亀山訳引用の落とし穴

 

                        木下豊房     

        

 

 二〇〇七年末に、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』の誤訳をめぐって、会員のNN氏がロシア語テクストに基づいた検証をおこない、私は賛同して、「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」を自分の管理するサイトに掲載した。

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm

 その際、私は「新訳はスタンダードたりうるか?」という副題をつけた。これは亀山訳が大衆化するとともに、この誤訳の多い訳を引用する記事や論文がやがて大手を振って現れる可能性を危惧したからだった。

 その徴候が身近に感じられるにいたって、私は急遽、思いにかられてこの一文を書くことにした。問題が露呈したのは、本会の運営の委員、福井勝也氏のエッセイ(読書会の機関紙「読書会通信」11718頁)で引用されている評論家・佐藤優の文章においてである。福井氏によると、佐藤は文芸誌「文学界」に連載中の「ドストエフスキーの預言」というエッセイで、ゾシマ長老の説話の次のような一節を含むかなり長い文章を亀山訳から引用し、それに対する自分のコメントを付けているのである。

「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい。<以下省略>」(亀山訳2451頁)

この個所で佐藤優はこうコメントする。「ここでゾシマは、罪ある人間を<神の愛の似姿>としている。これは神学的に間違っている。確かに人間は<神の似姿>である。しかし、神は罪を有していない。従って、罪まで含めた人間を神の似姿とすることは、罪の責任を神に帰すことになる」云々。ここで佐藤はあたかもゾシマ長老の考え方を訂正する役回りを演じているかのようであるが、実は亀山訳の不正確さを踏まえての佐藤の解釈そのものが見当はずれなのである。ロシア語原文を見てみよう。(括弧内の訳は亀山訳に沿いながら、ポイントの個所を傍線で示す)

 «Братья, не бойтесь греха людей, любите человека и во грехе его, ибо сие уже подобие божественной любви и есть верх любви на земле. Любите всё создание божие, <・・・> »14-289)(兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれはもはや神の愛に似た行為であって、地上における愛の極致であるからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい)

 亀山は「罪ある人間を愛しなさい」を受けての「神の愛に似た行為」(«подобие божественной любви»を「神の愛の似姿」と訳したことによって、佐藤の見当違いの解釈の原因を作った。早とちりした佐藤は原文を確かめることもなく、前文を受ける 「それは」(«сие»)を「罪ある人間」ととらえ、「神の似姿」に重ね合わせた。まともにロシア語を読める者ならば誰にも明白であることであるが、「それは」(«сие»)は文法的に中性形で、「罪ある人間を愛すること」という「行為」を受けているのであって、男性形である「人間」человек»)を受けるはずがないのである。

 ちなみに先行訳は、「罪ある人間を愛すること」を受けて。「なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもの」(米川訳)、「なぜならそのことはすでに神の愛に近く」(原訳)、「なぜと言うて、それこそが神の愛に近い愛で」(池田健太郎訳)、「なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので」(小沼訳)、「なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり」(江川訳)となっていて、亀山のようなまぎらわしい誤訳をしているものは一つもない。ついでにインターネットで簡単にアクセスできる英訳(ガーネット訳)の当該個所も紹介しておく。

<Brothers, have no fear of men's sin. Love a man even in his sin, for that is the semblance of Divine Love and is the highest love on earth. Love all God's creation,>(斜体―引用者)

 

佐藤優は文春新書「ロシア 闇と魂の国家」で、「亀山訳は、読書界で、「読みやすい」と言うことばかり評価されているようですが、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」(38)と褒め上げている。これは一体どういうことなのか?テクストをまともに確かめもしない人間が誤訳満載の翻訳者を褒め上げる ― ジャーナリズムによって無責任に偶像に祭り上げられた二人が演じるこうした姿はまさに道化芝居か、無知な読者を欺くデマゴギーではないのか?

 私が懸念する問題はここでさらに新たな転回の様相を見せる。福井勝也氏は前述のエッセイで、佐藤の識見を高く評価したうえで(曰く、「その視線の確かさとキリスト教神学への深い見識とが相まって、これまでのドストエフスキー論を塗り替える鋭い切り口に溢れている」)、佐藤優による間違ったゾシマ長老の言葉の解釈、すなわち「罪ある人間」=「神の似姿」を採り入れて、ゾシマの思想にキリスト教からすれば異端の自然宗教的な要素を見出そうとする。そして福井氏は佐藤の所説を受けて、「今回自分はここでのイワンとゾシマ長老との類縁性の根拠として自然宗教的な「神」存在を見つけだすことができると感じた」とのべるのである。誤訳に発する誤解釈が誤解釈を産み、自己増殖してテクストから離れたあらぬ方向にドストエフスキー論が展開する萌しがすでにこんなところに現れている。

もっとも、福井氏の問題意識にあるゾシマとイワンの宗教的な自然感覚の有り様については、別の角度とアプローチで論じられなければならない重要な問題ではある。大岡昇平の『野火』をめぐっての福井氏の問題提起、「原始的、自然宗教的な神」と「ドストエフスキイと共に日本に輸入された文学的な神」の関係も興味深いものである。しかしこれらはいずれも別の手続きと方法で論じられなければならない性格ものであろう。

 亀山誤訳問題に対する私の警戒は、本会の発起人の立場とも無関係ではない。会案内の文書に、例会では「専門家、非専門家の区別はなく、自分なりにドストエーフスキイを深く読み込んでいる報告者が得意のテーマで報告し」とあるが、これはつまり本会の発足の前提として、原文を読めない読者にも信頼できる翻訳の全集が、作品から創作ノートにいたるまで、米川正夫訳を始めとして、一九七〇年代に日本で定着しはじめたこと意味していた。無論、翻訳は絶対的に誤訳を免れることは不可能であるが、ロシア語のテクストは読めなくても、複数の翻訳を対比すれば、おのずと正否が読み取れる状況を私たちは享受できるようになったのである。私のサイトで、詳細に亀山誤訳を告発している森井友人氏の仕事などはその例である。

本会の成立の精神に照らして、例会報告や「広場」論文の引用にあたっては、亀山訳には細心の注意を払う必要があると思う。必ず良心的な先行訳との照合がなさるべきだし、原文を読める研究者もチェックの労を惜しまないであろう。

(なお、この一文は「ドストエ−フスキイの会」会誌192010のエッセイ欄に掲載されている)