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「ドストエーフスキイ広場」22掲載,2013

商品としてのドストエフスキー

−商業出版とマスメディアとにおける作家像−

 

木 下 豊 

 

概要[i]

作品を通して作家像ドストエフスキーをどのようにとらえるかは、古くて、きわめて新しい問題である。とりわけ今日、マスメディアや商業出版で、実利的動機からの読者迎合がこの問題に影を落としている傾向が見えることからも注視せざるをえない。

日本におけるドストエフスキー受容を考える場合、まず二葉亭四迷が着目した、ツルゲーネフとドストエフスキーの作家像の違いを肝に銘じておくべきであろう。二葉亭によれば、前者は作中人物の外側に位置して、いくぶん批評的にくっきり、はっきりした輪郭で描く作家であり、後者は作中人物の内部にいきなり跳び込んで、内側から外に向かって描く作家で、そのぶん、人物像はぼやけているが、そのかわり、人物と人物との間にイデーがさかんに見えると、二葉亭は指摘した(「作家苦心談」明治三〇年・一八九七年)」

これがどれほど先見性にみちた鋭い指摘であるかは、一九二〇年代後半にようやく登場するバフチンの作者と人物の関係論を視野に入れて見れば分かる。ドストエフスキーはツルゲーネフやトルストイ型の一九世紀リアリズムに納まりきれないばかりか、創作方法において彼等とは対照的な作家であるというのは、ロシア文学史、文化史の常識といっていい。

ドストエフスキーに傾倒した萩原朔太郎がトルストイ影響下の白樺派によるドストエフスキー理解を批判して、一方を好む者は他方を好まないほど「宇宙の両極」であると、この二人のロシア文豪に対する読者の嗜好の違いを指摘していることも記憶に残る。その後、昭和一〇年(一九三五)前後、思想転向、シェストフ現象を背景とした、横光利一や小林秀雄によるドストエフスキー作家像の独自性の発見や、戦中・戦後にかけての椎名麒三、武田泰淳、埴谷雄高等に見られる自己の作家的態度に引きつけての作家像の探究などに一貫するのは、ドストエフスキーの作家的自我の多重性、複合性への驚嘆に充ちた眼差しであった。一九七〇年代、リンチ事件に極まる極左運動が破産する時期までのドストエフスキー受容は「地下室の意識」に集約されたアンビバレンツな人物描写の創作方法を真剣に受け止めていた。

潮目が変わったのは八〇年代、日本経済の高度成長と思想的無風化、空洞化の中で、七一年の生誕一五〇周年の講演会で五木寛之が唱えた「明るく楽しいドストエフスキー」読みが、江川卓によって「謎解き『罪と罰』」となって具現化される(一九八六年・同書「あとがき」参照)。それより一足早く、岩波書店の寵児・中村健之介が、ドストエフスキーは「ふつうの小説家」であると殊更に強調し、日本での先行的な受容の歴史を「予言者」扱いだと中傷する一方、バフチンなどの理論を踏まえた作家像の探究には目をくれず、自己流の自然主義的な実感信仰による読みを唱えていた。八〇年代〜九〇年代、ポストモデルニズムの流行が、伝統的権威の否定の名のもとに受容の歴史を無視して、自らを絶対者に祀り上げる欺瞞を助長したといえる。江川卓の「謎解き」は民間伝承、神話。聖書のモチーフをテキストの裏に探りながら、論者自らが作者に成り変って、パッチワーク的な手法で絵解きするもので、初体験の読者には目新しく、知的好奇心をくすぐられることはあっても、作品自体の真の感動をあたえられるものではなかった。江川の影響を受け、継承者を自認する亀山郁夫は、誤訳にとどまらず、テクストの改ざんや空想のテクストに踏み込んで、作者を僭称する特権を許されていると勘違いしている。「原作と張り合う『偶像破壊』的な集大成」とは、亀山ブームの火付け人で光文社の代理人・沼野充義による亀山最近作『謎解き「悪霊」』の毎日新聞書評の表題であるが、皮肉な意味でいみじくも的を射ている。恣意的な解釈の特権を許されていると思うのは、彼を利用する出版社の投機的な思惑によって鼓舞され、宣伝、媒体によって偶像化された結果の錯覚にすぎない。賢明な読者によって、それはかならず見破られる性格のものである。

 今回例会で報告したいのは、ロシアで昨年(二〇一一年)五月二二日〜二六日に放映されたTVドラマシリーズ「ドストエフスキー」が、大衆受けをする一方、研究者の間から厳しい批判が浴びせられ、マスコミを賑わせた出来事である。この番組は処刑台のシーンからはじまる伝記物であるが、伝記的な事実やその時間的な前後関係をかなり乱暴に無視して、賭博者、好色家ドストエフスキーをクローズアップしている。これにはサラースキナなどから手厳しい批判が加えられている。また亀山著『悪霊別巻−「スタヴローギンの告白」』で、「精密で画期的な解説」との宣伝のもとに基本文献として著者が重視しているV・スヴィンツォフの「ドストエフスキーと”男女関係」(一九九五)という論文がどのようなものかを紹介したい。ロシアの俗流フロイディストによる、日本のそれと実に波長のあった論調である。

 日本でもロシアでも商業化された俗受けするドストエフスキー像歪曲の本質は変わらない。 

 

作家像ドストエフスキーに関する評言の歴史

 

二葉亭四迷は「作家苦心談」で作中人物に対する作者の二つ態度をツルゲーネフとドストエフスキーを例にあげてのべる際に、これを「此の世の中を見る二つの見方」とし、「観世法」という言葉を使った。すなわち、創作方法の問題にとどまらない、人間、世間に対する態度という広い意味が含まれている。この二人の作家の伝記に潜む人間学的態度の相互の異質感が、後述でも度々ふれるように、小説観のみならず人間的確執のドラマを孕んでいたのは確かであろう。

ドストエフスキーの同時代人で晩年の作家の言葉や様子を記録にとどめた作家・ジャーナリストのオポチーニンという人(この人については後で詳論する)の紹介による、ドストエフスキーの次のような辛辣なツルゲーネフ評の根底には、人間を見る目において、外側から冷静に観察する態度とは対照的に、内側からの視点で見るドストエフスキーの、激しい人間的反発、そして作家としての作風の面からの批判すら見てとることが可能であろう。

<彼はこれまでずっと、私に対して侮蔑的な寛容さを示してきた。陰に回ってはデマを流し、悪口をいい、中傷した。 彼はその性質からいって、噂話が好きな中傷家あつた。地主社会にはこの種の人間がいるのだ。人におもねる下男や居候たちの告げ口に囲まれて育ったものだから、自分たちに似てない者すべてを悪意と敵意の目で判断するのだ。>

<この種の人間は人を自分と同等に評価することが出来ない。真実に基づいて判断すすることが出来ず、もっぱら侮辱と軽蔑の気持ちをもって、寛大に寛容に処すのである。彼らは誰をも愛さない。誰かに愛しているといったとしても、嘘をついているのであり、その振りをしているのである。実際のところ、愛していると見せかける努力をしているに過ぎない。ほら、ご覧、わたしは愛といっていいくらい寛容さを見せた、というわけである。愛は美しく、共感を呼び、共感は彼らに無くてはならないものだから、うわべを取り繕っているに過ぎない。本当のところ、彼らには故郷、祖国というものがない。彼らはコスモポリタンであり、宇宙市民である>

<神は彼に才能を与えることを惜しまなかった。感動させる力も惹きつける力も与えた。しかし最も若い頃の誠意のこもった作品でさえも、そこに計算づくの要素、何か冷たい寛容さが感じられる。あれほど感動的に描写しているものを全く愛していないという感じなのである。まるで俳優の演技のようなもので、“如何にうまく私は感じることができるか、ご覧いただきたい、涙だって流すことができるのですよ“というわけである>(「ドストエフスキーとの談話から」一八七九―一八八一、ペテルブルグで記録)[ii] 

いわば俗にいう「上から目線」のツルゲーネフに、ドストエフスキーは、『貧しき人々』で文学界に登場した若い頃からやりきれない思いをさせられていたことが感じられる。 ドストエフスキーの言葉にこもる強い感情的要素のバイアスを排除して透けて見えてくるものは、ツルゲーネフ流の「観世法」であり、二葉亭いわくの「幾分か篇中の人物を批評している気味」、「何となく離れて傍観している様子」であり、ツルゲーネフの創作方法がその人間観と無縁でないことをうかがわせるであろう。

この人間学的態度の違いからくる創作の質の相違を鋭敏に感じとっていたのは、大正三年(一九一四)に『カラマーゾフの兄弟』に衝撃的な影響を受けて、その影響下に『月に吠える』の詩群を残した萩原朔太郎であった。[iii]

この時期、ドストエフスキーに対してツルゲーネフではなく、トルストイが対比的に論じられるのが流行になっていたが、この二人の大地主の貴族作家は、共に西欧的啓蒙的理性の信奉者であり、気質や作風の違いは別としても(事実、二人の間には、生活スタイルや思想上の違いから、反発し合うものがあった)、文学史・文化史の上でのポジションから見れば、一九世紀客観的リアリズムの根底にある人間学的態度においては共通しているといってよい。朔太郎はこう言っている。

ぼくは白樺派の文学論を軽蔑した。ド氏の小説とトルストイとは気質的に全く対蹠する別物であり、一を好むものは他を好まず、他を愛するものは一を取らずといふほど、本質的にはっきりした宇宙の両極であったからだ。( 「初めてドストイェフスキイを読んだ頃」 一九三五・昭和一〇年、筑摩書房「全集」第九巻一五九頁)

朔太郎がいうところの、トルストイやツルゲーネフのような貴族地主の作家とドストエフスキーの対蹠性について、一九七〇年〜八〇年代のソビエト・ロシアの時代、中世ロシア文学研究の権威であり、「ロシア知識人の良心」とも呼ばれたドミトリー・リハチョフは、ドストエフスキーの創作に関する幾つかのエッセイのなかで、次のような深い洞察の評言を残している。

<ドストエフスキーとごく近い時代の先行作家や同時代の作家たちは時間を描くのに、一つの、しかも不動の視点から描いた。語り手はあたかも読者を前にして想像上の快適な肘掛け椅子(いささか地主貴族風の 例えばツルゲーネフに見るような)に腰をすえて、自分の物語を、発端と結末を承知の上で、語り始めたといった感じである。作者はすでに発生し、すでにその結末を有している出来事についての目撃者の確固としたゆるぎない位置を作者自身が占めて語る、そのような物語を作者は読者に聴かせたいかのごとくである>(D・リハチョフ「文学‐現実‐文学」 一九八四、九〇頁)

<ドストエフスキーの小説の語り手というのは、しばしば約束上のものである。彼らの存在についてはある程度、忘れる必要がある。それはほとんど日本の人形芝居に見られるようなもので、黒衣を着た俳優たちが人形を観客の目の前の舞台で操るけれども、観客たちは俳優たちを目に留めてはいけないし、また目に留めもしない。演じるのは人形である。人形は時として、生身の俳優たちよりも過剰な演技をする。人形を動かす人々を登場人物と解してはいけない。ドストエフスキーの作者と語り手というのは前舞台にいる召使で、読者が出来事全体をそれぞれの場面で最もよい位置から見られるように手助けする。そのために彼らはせわしく動きまわる>(同、九三頁)

啓蒙的理性に裏打ちされた作家的自我(「私」)の不動の視点から世界や人間を観察して描く一九世紀リアリズムの作家達とは異質なポジションから創作行為をおこなったドストエフスキーに、明治・大正期に文壇を支配した自然主義や私小説の文学に飽き足らない、鋭敏な方法感覚を持った昭和期の日本の作家や批評家たちは、大いに面食らいながら、その型破りな方法、人間を捉える深さに驚嘆し、新しい文学創造への啓示を受けてきた。それについての代表的な評言の流れを追ってみよう。

批評家・小林秀雄は一九三〇年代すでに、右記のリハチョフの言葉に符合するような言葉を残していて注目される。

<トルストイの小説には読者を惑乱させる様な出来事が描いてないのではない。さういう出来事が、すべて作者の沈着なリアリズムの作法の中でしか起らぬのだ。丁度芝居の観客が、舞台で何が起らうが安心してゐる様なものだ。処がドストエフスキイの劇場では。幕がかわる毎に観客は席を代へねばならぬ様な仕組になってゐる。而も幕はなんの警告もなくかわる。

