華の宴

第十章 散華



 その夜、住まいに戻った伊勢は夕飯を用意し小次郎の帰りを待っていた。だが、いつまでたっても戻ってこない。時折、聞こえてくる「ジャリッ」という音は寺の住職が歩いている音だった。
 時間だけが過ぎてゆく。膳に返された器を見つめていた。苦しくて仕方がなかった。

辛い。苦しい・・・!

 伊勢は小次郎を初めて渇望した。立ち上がると小次郎を求めて家を出た。


 嵯峨野は、ドスッという音で表に出た。柱に一本の矢。紙が巻き付けられてあった。
「来たな」
果たし状だった。小次郎からだった。今すぐに来いと。
嵯峨野は太刀を手に取ると長屋を出た。


 伊勢はふらふらと道を歩いていた。周りには花見の見物客でにぎわっていた。
一体、どこにいるのか・・・。何をしているのか・・・。
その時、ふっ・・・と、小次郎の目を思い出した。あの目は復讐の目だった。

ま、まさか!

 伊勢は嵯峨野の長屋に向かって突然走り出した。

 伊勢が長屋に着いた時には嵯峨野はすでにいなかった。卓袱台に蓋と紙が無造作に置いてあった。
紙を広げて見た。血相を変えた伊勢は蓋をかっさらうように取ると、慌てて長屋を出た。


 そこは、隣の領地がどこぞの藩の物というだけで花見というのに誰も来ない奥深い場所だった。
嵯峨野が着くと、小次郎が用意を済ませて待っていた。白い紐で袖を上げていた。
「・・・理由は分かっているだろうな」
低くて暗い声だった。
「ああ」
二人は刀を抜いた。


 伊勢はやっとの思いで桜の山に着いた。刀と刀がぶつかる音を聞き分けながら、走った。目の前の丘を登ったところに、血まみれになった二人がいた。
 突然、嵯峨野の太刀が振り上げられた。

危ない!!

もう、刀を抜く暇がなかった。

嵯峨野は太刀を小次郎めがけて振り降ろしていた。剣先に鈍くて重たい感触を感じた瞬間、伊勢が叫んだ。
「うわぁぁぁぁ!!!!」


伊勢はその時初めて人に斬られる痛みを知った。


嵯峨野は己の行動を初めて後悔した。


小次郎は生まれて初めて鬼になった。


「おのれ、嵯峨野!!!!!」
小次郎の夜叉のようなひと振りが、後悔が頭の中をよぎって判断が鈍った嵯峨野に当たった。
「ぐわっ」
小次郎は慌てて倒れた伊勢を抱き起こすと桜の木の下へ運ぼうとしたが力が出ず伊勢もろとも木に当たった。その振動で、桜が舞う。
小次郎も限界だった。どう見ても助かりそうにはなかった。
伊勢は目を開けて小次郎を見た。
「お前の、蓋だ」
蓋を小次郎に差し出した。小次郎は左手に受け取る。
「これは私のだ」
身を右手に持っていた。
「・・・女じゃなくて良かった。お前と散るだけの力がまだ残っている」
そう言うと、伊勢は刀を抜いた。
「伊勢?」
小次郎の言葉も聞かずに伊勢は刀を小次郎の背中に突き刺して、一思いに突いた。それは、自分の身体をも貫いた。
「伊勢・・・口吸いを」
小次郎は微笑んだかのように見えた。
伊勢は激しく貪るように小次郎の口を吸った。だんだん、口の周りに血が付いてくる。
この世のものとは思えぬ情景。嵯峨野は黙って見ていた。
小次郎の手から、太刀がずり落ちた時、二人は逝った後だった。蓋と身をしっかりお互いの手で重ね合わせていた。
 突然、風が吹いて二人が倒れた桜はすべて花を散らしてしまった。最後のはなむけに。
嵯峨野はいてもたってもいられず、そこをあとにした。

 嵯峨野は山を降りて町を歩いていた。顔には脂汗が滲み、足許はおぼつかない。胸は斬られて血まみれになっていた。花見の見物客は嵯峨野を取り巻くように、まるで異物を見るかのように避けて通った。
一軒の居酒屋の戸を開けて中に入った。酒を飲んでいた男達も嵯峨野の姿を見て酔いが覚めるほど仰天した。
その尋常ならざる騒ぎに奥から店の主人が出て来た。
「お客さん、お怪我を手当てした方が」
「・・・うな」
「は?」
「構うな」
そう言うと、懐から小判を出して机に投げた。それはゴトッという鈍い音を立てて机に落ちた。その重みのある音が改革前の正統な金貨を表していた。
「これで、一番いい酒をもってこい」
ギロッと睨まれて主人はすくんだ。
「わ、わかりました。少々お待ちを」
「外がいい。花見酒をする」
嵯峨野は店の外にあった机に向かって進んだ。そこは先客がいたが、嵯峨野を見て慌てて逃げた。
主人が酒を持って来た。
嵯峨野はそれを注いで目の前にある桜を見ながらこう呟いた。
「俺の人生も面白くなりやがった」
それから、嵯峨野はぴくりともしなくなった。
隣の客が覗き込むと、口から流れて来た血が猪口のなかにピチョッと落ちて酒と滲んでいた。風で飛んで来た花びらが一枚浮いていた。

目はすでに閉じていた。






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'99.3.29
Gekkabijin