「世界文学」114号−特集世界文学と宗教−  201112  p.1-8

 

ドストエフスキーの宗教的意識

                          木下豊房

 

ドストエフスキーの宗教的意識は大きくいって、次の三つの主題に集約されるであろう。1)旧約聖書のヨブ記にまつわる、無辜の人間のいわれなき苦しみ、災難、不幸への抗議。2)イエス・キリストの「己を愛する如く汝の隣人を愛せよ」の教えにまつわる、自己と他者の関係性に関する思索。3)キリストへの信仰を梃子に、個と全体が統合された人間の未来的な変容、さらに記憶、追憶を介しての人間の生命の永遠性、復活への夢想。

 

ヨブ記にかかわる主題は最晩年の作品『カラマーゾフの兄弟』で、イワンのテーマ、ゾシマ長老のテーマを軸に、全面的に展開される。イエス・キリストの愛の主題は、1864416日、最初の妻マリアの死直後の「棺台の傍らでの瞑想」といわれるメモでの考察にはじまり、『白痴』のムイシキン公爵のテーマで、他者への同情、憐憫に発する愛の問題として展開される。記憶、追憶を介して人間の生命の永遠性、復活の夢想は『カラマーゾフの兄弟』のフィナーレで、アリョーシャによって語られる。

 

ヨブ記にかかわる主題

 

ヨブ記との出会いは、ドストエフスキーの宗教的感性や意識を全生涯にわたって揺り動かしたもののようである。伝記上よく知られていることだが、彼が幼少期に読み方を習った最初の読本は『旧・新約聖書の百四つの物語』であった。この子供向けの聖書読本について、弟のアンドレイは次のように回想している。

「私たち兄弟は、一冊の本を使って最初の読み方を教わった。それはロシア語訳の旧新約聖書(ギブネルのドイツ語本からの訳と思われる)で、『旧新約聖書の百四つの物語』という書名だった。その本には、天地創造、エデンの園でのアダムとイヴ、洪水その他の聖書の主要な出来事を描いたかなり粗末な版画がついていた。ずっと後になって、というのは70年代のことであったが、フョードル兄と子供時代について話ししていた時に、私がこの本のことにふれた。すると兄は感きわまったような口調で、あれと同じ本(つまり子供時代の)を一冊探し当てたよ、いま宝物のように大事にしまっていると語った」1)

『カラマーゾフの兄弟』の中でゾシマ長老が、自分の子供時代の思い出として、「当時、私のもとには『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本があった。その本で私は読み方を習った」のべている。『カラマーゾフの兄弟』に付されたアンナ夫人の注でも、「この本でフョードル・ミハイロヴィチは読み方を習った」と記されている。

この子供向け聖書物語の中でも、ドストエフスキーにはヨブ記が最も印象に残り、生涯を通じて心を揺さぶられるものであったらしい。作家晩年(54歳)の1875622日(露暦10日)、療養先のドイツの温泉地バッド・エムスからのアンナ夫人宛の手紙では「ヨブ記を読んでいる。この書には病的なほどの感奮に誘われる。読むのを途中でやめて、泣きたい思いで、室内を一時間ほども歩き回る。翻訳者の実にくだらない注釈さえなければ、幸せなのだが。アーニャ、この本は不思議なことに、私が生涯において感動を受けた最初の書物の一つで、それを体験したのは、私がまだ幼い頃だったのだよ」29-2; 432) とのべている。またアンナ夫人は「子供時代のこの思い出をフョードル・ミハイロヴィチから、私は何度か聞きました」(Гроссман, Семинарий. С.68)と証言している。

ドストエフスキーはこのヨブ記のことを、『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老に語らせている。8歳の頃、母に連れられて行った教会の昼の礼拝で、読み聴かされた話として登場する。この場面を原卓也訳、新潮文庫から引用する。

 

「やがて一人の少年が分厚い、運ぶのもやっとのようにその時の私には思われたほど大きな本を捧げて、会堂の中央にあらわれ、経卓の上にのせると、本を開いて読みはじめた。そのとき突然わたしははじめて何かを理解し、神の会堂で何が読まれているかを生まれてはじめてさとったのである。ウズの地に、心正しく、神を恐れるヨブという人がいた。その人にはおびただしい富があり、何千頭もの羊と驢馬を持ち、子供たちも楽しくすごしていた。彼は子供たちを非常に愛し、子供たちのために神に祈っていた」(中57頁)

