ドストエフスキーの会と「国際ドストエフスキー協会」(IDS)との関係の歴史を振り返る

  初出・「ドストエーフスキイの会」会誌「広場」19号(2010年)掲載「報告・第一四回ドストエフスキー・シンポジュウム(201061319、イタリア・ナポリ)」

 

この欄では従来、学会報告として、「国際ドストエフスキー協会」(IDS)やロシアの最近の学会の様子などが紹介されてきましたが、今回は今年六月一三日〜一九日に、イタリアのナポリで開催される「国際ドストエフスキー協会」(IDS)主催の第一四回国際ドストエフスキー・シンポジュウムにちなんで、この学会の成り立ち、そして、私達の「ドストエ−フスキイの会」との関係の歴史を振り返ってみることにしました。

三年毎に開かれるこの学会は、ドストエフスキー生誕百五十周年にあたる一九七一年九月に、作家が晩年、療養に訪れていたゆかりの温泉地、ドイツのバッド・エムスで発足しました。母体は「北米ドストエフスキー協会」(NDS)で、ジョージ・ワシントン大学のネージン・ナトフ(ナデジダ・ナトヴァ)教授が事務局長として中心になって立ち上げたものです。初代会長はスエーデンのニールソン教授で、エムスでの第一回シンポジュームには、欧米十四ヵ国の学者、研究者が参加、一九七四年の第二回はオーストリアのウォルフガングで十五ヵ国からの参加者で開かれています。

日本の「ドストエーフスキイの会」がIDSとコンタクトをとり始めたのは一九七五年の初め頃で、こちらの問い合わせに対し、先方の資料、会報に添えられて、事務局長のナトフ教授から書信があり、日本の会の活動紹介と、この数年間に、日本で公刊された主要なドストエフスキー研究の文献リストを送ってくれとの要請がありました。

これに応えて急遽、故・新谷敬三郎先生を中心に文献目録を作成し、冷牟田幸子さんに英訳の労を煩わせて、七五年九月中旬に送っています。これらの資料、文献目録は六六年のIDSの機関誌に掲載されることになりますが、その時の返信で、七七年夏にデンマークのコペンハーゲンで第三回国際シンポが開催されるにあたり、日本からも参加を希望する旨の招請がありました。またプログラム委員長であるイェール大学のR.ジャクソン教授からは、日本の会の事務局責任者である私への私信があり、日本から送られた会報の論題を日本語学者に訳してもらったところ、「ドストエフスキーと日本人」、「ドストエフスキーとアインシュタイン」、「ドストエフスキーの児童観」、「ドストエフスキーの神」、「スタブローギンの悪の現代性」など興味深いテーマが見られる、七七年八月のコペンハーゲンへはぜひ代表を送って欲しいとのべられていました。

六六年のIDSの機関誌には、本会より送った会の紹介と、一九七〇〜七四年の日本における研究・批評の文献目録が掲載され、ナトフ事務局長による日本のドストエーフスキイの会との連絡の経緯をのべた一文が掲げられていて、「IDS会誌の本号において、IDSとNADS(北米ドストエフスキー協会)は日本のドストエーフスキイの会を新しい仲間として歓迎する。彼等との今後の協力関係の成功を期待する」と記されていました。

ちなみにIDSの活動目的と性格は次のように定められていました。

(1)世界各国のドストエフスキー研究者に全体的な討論の場を用意すること。(2)各国のドストエフスキー家研究者が相互に情報、知見、研究経験を交換し、友好協力関係を築くのをたすけること。3)研究者が外国を訪問する際に、その国の仲間と会える機会をつくること。))(4)ドストエフスキーの生活、作品に関する特定の諸問題を討論するための国際的な大会、会議、シンポジュウムを組織すること。(5)会の報告書を刊行すること、およびドストエフスキーに関する著書の発刊、再刊を助けること。

会員については次のように定められていました。

(1)正会員=大学、研究機関のスタッフ・メンバーもしくはドストエフスキー研究の在野の研究者で、少なくとも一編は著書もしくは論文の発表経歴を持つ者。(2)名誉会員=教育・文化活動に従事する人で、特に選ばれた人。(3)準会員=ドストエフスキー研究に携わってはいるが、これまでのところ発表経歴のない者。

