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亀山郁夫訳『悪霊1』アマゾン・レビュー原稿

新訳の読みにくさ・文脈の誤読 ―ドストエフスキー・ファンの願い―

 

                   2010.10.1  森 井 友 人

 

この一文はアマゾン用に書いたものですが、少々長すぎたためか掲載に

至りませんでした。代わってここに載せて頂くことになりました。

 

 

『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』と同様、この新訳にも読みにくさを感じた。「読みにくい」というのはテキストの表面上のストーリーのことではない。その背後にある心理と論理の流れ、つまり、文脈のことである。新潮文庫の江川訳と比較して一例を挙げてみたい。語り手の「私」による叙述である。

 

まずは、亀山訳(p.440):

「ある瞬間における、その場にいあわせた人びとの表情を描写するのはなかなか難しい。たとえば、驚きのあまり茫然自失しているマリヤが、彼(=スタヴローギン)を迎えようと立ち上がり、まるで哀願するかのように両手を合わせたのをはっきりと記憶している。と同時に、彼女のまなざしのなかに、歓喜の色が、なかば狂気じみた歓喜の色が浮かびあがり、その顔がくしゃくしゃになったのを覚えている。それは、どんな人間でも容易には耐えがたいほどの歓喜だった。それはことによると、その両方、つまり驚きと歓喜の二つだったのかもしれない。しかし、そこでわたしが彼女のほうにすばやく体を近づけたのを覚えている(ほとんど隣りあって立っていたのだ)。彼女がいまにも卒倒しそうに思われた。」

続いて、江川訳(p.350):

「ある種の瞬間における人間の顔つきを描写するのはきわめて困難なことである。たとえば私は、マリヤが驚愕のあまりうつけたようになりながら、彼を迎えて立ちあがり、まるで懇願でもするように両手を組み合わせたのをはっきりと記憶しているが、と同時に私は、彼女の眼差しに歓喜が、何か気違いじみた歓喜が、彼女の顔をくしゃくしゃにしかねないほどの歓喜が、人間にはとても耐えきれないほどの歓喜が浮かんだことも思い出すのである。おそらくそのどちらもが、つまり驚愕と歓喜の双方があったのだろう。しかし私は、彼女のほうへすばやく近寄ったことを覚えている(私は彼女のすぐそばに立っていた)。彼女がいまにも卒倒しそうな気がしたからである。」

 

この文章では、「たとえば」以下の部分がその前の「表情の描写の困難さ」の説明となっている。ところが、亀山訳ではその論理構造が見えてこない。これは長文を切って構文が崩れたのと、その分も含めて、文と文のつながりをうまく示し得ていないことが原因ではないか。(「それはことによると、その両方…」の「それ」は一体なにを受けるのか、など。)もっとも、逆に言えばそれは、テキストの論理構造を十分に把握しきれていないがための結果とも考えられるのだが…。最後の一文が舌足らずに感じられるのも同様で、前文との関係をはっきり示していないからであろう。なお、亀山訳の「その場にいあわせた人びと」は恣意的な付け足しないし誤訳と思われる。Web上のテキストを確かめたところ、原文では江川訳のようにただ一般的に「人間(人びと)」とあるだけである。(ついでながら、この例に限らず、概して江川訳の方が明晰で、文章が引き締まってきびきびしているように私には感じられた。例えば、「ここはひとつ正当に評価してやらなくてはならないところだが…」(亀山訳p.89)→「公平に言って…」(江川訳p.70)など。)

 

さて、上の例は日本語として文脈が読みにくいケースだが、それだけではない。新訳には、訳者がそもそも文脈を誤読しているケースもかなりある。これが誤訳につながる。これも一例を挙げてみたい。ステパン・ヴェルホーヴェンスキーの物語詩が外国の革命的な文集に無断で掲載された時の当人の反応を描写する箇所である。

 

「外国から送られてきたその文集を手にした彼は(……)毎日どこからか祝電のようなものが送られてくるのを待ちわびながら、そのくせ人を見下すような外面を装っていた。祝電は一通も送られてこなかった。そこでようやくわたしと仲直りしたわけだが…」(亀山訳p.22

 

この「祝電」が誤訳であることは、文脈から見て取れる。

そもそもステパンは、反体制の進歩的知識人として扱われることに自分の存在意義を見いだしている人物である。だからこそ、語り手の「私」が「この詩も今となってはまったく罪のないものだから出版してはどうか」と主張した時に不満の色を見せて拒絶し、よそよそしくなったのだし、また、だからこそ、この件で彼は慌てふためきながらも、内心気をよくしているのである。この最後の「内心気をよくして」の記述に気を取られて、「祝電を待ちわびながら云々」と訳してしまったのであろうか。だが、事態はまるで逆である。「祝電」を送られるようでは、自分の詩が今となっては罪のないものでしかないことを証明することになってしまう。そんな事態をステパンが待ち望むはずがない。待っていたのは、この件で身に降りかかるかもしれない危険(例えば弾圧等)について警告するような内容の電報、つまり、自分が今も当局に一目置かれる反体制の進歩的知識人であることを傍証してくれるような電報のはずである。したがって、ここに「祝電」などという言葉が使われているはずがなく、原文に単に「電報」とあったのを訳者が勝手に「祝電」と「意訳」したと推測がつく。実際、Web上の原文を見ると、単に「電報」と書かれているだけであり、江川訳ほか先行訳でもむろんそのまま「電報」と訳されている。

ちなみに、そのような電報が一通もこなかった結果、ステパンも暗黙裏に半ば「私」の主張を認めて仲直りするのだが、亀山訳を信じて読んだ場合、その脈絡が不明となるだけでなく、ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。

誤訳はそもそもテキストを読めていないところから生じるのであろうが、この箇所は、単に文脈(つまり物語の底の心理と論理の流れ)を誤読したばかりでなく、その誤読に基づいてテキストを改変までして誤訳となってしまっているわけで、問題は大きい。(振り返ってみれば、先の「その場にいあわせた人びと」の恣意的な付け足しもまったく同様である。原文ではある種の瞬間における「人」の表情について一般的に語っているのに、これを誤読し、それに合わせて原文の方を変えてしまっているのである。)

 

以上のように、今回の新訳も残念ながら、誤訳(恣意訳)、不適切訳、日本語の誤用などの不備が多く、総じて文脈が読みにくいと評さざるをえない。(日本語の例では、「変わった好みに対する嗜好」(p.236)、「慙愧に思う」(p.315)などなど。―「慙愧」は辞書によるとそれだけで「恥ずかしく思うこと」とのこと。)また、重複訳の消し忘れ(p.140冒頭)、リーザの呼びかけの「あなた」から「おまえ」への唐突な変換(p.408)など、推敲不足も目立つ。

ともあれ、訳者の亀山郁夫氏が今回のブームの立役者であることは間違いない。だからこそ、先を急ぐ前に、まずは大量誤訳を指摘されている『カラマーゾフの兄弟』に立ち戻り、その間違いを徹底的に正すところから再出発していただきたい。――読者のためにも、そして、何よりドストエフスキーのためにも。

これが一ドストエフスキー・ファンの心から願いである。(以上、僭越・非礼ながら、長々と書かせて頂きました。)