彼は、多くの写実派の巨匠等が持っている手法上の作法を全然無視してゐる。彼の目は、対象に直にくつついてゐる。隙もなければゆとりもない。作中人物になりきつて語る事は、最も素朴なリアリズムだが、この素朴なリアリズムが対象に喰ひ入る様な凶暴な冷眼と奇怪に混淆してゐる。かういう近代的なしかも野生的なリアリズムが、読者の平静な文学的イリュウジョンを黙殺してゐる>(「『未成年』の独創性について」(一九三三・昭和八年、新潮社、新訂全集第六巻二三―二四頁)

 

作者と読者の位置関係が安定的ではなく、作者の視点の移動に応じて、黒子が観客に奉仕するか(リハチョフ)、もしくは観客が席を移動して作者の位置を探り当てるか(小林)― ロシア文学の碩学と日本の批評家が言わんとするところはto共に同じであろう。「多くの写実派の巨匠等が持っている手法上の作法の無視」という小林秀雄の言葉は、同じ時期にのべた小説家・横光利一の次のような評言の要約といってもよい。

私は作者の心の置き所をこの作中では考へることが出来ない。心の置き所といふ都合の良い場所は私はあるものだとは思はないが、それにしてもいかなる作でも構想にさいしての作者の心の置きどころは見受けられるにも拘わらず、この作に限ってそれがない。いや。あるにはあるが、作者は作者の精神のごとく最初から終りまで移動しつづけてゐるためにないのである。<・・・>この作の優れた第一の主要なことは、作者が心の置き所を探らうとしつづけて終ひに発見することの出来なかつたところである。(「『悪霊』について」)(一九三三・昭和八年)(河出書房新社版全集第一三巻、二一三頁) 

 小林秀雄と横光利一の次の世代の文学者・武田泰淳、椎名麒三、埴谷雄高は、戦前ともに左翼運動に連座して獄中体験をし、武田の場合さらに中国での前線での体験をも経て、ドストエフスキーを受容していく。いわば自らの実存体験に裏打ちされた彼等の目は、ドストエフスキーの小説に内在する多元的、複合的な作家像を、的確に感知し、自分の創作行為の導きともしたのである。ドストエフスキーの作家像についての三人の評言を見てみよう。

武田泰淳

「カラマーゾフ」を読みはじめるが早いか、私たちはドストエフスキーの広大な「私」の、天国と地獄の奥底ふかくみちびかれてゆく。あまりにも、ふかく、ひろい彼の「私」に、吸いこまれ、分解され、ふくれあがってしまうので、この偉大な作品に「私」があったことまで、忘れてしまうほどだ。

作家の「私」とは、本来、そのようなものでなければならないのではないか。目がくらむほど深遠な、人生の豊富さに向かって、ひらかれた戸口、それが、作家の「私」であってほしいものだ。(「文学雑感」一九六七・昭四二)( 筑摩書房「全集」第一六巻二〇八頁)

椎名麟三

<『新創作』へ二、三の習作を発表した。同人たちはドストエフスキーばりの観念小説には否定的だった。で、日本の自然主義的な小説を書くと好評だった」、「しかし私は、日本の自然主義文学との違和感を常に感じていなければならなかったようである>(「わが心の自叙伝」、一九六七・昭四二)(冬樹社「全集」第二三巻四七八頁)

<いわゆる通俗小説が「事件を線とする構成」であるのに対してドストエフスキーの作品構成の特徴の一つは、「事件を点とする構成」。「構成の究極的な小単位としての事件」が多数独立して相互に無関係に存在するところへ、主題が持ち込まれ、作者の構成作業が始まる。その主題とは人物化した思想であって、「一つの観念の生命がその人物の生命となっているところの人物なのである>(「ドストエフスキーの作品構成についての瞥見」一九四二・昭一七、「新創作」)(同全集第二二巻六一一―六一二頁)

埴谷雄高

文学史上にその傾向を最も定着しがたい作家を選ぶとすれば、恐らく、ドストエフスキイがその先頭にひきだされるだろう、彼はヒューマニズムの作家とも悪魔主義の作家とも反逆の作家とも鎮静の作家とも反動的な作家とも進歩的な作家とも、それぞれ納得するに足りるほどの確然たる論拠をもって規定されるが、しかも、それらの規定はすべて彼を覆うに足りないのである(一九五六・昭三一、「ドストエフ スキイの二元性」)(『埴谷雄高ドストエフスキイ論集』 講談社 一九七九 八二頁)

これを埴谷はテーゼとアンチ・テーゼの噛み合った「未出発の弁証法」と称し、こうのべている。

そしてさらに、ドストエフスキイ把握の困難さは思想的な傾向や内容ばかりではなしに、その作品の様式や構成法の独自性によって倍加されている(同八三頁)

その後一九六〇年〜七〇年代のドストエフスキー受容は、埴谷が自分を含めて武田や椎名などを称した戦後文学の「ドストエフスキイ(エコール)」に連なる形で進行した。この時期の特徴は、旧体制に対する若者達の反乱、すなわち既存の大学管理、管理化された学問に対する学生の異議申し立てとして始まった全国的な大学紛争が、活動路線の対立と組織のセクト化により個人の自由な主体を圧殺するにいたった状況に直面して、『悪霊』があたかもこの日本の現実の写し絵のごとく読まれ、このロシアの作家への関心が高まったことである。日本赤軍事件などに見られた陰惨な事件は、ほとんど『悪霊』の「シガリョフ主義」の具現とすら思われたのである。この時期の受容の焦点が『悪霊』であったこととともに、小林秀雄と同年者である河上徹太郎と埴谷と一つ違いのプロテスタント宗教学者の滝沢克己が、地下室人について、時代の精神状況を見据えながら、新しい解釈を打ち出していることが注目される。

 河上徹太郎

<現代の造反者にも、自嘲とか、自己嫌悪とか、自己否定とかいふことはよくいはれる。それは現代のニヒリズムと造反が根を同じくする思潮だから、当然伴う反省である。然しその結論が、小林のいふ世間に対して出した舌が自分のものとして自分に返って来ないために、無責任になるのである。そして反省が己れを刺す反省ではなく、又別の饒舌になって空しく現代の騒音の中に消え去るのである。これに対して、地下生活者が完璧な造反者であると私が先にいったのは、彼が二枚舌ではないからである>(「地下生活者」の造反U」(「文藝」)一九七〇)(『わがドストエフスキー』河出書房新社 一九七七 一二九頁)

<彼は意識を以って意識を制するところの、近代によく見かける近代的ストイシャンの一人であろう>(同一三一頁)

滝沢克己

こうして私たちは、この「地下生活者」が「非合理主義な主意主義者」であるどころか、特別に鋭い知性の持ち主であることを確認する。かれは世間の人や「活動家」たちの根本的な「自己欺瞞」=「意識されない偽善」を底の底まで看破する。(『ドストエフスキーと現代』 三一書房 一九七一 三八頁)

河上や滝沢のこの時点での読みの新しさは「逆説家(パラドクサリスト)」の言動をまさに逆説的に読みこみ、その世間に対する反逆、自己否定に、作者が言わんとする純粋性、小林のいう「無償の行為」を見ている点にある。

小林秀雄が提出していた幾つかの次のような重要な命題―

○「スタヴローギンにして同時にゾシマである様な人間の真相とは何か」(「思想と実生活」一九三六)( 新潮社、新訂全集第四巻一六二頁)

○ドストエフスキイは「地下室の男」ではない。これを書いた人である。作者である」(同一六三頁)

○ドストエフスキイが生活の驚くべき無秩序を平然と生きたのも、たゞ一つ芸術創造の秩序が信じられた為である。創造の魔神にとり憑かれたかういう天才等には、実生活とは恐らく架空の国であったに相違ないのだ(同一六五頁)  ドストエフスキーの全創作を通じて読者が感知する劇的なパラドックスの精神、そこからくる作中人物やその観念に対する態度 ― そこに伏在するのは素朴実在論的な、自然主義的な反映論ではとうてい読みとれない作家像である。作家にとって「ただ一つ芸術創造の秩序」だけが信じられ、「実生活とは恐らくは架空の国」とは、これまた小林秀雄一流のパラドクシカルな表現であるが、素朴実在論的・自然主義的な反映論の護持者にはこのパラドックスは通じず、小説に描かれたフィクション(架空の国)から帰納されるファクターの寄木細工でもって構成した虚像を、作家の実像と錯誤することになる。裏を返せば、作家の伝記上の事実、生理感覚的、体感的要素のストレートな反映に、ひたすら作中の人物像やドラマの解釈の源泉をもとめようとするのだ。

一九七〇年代には、フランス文学研究者でバルザックの翻訳者であった東大教授・寺田透は、六九年の学園紛争の最中、大学当局の事態収拾を不満として辞職したあと、文芸評論に専念する中、一九七七年にロシア語テクストと苦闘しながら書いたドストエフスキー論で、次のようにのべている。バルザックのリアリズムの本質を知る文学者の言葉だけに、対比されるドストエフスキーの作家像についての指摘には重みが感じられる。

寺田 透

ひとは他者のはたらきかけの下に相対的にしか自己を現すことは出来ないものだ。そのためにひとの味はう生の苦渋は人間にとってほとんど本来的なものと言つていい。人間はいつも歪められた存在としてしか自己を意識できず、従ってバルザック流にいつもそのひと自身であるやうな全的な表現のしかたで人間を描く作家には、一種のうとましさが感じられる。 さういう物の考え方をしがちな精神状況に対する応答として、コロスに答える役者(ヒュポクリテース)として、ドストエフスキーが登場した。( 『ドストエフスキーを讀む』 筑摩書房 一九七八 三三三頁)

 

ところで、寺田の著書によると、彼が東大在職中に大学院ゼミで、『未成年』を原書で一緒に読んだのが中村健之介とのことであるが、中村のドストエフスキー論となると、私達がここで二葉亭以来、通覧してきた日本における文学者達のドストエフスキー像の探究とはまったく切断された発想かはじまるのに驚かされるのである。中村は一九八四年に岩波書店から『ドストエフスキー・生と死の感覚』を出しているが、彼はこれまで私達が見てきた日本の文学者達のドストエフスキー作家像の探究を無視、十把一絡げに「予言者的」と退けて、次のようにのべる。

ドストエフスキーは一九世紀ロシア社会と自分の体験とを題材に小説を書いた小説家である。<>私たちはドストエフスキーの小説を読んで、ゴーゴリを読むように笑うこともできるし、モーリヤックを読むよう考えこむこともできる。すべての小説家が「ふつうの小説家」であるという意味でドストエフスキーも「ふつうの小説家」である。ドストエフスキーだけはちがうのだ、彼は予言者なのだ、と宣伝して、そのお告げをわたしがみなさんに伝えてあげますという論は、ドストエフスキーの或る一面だけを特別大きく拡大して、それが全体であるかのように見せかける一種の詐術であって、この小説家はどのような「ふつうの小説家」であるのかを知ろうとするふつうの読者を助けてくれない。(二六七―二六八頁)

ドストエフスキーも「ふつうの小説家」と中村が強調する時、先行する受容史のなかで、論者達がこだわってきたツルゲーネフやトルストイ型の客観的リアリズムの小説家とは異質なタイプの小説家であるとい見方を否定し、こと新しく「むしろ気分・感覚型の作家」であると設定しなおすことによって、初心の読者を素朴実在的論的、自然主義的な自己流の論法に引き込む意図がうかがわれる。この立場を前提としてはじまる彼の論は、たとえツルゲーネフやトルストイ型の小説を扱う論法にはふさわしいものであっても、ドストエフスキーに関する限り、「ふつうの読者」としての自分の感覚に密着した独断的な単純化、一面化の論調に終始し、「プロクルステスの寝台」という謗りを免れることは出来ない。その極端ともいえる主張の一例

ドストエフスキーは、唯物論的有神論者、体感による汎神論者(一一八頁)

作家を悩ました「神の問題」とは

感覚的な次元で深刻な問題となる非論証的な「神の存在」  なのである。プリミチヴな思考のもち主、あるいは素朴実在論者にとっての「神の存在」と言いかえてもよい。(同頁)

中村の論述に一貫して目立つ単純化した論調は、経験を積んだドストエフスキー読者に素直に受け入れられるだろうか。自分の身の丈に合わせて相手を裁断する論者・中村の姿だけが大きくクローズアップされる印象を受ける。中村には作中の作者像をめぐっての視点の所在や表現のパラドックスは通じず、文字通り「病気の作家」(「ドストエフスキーのパーソナリティの特徴は病である」)であり、作家の人間観もおそろしく無責任なものと規定されることになる。

どうやらドストエフスキーは、犯罪者だけではなく、一般に人間を、まだ病気を発症していない人間をもふくめてすべての人間を、みずから決断し行動しその行為に責任を負う主体的個とは思っていなかった疑いがある。ドストエフスキーは人間は病気であるという人間観の網を強引にもすべての人間にかぶせたいらしい。これは大問題であるが、ドストエフスキーの座右銘は「あとは野となれ山となれ Apre moi le deluge!」である。(『永遠のドストエフスキー』中公新書、二〇〇四 一九頁)