 

七七年のコペンハーゲンの第三回国際シンポジュウムには、招請に応える形で、井桁貞義氏が参加しました。井桁氏はその頃大学院生で会運営の中心メンバーであり、日本の「ドストエーフスキイの会」の代表を歓迎するとのIDSニールソン会長の言葉で迎えられた若き感性の高揚感の伝わる文章を、「国際ドストエ−フスキイ学会より帰って」と題して、第四七回例会報告をもとに、会報49号(「場」U、188189頁)に載せています。

一九八〇年の第四回国際シンポジュームはイタリアのベルガモ大学で開催され、これには本会から井桁氏と私・木下が参加し、現地で、フランスで在外研究中であった九州大学の清水孝純氏が合流しました。この会議については私と井桁氏が第六〇回例会で報告し、その要旨を「ドストエーフスキイとアファナシエフ」(井桁)、「アルプス・ドストエーフスキイの裾野‐ベルガモ」(木下)と題して会報65号(「場」V、110113頁)に載せています。

八三年の第五回シンポジュームはフランスのノルマンディ地方の古い城館で開かれ、井桁氏が単身で参加しました。その様子は会報八〇号(「場」W、2425頁)に報告されています。

八六年の第六回シンポジュームはイギリスのノッチンガム大学で開かれ、これには私・木下が参加して報告し、望月哲男氏がオブザーバーで参加しました。その模様を私は会報九六号(「場」V、154155頁)に書いています。

八九年の第七回シンポジュームはユーゴスラヴィアのリュブリアナ大学で開かれ、高橋誠一郎氏が単身、参加しました。その様子を高橋氏は第一〇〇回例会で報告し、会報一一一号((「場」W、273275頁)に書いています。

一九九二年の第八回シンポジュームはノルウェーのオスロ大学で開かれ、高橋誠一郎氏と私・木下が参加しました。その様子を高橋氏が「ドストエーフスキイ広場」三号(1993)に書いています。

一九九五年の第九回シンポジュームはオーストリアのザルツブルグに近い、ガミングという山間の地の修道院で開かれました。これには日本から七名が参加しました(安藤厚、金沢美知子、木下豊房、郡 伸也、望月哲男、小田島太郎、高橋誠一郎)。この会議で、私個人にとっては思いがけないハプニングがありました。それは理事会の指名で、私が七名いる副会長の一人に選ばれたことです。その理由として思い当たるのは、第三回会議より、日本から毎回誰かが参加してきた歴史があり、ここにきて一挙に七名の参加に増え、国籍別では目立つ集団になったことによります。また他の副会長の顔ぶれ、フランス、ノルウェー、イギリスなど、開催実績のある国の顔ぶれから見て、日本での国際シンポジュームの期待への暗示とも私は受けとりました。

次いで九八年の第一〇回シンポジュームはアメリカ、ニューヨークのコロンビア大学で開かれ、日本からはこれまで最多の九名が参加しました(安藤厚、池田和彦、糸川紘一、金沢美知子、木下豊房、清水孝純、鈴木淳一、萩原俊治、望月哲男)。私はこの会議での総会に向けて、二〇〇一年の第一一回国際シンポジュームを日本の千葉大学で開催するよう提案しました。ほかにノミネートしていたのは、ドイツのバーデン・バーデンとハンガリーのブタペストでした。

私の提案は、現実問題として、「ドストエーフスキイの会」や日本の参加者(任意)の間で相談して決められるような性質のものではなく、もっぱら私一存での構想と計画によるものでした。これは私が千葉大学を二〇〇二年に定年退職する四年前のことで、その当時、千葉大学では成田空港からの地の利もあり、また設備の整った会議場(会館)も出来て、国際交流基金や日本学術振興会の助成金を受けての国際会議が開かれるようになり、大学側にも会計処理の態勢が出来ていました。そうした状況で、もし学術振興会の国際会議助成金と国際交流基金の援助を当てにできるならば、国際シンポの実現は可能と私は判断しました。ただ申請から確定まで一年ちょっとしかなく、二年前に確約することは無理でした。しかし、IDS総会での次回候補地決定には、二年後の確実性を見込んでのことでなければならず、留保条件付の提案には、弱点がありました。ブタペストも財政的な裏づけでは弱いと見られ、第一一回国際シンポの開催地はバーデン・バーデンと決定しました。これにはIDSの会長がマルコム・ジョーンズ・ノッチンガム大学教授(イギリス)に代わって、H.J.ゲーリック・ハイデルベルグ大学教授(ドイツ)が選出されたことも関係しました。

