黒い森

第一章



 彼女は黒い森に住んでいた。


 その日は朝から遠乗りをして領地を見て回っていた。それが休日の日課になっていた。うまく統治できているか、肌で実感するためだ。公爵の位を持っている彼は王侯貴族と同じくらいの広大な領地を祖父の代より拝領していた。王族が増えたために王位継承権を捨てて、かわりに公爵の位と土地をもらった。この土地の中にはまだまだ未開拓の場所があり、そんなところを早く開拓して領内を豊かにするのが彼の夢だ。いざというときには戦って領地を増やしたい。戦って近隣諸国を押さえたら王になって・・・。彼の心は野心でいっぱいだった。仕方ない。2ケ月前に父親に死なれてしまった。原因は不明。周りでは毒殺の噂が立っている。臣下には原因の究明を急がせてはいるものの、なかなか原因が分からない。内通者がいるはずだ。彼は黒幕を見つけて打ちのめしたかった。この領地を不振におとしめる者。王位継承権を無くしても豊かな領土がある限り、彼は狙われなければならかなった。昼は古狸の大臣、王太后のとりまき、名前も分からぬ召し使い。夜は隣国の貴族たち。皆、狐の目をして喰らい付く。
 しかし、今はそんなどす黒いものを払拭し馬を駆ける。見るからに日だまりのような青年。自らの働きのおかげで、文盲の者にさえ顔を知られていた。下々の者から声を掛けられる。彼の人気は不動のものだ。
「今年の作物は順調かい?」
「はい、とても良く採れます。今年は豊作です!」
庶民には庶民に分かるように親しみを持って話し掛ける。だから人気がある。葡萄を採っていた農民たちは喜々として彼に最近の出来事を報告した。
「じゃあ、また来るよ」
「今日は遠乗りですか?もっと西には得体の知れない森がたくさんあるので気を付けてください!」
農民たちは人が寄り付かない森には幽霊や化け物が出るのだと信じていた。彼はそんな庶民を微笑ましく思った。そして限り無く純粋な心を失わせないようにするのも彼の役目だった。微笑みながら別れを告げると、農民が注進した西へと馬を駆けた。

 そこは本当に鬱蒼とした森だった。あの民が言ったことは当たっていた。そして彼は気付いたのだ。この森の名前を知らないことを。おかしい。ほとんどの領地は把握しているのに、名前すら知らないなんて。そう思っているうちに、彼の愛馬が疲れ出した。この辺りに水辺はないだろうか。馬から降りると彼は手綱を引いて歩いた。
 そうして随分奥地まで来た。太陽の光が直接当たるところはなくなっていた。かすかに聞こえて来る水の音を頼りに、その方向に歩いていった。どうやら近くに川があるようだ。
 茂みを抜けると、そこはまるで別世界だった。目の前に広がる湖。吹き抜けて、太陽光線が眩しい。彼は対岸の少し離れたところに小屋を発見した。
 馬を近くで休ませると、彼はその小屋目指して歩いた。

 ドアの前で立つ。トントンと叩いた。
「こんにちは」
返事がない。
「誰かいらっしゃいませんか」
音がしなかった。あの民が言ったように得体の知れない物が飛び出るだろうか?だが、眩しい太陽と鮮やかな青の湖がそれを否定した。そんなはずがない・・・。
 彼はドアに耳を向けた。音がする。突然、声がした。
「ばあや、ドアの向こうが騒がしいわ」
驚いた。こんな奥深い地にも人が住んでいるのかと。
「姫様。あれは小鳥が鳴いているのです」
しわがれた声は相手のことを姫様と呼んだ。高貴な身分なのか?
「何と鳴いているのかしら」
「仲間とはぐれたのでしょう」
「それはかわいそう。傷ついているかも知れないわ。おうちに入れてあげましょう」
ドアに近付く音。
「姫様、ばあやが開けますから、あっ」
どすん、と転ぶ音。ばあやはつまずいてしまったようだ。
「姫様、ご自分では開けないで下さいまし」
「だって傷ついて寂しい小鳥さんが鳴いてるっていうのに」
そこまでいうと、ドアに手を掛けた。ドアノブが回る音の前に物凄く頑丈そうな錠前を外す音が聞こえて来た。一体、この小屋はどうなっているのだ?
 ドアが開いた。現れたのは美姫。それもちょっとやそっとでは見かけない、宮廷にもいない程の麗人。彼は一瞬言葉が出なかった。
「大きい小鳥さんね・・・」
「どなたですか?」
横からばあやが身を乗り出して来た。彼は正気に戻ると、礼儀正しくお辞儀をした。
「隣の村に住んでいる者です。村に帰る途中、馬が疲れてしまって、水辺を探しているうちに辿り着きました」
用心して名前は明かさなかった。
「すみませんが、水を一杯いただけませんか?」
ばあやの顔から怪訝な雰囲気が消えた。
「こちらへどうぞ」

 中に入ると、外観からは予想もできない程、値の張る家具・調度品が並んでいた。ここは一体・・・。まるで貴族の部屋をそのまま抜き取ったような、そんな部屋ばかりだった。失礼ですが、と言いそうになったが止めた。銀の器に水が入って来た。こんな森の奥で銀食器が出て来ること自体が珍しい。余程の高貴な身分ではないだろうか。
 気が付くと、窓からは夕日が差し込んでいた。もう、こんな時間なのか。彼は持っていたタンブラーをテーブルに置くと、ひとこと言った。
「ありがとうございました。おかげで生き返りました」

 彼は別れを告げた後、急いで自分の城に向かった。馬を駆けながらあの小屋の住人のことを考えていた。森に相応しくない家具や食器。それに相手は自分の名前を知らなかった。知ろうともしていなかった。しかし、あのばあやは最後に馬がいるところまで付いて来た。そうだ、きっと鞍に刺繍された紋章を見たかったのに違いない。ばあやの目が釘付けになっていたのを見た。真意は分からない。追求はされなかった。
 だが、彼の心を一番捕らえて放さなかったのはもう一人の方、姫。彼女は人間のことを小鳥だと思っているらしい。どうやらそういう教育を受けて来たようだ。それに、あの髪。髪が紅かった。あんなに綺麗な赤毛はこの辺りでは見かけない。彼の頭の中は赤い色で一杯だった・・・。

 そのころ、城では大変な騒ぎになっていた。執事のルイがエントランスホールで行ったり来たりしてイライラしていた。
「ミロ様はまだか!?陛下がお出でになっているというのに!」
ルイに告げた約束の時間をとうに過ぎていた。



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2000.3.13
Gekkabijin