 

このあと神は信仰厚いヨブを自慢するあまりに、悪魔のそそのかしに乗せられて、ヨブの信仰の強さを確かめるべく、ヨブを悪魔の手にゆだねてしまった。その結果、ヨブは子供や家畜を殺され、財産も奪われ、身体も腫れ物で被われるという悲惨の極みに陥れられる ― という有名なヨブの不幸についてのべた後、ゾシマ長老は次のように語る。

 

「あのときわたしの頭をいっぱいにしたのはラクダであり、神にあんな口をきいたサタンであり、自己のしもべを破滅に追いやった神であり、そして、「主がわたしを罰しようと、主の御名は讃むべきかな」と叫んだしもべであった。さらにまた、会堂にひびき渡る「わが祈り、叶わんことを」という静かな快い歌声であり、またしても司祭の香炉から立ちのぼる香の煙と、ひざまずいての祈りであった!それ以来わたしはこの聖なる物語を涙なしに読むことができないし、つい昨日も手にとってみたばかりだ。それにしてもこの本には、どれだけ多くの偉大な、神秘な、想像しがたいものが含まれていることだろう! <・・・>しかし、そこに神秘があり、移ろいゆく地上の顔と永遠の真理とがここで一つに結ばれる点にこそ、偉大なものが存するのである。地上の真実の前で永遠の真実の行為が行われるのだ。そこでは造物主が天地創造の最初の日々に、毎日「わが創りしものはよし」と讃めたたえながら、仕上げをしていったときのように、ヨブを見つめ、あらためて自分の創造を誇りに思う。またヨブは、主を讃えることによって、単に主に仕えるだけではなく、子々孫々、末代まで、主のあらゆる創造物に仕えることになるのだ」(5859)

 

ヨブ記は文学的表現において優れ、深遠かつ高度の宗教的思想の書とされている。プロローグとエピローグは散文で書かれていて、ゾシマ長老の話はおおむねこの散文の部分にかかわっている。中間の部分は韻文形式で書かれ、ヨブの不幸を知って慰めに訪れた三人の友人との対話、そして最後にヨブと神との対話である。その内容は神と悪魔の賭けによって、いわれもなく悲惨のどん底に突き落されたヨブの神への抗議と、その理由を因果応報論によって説明しようとする友人たちの議論、そして最後にヨブへの神の応答である。神はヨブを悲惨に陥れた理由やヨブの苦しみの意味を直接には説明しない。神はひたすら自分の力による天地創造の業を数え上げ、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」と問い詰め、自分の不幸にだけこだわっている視野の狭さをヨブに気づかせようとする。

ヨブはあらためて神の全能を痛感し、自分の無知を悔いる(「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」)[ヨブ記426] 神は友人たちの応報神学的な説明に怒りを示す一方、ヨブの正直な抗議の正当性を認め、彼の敬虔な祈りを受け入れて、財産を倍増して返し、子供たちも昔どおり(男の子七人、女の子三人)をもたらしてやった。また因果応報論に立つ友人達も、ヨブの祈りによるとりなしで、神からの許しを得た。ヨブにとってまことに不条理な神の仕打ちは、神の全能を認めての、因果応報に基づくのではない自発的な信仰、敬虔な祈りをヨブに確認するための過酷な試練であったとういうのが、一般的な解釈とされている。

神のヨブへの仕打ちを、あくまで因果応報によって説明しようとするヨブの友人たちと、人智では窺い知れない神の計りごとに気づいて、自発的な信仰につくヨブの立場の相違は、『カラマーゾフの兄弟』において、イワンとゾシマ長老の立場の両極に対応するものであろう。ヨブ的信仰を代表する存在がゾシマ長老であるとすれば、他方、近代的な知性人イワンはまさしく「世紀の子」、「不信と懐疑の子」であって、ヨブの友人達のように「因果応報」の論理を求めたあげくに、神の創造した世界は受け入れられないと宣言する。ただヨブの友人達の場合はイワンとは違って神の創造物を否定するのではなく、ヨブの不幸には因果があるはずだと、結果から原因を推論する神学的な議論を展開しているにすぎない。しかしいずれも因果関係にもとづく「真理」を求めているのである。