いずれにせよ、立候補したということで、これまで専らお客さんで通してきた日本側も一応、面子をたてることはできたと私は思いましたが、実現不可能を見込んでの見え透いたポーズと見られたくはありませんでした。それで私は二〇〇二年四月の千葉大学定年退職の前に、二〇〇〇年のミレニアムを記念して、国際研究集会を実現すべく、企画に着手しました。まず学術振興会の国際会議助成の過去のデーターを調べることから始めましたが、自然科学系が圧倒的で、社会科学系がわずかにあるものの、文学は皆無でした。私としては一か八か、やってみるしかない心境でしたし、学術振興会の方で万が一申請が採用されれば、国際交流基金からの助成の可能性もあると踏んでいました。それが何と幸いなことに採用されたのでした!

このようにして二〇〇〇年八月二二日〜二五日の「 二一世紀人類の課題とドストエフスキー」という国際ドストエフスキー研究集会(ドストエーフスキイの会、千葉大学大学院社会文化研究科、千葉大学部文学部共催)の道が開かれました。これには目的や理念もさることながら、国際会議開催を支援する大学の態勢の信頼度が大きかったと思いますし、会議施設やアクセスの利便さも評価されたからだと思われます。

例年になく暑い夏、ロシア人参加者の表現によれば、「バーニャ」(ロシア式蒸し風呂)の中にいるような外気温の続く猛暑の日々、冷房の効いた千葉大学の「けやき会館」を会場に、会議は開かれました。

外国からの参加者は総数二六名、その内訳:ロシア一六名(V.トゥニマーノフ、V.ヴェトローフスカヤ、L.サラースキナ、V.ザハーロフ、V.ヴォルギン、T.カサートキナ、K.ステパニャン、V.スヴィテールスキイ、I.エサウーロフ、N.アシンバーエヴァ、B.チホミーロフ、N.チェルノーヴァ、V.ドゥードキン、V.ヴィクトロヴィチ、N.ジヴォルーポヴァ、P.フォーキン)、ハンガリー二名(A.コヴァチ、G.キライ)、ポーランド二名(A.ラザーリ、H.W.チャラシンスカ)、以下各国一名・モルドヴァ(R.クレイマン)、アメリカ(N.ナトフ)、ドイツ(H.J.ゲーリック)、イギリス(R.ピース)、ノルウェー(E.エリク)、オーストリア(B.クリスタ)

日本側参加者一四名:清水孝純、井桁貞義、金沢美知子、高橋誠一郎、国松夏紀、萩原俊治、佐々木照央、御子柴道夫、佐藤裕子、越野剛、糸川紘一、加藤純子、桜井厚二、木下豊房、V.ジダーノフ(札幌大)

ロシア人研究者が比較的多いのは、経済的事情を考慮して、その多くに旅費、滞在宿泊費を日本側負担にしたこと、他の国からの参加者には滞在宿泊費のみを日本側負担にしたという事情が反映しています。ノミネートしていたイタリア、フランスの研究者は直前にキャンセルでしたが、日本はやはり遠いとのイメージを消しがたかったようです。

八月二二日の開会式ではIDS名誉会長ネージン・ナトフ氏、IDS会長H.Jゲーリック氏の挨拶を受け、基調講演を、ロシア科学アカデミー・世界文学研究所のV.トゥニマーノフ、V.ヴェトローフスカヤ氏がおこないました。その翌日から三日間にわたって、二つのセッションに分かれて、熱心な報告、討論が行なわれました。そのプログラムの詳細は、インターネットの次のURLでご覧になれます。

