられないことが沢山あります、稽古の中から感じて掴み取って下さい。
でも、まずは、楽しく扇を持って曲を舞う楽しさを知っていただけたら良いですね。
のびのびと楽しくっていうことも、とっても大事な事だと思います。
全てはそこから、ゆっくりと始まるのかも知れません。
イロハの続きは にほえと 2012,4
以前この項目を書いた時には、初心者向きに初歩の技術論を書いた。
心技体でいえば、技と身体の初歩である。
しかし、心の部分を少しだけ書いておこうと思う。

基本技術の型が無意識に動かせるようになると、曲の世界をより深く感じられるようになる。
これは当然の話だが、頭の中で、ここであれしてこうして、左足だして、次は右で、何歩でサシ込み開きはどうだなんて言葉 を延々と心の中で話したり自問自答したりしていては、曲の世界を感じるというのはかなり困難な話だ。

能の詞章は、美しくイメージを連鎖させるものが多い。
美しい言葉によって描き出される世界は、脳の記憶の中にある美しい原体験を再構築し
美しい想像の世界を沸きあがらせる。
謡いの言葉、節、響きを聞き、感じていると、おのずと想像の扉が開く。
(この想像(創造)の扉がどの程度、開くか、またどういった世界や映像、音、匂い、触覚など様々なイマジネーションを喚起 出来るかは全く個人差がある。人生を通じ何を感じてきたのか。美しいものを感じてきたのか、心に響く経験がどれだけある のか。その人の源体験がモノをいうし、また、それを再構築し想像する脳の働きが訓練されていればいるほど、当然ながら 豊かなイマジネーションを生むだろう)
その曲によって創り出された世界の中にいる主人公(シテ)は、その世界を感じながら、自らの脳(心)が創り出した世界を
肉体を通し、型(舞)を通じて世界に現す。
ここまでくれば、世界中にある演劇や身体芸術と表現は違えど変わらなくなる。

例えになるかわからないが
小遣い稼ぎに来たコンビニのアルバイト店員は、マニュアル通り客に「ありがとうございました」と言ってお釣りを差し出す。
これが云ってみれば「型」である。
アルバイトの店員は、この店にさほど義理も無く、多くの客に無機的にロボットのように同じようにつり銭と共に手を出す。
動きは先輩店員の真似をしてなかなか上手に出来るようになった。しかし、頭の中は あとの仕事予定のことばかり考えて いる。当然、客に対して心から感謝はしていないし、さほど喜びもない。*もちろんそんなアルバイトばかりではないが)


しかし、この店を苦労して作った店を大事に客を大切にするオーナーがレジに立つ時は事情が違う。
その店の全てを記憶し、理解し、仕入先の人達や工場や畑や関わる全てを頭に思い浮かべる事が出来る。
そして、店が出来るまでの人生の苦労や感動をありありと思い出すことが出来る。
そんなオーナーにとってはお客様が来てくれるだけで嬉しく、ありがたく。
心から「ありがとうございました」といってお釣りを差し出す。

その手の動きは、一見アルバイトの手の動きと変わらないようにも見えるが、よく見ればその違いは歴然である。
そして、そのオーナーが、さらに美しくお釣りを差し出す手の動きを研究し学び、心からの感謝を込めて美しくお釣りを差し出 したらどうだろう。
あなたは、そのオーナーが差し出すお釣と、アルバイトのお釣の違いを感じ取る事が出来るだろうか。
もしかしたら、アルバイト店員は、可愛い女の子、あるいは格好のいいイケメンかもしれない。
あなたは見とれてポっとして、その違いに気がつかないかもしれない。
それはそれで幸せだからいいのだが、もしオーナーが差し出す手に、多くの事を感じ取る事が出来たならば、
そのオーナから買った貴方はきっと幸せな買い物をしたと云えるのではなかろうか。

おまけ
この章の結びに
おむすびとコミ(米じゃないですよ)の話 2012,8,1

コンビニオーナーの話に続くが、運動会に出場する子供の為に、母親が一生懸命に握るおむすび(オニ ギリ)を想像してもらいたい。
母親は、ひと握りひと握り、運動会で子供が活躍できるように、怪我の無いように、楽しく過ごせるように 心を込めておむすびをにぎる。
その時、はじめは「頑張れ!」と言葉に出しながら、あるいは心につぶやきながら握るかもしれないが、 やがて言葉は消え、思いを込めてひたすら無心に、ギュ、ギュとおむすびを握るようになるだろう。
たとえていうならこれが、「コミ」である。言葉にならない思いの凝縮である。

リズム的には、内的な「間」の一種だが、それは空虚な「間」ではなく、心ある「間」である。
能の、仕舞、謡い、囃子、型には、すべてこのコミという心の「間」存在する。
技術的には、はじめはリズム的に内的な「間」を取る事からはじめるが、長い修練を積むうちに、「自ずと」、この「間」に舞手 の思い、曲のムードが溶け込むようになる。
例えば恋人同士が見詰め合って沈黙の間があることがあるが、その「間」は言葉を発しないからといって虚ろな間ではなく 「思い」の凝縮された密度ある「間」である。
能の中には、この「間」を意図的に、あるいはリズム的に創り出している。
はじめは単なる間でしかないが、やがて思いの込められた「コミ」になる。
そんな「コミ」が込められた仕舞が舞えるようになりたい。
それはきっと、母親のおにぎりと同じように観る人たちにも通じるに違いない。

口で言うのは実に簡単だが、おそらくはこれこそが、能の稽古の延長にある、技術を磨いた先に現れる身についた「芸」とい うものではないかと思う。理想かもしれないが、美しく思いのこもった舞。そんな舞が舞えるように一歩でも近づきたい。

「型」だけでは物足りない
「気持」だけでも物足りない
その二つを調和させられたら、舞はもっと楽しくなると思います。
あとはひたすら稽古を通じ、貴方の想像と表現の扉をどうぞ開けてみて下さい。
文:遠藤喜久

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