翻訳問題雑感

−「考える事をしている」復権−

          

        (初出:「ドストエフスキー曼荼羅」22008

 

                             

一昨年來、光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』が出て、出版社は現在、5巻合わせて100万部の売り上げを豪語し、間もなく『罪と罰』の新訳も華々しく売りに出すそうである。私は亀山郁夫のドストエフスキーに関する仕事のいかがわしさを、ロシア語の知識のない一般読者を欺く、耐震偽装や、いま流行の食品偽装と大差のない背信行為という認識をもって、このところネット上で批判して来た。

その事情は

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm 

のサイトでご覧いただければ、幸いである。

元来、この批判の始まりは、私が率先してというよりは、「ドストエーフスキイの会」の会員でロシア語に通じた読者に促され、さらには先行訳を読んで疑問を抱いた誠実な読者に背中を押されてのことであった。公開している「検証」も「読者の点検」も、実質は読者の作業で、亀山訳に対する本質的な疑問を投げかけるものである。こうした批判の輪はまだ止まることなく広がっていくであろう。

亀山訳は「読みやすい」ということを売り物としているようであるが、誠実な読者の見るところでは、「読みにくい」というのが真相である。順接、逆説のおかしさが散見され、たびたび全体としての文章の流れが壊されるというのが、前記の私のサイトで「検証」をおこなった読者の指摘であった。ただところかまわず若者言葉がちりばめられていて、ムード的にはこれが読みやすいという印象をあたえているらしい。つまりこれこそ偽装の偽装たるゆえんである。

 ロシア文学の翻訳文化を考えるとき、源流には二葉亭四迷という近代日本語の改革者がいたことを忘れてはならない。二葉亭はツルゲーネフの短編「あいびき」の翻訳によって、言文一致による口語訳を実現した。それこそ翻訳における「読みやすさ」に挑戦した先駆者であったが、彼が原文に忠実であろうとして、いかに悪戦苦闘したか、翻訳を志す者は、少しでも思いいたすべきである。「余が翻訳の標準」というエッセイを読むと、原文の音調を何とか日本語に移そうとして、コンマやピリオドの切り方にいたるまで、涙ぐましいまでの努力をしており、その結晶「あいびき」を読むと、その苦心がよくわかる。つまり、二葉亭の翻訳の仕事には、翻訳者のモラルがにじみ出ており、それが読者を感動させるのである。

 「映画を見るように、音楽を聴くように『カラマーゾフの兄弟』を体験してもらうこと」に心がけ、「アルマーニを羽織ったドストエフスキー」に生まれ変わらせようと思った」と鼻歌まじりの亀山氏は、原文は、破壊的な文体で書かれていて、逐語訳では現代人には難解で読むことができないので、自分が読み易く作り変えた、と分けのわからないことをいっている。

200884日付の<慶応MCC「夕学五十講」楽屋blog>参照)

http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2008/08/post_258.html

これはもはや、自分がドストエフスキーの潜称者であると臆面もなく暴露していることにほかならない。これほどひどい現象がマスコミでもてはやされることは、近代日本の文化史上なかったことではないか。

 さて、この一文で私が書いておきたいことは、別にある。それはすでにたびたび論じられた文学史上の有名な話題にほかならない。『罪と罰』を内田魯庵訳で読んだ北村透谷が、ラスコリニコフのセリフ「考へる事!」に感銘し、これを自分の言葉「考へる事をなす」に置き換え、さらにこれが藤村の『春』の主人公のセリフ「考えることを為して居る」という一句に受け継がれることになるという経過のもとで、その端緒の魯庵訳「考える事!」が誤訳かどうかという問題にかかわる。なぜいまこれをとりあげるかといえば、20087月に、日本近代文学研究者の長老・佐藤泰正先生編集の『文学 海を渡る』(梅光学院大学講座56集、笠間書院)が刊行され、佐藤先生が「近代日本文学とドストエフスキー」を書いて、あらためてこの問題を論じておられるからである。