イワンは何の罪もない純粋無垢の子供が無謀な大人によって虐待され殺される社会現象の多くの事例をあげて、「因果応報」の論理では納得し難い神の摂理を糾弾するのである。イワンは幼児虐待や幼児殺しのような現象は、「人間同士の罪の連帯性」(«солидарность в грехе между людьми»)(「万人が万人と万物に対して罪がある」)によっては説明しえないと主張し、

 

「ぼくの頭脳はユウクリッド的、地上的なもので、この世以外のことを解決するなんて出来はしない。アリョーシャよ、おまえもそんなことは考えないように忠告しておくよ、何にもまして、神のことで、神はありやなしや、なんてね」(14; 214

 

と、自分の懐疑の立場を明確に打ちだす。そして続けてこう告げる。「自分には応報が必要なのだ。でないと僕は自分で自分を抹殺する。その応報は何時どこでとも分らない無限の彼方ではなく、ここで、この地上でなければならない。自分のこの目で見れるようにね」«мне надо возмездие, иначе ведь я истреблю себя. И возмездие не в бесконечности где-нибудь и когда-нибудь, а здесь, уже на земле, и чтобы я его сам увидел» 14; 222

 

つまりイワンは不条理な結果からさかのぼって、それをもたらす神の業を否認するのである。ヨブやゾシマ長老からすれば、天地、万物を創造した神の業は人智の判断を超えたもので、「神秘」というほかはない。しかし理性人イワンにはそのような「神秘」は受け入れられない。芸術家としてのドストエフスキーは、そのようなイワンの知性的な苦悩をダイナミックに描く。ただしイワンの苦悩は知的なレベルにとどまり、彼が神の業を糾弾する論拠としてあげる、数々の罪なき子供の犠牲のケースはすべて人から聞いた話や当時の新聞からのコレクションで、彼自身が主体的にかかわったものではない。イワンが用いる「人間同士の罪の連帯性」(«солидарность в грехе между людьми»)という言葉自体、彼独特の観念語であって、何か実体的な重みに欠ける響きがある。3 ここに観念論者イワンの弱点、分裂が露呈する。イワンはアリョーシャにいみじくも次のような告白をする。

「ぼくはおまえにひとつ告白をしなければならない。自分に近い者をどうして愛することができるのか、ぼくにはまったく理解できない。ぼくの考えでは、まさしく近い者だから愛することができないので、遠い人間となると別だ<・・・>」(14; 215)「近い者を愛することは抽象的にならまだしもできるし、時には遠方からだってできる。しかし近くにいてはほとんど無理だ」(14216

イワンはこうした告白にあたって、飢えて凍えた旅人を自分のベッドで抱きしめて温めてやり、らい病患者らしいその男の口へ息をはきかけてやったという聖人の話を持ち出す。それはツルゲーネフ訳でロシアに紹介されたフローベールの小説、「慈悲深きユリアンについてのカトリックの伝説」(<La Legende de Saint Julian l' Hospitalier>(1876) <ヨーロッパ通報>18774掲載)の話である。

 そしてイワンはこうコメントする。「聖人がそんなことをやったのは、偽りの発作、お誂えの愛の義務感、無理に自分に課した宗教的懲罰のためにちがいない。人を愛するには、その人が姿を隠してくれなければならない、少しでも素顔を見せると、愛は消えてしまうのだ」(14215

「問題は人間の性質が悪いためにそうなるのか、それとも、それが人間の自然なのかという点にある。人々へのキリストの愛は、その性質上、地上では不可能な奇跡だと、ぼくは思う。確かに彼は神だったわけだし、われわれときたら神ではないのだからね」(14216

 

近き隣人への愛

− 自己と他者の関係性の問題

 

理性的な懐疑論者イワン・カラーマーゾフの口を通して、極端な形で提起されている、この近き隣人に対する愛の問題、いいかえれば、他者との関係性の問題はドストエフスキーの人間学的、倫理的、宗教的思想の根幹の部分ということができよう。実はこの問題はドストエフスキーにとって、処女作『貧しき人々』、『分身』、『弱い心』、『白夜』といった初期作品の空想家の形象にまつわる一貫した主題であった。4)