この論調は先に見た、一九七〇年代の全共闘運動を背景として、時代と血を通わせながら読みとった河上徹太郎や滝沢克己らの地下室人のパラドキシカルな精神像の解釈とは正反対なものである。このような中村の視点からは、「矛盾の背後の光」というパラドキシカルなフレーズでドストエフスキーの影響を語った椎名麟三の仕事や、パラドックスに満ちた聖書の表現や構造との比較で、現在『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読み解こうとしている芦川進一の注目すべき仕事の意義も理解できないだろう。[iv]

中村は自著の中で、ツルゲーネフやトルストイのドストエフスキー評をたびたび紹介しているが、彼のドストエフスキーへの態度は、この二人の同時代作家の目に同調して容赦のない客体化のまなざしであり、二葉亭四迷が提起した作家像を内在的に理解するための「観世法」(人間観)において、ドストエフスキー理解者としての資質に疑問符がつくように思われる。萩原朔太郎流にいえば、「本質的にはっきりした宇宙の両極」にあって、中村はおそらくトルストイ側の人にちがいない。彼は伝記作家モチューリスキイのドストエフスキーは「わが身で体験したことだけを語った」という言葉を引き、またソ連時代の研究者B.ブールソフの

トルストイもドストエフスキーも自伝的な作家だった。<>

ドストエフスキーには一つ、トルストイにはない有利な点があった。それは現実の自分の体験と文学の仕事の全体が組み合わされていて、かれの生きて体験してゆくそれぞれの事実が、そのすべてが、創作の事実にもなったということである(『ドストエフスキーのパーソナリティ』一九七四)(同上書 まえがき 二頁)

という言葉を紹介し、大いに共鳴している。

トルストイこそ小説において、複雑な語りの仕掛けなどは用いず、直裁に自己を語った伝記的な作家というのが文学史の通説であるが、ドストエフスキーはトルストイ以上に伝記的な作家であった、というわけである。(実は私はブールソフの同著邦訳を一九七二年九月の「ドストエーフスキイの会会報」二二号で書評し、「率直にいって、本書は文学的に博識なトルストイ学者の書いた長大なエッセイという印象を否めない」批判した)[v] 。中村は自分自身の言葉でこう敷衍する。

ドストエフスキーのすべての小説がかれ自身のパーソナリティの濃い影あるいは拡大鏡なのだ。ドストエフスキーは自分において「人間の性格をちょくせつ掘り下げ」ることで小説を書いている(同上書 まえがき 三頁)

 さらに、ゴーリキイのトルストイの回想からを引用しながら、

ドストエフスキーが思考・哲学者型の作家というよりは、むしろ気分・感覚型の作家であることは、すでに、かれの同時代人トルストイが言っている。(『知られざるドストエフスキー』岩波書店 一九九三 一四―一五頁)

これはまさしくトルストイの鋳型にはめこんだドストエフスキー作家像にほかならない。作者と人物形象の関係が、これほど単純明快であるのならば、二葉亭にはじまる日本の受容史も、一九六〇年代以降バフチンやヴィノグラードフやリハチョフなどロシアの文学研究伝統を主軸として展開してきている世界のドストエフスキー研究における「作者像、その位置」の議論もどこかに吹き飛んでしまうだろう。これは国際的なドストエフスキー研究の場ではとうてい通用しない視点である。

 

一九八〇年代以降、大手出版社とロシア文学専門家が手を組み、商業目的で読者大衆の興味に寄り添う形でドストエフスキー論や翻訳が出されるようになって、受容の潮目が大きく変わってきたように思われる。むろん一九六〇年代以降、ロシア文学でも大学院博士課程を経た研究者が輩出し、紀要や学会誌、国際学会などで活発に研究を発表する気運は今日なお高まる一方で、実はその流れで日本のドストエフスキー研究の水準は向上し、国際的な研究者の場でも市民権を得てきているのが実状である。ところが片や大衆的な読者を相手に商業出版の表舞台で出される刊行物は、世界のドストエフスキー研究の動向にはあえて背を向けるように、日本語という孤立言語の、しかも出版界やマスコミを牛耳る特定の人物達の村社会でのみ通用する商品として機能している。

こうした現象の背景には、戦後一九七〇年代までの政治運動の沈静化と高度経済成長の余沢を受けた日本社会の精神的無風化、ポストモダニズム的反教養主義の風潮、文学研究におけるテクスト解体論、記号論などさまざまな要素の影響が考えられるが、一つのメルクマールといえるのは、一九七一年、ドストエフスキー生誕百五十周年の記念講演会で、作家の五木寛之が「明るく楽しいドストエフスキー」というキャッチフレーズを提唱したことであろう。高度経済成長期の時代の空気を鋭敏に感じ取った作家のこの言葉が、十五年後に江川卓の『謎とき「罪と罰」』の執筆動機につながったと、江川は同書の「あとがき」で書いている。

中村健之介の登場も、本人の自覚があったかなかったかは別として、実はこの時代状況の同一文脈に位置づけられるはずである。「ふつうの小説家」を「ふつうの読者」に描いて見せるという中村のドストエフスキー論は、実はドストエフスキーをトルストイ型の作家像の鋳型にはめ込み裁断する、論者の独我論的立場の表明であったと私は思うが、江川卓の『謎とき』もまた別の方向からの独我論的手法で、論者が作者に成り代わって、「超越者」の位置を占めようとするものである。

<日常の身体行動をリアルに記録する作者と、そこにひそかなからくりを仕掛けるもう一人の作者。そのどちらが真の作者であるかは明らかにされない。そして、この分身関係にあるらしいこの二人の作者を見定めようとするうちに、さらに一人、その背後にいるらしいものが幻視されてくる。よくはわからないが、おそらくこれは作者を超える存在なのだろう。その超越的な存在こそが、青年に敷居をまたがせ、「ペレストゥピーチ」という言葉を語り手にささやいたのではないだろうか>(「謎とき『罪と罰』 新潮社 一九八六 二五頁)

<「踰えるーまたぐ」ならまだしも、この日付のからくりを見破ることは至難のわざである。ロシア人を含めて、ふつうの読者にはまず不可能事と考えてさしつかえない。だとすると、ここでふたたび、なぜドストエフスキーは読み解かれるはずのないこんな仕掛けを必要としたのかという疑問がわく。つまり「四月八日―九月三十日」という日付の枠は、作者が設定したもののように見えながら、実は作者をこえるだれかから与えられたものではなかったかという疑問である。作者は、創作という神秘的ないとなみに向かうにあたって、いわば黙示されたこの日付を、自分自身に課された枠として受け容れる。その枠の中で作者は全力を尽くすが、その枠を課した存在を認識することはできない>(傍線―木下、同上書 二九頁)

 江川の文脈で「作者を超えた超越的存在」とは誰かと問えば、それは他ならぬ論者ということになり、中村と同じ独我論が顔を出してくる。ここから神話的・フォークロワ的故事を応用した、手品を思わせる江川流テクスト解釈が始まる。テクスト=織物(テクスチュア)の透かし模様が過度に拡大されて、肝心の織目のバランスを欠いたエンタメ性の読み物として仕立てあげられる。ドストエフスキー受容における読者の特権をかくも過信した恣意的なテクスト解釈の道筋がこうして拡大され、一連の模倣者が生まれることになった。その究極が亀山現象だと私は見る。亀山はこの道筋をわかりやすくパラフレイズしてくれている。

テクストというのは、いったん作家の手を離れたが最後、必ずしも書き手の言いなりにならなくてはならない道理はないのです。独立した自由な生き物になるのです。そして、かりにこれが誤読だとしても、私はこの誤読を大きな誇りとし、できるだけ多くのドストエフスキーファンに吹聴したいと思います。何しろ、真理は一つだけなんてことは文学では絶対にありえませんからね。数学や物理の世界とはちがうのです。(「『悪霊』神になりたかった男」みすず書房 二〇〇五 一四四頁)

 世間的にロシア語・ロシア文学の専門家の看板を背負った人物が、原文を読めない読者を相手に、恣意的なテクスト解釈に基づいた誤訳すらも恐れない行為(彼の新訳『カラマーゾフの兄弟』)、これこそ敷居を越え、禁じ手の一線を越えること(ペレストゥピーチ)にほかならない。[vi]しかも亀山のドストエフスキー解釈の基盤ときたらはまたおそろしく時代錯誤的な俗流フロイト理論で、あたかもドストエフスキーがはるかに後輩のフロイトの影響を受けたのかと錯覚しそうな論調なのだ。

<ドストエフスキーの描く心理的ドラマが、結果的に見れば、フロイト理論をきわめて忠実になぞっていたということを意味している。『カラマーゾフの兄弟』の殺される父親がフョードルというのもフロイト理論の枠内ではいとも容易に説明がつくだろうし、また逆に父親殺しの下手人スメルジャコフが去勢派宗徒のひとりであるといおう事実も、フロイトの天才的な読みを裏づける何がしかの証拠にはなるだろう>(亀山郁夫「スタヴローギン―使嗾する神」//『ドストエフスキーの現在』JCA出版 一九八五 五八頁)

<『地下生活者の手記』でも、その中心をなしているイデーは「苦痛は快楽である」というサド的観念であり」(同上 四九頁)、「ドストエフスキーはここで、サド的放蕩児や虐待する人間の快楽という視点から、虐待される人間の快楽という視点へと百八十度方向を転じてしまう>(同上 五〇頁)

<スタヴローギンとマリヤの関係の破綻は、すなわち死刑執行者と犠牲者の抱擁というサディズムのユートピアの崩壊を意味している>(同上 五四頁)

一九八五年に亀山郁夫がこの評言を発した前年の一九八四年に、亀山とほぼ同世代の福井勝也が、次のような鋭い的確な評言を残していることの意義を忘れてはならない。

今日の現代心理学あるいは精神病理学が到達した学問的成果を援用して作品理解にあたる際、ともすると、その無自覚的な近代的視点の故にドストエフスキー的精神像の歪みを、単にある仮定的な心理学的範疇−主として病的あるいはそれに類する範型に、あてはめて解釈することで事足れりとする理解に導かれやすい。そこには、ドストエフスキーの作品をすでに予定された近代的視点によって解釈するという、言わば皮相な心理学的理解があるだけで、文学作品を作品のままに理解するという本来あるべき文学的読解が、抜け落ちかねません。(福井勝也「無意識的なるもの−ドストエフスキーとユング」//「ドストエーフスキイ研究T」ドストエーフスキイの会 一九八四 五―六頁)

さらに福井はフロイト的精神分析によるドストエフスキー論に批判的であった小林秀雄に学びつつ、ロシアの民衆的基盤を探る作家の方法とユングの集合的無意識の理論の並行性を指摘し、当時としては先駆的、かつ示唆的な視点を提示している。

ユングは心理学者として、ヨーロッパの近代的自我意識の行詰まりに遭遇して無意識の復権をはかろうとしたのに対して、ドストエフスキーは芸術家として、同じ意図でロシアインテリゲンチャの魂の無意識的なものを探究したのではないでしょうか。ここには、ユングとドストエフスキーが直面した問題が、ヨーロッパ近代の孕む普遍的な問題として共通であったという事実が隠されています。ここに両者の人間に注ぐ視点が、重なり合ってくる根本的な要因があると思われます。(同上 一九頁)

小林秀雄がフロイト流の無意識の精神分析に批判的でありえたのは、昭和一〇年前後に日本の知識人・文学者の間で、地下室人の心理を作者の体験と同一視して伝記的に解釈するシェストフの説をめぐって展開された論争(「シェストフ論争」)の渦中にあって、彼が「地下室人の意識」を鋭く、深く理解していたからにちがいない。小林は「絶望するより他にする事がないという自覚が、絶望のうちに逸楽を発見(はっけん)する」追いつめられた「自意識」、「絶望と戯れる以外に生きる道がなくなった男」にその意識の本質を洞察した。

小林のこの洞察はドストエフスキー自身の「最高のリアリズム」を標榜した作家的自負に正確に一致しているばかりか、八歳年長の同時代人、デンマークの思想家キルケゴールの「死に至る病」(絶望のこと)の解釈と同質ものを感じさせる。まず、地下室の意識についてのドストエフスキーの言葉を創作ノートから引こう。

