神に見限られた世界へ、それでも僕らは祈る

<HIROYUKI>


 ジョンが生きていれば57歳、ということは、僕もジョンの撃たれた年まで後僅か、時のたつのは(年をとるのは?)早いものだ。
 最近は、通勤に秋葉原を経由するせいで、オタク化著しい日々である。中古CDショップなどを巡ると、ついつい余計な買い物をして財布がどんどん軽くなる。僕もメディア体験世代なので、あの膨大なソフトの数々を眺めて回っていると、自分でもすっかり記憶の底に沈んでいた様々なタイトルがよみがえってきて、ついつい“懐かしぃー”とか“オオ!これは!”とか思いながら誘惑に抵抗しきれない、意志薄弱状態だ。

 そんな脳天気な毎日、日本人は戦後50数年を、大規模な殺し合いにも関わり合うこともなく、人を殺す方が異常だと思って過ごしてきたけど、そうもいかなくなってきたらしい。
 神戸の少年殺害事件も、一時はオタク世代こと20代後半から30代前半の人物が犯人だなどとも言われたが、予想に反して、といいながら実は「もしかしたら」・・・「やっぱり」という危惧を現実のものとした結果となった。
 ところが、その後も続く呆れた事件の数々に世間の関心も移ろい、少年法の壁で真実は闇の中、あれこれの論評も出尽くした感じだが、結局は何の問題も解決せずに、この事件も風化していくのだろう。どんな審判が下るのか知らないがたぶん容疑者は何も変わらない。14歳で人を傷つけ、殺すことの快感を覚えてしまった人間を更正させようなんてそんな簡単じゃない。ただの盗癖なんかでさえ、現場では治る可能性はほとんどないに等しいと思われてるんだから。
 また、教育や社会に原因を求める議論も多々あったが、この社会が容疑者の少年の心以上に腐りきって、闇におおわれていることは、今回の内閣改造の失態や、とどまるところを知らない証券不祥事などを例に出すまでもなく分かり切ったことだ。
 この事件と社会背景や教育との因果関係などもとより実証のしようもないがFOCUSに掲載された加害者の少年の顔写真を巡っての人権論議などはこのどうしようもない袋小路を象徴していた。写真掲載を批判する側が、雑誌の販売中止などという、言論統制まがいの方法をとるという、人権に名を借りた、商業主義と、事勿れ主義の化かし合い。殺されたJ君はホントうかばれないね。

 さて、この事件はインターネット上でも話題になり、インターネットの“自由”のなかでの、情報のあり方を巡って、一騒動を巻き起こした。
 神戸の少年殺害事件の容疑者のプライバシーに関わる情報があるホームページ(正確には掲示板らしい)に掲載された。そのホームページを発見したA新聞記者がプロバイダーに取材を行い、結果としてそのプロバイダーが作者に連絡のつかないままホームページを削除した。
 これに対し、ネット上、特にアングラ系の掲示板などではA新聞がプロバイダーに圧力をかけ、削除させたと非難が渦巻いた。
 ホームページの削除はプロバイダーの自主的判断ではあったが、A新聞が取材の過程でコメントを求める一方「夕刊でのプロバイダー名の公表」を示唆したということも事実のようだ。これを、圧力や脅迫ととるかは人それぞれだろうが・・・。
 また、ある掲示板ではK市長名をかたり容疑者の実名、顔写真を掲載した書き込みがあり、それに対してK市が抗議したのだが、あろうことか、掲示板のデーターが置かれているプロバイダーにではなく、そこにリンクを張っているだけのホームページの置かれているプロバイダーに対して抗議したため、インターネットの仕組みに余りにも無知と言うことでとんだ笑いものになったりした。
 そんなことをやっている間に、容疑者の情報を記したホームページや、掲示板、そこへのリンク集などが、あちこちへ現れては消え、また別の場所に出現するといった事態にいたり、アメリカのサーバーに置かれたホームページまで削除されるにいたっては、それこそA新聞が裏で動いているなどと言う噂もでたものだ。また、さまざまな掲示板でも、本音はどうかは知らないが、実名、顔写真公開反対・人権擁護を大義名分に「お掃除」などといって、メールボムを送りつけ、掲示板つぶしに精を出すやからも出現、さながらネット上のゲリラ戦のような状態が一時期続いた。

 さて、容疑者が少年であったが故に、その情報を明らかにすることが問題とされてしまったこの事件、冒頭少し述べたように事件そのものや、現行少年法の是非についての議論も様々あろうがそれは今はさておく。
 インターネット上で、容疑者の実名、顔写真を公開した人たちが、すべて社会正義の信条に駆られての行動かどうかは、FOCUS同様その主張を鵜呑みにして良いかどうかも疑問ではある。
 しかし、ここで提起された新しい問題、インターネット上の言論の自由と言うよりは、このネットワーク社会のなかで情報やコミュニケーションの手段にアクセスし、またそれを選択する権利は誰のものか、というテーマにおいて、A新聞のような大マスコミ権力が、「人権擁護」的大義名分を掲げ、ネットワーカーを批判することに、僕は共感できない。そもそも、そのA新聞を始め、FOCUSの顔写真掲載なども批判した多くのマスコミ自身が、容疑者の年齢(誕生日)、居住地域、在籍中学のなどの情報を報道している。言うまでもなく、少年法が報道を禁じているのは、顔写真(容貌)、実名のみではない。
 また、インターネット上の実名当てに確証を与えたのはK通信の報道であり、その配信をさらに無責任に転載、報道したS新聞などである。ある掲示板で様々な名前が容疑者の実名として書き込まれ、その段階では実名は特定されておらずどれも憶測の域をでなかったのだが、K通信がその記事で、ある特定の書き込みを引用しながら、インターネットに実名が公開されていると報じたため、結果として、複数あった実名の候補のうちから、一つに絞り込まれてしまったのだ。