 

10年間のシベリア流刑を経て、ペテルブルグへ帰還したドストエフスキーが僻遠の地から伴ってきた最初の妻マリヤの死に直面した時(18644月)、その棺の傍らで書いた、「棺台の傍らでの瞑想」といわれる有名な416日付のメモには、この作家が若い頃から悩んできた自己と他者との関係性についての手探りの思索が見られる。

 

416 マーシャは台の上に横たわっている。マーシャと再会できるだろうか?キリストの教えに従って、人を自分自身のごとく愛することは、不可能である。地上の個性の法則に縛られる。われ(Я) が妨げる。キリストだけが出来た。しかしキリストは太古からの人間の理想であり、人間がそれをめざし、自然の法則からいってもめざさざるをえない理想である。

しかしながら、肉体に宿った人間の理想としてのキリストが出現して以来、白昼のごとく明らかになったのは、個性の最高度の最終的な発達は、まさしく次の点にまで(発達の極限、目標到達の最終地点で)達しなければならないということだ。すなわち、人間が自分の個性、自分のわれの完全な発達に基づいて出来る最高の行為は、そのわれを滅却し、万人と個々の人に差別なく、献身的に自分を完全に捧げることであると悟り、自覚し、自分の本性のすべてをかけてそう確信することである。これこそ最大の幸福である。このようにして自我の法則はヒューマニズムの法則と合流し、この両者の合流のなかで、相互に敵対しあうわれ万人も(一見して、極端に対立しあうこの二つが)、同時に各々の発達の最高目標を実現する。

これこそキリストの天国にほかならない」(斜体−原文)(20172

 

ドストエフスキーはこれを人類の理想とし、人類の歴史、そしてある程度、個人の歴史もこの目標に向かっての「発達、たたかい、志向、到達」であるとのべながら、きわめて注目すべきことに、次のような二律背反を展開する。

 

「しかし、もしこれが人類の最終目標(それが実現されれば、人類は発達する必要がなくなる。すなわち実現の努力も闘争も、自分の堕落の時に理想に目覚める必要も、永久にそれをめざす必要もなくなる―とすれば生きる必要がなくなる)であるとすれば、当然、人間がこの目標を実現せんとする暁には、自分の地上的な存在も終わりを告げることになる。だから、人間は地上においてはひたすら発達の過程にある存在であって、従って、完結的な存在ではなく、過度的な存在である。

しかし私の考えでは、この大目標に到達すると同時に、すべてが消失、消滅するとしたら、すなわち目標の実現とともに人間の生活がなくなるとしたら、このような目標に到達することはまったく無意味である。だからこそ、未来の、天国の生活があるのだ」(20; 172-173

 

人類の理想としてのキリストのイメージと死者の復活への期待

 

とても人間とは呼べないような未来的な存在の、未来的な本性とはどのようなものか、それは全人類の発達の偉大な、最終的な理想であるキリストからうかがわれるもので、その特徴とは「娶らず、嫁がず、神の御使いのように生きる」(マタイによる福音書2230節)

このフレーズのごときキリストの模範にしたがって生きるということは、人間が世代の交代によって発達し、目的をとげる必要がなくなるということであって、その段階に到るということは、地上的な人間にとっては至難の業であり、そこには超え難い二律背反的な矛盾がある。

 

「結局のところ問題は、キリストへの信仰から発して、キリストを地上の最終的な理想として受け入れるかどうかであり、もしキリストを信じるならば、永遠の生を信じることになろう。