一八七五年三月二二日のメモ     前書きのために 

「わが国の社会には基盤(・・)がない。生活というものがなかったので、規則も生き続けていない。大規模の震動で、すべてが途絶し、崩壊し、あたかも存在しなかったように否定されている。西欧のように表面的なだけではなく、内面的に、倫理的に否定されている。中流・上流階層の(家庭の)生活を高い芸術性で描いたわが国の有能な作家達、トルストイやゴンチャロフは大多数の国民の生活を描いたと考えているが、私にいわせると、彼らが描いたのは例外の生活である。反対に彼等の生活こそが例外の生活であって、私の生活が一般的な規則に沿った生活である。より偏見のない目で見る未来の世代はこのことを信じてくれるであろう。真理は私の側にあるだろう。そうだと信じている<>

「地下室と『地下室の手記』。 自慢するが、ロシアの大多数の本当の人間を引き出してきて、その奇形化した悲劇的な本質をはじめて明るみに出したのは私である。悲劇の本質は奇形の意識にある。シルヴィオや現代の英雄にはじまり、ボルコンスキー公爵やレーヴィンにいたるまでの人物は、主人公としてちっぽけな自尊心を代表する存在で、「よくない」、「悪い育てられかた」をした者達で、更正することが可能である。<>しかしこれは彼等がちっぽけな自尊心の人物以上の者ではないからである。地下室の悲劇を引き出したのはただ私ひとりだけだ。それは苦悶と自己刑罰と、より良きものを意識しながらもそれに到達不可能という状態にあって、すべてがそうなのなら、おそらく更正してもしかたがないと、その不幸な者たちが明確に確信するにいたる悲劇なのだ! 更正しようとする者を支えてくれるものは何か?報奨か信仰か?報奨を出してくれる者はいないし、信仰の対象もない!そこから踏み出す第一歩は、それはもう淫蕩(разврат)であり、犯罪(殺人)である。秘密(тайна)」(傍線―木下 「創作ノート」 アカデミー版全集第一六巻 p.329

『地下室の手記』の主人公を基点として、絶望の渦中にあって自意識が高揚するのが、後期に至るとスタヴローギンであり、また『おとなしい女』の主人公である。彼等はドストエフスキーによる「地下室の意識」の芸術的表現の極致といえよう。ドストエフスキーの右記の言葉に、キルケゴールの『死にいたる病』のなかの「絶望して自己自身であろうとする絶望―傲慢」の一章に見られる次の記述を対照させるならば、スタヴローギン・タイプの地下室人の意識の実体がより明確にイメージされるように思われる。

この傲慢の絶望のなかで、ふたたび意識の上昇がはじまる。それは自己についての意識の上昇であり。絶望の何たるかについての意識の上昇であり、さらに自己自身の絶望についての意識の上昇である(『死にいたる病』松浪信三郎訳 小石川書房 一九四八 一一三頁)

絶望している自己が行動的である場合には、自己は実のところつねに実験的にのみ自己自身に関係する。たとい自己がどんなに大きなこと驚くべきことを企てていようとも、またいかに根気よく行動していようとも、それは実験的なのである。自己は自己以上のいかなる力をも知らない。それゆえに、自己には根本的な真剣さが欠けている。自己はただ自己自身を相手とするこの実験にじぶんから最深の注意を向けることによって、真剣なように見せかけることができるだけである。自分ではいくら真剣なつもりでも、それはただ見せかけの真剣にすぎず、したがって実は何ら真剣なのではない。本当の真剣は、ただ神が人間を見ているという考えのうちにのみ存する(同上、一一五―一一六頁)

 キルケゴールのこの記述のリアリティを感じとるには、スタヴローギンの告白を聴いた後の、チーホン僧正のコメントをじっくりと読む必要があろう。重要な指摘がいくつもあるが、その一つをあげてみる。

あなたの叙述にはところによって、強い表現が使われています。自分の心理にうっとりとして、一つ一つの細部にこだわっておられる。もっぱら読者を無感覚ぶりで驚かそうとの様子が見えますが、そんな無感覚をあなたはお持ちじゃないのです。どうですか、これは罪ある者の裁き手に対する傲慢な挑戦ではないでしょうか?(科学アカデミー版三〇巻全集第一一巻P.24

 ドストエフスキーの作家像を求めるならば、本来、こうした「地下室の意識」の傲慢の虚栄性を見破るチーホンの眼、『地下室の手記』の主人公の「不幸な意識」を見破るリーザの眼にこそ着目すべきであろう。そうでなければ、ドストエフスキーが「自分ひとりが地下室の悲劇を引きだした」と自慢する理由は理解できないはずだ。    ツルゲーネフやトルストイなど地主貴族出身の一九世紀客観的リアリズム型の同時代人作家が描いた、いわゆる「余計者」のタイプ(沈滞した貴族社会の習俗からのはみ出し意識を抱えた人物で、ドストエフスキーにいわせると、「更正」可能なタイプ)とは異質な、救いようのない悲劇的な社会的タイプを描き出した小説家を当時の文学界も正当に評価できなかったのである。そこでドストエフスキーは次のような声を発している。

「地下室だ、地下室だ、地下室(・・・)()詩人(・・)()―時評家たちはそれが私にとって何か屈辱的なもののように繰り返している。馬鹿者たちだ。それは私の名誉なのだ。なぜならそこには真実があるからだ」、「地下室の原因―それは普遍的な諸原則への信仰の消滅。<神聖(・・)なる(・・)もの(・・)()(・・)()ない(・・)>」(「創作ノート」科学アカデミー版全集第一六巻一九七四p.330

地下室人はロシア的世界では主要人物である。この種の人物について、どの作家よりも多く語ったのは私である。もっとも他の作家も語るには語った。なぜならば気づかずにはおれなかったからである。(文学遺産第八三巻『未完のドストエフスキー』  一九七一p.314

ドストエフスキーを「体感による汎神論者」と見たり、スタヴローギンを含む地下室人を「サド・マゾ」の理論で解釈してこと足りるとする通俗論者には、作家が自負するこの洞察の深さを理解することは出来ない。キルケゴールとの対比を脚蹴りにする中村健之介のような論者には地下室の意識の意味は見えてこない(中村いわく、「ドストエフスキーはしばしばキルケゴールと並べて論じられるが、かれは、キルケゴールのように生の意味を分析していわばいじくりまわすように問う傾向はなかった。ドストエフスキーの選択は常に「生きているのはよい」であった」(『知られざるドストエフスキー』岩波書店 一九九三、一七頁)

またスタヴローギンの告白(「チーホンの庵室にて」)の雑誌掲載問題をめぐって、「ロシア報知」の編集者リュビーモフ宛の手紙(一八七二年三月)に作家が次のように訴えていることの重要な意味も、通俗論者の目にはとまらないのだ。

前にお送りした原稿(「チーホンの庵室にて」)はもう掲載してもいいと思います。ひどく猥雑なところは、すっかり削除しましたし、短くしました。<>私は事の本質を放棄することができなかったのです。それはまったく一つのタイプです。わがロシアのタイプです。遊惰な人間ですが、遊惰を欲したためではなく、すべての肉親的なものとの連繋を失ったからです。何よりも重要なのは、信仰を失ったからです。憂愁(・・)()ため(・・)()放縦に陥ったのですが、良心は持っていて、再び更正し、信仰を獲得したいと、受難者ともいうべき痙攣的な努力をしている人間です。二ヒリストと並んで、これは重要な現象です。これは現実に存在します。これはわれわれ信ずるものの信仰を信じないで、全然べつの完全な信仰を要求している人間です…(傍線―木下)(科学アカデミー版三〇巻全集第二九巻―一、一九八六、p.232

 ところがあろうことか、亀山郁夫は最近著の『謎とき『悪霊』』で、この編集者宛の手紙中の「ひどく猥雑なところは、すっかり削除しましたし、短くしました」の記述に跳びついいて、これまで誰ものべたことのない珍説を展開するのである。すなわち、この記述を裏付けるものとして、「あまりにも猥雑な」出来事を記した異稿が別に存在していたのではないかというのだ。その個所とは、スタヴローギンがマトリョーシャを弄び、少女が感覚的に逆らえずに反応する場面で、「その場に留まった」と次の「いっさいが終わったとき」の段落間の空白の部分がそれらしいというのだ。

 このような読み方をする者にはスタヴローギンの意識の本質的な部分は見えてこない。その如実な証拠と思われるのが、亀山訳の「告白」(『悪霊』第二巻)に見られる重大な誤訳であろう。主人公がマトリョーシャとの一件を旅先で回想する個所。

私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど厭わしいものではないのかもしれない、もしかしたら、その思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。いや―たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、

亀山が少女の「しぐさ」と誤訳している単語は поступок(パストゥーポク) (行為)で、これはスタヴローギンが「絶望のうちに意識が高揚する」地下室的な意識から抜け切らず、自分自身の行為のシニシズムを正当化しているせりふにほかならず、自分の「行為」を振り返って弁明しているのである。念のためロシア人の研究者にも意見を求めたが、それ以外には読めないということだった。なお、最後の傍線の個所(「いや―たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ」)は、誤訳を上塗りするために余分に付け加えられた捏造行で、原文にはそれはなく、「いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、」と続く。

私はこのことを二〇一一年四月三〇日付けで、私のサイト「管理人T.Kinoshitaのページで、「『悪霊』「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳」と題して指摘した。ところがこの後に出た『悪霊 別巻―スタヴローギンの告白異稿』では、第二巻を買わされ、読まされた読者へは何の釈明もなく、「しぐさ」は「行為」にこっそり訳し変えられ、捏造行の「しぐさ」は「姿」に変更されているではないか。これは第二巻を買わされた読者への重大な背信行為ではないのか。この無定見ぶりからうかがわれるのは、訳者は自分の犯した誤訳の重大な意味すら自覚していないのではないかということである。

スタヴローギン像のイメージに関わる主人公とマトリョーシャとの一件はロシア語で「スタヴローギンの罪」(スタヴローギンスキー・グレフ «ставрогинский грех»)という表現で通用しているが、この場面をめぐっては、ロシア人研究者の間には定説があり、私も見解を同じくする。それは『悪霊』掲載の雑誌「ロシア報知」の発行者カトコフが「スタヴローギンの告白」の章の掲載を差止めた動機をめぐるもので、一〇年前の一八六一年、ドストエフスキー兄弟の雑誌「ヴレーミャ」とカトコフの「ロシア報知」との間で起きた、プーシキンの「エジプトの夜」の評価をめぐる論争が影響しているとする説である。一八六一年当時、地方都市ペルミの社交界の一婦人が、プーシキンの「エジプトの夜」の場面―クレオパトラが夜の歓楽の相手を選ぶ場面を公衆の面前で朗読したという事件に端を発したジャーナリズムの議論はこのプーシキンの作品の芸術性、猥褻性をめぐっての、カトコフの雑誌「ロシア報知」との論争に発展していった。ドストエフスキーは「「ロシア報知」への答え」という記事でこう書いた

 

<いま私達がはっきり確信するにいたったのは、この「きわどい表現」という言葉によって、あなたたちは何かマルキ・ド・サド的なもの、好色的なものを意味しているということだ。それは違う、まったく違う。それはご自身から物ごとに対する本当の、純粋な見方を失うことを意味すする。あなた方が頻繁に口にするあのきわどい(・・・・)表現(・・)なるものは、あなたがたにいわせれば、実際に誘惑的なものかもしれないが、わたしたちにいわせれば、恐るべき程度にまで至った人間の本性の歪みにすぎない。そしてそれは決して好色などころか、強烈な印象を読者にあたえるような独自(・・)()視点(・・・)から(・・)(その視点こそが肝心である)示されているのだ>(「ロシア報知」への答え 一八六一「ヴレーミャ」誌五月号)(科学アカデミー版三〇巻全集第一九巻 p.135

<彼女(クレオパトラ)は当時の社会の代表者で、その社会の基礎はとっくに揺らいでいるのだ。あらゆる信仰は失われ、希望は無益な欺瞞としか思われない。思想は色あせ姿を消していく。神の火は消えた。社会は道からはずれ、冷たい絶望の中で、自己の前に深淵を予感し、その中に崩れ落ちるのを覚悟している。生は目的を失ってあえいでいる。将来には何一つない。すべてを現在に求めなければならない。差し迫った目先ことだけで生を充たさなければならない。すべては肉体に移り、だれもが肉体的淫蕩に跳び込んでいく。欠けている高度の精神的印象を充たすために、自分の神経、自分の肉体を、感受性を刺激しうるいっさいの方法によって興奮させる。この上なく奇怪な変態性、この上なくアブノーマルな現象が段々に常態となっていく。自己保存の感情さえ消えていくのだ。クレオパトラはこの社会の代表者である>(同上 p.135-136