 魯庵が英訳からの重訳にあたって、原文としたのが、ヴィゼッテリ版のウィッシヨウ訳ではないかというのは、この個所が <-thinking>(魯庵訳「考へる事!」)と動名詞で訳されていることから、確からしいとされる一方、その後普及し、現在でもインターネットでも見ることのできるガーネット等の訳が、<I am thinking> となっているため、英語訳の範囲で問題を見ているかぎり、ウィッシヨウ訳が適訳かどうかの疑念はいまだ払拭できずにいるのが現状のようである。そこで、この問題は魯庵訳の「考へる事!」が透谷によって「考へる事をなす」に変換され、さらには藤村の『春』の主人公のセリフ「考へることを為して居る」で有名になって、独り歩きしはじめた日本文学史におけるドストエフスキー受容の独特の現象として扱われかねない気配がある。

 私の手元にはウィッシヨウ訳はないので、木村毅氏がいうように、ガーネット訳は「流麗雅醇」で、ウィッシヨウ訳は「ゴツゴツした不熟の訳文」であるかどうかは、判断はできない。ただしこの個所に関する限り、ロシア語の原文に照らして、ウィッシヨウ訳のほうが、正確であるばかりか、さらには、透谷の「考へる事をなす」、あるいは藤村の「考へることを為して居る」が、ドストエフスキーの原文に照らして、より壷にはまっていると私は考える。そのことを、ロシア語原文をもとに検証してみたい。そこで、原文を引く。訳は拙訳。

 

<…> Прежде, говоришь, детей учить ходил, а теперь пошто ничего не делаешь?

「以前は子供を教えに行っているといってたけど、いまはどうして何にもしてないのかい?」

Я делаю… нехотя и сурово проговорил Раскольников.

「してるさ・・」とラスコリニコフはいやいやながら、ぶっきらぼうにいった。

Что делаешь? 「何をしてるんかい?」

Работу  「仕事をさ」

Каку работу?  「どんな仕事を?」

Думаю, серьезно отвечал он помолчав. 「考える事をさ」と彼はしばし黙りこんでからまじめな調子で答えた。

 

 ここで問題は下線をつけた <Думаю> をどう訳すかである。女中のナスターシャとラスコリニコフの対話の文脈に即すならば、ここでは「仕事」の内容が問われており、答えに窮したラスコリニコフが、「考える事」を仕事にしていると苦し紛れの返事を、しかもまじめな調子でしている様子がうかがわれる。

ちなみに米川訳は「考えてるのよ!」、工藤訳は「考えごとさ」、江川訳は「考えてるんだ」で、いずれも誤訳ではないにせよ、壷にはまりきれない曖昧さを否めない。「考えてるのよ」、「考えてるんだ」では、「仕事」という意味に直接に結びつかないし、「考えごとさ」も何か個別な意味を持ち、一般的な「仕事」からは意味がずれる。

そもそも原語の думать はドストエフスキーと同時代のダーリの辞書を見ても、第一義はмыслить, размышлять で、共に「思索する」「思考する」である。ラスコリニコフは女中相手に、「思索する」「思考する」ことを「仕事」にしているといっているわけである。

 ロシア語には英語のように、動名詞や現在進行形はなく、不完了体というアスペクトに、進行形も反復習慣の事実もふくまれる。こうしたロシア語の特性を踏まえるならば、ガーネット訳の<I am thinking>よりも、ウィッシヨウ訳の<thinking>(動名詞)のほうが正しく、魯庵訳の「考える事!」が適訳であることはいうまでもない。さらに対話の文脈を踏まえるならば、透谷の「考へる事をなす」、あるいは藤村の「考へることを為して居る」がもっと壷にはまった適訳ということができる。

 翻訳の場合は原語の知識があっても、言葉をなぞっただけで正しく訳せるわけではない。

たとえ原語の知識はなくとも、内在するテクストの論理を誠実に読み解くセンスのある読者ならば、誤訳やテクスト歪曲を見破ることができる。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』をめぐる誠実な読者からの反応はその証左であるし、はるか昔に遡って、透谷や藤村によるラスコリニコフの言葉の受けとめかたも、翻訳という間接行為、媒介行為を突き抜けて、鋭敏な文学的感性がテクストの本質を一気に射抜いた結果にちがいない。