その場合、すべてのわれにとって、未来の生はあるのだろうか?人間は破壊され、いっさいが死滅するといわれている。

 いっさいが死滅するのではないことを私たちはすでに知っている。というのは、人間は子を肉体的に誕生させることによって、自分の個性の一部を子に伝え、精神的にも自分の記憶を人々に残すからである(NB.追善供養の席で、故人が永遠に記憶されんことを、と願うのは、意味深いことである)、すなわち、地上で生きた以前の個性の一部でもって、人類の未来の発展に参入するのである。<・・・>キリストは全身全霊をもって人類の中に入りこんだ。そして人間は自分の理想としてのキリストのわれ への変容をめざす。人間はこの理想に到達した暁には、地上でこの同じ目的に到達しようとしたすべての人々もまたその最終的な性質の構成要素、すなわちキリストに入りこんだことを明らかに目にするであろう。(キリストの綜合的(ジンテーゼ的な)性質は驚くべきものだ。これは神の性質であって、いわば、キリストは地上における神の反映像だからである)。各々のわれは ― 全般的な綜合(ジンテーゼ)の中で ― どのようにして復活するのか、想像し難い。しかし到達に至るまでも命を保ち、最終的な理想に反映された生けるものは、最終的な、綜合(ジンテーゼ)的な、無限の生命の中によみがえるであろう。私たちは全体との融合をやめることなく、犯さずめとることもなく、多様な範疇において、個性であり続けるだろう」(斜体−原文、下線−論者T.K)(20:174

 

おそらくこのあたりが、ドストエフスキーが手探りで行きついた論理の極限であって、地上的なものと天上的なものとの二律背反性、それを克服すべくキリストへの信仰を梃子に、個と全体が統合された人間の未来的な変容を構想すること、そこに人間の生命の永遠性、復活を夢見るというのが、ドストエフスキーの宗教的意識の究極点と思われる。このあとに地上的なものと天上的なものとの二律背反性について、次のような叙述が繰り返されるが、これはもはや循環論的な堂々めぐりにすぎない。

 

「(わが父の家には住処多し)[ヨハネ福音書142] その時には全員が自分の在り処を感じ、永遠に認識する。しかしそれがいかなる様子であるか、どのような形態であるのか、いかなる性質であるのか、人間には最終的には想像するも困難である。

 そういうわけで、人間は地上において、自分の本性とは反対の理想をめざしている。人間が理想への志向の法則を実行しなかった時、すなわち、人々や他の存在(私とマーシャ)に対して愛をもって自分のわれを犠牲に供しなかった時、人間は苦しみを感じ、その状態を罪と呼んできた。そういうわけで、人間は絶えず苦しみを感じなければならないけれども、この苦しみは法則を実行する天国の楽しみ、すなわち犠牲によって、均衡が保たれているのである。ここにこそ地上の均衡もある。でなければ、地上は無意味となるであろう」(20;174-175

  

ドストエフスキーは世を去る3年前の1878年、『作家の日記』の予約購読者の一人、ニコライ・ペテルソンという人物を通して、ニコライ・フョードロフという思想家の復活の思想を知った。この思想家はルミャンツエフ博物館の司書で、思想や著述を含めていっさいの個人所有を否定して一冊の著書も残さなかった。そのかわりペテルソンなど弟子達が談話での聞き書きを残し、その原稿をドストエフスキーに送った。ドストエフスキーはペテルソンへの返信で大きな関心を示して、「その思想にまったく同感で、自分自身の思想のような気持ちで読んだ」とのべ、こう問いかけている。その思想家の考えによれば、復活は「実際的、個人的なもの」であって、

 

「我々の先祖たちの魂から我々を隔てている深淵は埋められ、死は克服されることによって乗り越えられ、先祖たちは我々の意識の範囲、比喩的な意味にとどまらず、身体をそなえた現実的、個人的、実際的な意味で復活するというのですか」(NB もちろん、現在の身体の形ではなく、というのは、不死が訪れ、結婚や子供の出生はなくなるというひとことからしても、明らかなのは、地上で起こるべく定められた最初の復活の時の身体は、現在みられるようなものとは違った身体、すなわちキリストの復活の後、五旬節(精霊降臨祭)に昇天する前のキリストの身体のようなものではないでしょうか?)」(30-1;14

 

ペテルソンを通して間接的にしかフョードロフの思想を確かめようがなかったドストエフスキーは、まだるっこしい思いをにじませながらも、フョードロフ=ペテルソンの原稿「民衆の学校はどのようなものであるべきか?」にのべられている次のような思想に、深く共感したにちがいない。

 