ここでのべられたクレオパトラの像は、まさしくスタヴローギン像のイメージと重なり合うものだろう。生に退屈しきったクレオパトラは「マルキ・ド・サドでさえ赤ん坊に見える」残酷な淫蕩、「自分の犠牲を見て楽しむ、陰惨で病的な」淫蕩に跳び込むのだが、その魂には「多くの力強い、毒々しいアイロニーがある。このアイロニーが今や、彼女の内でうごめき始めたのである」と、ドストエフスキーは書いている。この作者の記述は、『悪霊』第五章でワルワーラ夫人がステパン氏相手に、息子を苦しめてきたのは「憂鬱で『突発的なアイロニーの悪魔(デーモン)』」だったといい、この「アイロニーの悪魔(デーモン)」というのはステパン氏の言葉だと指摘していることとも無関係ではない。(第一編第五章「賢しき蛇」)(科学アカデミー版三〇巻全集第一〇巻 p.151)このあたりにクレオパトラとスタヴローギンに架けられた作者の隠された視点が感じとれるはずである。

<告白>のない『悪霊』は、丸屋根のない正教寺院である」というフレーズを亀山はあたかも自分の著述のエピグラフか金科玉条の言葉であるかのように、繰り返し引用しているが、この言葉の主・ユーリー・カリャーキンにいわせると、カトコフによる「告白」掲載拒否の動機は高尚な倫理的理由からではなく、一八六一年の「エジプトの夜」論争で、ドストエフスキーに敗北したことへの「復讐(реванш)」であり、「ドストエフスキーによる『エジプトの夜』評価は、「チーホンのもとで」の章の(意図せざる)見事な自己評価である」(『ドストエフスキーと黙示録』、「猥褻ではなくショッキングな印象」の章)(傍線―木下)[vii]

これまで見たように同時代作家達の人間描写の底の浅さを厳しく批判し、芸術家の自覚と自負をもって「地下室の意識」の人物・スタヴローギン像描いた作家ドストエフスキーに、サド・マゾの個人的な嗜癖を詮索したり、何か自分の過去の罪の影に怯えるかのような「家庭内検閲」といった訳のわからない言葉を使ってその作家の人間像を矮小化することに何の意味があるのだろうか。あるとすれば、ドストエフスキー像の通俗的な解釈で「ふつうの読者」の低俗趣味に迎合して、自分の視点を新奇なもの(実はアナクロニズム)のように装って、商業的に売り込まんとする意図よりほかには考えられない。

ここで最後に、若き新進作家ドストエフスキーが兄ミハイルに宛てた手紙(一八四六年二月一日)で、読者の無教養ぶりを嘆いていることを思い起こすのも無駄ではなかろう。この言葉は本論文で冒頭にあげた二葉亭四迷の洞察(作者は人物の内部にいて人物と同化し、人物の言葉でしゃべっている)とも響き合っているはずである。

わが国の大衆はすべての群集と同様に、直覚を持っているが、教養がない。どうしてあのようなスタイルで書くことができるか理解できない。すべての作品に作者の面を見ることに彼らは慣れている。ところがぼくは自分の面を見せなかった。あれはぼくではなくジェーヴシキンがしゃべっているので、ジェーヴシキンはあれ以外の話し方はできないことに思いもよらない。<> ぼくは「総合」ではなく「分析」でいく。つまり深さに向かって進み、原子を究明しながら全体を発見する。ゴーゴリはいきなり全体を取るから、ぼくほど深みがないのだ。(科学アカデミー版三〇巻全集第二八巻 p.117118

最後にもう一つ、作品の中での作家の位置に関して、現在のロシアのドストエフスキー研究での、定式とも言うべき公約数的な理解を紹介する。これは第一線で活躍する研究者達が参加して、一九七七年に出た『ドストエフスキー・便覧辞典−美学と詩学篇』(G.シチェンコフ編集、チェリャービンスク)(«Достоевский, Эстетика и поэтика, словарь-справочник»  Челябинск, 1997からのもので、「作者」、「作者と主人公」「作者の評価」などの項目があるなかでの「作者の位置」авторский статус») という項目の記述である。(執筆者は昨年、二〇一二年四月に惜しくも急逝した、研究者ナターリヤ・ジヴォルーポワ)

 

ドストエフスキーの小説の芸術的システムにおいては、作者の位置は、つねに作品のトータルな意味を補完する<仮想現実>のごときものとしてあって、多種多様な形で現象する。作者の立場や主題、もしくは語りの解釈を作者の実在の領域として解釈することは正しくない。なぜなら作者の立場はまさしく作品の複数の意味のシステムとして現れるのであり、その際、小説のフォーム(・・・・)の諸関係こそ、作者(・・・)()芸術的能動性の実際の発現なのである。(p.69)

ロシアの連続テレビ映画「ドストエフスキー」の話題、そして、亀山郁夫「『悪霊』別巻」の解説の「主要文献」・V.スヴィンツォフの論文とはいかなるものか。

 

二〇一一年は作家生誕一九〇年の年であったが、記念番組の伝記映画「ドストエフスキー」がテレビチャンネル「ロシア1」で、五月二二日にから七回にわたって放映された。監督:ウラジーミル・ホチネンコ、脚本:エドアルド・ヴォルドフスキーで、ドストエフスキーを演じたのはTV映画『白痴』でもムイシキン公爵を演じ,好評だった有名な俳優ミローノフである。ペロフの有名な肖像画に似せた役造りで、さすがと思わせる名優の演技力ではあったが、なにしろ脚本・演出が伝記の事実を無視した興味本位の恣意的なもので、研究者達からは厳しい批判が浴びせられている。専門家(エキスパート)として名前を出すはずだったペテルブルグの博物館の副館長ボリス・チホミーロフは脚本のあまりの内容にあきれて身を引いた。リュドミーラ・サラースキナによれば、「知られざるドストエフスキーを描く」との監督の前宣伝を真に受けて、新しい資料に基づいた作家像を期待していたが、期待はずれどころか、伝記的事実をむやみに捻じ曲げたひどいものであった。

 これらの事情は、有難いことにインターネット万能のこの時代、Google のロシア語検索で、映画そのものを無料で見ることが出来るし、その映画に対する一般視聴者の反応、研究者の批判も知ることができる。サラースキナが活発に発言していて、その一部を紹介する。

<製作者達は「記念碑的な作家像を超える」と意気込みながら、今日のロシアの視聴者は文学的偶像が容赦なく暴露されることを期待しており、決定的に名誉失墜することを願っていると思いこんで、陳列棚の骸骨を探しまわり、スキャンダル的な私事のデテールをしゃぶり味わっている。ドストエフスキーの言葉に返るならば、「人間は正しい者の転落とその恥辱を好む」というわけだ>

<ドストエフスキーの主人公達の俗悪で、うしろ暗くて、犯罪的なものすべてが、威勢のよい意地悪な手つきでもって、作者の持前のものとされている。気の弱い、不実な人間、借金にまみれた男、「卑劣な嘘つき」(パーシャ・イサーエワのせりふ)、重苦しい「懲役人」の眼差しから離れられない陰鬱な人間、賭博づけの男、不幸な癲癇病み、淫蕩なエロ男―この男が突然やみくもに、洗練された自由主義者ツルゲーネフに重い非難の言葉を投げつけたり、西欧主義者のゲルツェンを陰で痛罵したり、自国の悪霊どもを威嚇的に暴露したり、彼の誘いを拒否する女性に聞き苦しい言葉を吐いたり(「あなたは可愛いばかりの唖者だね」)(アンナ・クリコーフスカヤに対して―注・木下)するかと思うと、道徳と愛国心と神への信仰を宣伝する、こんな姿を誰が信じることができようか?>(「悪徳の狭間の天才」「ロシア新聞」 二〇一一・五・二七号)

 サラースキナは映画をこう厳しく断罪する理由を別の「ドストエフスキーponaroshku(「まがいもの」の意)」―「文学新聞」二〇一一年六月一―七号)と題する記事で、事実の歪曲の例を数多く挙げながら詳しく書いている。その代表的な幾つかの例を注で紹介する。[viii]

 一方、サラースキナの記事をネットにアップしているメディア「テレヴエディニエ」( «ТелевЕдиние»の編集部は次のような前書きをつけている。

予言者的作家についての初めての伝記ドラマシリーズはテレビの視聴者を驚くべき形で分離させ、また同時に結びつけた。ドストエフスキーの生涯と創作の研究に歳月を費やしてきた研究者達は、作家の人生の記録によって確証された事実が、シナリオで、いとも易々とわがテレビ界の魔力的な嗜好に合わせて改ざんされ、蹂躙されるのに震撼させられた。<>その一方、多くの者がこう考えているのも根拠がないわけではないシリーズは素晴らしい、<ペロフの肖像画> 風の暗い教科書的なドストエフスキーの代わりに、われわれは生きた情熱的な、明るい、罪深い、現代に同調するドストエフスキーを私達は見たのだ、と。期待されるのは、シリーズが作家の創作への関心を必ずや喚起するだろうということである。事実、話によれば、書店でのドストエフスキーの著作の若い人達による売れ行きは、ぐんと活気づいているという…次のシリーズも期待されている。ドストエフスキーは傾倒者も反対者も結合させたのである。

これはマスコミ、マスメディアに固有の、いかにもご都合主義的な態度表明で苦笑せざるをえない。スキャンダルであれ何であれ、話題となりコマーシャル的に成功すればすべてが万々歳というわけである。カーニバル的などさくさで、マイナスもプラスも裏腹であるかのようなロジックはこの場合、不謹慎な悪い洒落でしかない。

問題はドストエフスキーという作家、作品に対する本質的な理解の欠如である。二〇世紀になって、V・イワーノフ、ベルジャーエフ、M・バフチン、ヴィノグラードフ、D・リハチョフ、フリードレンデルなど、ロシアのすぐれた思想家、言語学者、文学研究者達によって追究され、またその伝統を受け継ぐ現代ロシアの研究者達によって解明されてきた、ドストエフスキー特有の人間学(人間と世界に対する態度)、そのイデーに裏付けられた作中人物に対する作者の態度、いいかえれば、啓蒙的理性を信奉する一九世紀の客観的リアリズムの作家達との際立った違いを感じさせるその創作の独自性についての認識不足から来ているのではないか。すなわち、作中人物の性格や行動を安直に作者の体験に帰着させる、あるいは作者の体験のストレートな反映を作中人物に見る、いわば自然主義的、素朴実在論的な錯誤が通俗化されたドストエフスキー解釈の根底には共通して存在するのだ。

 

私は亀山郁夫の『悪霊 別巻−スタヴローギンの告白異稿』の解説で、ヴィタリー・スヴィンツォフなる人物の名を初めて知った。彼は一九九九年の文芸誌「新世界」(«Новый мир»)五号に「ドストエフスキーと男女関係」という論文を発表していて、亀山は主要参考文献にこの論文を掲げ、解説に使っている。つまり「近年 のドストエフスキー研究のいちじるしい進化=深化をふまえ、精密で画期的な解説を加えた」という宣伝文句の柱の論文である。[ix]

スヴィンツォフによればドストエフスキーはスタヴローギンによるマトリョーシャ誘惑に関わる「スタヴローギンの罪」( «ставрогинский грех»)に類似した後ろ暗い過去を何時かの時点に持っていて、生涯、告白、懺悔の衝動にかられ、時折、暗示的に、断片的に友人、知人にもらしてということになる。作家の罪意識を伝記上の出来事に帰するための予備作業として、この論者はロシア科学アカデミーロシア文学研究所編で、ドストエフスキーの年譜に関して現在、最も信頼出来るものとされている『ドストエフスキーの生涯と創作年代史』Летопись жизни и творчества Ф.М. Достоевского» в 3 тт.)三巻本の或る記述の信憑性に疑問を投げかける。

それは「一八三〇年代初め」の項にあるエピソードで、ドストエフスキーが晩年の一八七〇年代になってA・P・フィローソヴァという婦人のサロンで語ったとされる伝聞証拠である。すなわち、彼が幼年時代、御者だか料理人だかの娘と遊んでいた時、酔っぱらいの暴漢がその少女を犯し、少女は血を吐いて死んだ、というショッキングな事件で、これを「赦すことの出来ない最も恐ろしい罪悪だ」と作家は考えていたと記述されていて、さらに編集者のコメントには、この少女陵辱のテーマが後にスヴィドリガイロフの悪夢や、『白痴』のナスターシャや『悪霊』のマトリョーシャなどのテーマになったと書かれている。