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost008.htm

二四日の午後には浅草見物、隅田川下りのエックスカーションを催し、新橋の居酒屋で参加者の懇親を深めました。八月二六日には「ドストエーフスキイの会」の単独主催で、早稲田大学文学部で国際研究集会記念講演会を開き、清水孝純、H.J.ゲーリック氏、L.サラースキナ氏に講演してもらいました。そのプログラムも前記URLの最後に出ています。この日、講演会終了後、早稲田の居酒屋で、本会会員と外国人参加者との交流会が開かれ、大いに盛り上がったことをご記憶の方もおられると思います。

このようにして二〇〇〇年の千葉大学での国際ドストエフスキー研究集会は、IDSとの連携のもとに、独自のプログラムとして、国際的に認知されたのでした。日本でのこの国際研究集会がもたらした好ましい影響の端的な現れは、大学院レベルの若い研究者がこの会議をきっかけに、臆することなくロシアをはじめとする国際学会に参加し、また温かく迎えられ、指導をも受けるようになったことです。

二〇〇一年一〇月四日〜八日にはドイツのバーデン・バーデンで、第一一回国際シンポジュームが開催されました。ここは一九世紀のロシアの貴族、知識人たちにはゆかりの保養地で、ドストエフスキーがルーレットの虜になった賭博場のあるクアハウスがいまでも街の中心に位置しています。この学会には日本から、清水孝純、望月哲男、糸川紘一、越野剛(北大院生)、及川洋子(同)、私が参加し、東大院生の小林銀河さんはオブザーバーで参加しました。この会議の模様を小林さんが「広場」一一号で報告しています。

二〇〇四年のスイス・ジュネーブでの第一二回シンポジュウムには、日本から安藤厚、清水孝純、鈴木淳一、V.ジダーノフ(札幌大)、及川陽子、加藤純子、越野剛、小林銀河の各氏が報告し、かつて毎日その他の新聞のベテラン文芸記者で、かつて例会でも報告されたことのある脇地烱氏がオブザーバーとして参加しています。この学会の様子は加藤純子さんが「広場」一四号に書いています。

二〇〇七年のハンガリー・ブタペストでの第一三回シンポジュウムには、小林銀河、木寺律子、私・木下の三名が参加、その様子を小林さんが「広場」一七号に書いています。

そして今年二〇一〇年六月、イタリアのナポリでの第一四回シンポジュウムを迎えることになります。今回日本からの参加の見込みは、清水孝純、望月哲男、私の三人になりそうです。従来、会費納入と学会参加は連動しておらず、会費未納入でも参加できる可能性がないわけではなかったのですが、前回、ブタペストでの総会で、シンポジュウム参加資格者への前もっての会費納入の原則が確認され、それに基づいて、二〇〇九年六月三〇日で、ノミネートが締め切られました。その情報は会のホームページの表紙にIDSのURLが掲載されているので、そこからアクセスできます。

http://www.dostoevsky.org/

メインテーマは「ドストエフスキー―哲学的思考、作家の目」で、ノミネートされている報告者は一二三名。六月一四日開会式で、セッションは一八日まで。一九日はエクスカーションとされています。

以上、私達のドストエーフスキイの会を中心とした、日本の研究者と世界の研究者との交流の歴史を一通り概観してきました。そこには実に三五年の歴史があります。ところでここに奇妙な事実に気づかされます。日本の出版界、ジャーナリズムでクローズアップされてきた人々、ただ翻訳者にとどまるのではなく、ドストエフスキー論を書いて話題になった故人の江川卓氏や、今をときめく亀山郁夫氏や、この二人の仕事を世界に通用すると持ち上げている沼野充義氏などは、IDSを中心としたこのような国際的なドストエフスキー研究の動向には関心を示さず、会議にも一度も参加したことはない人達なのです。一方、彼等が種本としたイギリスのR.ピース教授(江川の去勢派スメルジャコフをめぐる解釈など)やロシアのB.チホミーロフ氏(亀山著「『罪と罰』ノート」)などは、IDSの中心的な研究者なのです。こうした事情をどう解釈したらよいのでしょうか。これはローカルな日本の「ドストエフスキー現象」とでもいうべきでしょうか。

この「謎解き」は皆さんにおまかせします。