「私たちの父や兄弟をせめて記憶によみがえらせるだけでも、彼らとの絆を強める方向に私たちは導かれるのである。そのようにして血縁の階段を遡れば遡るほど、私たちの絆はより固く広いものになっていく。… その道をたどって、私たちは目標と定めた一体化の敷居に立つ。その一体化の結果として、私たちにとって、私たちの誰一人の喪失もありえないばかりか、自分たちの再生の欠くべからざる条件として、過去の世代の私たちの父祖や兄弟のすべての再現、死者である彼らすべての復活が求められるのである。この結果を達成するために、私たちは、過去の世代を記憶に再生させるほかに、さらに、この世を克服し、その力を支配し、その力を神に捧げなければならない ―この世に打ち勝つ第一歩は、それを研究すること(изучение)である」5)

父親の無責任と家族の解体がもたらした「偶然の家庭」の社会問題を踏まえ、人間形成にとっての幼時の記憶の決定的な意味を問い、記憶・追憶を通しての故人の復活への希求を主題とした『カラマーゾフの兄弟』の作者にとって、この行はあたかも血肉を分けた思想のように思えたはずである。

さらに現世の人間にとって、復活の道はキリストを模範としたものでなければならないだろうという1964年の妻マリヤの棺台の傍での瞑想に見られる考えは、フョードロフ=ペテルソンの論文でも、同じようにのべられている。

 

「キリストはその復活によって、私たちをまだ死から免れさせてはくれないが、自分たちの復活、そしてまたすべての過去の世代の復活への望みを私たちにあたえてくれた。自分の復活によってキリストは私たちに希望をあたえ、私たちを地上に残すことで到達を求めた目標を示してくれた。すなわち、キリストは自分の苦しみ、死と復活によって、私たちを神と和解させ、私たちの重くのしかかる呪いをとり除き、神の王国への扉を開けてくれた。キリストなかりせば、神の御使たちによって目を晦まされたソドムの国の人間のように目が眩んで、その扉を開けることは出来なかっただろう!」6)

ドストエフスキーはこのように、世を去る直前に、フョードロフ=ペテルソンに、死者の復活の思想の共鳴者を見出し、「研究」による復活の物理的、現実的な可能性さえ夢想した。しかし死者の復活という思想の芸術的表現に関する限り、リアリストとしての作家は「記憶」「追憶」の回路にとどまり、アリョーシャが少年たちに演説する『カラマーゾフの兄弟』のフィナーレの次のような象徴的な場面に託して小説を閉じ、また小説家としての人生を閉じたのである。 

 

「カラマーゾフ万歳!」コーリャが感激して高らかに叫んだ。

「そして、亡くなった少年に永遠の思い出を!」感情をこめて、アリョーシャがまた言い添えた。

永遠の思い出を!」ふたたび少年たちが和した。

「カラマーゾフさん!」コーリャが叫んだ。「僕たちはみんな死者の世界から立ち上がり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリュ−シェチカとも会えるって、宗教は言っていますけど、あれは本当ですか?」

 「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです」 半ば笑いながら、半ば感激に包まれて、アリョーシャが答えた。

 「ああ、そうなったらどんなにすてきだろう!」コーリャの口からこんな叫びがほとばしった。7)(下線−論者T.K

 

 



1) А.Ф. Достоевский: Воспоминание. М.,1999. С.64

2) Ф.М. Достоевский: Полн. собр. соч. в 30 тт. (Л. Наука, 1972-1990) . Т. 29-2; С.43

 以下、同全集からの引用は、括弧内の数字(巻数―頁)で示す。

3) ラテン語のSoliditasに発する「連帯(ソリダールノスチ)の用語が使われるようになったのは、一八六〇年代、チェルヌイシェフスキーの「現代人」一派あたりからと推定され、西欧派知識人の感覚にしかなじまない抽象語である。ゾシマ長老は同じ意味のこと(「人間はすべての者に対して罪がある」)をのべるにしても、このような抽象な概念は使っていない。したがって、「罪の連帯性」という表現はイワン独特の定式化された観念語と思われる

4) この問題について、私は論文「小説『弱い心』の秘密―なぜ二人はお互いに理解し合わなかったのか?」(「ドストエフスキー広場」142005、「ネット論集」:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost200.htm)、

「ドストエフスキーの主題と創作理念をめぐって−“サストラダーニエ”(同情・憐憫)と“他者性”の問題」(『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、2002)で論及している。

5) Н.П.Петерсон: Чем должна быть народная школа? Достоевский и мировая культура 13. СПб. 1999. С.241

6)   Там же. С.242

7)  原 卓也訳: 新潮文庫 496