スヴィンツォフがしきりにこだわるのはこの事件がはたして伝記上の事実であったのかどうかということであるが、この話は記録ではなく、二〇世紀になってフィローソフの姪、ツルベツカヤ公爵夫人による二重の口伝での回想にもとづくもので、確かに信憑性に乏しい点は否めない。もしこのエピソードが事実なら、少年時代に一緒に過ごした兄ミハイルや弟アンドレイの回想、またアンナ夫人の回想にも何らかの形での言及がないわけがない。スヴィンツォフはこのことをくどいくらいに力説してこの事実を否定したあげく、ドストエフスキーの作品に少女性愛のテーマが繰り返し出てくるからには、何らかのやましい罪の意識にさいなまれる事実が作家自身の身の上にあったにちがいないとの仮説を打ち出し、その証拠探しをはじめる。その有力証拠として論者がまずあげるのは、晩年のアンナ夫人の身近にいたドストエフスキーの最初の伝記研究者グロスマンの言葉である(「ドストエフスキーの道」一九二四 からの引用)ドストエフスキーは

好色に倦み飽きた男が子供の身体に引かれるという醜悪なテーマに何か驚くべき執拗さで関心を向けた。

さらに論者が引くのは次のような意味深な言葉である。

ドストエフスキーの病的な意識には自分が何か重い罪を犯したという考えがいつも生きていて、<心理的に重大な罪>(まさしくスタヴローギンの罪を意味する―V.スヴンツォフ)が存在し、ドストエフスキーは苦しい思いをしていた、ということを認めざるをえない。彼は自分の良心に横たわる何かの重い罪過のことをたびたび口にし、自分を犯罪者であるとしばしば感じていた。

次にスヴィンツォフが論拠とするのは、作家の生前すでに広まり、そして死後も再燃した「スタヴローギンの罪は彼にとって伝記上のもの」という噂である。

これらの噂は架空のものにせよ、実際のものにせよドストエフスキーの自己告白(最初はツルゲーネフ、後になると、ヴィスコヴァートフの言葉を引用してのストラーホフによる証言)に基づいており、いろんな時期に、さまざまな反応を引き起こしてきた。この数十年のロシアのドストエフスキー文献では、これらの噂は実際にはそぐわないもので、悪質な中傷とすら見られてきた。中傷者の役割は、(時には曖昧に、時には公然のテクストで)まずツルゲーネフとストラーホフに帰せられてきたのである。

ここでスヴィンツォフはロシアの研究者達の一般的な見解にアンチの姿勢を打ちだしながら、この噂の信憑性をつぎのように強調する。

スタヴローギンの罪に関するドストエフスキーの自己告白についての噂の流布に関与してきたのは実に多数の「尊敬すべき人々」(研究者ヴォルギンの表現で、前記の少年時代のエピソードを知らなかったツルゲーネフ、トルストイその他を指す―木下)であって、(関与という表現で、私は少なくとも信頼可能な噂ということを意味している)ツルゲーネフ、トルストイ、グリゴーロヴィチ、ストラーホフ、時代が下って、シェストフ、フロレンスキー、さらに下って、トゥィニャーノフ、ギンズブルグ・・・その他、さほど有名ではない人々。せめて挙げるならば、ヴィスコヴァートフ教授あるいは、いまや忘れられた作家のヤセンスキー、彼はツルゲーネフもドストエフスキーも知っていて、後者が「色魔」(сластобесие)であるという噂の流布にはドストエフスキー自身の責任があると信じて疑わなかった。

スヴィンツォフはドストエフスキー研究者よりも、これらの文学者達を信頼すると、さらに明確に表明する。

ドストエフスキーの「尊敬に価する」同時代人達は作家の生涯と創作を自分の職業の対象にしている今日の文学研究者達より愚かだろうか?言い換えれば、生来の中傷癖や何か特別の不思慮さを疑うのは困難なこれらの人達の知識と直感よりも、幾人かの ― ローザノフに比べれば確かに「現在的な」、文学研究者達を信じなければならないとは、私にはまったく解せない。

こうした発言から明らかに読みとれるのは、二〇世紀になってロシアの文学研究者達により解明されてきたドストエフスキーの作家像、創作のなかでの作者の位置、作中人物に対する態度、関係といった、トルストイ、ツルゲーネフ型の作家とは違った独自性についての、関心と理解がこの論者にもまったく欠けていることである。スヴィンツォフが日本型のこの種の論者と同じく、素朴実在論的、自然主義的、俗流フロイド主義的な人間観、文学観の持ち主であることは、他の発言の断片からも推測される。

彼によれば、好色というと否定的に受けとられるが、悪い好色家を描いたドストエフスキー自身にも責任がある。エロスはリビドーであって、生命力である。ラキーチンが云うように、好色は愛や美の崇拝とも無縁ではない(特徴的なことにスヴンツォフはラキーチンの言葉を重視する)。ドストエフスキーは好色家の体質を持っていた。しかもそれは少女性愛的な嗜好であり、脚フェチシズムである。(その証拠として、スタヴローギンによるマトリョーシャの、モークロエ村のドミトリー・カラマーゾフよるグルーシェンカの脚へのキス、伝記上はスースロワとの西欧旅行中のエピソード、晩年、エムスからアンナ夫人に宛てた手紙の表現)

この問題に関して、スヴィンツォフはこう論述している。

少女性愛のテーマはより広い好色のテーマに含まれる。好色のテーマは人間の罪性のテーマに重なる。ドストエフスキーの創作において、このテーマは人間学一般の思索の動因であるばかりではなく、芸術的な自省を引き起こす源である。芸術創造一般に見られるように、作家はしばしば自己を覗き込むのである。

ドストエフスキーが自分の多くの主人公たちに自分の性格や伝記的なデテールお付与していることは、とっくに知られている。芸術的虚構を自分の人生経験と結びつける才能はどの作家にも特有のもので、なんら不思議ではない。人物形象への一種の「移入」(心理学者はこれを «емпатия» « empathy» と称する)は芸術的論証の根拠であって、これを欠いては人物の真実らしさも、結果として、作者への読者の信頼もない。ドストエフスキーとても例外ではない。しかし恐らく彼の場合、伝記的・芸術的に並行したモチーフがとりわけ強力である。<・・・>ドストエフスキーは多くの私事にわたる内密のもの、個人的なものを彼が描く好色漢たちの形象に移入した。ドストエフスキーがオポチーニンとの談話でひどく「熱をこめて」話した「男女関係」の話がどのような側面であったのかについては、私たちは知ることができない。しかしながら推測されるのは、回想記者が紙に記すのも憚られるほどの露骨な「無作法なもの」であったであろうということである。もう一度、ラキーチンによる「好色」の定義にもどり、作家の内密な生活のいくつかのデテールと比較するならば、あまりにも明白な類似性に驚かざるをえない。例えば女性の足の件をとってもよい。

好色家ドストエフスキーのイメージを補強するために、スヴィンツォフは回想記者オポチーニンの記録を大いに利用しているが、回想記原文の文脈から見て、意図的な歪曲が見えてくる。ちなみにE.M.オポチーニン(一八五八―一九二八)は作家、歴史家、演劇研究家、蒐集家という肩書の持ち主。ドストエフスキーに関して、「ドストエフスキーとの談話から」«Из бесед с Достоевским»18791881 ペテルブルグ で記録]  と 「F.M.ドストエフスキー(私の思い出とメモ)」(Ф.М. Достоевский – мои воспоминания и заметки) の二つの回想記を残している。

スヴィンツォフは自分の論文のエピグラフ(題銘)に、右記の「談話から」の一節を引いている。

フヨードル・ミハイロヴィチは何かのきっかけで男と女の関係について話をはじめた。男女関係について彼がとりわけ熱心に話すところから、彼がこの話題にひどく興味を持っていることを私は見てとった。

この題銘のフレーズに続く本文の記述はこうである。

全部を完全に記録することはしまい。多分、あまりに露骨過ぎるから・・・ ちなみに彼が話したことは―この問題では(つまり男女の関係では)一方がかならず被害をうけ、かならず卑しめられる。とくに二人が若い場合。若い男がくだらないやくざな女と関係を持って、値打ちを下げ、自分を卑しめる、あるいは反対に、おくての中でも早熟なやくざ者が清純な心を持った信じやすい女を辱める。取り返しのつかないことにもなりかねない。美しい花がひどい汚水まみれにされる。これは最悪の事態だが、あちこちで起きていることだ。男は路上で客を引くあんな安売春婦すらも、たやすく辱めたりする。男にはきまってより多くの変態性があるからだ。

この傍線の個所がその前のスヴンツォフの文の末尾の傍線部に対応するのであるが、ここには対比して読めばわかるように、ドストエフスキーが自伝上の、記録するのも憚られるほどの個人的な秘事を露骨に打ち明けたかのような印象はない。

 オポチーニンのもう一つの回想文「F・M・ドストエフスキー(私の思い出とメモ)」を読むと、『カラマーゾフの兄弟』のイワンが幼児虐待のエピソードのコレクターであったように、ドストエフスキーは貴族社会の紳士達の性的変質の事例に格別の関心を寄せていたと思われるのである。オポチーニンが「露骨で記録するのが憚られる」と思ったのは、ドストエフスキーが話すこうした生々しい事例ではなかったのか。

以下、要約しながらこの回想文を紹介しよう。

F.M.は私を相手に話ししている時に、自分の方から男女関係と結婚の話を始めたことがあった。その行きがかりで、性的倒錯の問題に話が及んだ。この病理学の領域に彼が並々ならない関心を持っていることに気づいた。

「思うに、どんな人間も 実際に現すか、想像に止まるかの違いはあれ、ある程度まで、この種の倒錯にかかっている。ただ誰もそのことを告白しないだけだ」

 ドストエフスキーが語る、教会で出会ったある紳士の例。若くして死んだ並々ならぬ美女の葬儀の場。五〇歳くらいの退職役人とおぼしき質素だが身なりのきちんとした男が私(ドストエフスキー)の目に留まった。その男は死者との告別の際に先ず唇にキスをし、組んだ両手に、多くの人の注目を引くくらい異常に長いキスをした。そのあと棺に一礼をして、群衆の中に姿を消した。死者の両親や近親者たちは、その紳士、“見知らぬ友人”の素性を尋ねあったが、誰にもわからなかった。「友人」であろうとするのが、見解の一致で、感動的な気分さえ生まれ、あれこれ推測が始まった。通夜の時に、豪華な白いバラの花束を届けに来たこの男を見たという近親者がいた。花束には通常、リボンがあって、そこに献呈者の名前が記されているものだが、その花束にはなかった。その謎がかえって感動を深めた。

時がたって忘れかけていた頃、私は再びその男と出会った。墓地で、花で覆われた白い棺を見送る人々の中にその男の姿を見かけた。彼は葬列の最後の群れにいて、悲しみに沈んだ参列者の中で、異常に明るい顔をしていた。微笑んでいるとさえ思えた。彼は墓へは行かず、私の近くで立ち止まって煙草を吸いはじめた。彼は私に話しかけてきた。

「どんなに美しい女だったかご覧になりましたか?」― 歓喜で顔を輝かせながら私に尋ねた。不意を突かれて「誰のことです?」と私はたずねた。「教会には行かなかったのですか?」と紳士。「いや」。「惜しかったですね、まことに惜しかったですね。またとない絶世の美を拝むチャンスを逃されましたな。あれはS嬢ですよ(と私の知らない姓をあげた)」 「その人はあなたの知人か、親戚なのですか?」 「いや親戚でも知人でもありません。今日、教会で葬儀の時に、お目にかかったばかりですよ」

この男は五等官、ドミトリー・イワノヴィチ・Nで、 ドストエフスキーの読者であった。その手口をたずねると、棺桶屋やその助手から金で情報を得る。それだけでは信用できないので、通夜に出かける。時には花束、それも豪華なものを持参して供える。どなた様からと質問されると、見知らぬ人からと答える。こうしておくと、教会の葬儀、告別の時にも怪しまれない。なぜそういうことをするのかという問いに対して―本物の絶世の美、しかも清らかな美というのはこの世の情欲によって汚されていない若い、輝きに満ちたもので、全く稀有の現象である。そのような美が天使となるべくこの世を捨てるのである。<・・・> 美と清純さのみに天国への入り口は開かれるのである。そのことを頭と心で理解し、悲しむことなく、反対に喜んで、天使の仲間に入ろうとする人を最後の口づけで祝福し、見送る人間がいても悪くないのではないか。

肝心なのは「最後の口づけ」で、わたしはそれをいつまでも堪能したいので、美しい清らかな唇から離れるのがつらい・・・しかしあまり目立つようなことになってはいけない。

「葬儀の前に腐敗し始めている死体、血の気のない唇、死臭、こうしたものに何の魅力があるのですか?恐怖ではありませんか?」

「何が恐怖なものですか。それどころか、大きな快楽があるのですよ・・・ 彼女の唇とあわさった自分の唇に感じる冷たい感触・・・ この感触たるや恍惚とさせるもので、離れるのが苦しくつらいくらいですよ。死臭となると、しおれた花が発する匂い以上のものではありません。そのかわり喜び、歓喜たるや、いわくいい難い、強烈な感触です。あなたも一度試して見たらいかがですか」