 そして、A新聞は自らもインターネット上でサイトを運営し、系列の(だよね?)プロバイダーも運営していながら、A新聞社の発行する紙・誌上において執拗にネットワーカー攻撃を繰り返している。最近もネットの匿名性を問題にする連載が掲載されていた。また、ネット上の猥褻画像へのリンクが問題になったときの記事も、リンクというインターネットの特性をきちんと解説せず、警察よりの内容であった。
 もちろん、インターネットは発展途上であり、様々な問題提起は必要であろう。管理者が存在せず匿名性が高い故の倫理の問題、セキュリティの問題、国境を越える情報に規制を加えにくいことなど検討すべき課題はある。ネットが人間がつくり運営するものである以上、それは人間社会の縮図であり、一般化すればするほど実際の社会同様、様々な軋轢が生じ、ネット上での犯罪なども起こるであろう。
 しかし、よく言われることだが、自動車が排気ガスをまき散らし、交通事故を生み、時には犯罪にも使われるからといって、必要以上に自動車の使用を管理、規制したり、ましてや禁止しようなどと言う人はいないだろう。
 そして、インターネットは、現状の問題や、混沌をふまえても、それをはるかに上回る可能性を、とりわけ情報やコミュニケーションについての権力を持たない、ふつうの庶民に対し与えてくれるものだ。
 A新聞のような大マスコミが、ネットワーカー攻撃、穏便に言えばインターネット規制論を振りかざすのは、情報を管理、選択、配信する権限は我々のみに許されるとのマスコミ権力の横暴、その情報独占が崩れようとしていることへの醜い抵抗と思える。

 インターネットの匿名性の問題について、重ねて述べたい。確かに、ネット全体の管理者のいないインターネットは、通常のパソコン通信と比べても、匿名性は高い。だからこそ、研究者のためのネットワークだった時代には、実名での情報発信が原則でもあった。現在は、プロキシサーバーを経由してのアクセスや、アノニマスサーバーを使用しての匿名メール、国外のレンタルサーバーを利用してのホームページ設置など、さらに匿名性を高めることが可能である。
 この、匿名性が無責任な情報発信や、発言を生んでいると問題にされるが、その反面社会的なマイノリティなど、差別、弾圧を受ける可能性のある人たちにとって、情報発信の武器となる。
 だいたい、大マスコミだって、自分の発信した情報にきちんと全部責任を持っているのか?誤報や、とばし記事はないのか?

 インターネットは、世界中のあらゆる情報にアクセスし、あらゆる人々とコミュニケートする可能性を与えてくれる。もちろん、まだこれは可能性であって、夢である。
 先に述べた様々な問題もあるし、事実上英語が標準という言語の問題、インフラ整備の問題なども解決していかなければならない。インターネットにアクセスできるか否かで新たな格差が生まれてはならないのだ。
 ビル・クリントンは、アメリカのすべての学校にパソコンを設置しインターネットに接続できる環境を整えると公約している。また、発展途上国の子供たちにパソコン、インターネット環境を整備しようというプロジェクトがスタートしたというニュースもある。こうした取り組みが、僕たちにどんな未来を見せてくれるのか、興味は尽きない。
 なぜ、A新聞はインターネットのこうした進歩的側面をも、積極的に解説しないのか?

 また、こんなニュースもある。日本の行革、省庁再編にあたって、“環境庁がほかの大規模官庁に吸収される行革案に反対するメール”が、インターネットで呼びかけられ、それこそ世界中の環境保護派の人々から抗議メールが首相官邸に殺到したそうだ。このことが、現実の政策決定にどれだけの影響があったかは定かではないが、痛快ではないか。
 僕の職場も行革の嵐にさらされているが、反対運動を指揮する組合幹部のおじさんたちも相変わらずの使い古された方法論じゃなくてこんなアイディアが浮かべばね・・・。

 そんな大上段に構えた話じゃなくっても、ネットサーファーが最終的にはまるのは、“出会い系”だなんて話しもあるが、インターネット上では、不特定多数の人々との出会いの機会と、新しい出会いのあり方があるのは事実であろう。

 国家という権力のみならず、A新聞のようなマスコミ権力が良識を装いながら、インターネットという新しいメディアをも自らの手のひらに収めておこうとする動きには僕は反対だ。
 確かに、しばらくは情報の洪水のなかで様々な混乱が続くであろう。しかし、その中で一人一人が情報とのつきあい方、新しいコミュニケーションのあり方を学び造り上げていくことこそが、本当に必要なことなのだ。
 結果がどうでるかはまだ誰にもわからないが、この大きな可能性を手にしながら、結局つぶしてしまうようでは、所詮人間はそこまでの存在だったということでしかない。


(お詫び)

 書き尽くしていないところも多くあり、特にインターネットの知識を余り持っていない人には不親切な原稿となってしまったかも知れません。用語解説などもつけたかったのですが、時間切れでそこまではできませんでした。いつか、補完できればと思います。


[20号もくじ] [前の記事] [次の記事]
[HIROYUKIさんの前回の投稿]

けんまホームページへ
けんまホームページへ