この話を語ったドストエフスキーはオポチーニンに対して

「あなた、どう思いますか?人類は自分の仲間に何という変質者を生み出しているか、知ってましたか?」

「私(オポチーニン)はかっとなって、そんな変質者は生かしておけない、絶滅すべきだ(уничтожать)、そいつらが空気を汚しているのです、といった」

「ほれ、ほれ!害虫を退治するように、絶滅すべきだとあなたが言いはじめるだろうと思っていた」

「こうした変質者を隔離するとなると、どんな刑務所も監獄も収容力が足りないくらいだ。多くの人が彼らの忌まわしい異常な罪を知っていながら、どこでも許容しているばかりではなく、わが国の上層の社会では、最も高い階層社会でさえも、好まれているくらいだから、どのようにこれに手をつけたらいいものかね。こうした変質者に対処する人がいたら見てみたいものだ、もっとも、彼らの醜悪行為については、誰もが、なかでも当局がもっともよく知っているはずなんだ」

「それではどうしたらよいのですか?こんな悪徳が蔓延するのは放っとけないではありませんか?」

「それを防ぐ手段は一つ。本物の、固い健全な家庭。そのような家庭、強固な原則を持った、真に宗教的な家庭を築きなさい。子供をヨーロッパに連れて行ってはいけない。フランス人風情と付き合わせてはいけない。(腐敗と醜悪行為はヨーロッパ由来だから)。要するに、蝿もゴキブリのつかないおいしいパンを食べたかったら、自分の台所で焼いて清潔を保つことにつきる」

ドミトリー・イワノヴィチ・Nにはその後、出会わなかったが、同僚だったという人物からの話。

「彼は最高に善良で、物腰が柔らかくて、きちんとした、非の打ち所の無い人物だった」「年老いた独身者で、女性とは付き合いがなかった」

この回想記を読むとおのずと連想される場面がある。 それは『カラマーゾフの兄弟』でイワンがアリョーシャに児童虐待の事例を話して聴かせた時、犬をけしかけて少年を噛み殺させてしまった将軍について、「銃殺すべきだ」とのアリョーシャの怒りの言葉を誘い出した場面である。オポチーニンはドストエフスキーに想像を絶する変質者の事例を聞かされて、思わず「絶滅すべきだ」との怒りの言葉を誘発されたのであった。またそうした変質者が生まれる社会的背景について、晩年のドストエフスキーの十八番のテーマともいうべき「偶然の家庭」のテーマさえ顔を出しているのである。ここにこそおなじみの作家ドストエフスキーの像が浮かび上がる。

これにくらべて、スヴィンツォフがオポチーニンの回想記の断片を引用して描こうとするドストエフスキーのイメージは回想記全文のあたえる印象とはかなり異なり、矮小化され、歪曲されたものである。さらにこれを前提に、もう一つの回想記を利用しての歪曲は作家に対する中傷であり、読者をペテンにかけるものといってよい。もう一つの回想記というのは、一八七〇年代はじめ、ドストエフスキーが編集者として「作家の日記」の掲載をはじめた「グラジダニン」誌の若い女性校正者V・チモフェーエワ(O・ポチンコーフスカヤ)の「有名作家との作業の一年」Год работы с знаменитым писателем) である。彼女には仕事柄、ドストエフスキーと二人きり、差し向かいで仕事するする機会が多かった。はじめドストエフスキーの愛読者というわけではなく、ただ有名作家として畏敬の念をもって接していた。

スヴィンツォフはオポチーニンの回想を利用して、ドストエフスキーが露骨な好色話を好んだというイメージを作り上げ、前出のグロスマンの言葉から、伝記上過去に<心理的に重大な罪>を背負い、罪責感に苦しんでいたというシナリオを描いたうえで、チモフェーエヴァの回想に目をつける。

グロスマンの話に驚くほど呼応するもう一つの証言がある。それはドストエフスキーが七〇年代はじめに編集をやっていた「グラジュダニン」誌の校正者V・チモフェーエワの回想である。彼らの関係は最初は単純ではなく、辛辣なものであったが、時間が経つと友好的になり、チモフェーエワの側からすれば恐らく何かそれ以上のもの(この関係の進行のいきさつを、L.I.サラースキナは、回想記者としての立場から彼女を評価しながら、「きわめて女性的ないきさつ」と称している)となった。校正室でのお茶を飲みながらの夜な夜なの会話、露骨な話題にも傾いたのではないか。恐らく、 何か特別のことが口にされ、同時に言いよどまされたのではないか―のちに彼女が次のように書くことになる何かがである−「迫害者と受難者がときには不思議に一体化してしまう不安でごまかしようのない宗教的良心の悲劇について」 「この悲劇の秘密をドストエフスキーは自分とともに、永遠に持ち去ってしまった」

私は亀山郁夫の『悪霊別巻』で、スヴィンツォフの挙げる「決定的ともいうべき状況証拠」の一つとして、「死刑執行人と受難者がひそかにしばしばいったいとなる、不安で清廉潔白な宗教的良心の悲劇」 「この悲劇を、ドストエフスキーはみずからとともに永久に持ち去ったのだ」(亀山訳)というチモフェーエワの言葉を読んだ時、これがどのような文脈でのべられているのか疑問をいだいた。そしてロシア語原文に当たって読んだ。結果、私の印象はまるっきり違った。この論者も日本型のこの種の素朴実在論的、自然主義的、俗流フロイド主義的な論者と同じように、「地下室の意識」を描いたドストエフスキーの人間観の深さを理解出来ないところからくる浅薄な解釈を、通俗的な読者の好奇心につけこんで振りまいている印象がつよい。チモフェーエワの「決定的ともいうべき状況証拠」(亀山)の記述に至る文脈が正しく理解出来るように、私は回想記の最終部の部分を、筋が外れない範囲で抄訳して読者に提供する。

これを読んでわかるのは、ドストエフスキーが同時代の主流の読書界では「地下室の詩人」、「ユロージヴイ」、「はずれ者」などと蔑まれ、死後も「偽信者」、「偽理想主義者」などと誹謗されていた時代の空気であり、その中で、校正者として身近に作家と接し、人柄に触れるようになってはじめて、『地下室の手記』を読み、『おとなしい女』を読んだ回想記者が、作家の人間洞察の深さ、その精神世界を感得し、尊敬の念を深めると同時に、世を去った作家ドストエフスキーの人間像を敬虔な思いで記録にとどめようとしたことである。ここにはスヴィンッオフがほのめかしているような下世話な話が入りこむ余地はない。 

(В.В. Тимофеева(О.Починковская)

「有名作家との作業の一年」Год работы с знаменитым писателем») [x]

<ある時、知人の家で「あらゆる芸術の繊細な鑑定人」の一人として知られているM・A・カヴォスに会った時、私はドストエフスキーがプーシキンの詩をどんなにすばらしく(・・・・・・)朗読するかを話した。しかしカヴォスは渋い顔をしていった。

「あれは罪人だよ、プーシキンを上手に朗読するなんて、ぼくは信じないな。まあ自分の『地下室の手記』だったら上手に読むかもしれないさ。ぼくは彼の医務室のミューズの愛好者ではないが、その朗読だったら聴いてみたい」

「私はその『手記』 を読んでいません」―と自分の無知を白状した。

「いやもう、この上ないくらいぞっとする闇、病室の悪臭さ。しかし迫力はある!思うに、最も力強い作品だ。読んでごらん」 と 「美的なもの」のパトロンであり愛好者はいった。

そして私はその時はじめて自己鞭打、自己懲罰のこの地獄と拷問の書を読んだ。―その印象といったら、私にはとくに重苦しいものだった。というのは、最初のうち、作者の人物と『手記』の主人公を自分の意識のなかで、どうにも切り分けることができなかったからである。―それで「予言者」ドストエフスキーへの畏敬の気持ちが芸術家・心理学者への感嘆の念になったり、人物形象の醜怪さへの嫌悪となったり、この醜怪さは私たちの誰にも―私にも、ドストエフスキー自身にも眠っているとの意識から怖くなったりした ・・・・

夜中眠れなかったと記憶している。その朝、印刷所でドストエフスキーと会った時、おさえきれなくて、はじめて自分から彼の作品について話はじめた。

「ゆうべ徹夜してあなたの『地下室の手記』を読みました。 その印象から離れることが出来ないでいます・・・・人間の心って、何という恐ろしいものでしょう!でもまた何というおそろしい真実でしょう!」

フョードル・ミハイロヴィチはすっきりとした明るい笑いを浮かべていった。

「当時クラーエフスキイ(「アポロン・マイコフ」の間違いー編集注)がこれは私のまぎれもない傑作(chef doeuvre)だ。いつもこの類のものを書くようにといってくれた。でも私はそれには同意しないよ。あまりにも暗すぎる。これはもはや乗り越えられた物の見方だ(Es ist schon ein uberwundener Standpunkt) 私はいまはもっと明るい、調和的なものを書くことが出来る(・・・)。いま或る作品(「未成年」―編集注) を書いている・・・」>

<ドストエフスキーと最後に会ったのは一八八一年早々、神現祭の前夜であったと思う。その時私はゴッペの印刷所で働いていた>

<この場所一帯、センナヤ広場、メシチャンスキー通り、バリシャヤ・サドーヴァヤはドストエフスキーの暗い小説の中の最も暗い場面をいつも思い起こさせた。祭日の暇な時間に私は『おとなしい女』を読んだ。ドストエフスキーが、自身では「最高にリアルなもの」と見なしながら、「ファンタスチック」と称した短編である。― それで、いまこの『おとなしい女』とドストエフスキーのことが、何かとりわけ頭に浮かんでいた・・・すると突然、数歩先に、みすぼらしい群集の群れに混じって、見慣れた人物の影、背丈の短い毛皮外套を着た肩幅の広い、弱々しい感じの姿が目についた>  

<私は彼に近づいて、もう一度彼の声を聞き、いま私がどんなに深く彼を理解しているか、私に彼がどんなに多くの親切をしてくれたかを告げたかった。私は自分を、精神的世界、精神的自由に関して彼に恩恵を受けている教え子だと感じていた!・・・ しかし内気と自尊心に私は縛られているかのようだった。私は一言も口をきかずに、彼の傍を通り過ぎた。

この出会いから三週間後に、校正(・・)原稿(・・) でドストエフスキーの死を知った>

<あれから多くの年月が過ぎた。あれから多くの変化があった。観念だけではなく言葉も変わった。誰もドストエフスキーを”ユロージヴイ“とか ”はずれ者“とか呼ばなくなった。しかしいまではドストエフスキーは見せかけの信心、偽善的な理想主義というので非難され、自分では信じてもいないことを説教していたとか、彼の人生の悲劇はキリスト教道徳という制服(・・)()着て(・・)人々の前に否応なしに現れなければならなかったことだとか・・・ ニーチェと同じく一人よがりで自分が欺いた凡人たちを容赦なく嘲笑した、といった非難を浴びせかけられている。

このような非難を聞くにつけ、ズナメンスカヤ教会でドストエフスキーをたびたび見かけたという司祭の未亡人の老女の話を思い出す。

「あの方は早朝の祈祷、あるいは早朝のミサにこの教会へいらっしゃいました。誰よりも早くこられ、一番最後に退出されるのが普通でした。人目につかぬように、右の列のはずれの扉の傍の片隅にいつもおられました。いつも跪いて、涙を浮かべて祈っておられました。礼拝式の間ずっと跪いていて、立たれることはありませんでした。この人がフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーであることを、私たちはみんな知っていましたが、ただ知らない振りをし、気がつかない振りをしていました。人目につくことを嫌がっておられ、すぐにそっぽを向いて、行ってしまわれるのでした」

私が思うに、彼の本当の悲劇というのは、こういう所にあったのではないか。すなわちこの地上で考えられる限りの最高の悲劇―それは迫害者と受難者が時として不可思議に一体化してしまう不安でごまかしようのない良心の悲劇である・・・ しかしこの悲劇の秘密を福音書の真理の誠実かつ熱烈な擁護者、その真理の驚くべき芸術家―フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは自分とともに永遠に持ち去ってしまったのである。良心の神聖な自由を認める人々にはその秘密の謎を解く権利さえもない>

 

もうひとつ、見逃せないのは、亀山郁夫の解説でもう一つの「決定的ともいうべき状況証拠」として紹介されているスヴィンツォフの指摘の疑わしさである。論者はこうのべている。

ドストエフスキーの伝記的テクストの中に、グロスマンとチモフェーエヴァの証言を明らかに連想させる一つの記述がある。一八四九年一二月のセミヨーノフスキイ練兵場の死刑執行の場面である。ドストエフスキーは「ある種の自分の重い事件(人間誰にでも生涯にわたって良心に秘密に圧し掛かっている出来事)を悔いた」。このように、またもや秘密(・・)()であり、今度も生涯(・・)()わたり(・・・)良心(・・)()圧し掛かって(・・・・・・・)いる(・・)重い(・・)事件(・・)である。 これらの言葉は儀礼的な言い回しでの一般的意味と見なすにはあまりに真剣味のある、あまりに意味深いものがある。

ここで「伝記的テクスト」といわれているのは一八七三年の「作家の日記」掲載の「現代的欺瞞の一つ」という論文中の叙述であるが、原文では主語はドストエフスキー個人の「私」ではなく、複数の「私達」である。

この瞬間、私達のうちのある者達は(私ははっきり知っている)、本能的に自己に沈潜し、あまりにもまだ若すぎる半生を瞬時に見極めながら、自分のある種の重い行為(誰にも生涯、良心に秘密に横たわる類のもの)を悔悟したかもしれない。(科学アカデミー版三〇巻全集第二一巻p.133

これを読んで、まず疑われるのは、一九四九年、二十八歳のドストエフスキーにすでに「スタヴローギンの罪」の罪過が伝記上あったのか、ということである。我田引水したいスヴィンツォフにすれば、青春時代についての回想に、その後の半生の自分個人の深刻な悔悟を潜ませた記述だといいたいのであろうが、これは相当に無理な裏読みはではなかろうか。 まともにドストエフスキー作家像にアプローチする立場からすれは、読者の権限を逸脱しているというほかはない。この叙述は晩年に近い作家が青春期の生死を分ける事件を回想して、人間についての宗教的認識をにじませて、一般論として語ったと理解すべきであろう。

スヴィンツォフという論者はこのようにドストエフスキーの伝記上な過去に「スタヴローギンの罪」の形跡を探しまわり、作家がつねに告白、懺悔の衝動にかられていたというイメージを作りあげながら、フリースタイルで書かれたやや冗漫なこの論文の中で、挿入という形で、自己告白さえして見せている。この論者がどのような人物であるかを知る材料として、本論の最後に紹介する。

自分を善良で、品行方正で、高潔な人間と見なすのは気持ちが良いというだけではなく、当然とも思われる。まさにそのような人間として自分を意識する満足を私はあたえられてきた。過去を振り返って、私は中程度のまあまあの生活を送ってきた、と認めなければならない。ある面からいうと、恥ずべきこともある。社会学者として、また大学の教師として、私はかなり長い間、嘘をついてきた。最初は無知からだったが、その後は惰性と怠惰のためであった。党の集会で,それらの虚偽の集会で、もはや信じてもいないことに手を出し、かならずしも善良ではなく、しばしば身近な人々に対してただ意地悪で、理由も無くいらだっていた。別の面からいえば、ごく些細な喧嘩を除けば、誰かを殴るとか、計算をごまかすとか、人を卑しめるといったことはもちろん、それ以上のことをしたことはない。

スヴィンツォフのこの自己告白を読んで、私は『白痴』のナスターシャの名の日の一場面、プチジョーを思い出した。ちなみに、彼の論文に付されている経歴はこうである。

スヴィンツォフ・ヴィターリ・イワノヴィチ(Свинцов Виталий Иванович ) - 哲学者、文学者、1928年プスコフ生まれ。1999年没。1951年モスクワ大学哲学部卒。文学博士、哲学修士。著書:「論理学講義」(1971)、「テキスト編集の論理的基礎」(1972)、「テクストの意味分析と処理」(1979)、「論理学」(19871995)等。モスクワ印刷大学哲学講座教授。「哲学の諸問題」、「文学の諸問題」、「新世界」、「ズナーミャ」、「ソシウム」。「新時代」等に論文発表。

スヴィンツォフという論者のこの自己告白から感じとれる楽天的な自己肯定の気分からして、見てとれることは、彼がドストエフスキーの描く「地下室の意識」には縁遠い人物であって、チモフェーエワの回想の肝心なポイントをまったく理解出来ないのも無理からぬと思われることである。不幸なことに、この論者が自覚できていない重大な罪を指摘するならば、研究者としてテキスト論を専門としながら、これまで私達が詳しく見てきたように、二人の回想記者の証言や作家の伝記上のテクストを、自分の思いこみに合わせて、都合よく歪曲し、解釈していて、学問的良心が疑われることであろう。

プロとして専門外の市民から見識を信頼される立場にある人物が、素人の通俗的な読者の好奇心につけこんで、それを煽る方向にドストエフスキー作家像の解釈、のみならず翻訳さえも展開する、これが日本、ロシアを問わず、今日、マスメディアとそれに癒着した商業出版を通じておこなわれていることである。この現象が目に余るようになったのは、この二十年ぐらいの間のことで、ロシアでテレビドラマ「ドストエフスキー」のシナリオのような、純粋なドストエフスキー研究者の目に余る作品が市民権を得ているのも、スヴィンツォフのような通俗論者の説が大衆の間では受け入れられていて、視聴率のアップをねらう商業目的と結びつき易いからであろう。二一世紀に入って日本に出現した亀山現象は、古典を利用して売り上げを図ろうとする商業出版社の総合戦略によるもので、皮肉な言い方をすれば、訳者すら傀儡として利用されている可能性がつよいのである。

最後に二〇一二年三月に他界した吉本隆明が、おそらく最後の著書と思われるインタヴュースタイルの著書『第二の敗戦期』(春秋社、二〇一二年一〇月)で、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』について評している言葉に注意を向けよう。現在の日本の出版情況では、おそらく一般読者の目にあまり触れる機会も少ないのではないかと懸念されるゆえ、当該する個所の全文を紹介して、本論の結びとしたい。なおこの評言の存在については、かって毎日新聞文芸部の腕利きの記者であり、埴谷雄高氏とも親交が深く、ドストエーフスキイの会例会でも報告されたことのある脇地 炯氏から、二〇一三年の年賀状で教えられたのである。

 

誇張かどうか知りませんが、最近、光文社文庫の新訳『カラマーゾフの兄弟』が五巻の累計で九〇万部近く売れているそうです。真相はどうか知りませんが、あれがそんなに売れる本かなと思ってしまいます。長い時間をかければ、もちろんそれくらい売れているのかもしれないですが、新訳がいきなりそれだけ売れるのは、どこかに売れる秘密があるはずだと思ってしまいます。

ぼくも二〇年以上前に米川正夫さんの訳で読んだことがあるというだけで最後は覚えていないから、今度の売れた新訳の版をとりあえず読んでみることにしました。

読んでみて、なんで売れたかがよくわかりました。つまり、丁寧に作っています。訳も解説も時間をかけて丁寧にいい作り方をしている。

しかし、ぼくらみたいに、「このことをいうためにはどうしたらよいか」「どういう文体でそれを伝えればよいか」ということに苦心して、悩んできているものからいわせると、「この訳者の人はなんにも『カラマーゾフの兄弟』が読めていないじゃないか」と、思うわけです。

悪口になりますが、ドストエフスキーがなぜこの作品を描いたか、この作品でなにをしようとしたのかもぜんぜん読めていない。それは解説を見るとよくわかります。

ようするにおもしろおかしくやっているだけだといえます。トルストイは宗教家だったので、彼などが絶句して、目を向けなかったロシアの現実社会の暗黒部、底辺に蠢いているものをドストエフスキーの小説では、よく捉えていますから、確かにおもしろおかしいし、波瀾万丈といえば波瀾万丈です。

しかし、そういうものだけで読まされてしまうのは、どうかなと思います。

読む人はどう読もうがかまわないし、読者の自由ですから、訳すのも解説者の勝手だといえばそうなります。ロシア語を知っていればいいわけですから。しかし、少しくらいは、ドストエフスキーがどういう人で、ロシア社会や宗教的背景に対してどう動いていたかをしっかりと考えたらいいんじゃないかと思いましたが、そういうことは全然ないわけです。

おもしろおかしい筋だけを捉えている。たしかに日本には推理小説を除いて、そんなにおもしろおかしい小説がないから、読まれるというのはわかります。言葉はモダンでやさしい用語をつかって読みやすく書いてありますから、当然なわけです。

もう一つ気になるのは「定年間際の人などが、その後の生活が不安なあまり、この本に熱中して読んでいる、それが主な読者だ」というように書評などでは書かれていています。この本を読むことで、情況に共感したり,心理的にもいろいろ感じて読んでいるのではないかと、出版社側もそれを喧伝しているわけですが、そうやって自分たちの感じている不安を煽っているようでなりません(六〇‐六二頁)。

 

 

 



[i] 二〇一年一一月二三日(金)の第二一二回例会報告「投機的マスメディアと商業出版における作家像ドストエフスキーの問題‐ロシアの場合、日本の場合」のレジメ

[ii] 翻訳テクストについては注5参照

[iii] 萩原朔太郎に対する影響については、拙著『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社、一九九九)第五章「萩原朔太郎のドストエフスキー体験」参照

[iv] 椎名麟三『私のドストエフスキー体験』教文館、一九六七

 芦川進一『『罪と罰』における復活―ドストエフスキーと聖書』

[v] 『場』ドストエーフスキイの会の記録T 一九七八 一四二頁

[vi] 亀山訳『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)の誤訳問題については、私達はこれまで繰り返し問題にしてきた。インターネット検索サイト<管理人T.Kinoshitaのページ>を参照

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm

[vii]Ю.Карякин «Достоевский и апокалипсис», глава 3. < Храм без купола>   http://lib.rus.ec/b/175270/read#t76

[viii] ○セミョーノフ広場の場面の歪曲:ドストエフスキーは第一列で目隠しを被せられる(事実は二列目で六人目)。

○公共の会場での公開朗読の場で、ドストエフスキーはワルコフスキー公爵のモノローグを朗読=「私は社会上の地位や、官等やホテルやカルタの大きな賭けなどが好きなんです。<>しかし一番おもなのは、なによりおもなのは女です…あらゆる種類の女です。私は暗黒な中の秘密の淫蕩が好きで、少しでも風変わりな奇妙なやつがいいんです。少しくらい薄汚いようなのでも、これまた趣が変わって、けっこうなくらいです…」(米川訳)遅れてやってきたマーシャはこの朗読を耳にすると、電流に打たれたように嫌悪感に表情を歪めて、怒った様子で会場を立ち去る。一方、会場のスースロワは「貪欲に鼻をふくらませ、瞳孔を細め、あたかも跳びかからんばかりの表情をする」(サラースキナ)事実は、ドストエフスキーはこのモノローグを朗読したことはない。朗読したのは、『ネートチカ・ネズワーノワ』、『貧しき人々』(1860年代初め、パッサージュで)、『死の家の記録』の一節。

○一八六三年、スースロワとの旅行中、ドストエフスキーは旅具にひそかにナイフをしのばせていた。旅先のホテルで愛撫を拒否されたドストエフスキーがそれでも目的をとげようとあせる場面で、ポケットにしのばせていたナイフが床にぽろりと落ちる場面。スースロワの日記に照らしてもありえない。

○ヤノーフスキイがマリヤを診療した事実はない。診療したのはドストエフスキーの妹ヴェーラの夫のA.イワーノフ医師。

○バーデン・バーデンで、ドストエフスキーがアンナと散歩している途中に出会ったツルゲーネフが、若い妻がいるところで、ドストエフスキーに若い頃、犯罪的な少女性愛の過去があったことを非難する場面。こんな事実はなく、彼等が議論したのはロシアとヨーロッパの運命についてであった、等々。 

[ix] V・スヴィンツォフの論文およびE・オポチーニンの回想記はインターネット検索で、テクストを得た。

В.Свинцов:«Достоевский и между полами»

http://magazines.russ.ru/novyi_mi/1999/5/svincov.html

Е.Опочинин: «Мои воспоминания и заметки»

http://dugward.ru/library/dostoevskiy/opochinin_dostoev.html

Е.Опочинин: «Из бесед с Достоевским»

http://chulan.narod.ru/hudlit/dost/opochinin.htm

引用頁はプリント形式によって確定できないため、省略。

[x] この回想記(左掲書)の翻訳テクストは、前半‐一九六四年版(p.175-176)、後半‐<ドストエフスキーと最後に会ったのは一八八一年早々、神現祭の前・・・>以降は一九九〇年版(p.194-196)による。

«Ф.М.Достоевский в воспоминаниях современников в 2 томах» Т.2

ХудЛит. М.