亀山郁夫訳『悪霊』U

「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳

 

 

亀山郁夫訳『悪霊T』を検証する

                       

木下豊房

                            (2010/10/04)

 

まえがき

 

亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の翻訳の実態が、ミリオンセラーのうたい文句にもかかわらず、いかに多くの誤訳や文体改ざんを満載したものであるかを、5分冊のうちの第1冊に限ってにせよ、私たちはかなり詳しく「検証」、または「点検」し、このサイトで公開してきた。その後もマスコミ、マスメディアに度々登場し、ドストエフスキー翻訳・研究の第一人者のイメージを一般読者に広めてきた亀山氏の新訳『悪霊』の力量、実態はどのようなものか、『カラマーゾフの兄弟』検証時の出遅れを反省して、私は今回は早々と「検証」の試みに着手した。

 さすがに批判の目を気にしてか、『悪霊』では『カラマーゾフの兄弟』の時のような、恣意的な行変えやテキストを離れた目に余る改ざんはいくらか影をひそめている。とはいえ、それは程度の問題、量の問題に過ぎなくて、同じ性質の誤訳、改ざんの構造を引きずっていることには違いがなく、問題の本質は変わらない。

その代表的な例を分類して、幾つかを拾ってみよう。例文の最後の括弧内数字は、「検証」リストの番号に対応している。

 

1)     ロシア語の読解力がある者ならば、犯さないような初歩的な誤訳。

 テキストではスタヴローギンに耳を噛まれた老人が、そのショックのために、「発作のようなものを起こした」と一回体の動作(完了体)で書かれているのに、亀山訳では、老人の身にその後、「何かしら発作のようなものが起こるようになった」と、反復性の動作(不完了体)に受け取れるように訳されている(15の項)

 足の悪いマリヤ・レビャードキナが教会に現れる場面で、「彼女の足がもう少し遅かったら」中に入れてもらえなかったろうと、動作の意味で訳すべきところを、亀山訳では「彼女がもうすこしでも遅れていたら」中に入れてもらえなかったろうと、遅刻の意味に取り違えている。これではマリヤが足を引きずっている情景が浮かばない。(40

レビャードキンがワルワーラ夫人に対して、「奥さまはこれまで苦しんだこと」がありますかと問いかけると、夫人がその質問の裏を読んで、あなたが言いたいのは、「あなた自身が誰かのために苦しんだとか、苦しんでいる」ということでしょうと問い返す。このくだりが亀山訳だと、「わたしが(つまり夫人が)だれのためにくるしんできたか、でなければ現にくるしんでいるか」を聞きたいのですか、ということになる。これはまるっきり主語を取り違えた訳で、「苦しんだ」「苦しんでいる」の動詞の語尾(2人称)を見れば初学者でも間違えようのない誤訳である。(43

このようなきわめて初歩的な、信じ難い誤訳を目にすると、これはロシア語の知識のない人間が訳した(?)あるいは、先行訳を土台にリライトしたとしか考えられない。光文社亀山翻訳工房の無責任な集団的仕業ではないのかと勘ぐりたくもなるのである。

 

2)     自分の好みで構文を書き換えたり、訳文、訳語に過度の主観的ニュアンスを交える。

その幾つかの例:

小説冒頭の数行からして、この手の恣意的な構文改ざんが行われている。語り手の私は、ステパン氏の身の上話から説き明かすにあたって、「自分の力不足で、いささか遠回りして話を始めなければならない」と、読者をいざなうための控え目の挨拶言葉の調子で「自分の力不足で」(副詞句)とのべているのに対し、亀山訳は、この副詞句のフレーズを勝手に切り離して、独立した文に仕立てて、係り受けを不明瞭にし、論旨からいっても、文体上から見てもはなはだバランスの壊れた訳文にしてしまっている。(「検証」1の項)

「非常に驚いた」「ひどくびっくりした」程度の表現に「腰が抜けるほど驚いた」といった過剰なニュアンスをつけ加えている。(239などの項)

ステパン氏の「人生に変化が生じた真の原因は」という語り手の中立的な表現を、「彼が人生の道を誤ったほんとうの原因は」と主観的な評価を交えて訳している。(3

ステパン氏が「夢」を気にするようになった、の「夢」を「夜見る夢」と勝手に語句をつけ足して訳している。午睡の習慣のあるロシア人にとって、夢は夜だけに見るとはかぎらない。(20

マリヤ・レビャートキナのシャートフに対するごく一般的な呼びかけ「ねえ、あんた」を「大好きよ」と訳している。(38

また作中人物カルマジーノフ(ツルゲーネフがモデルとされる)の作品に関連して、テキストでは「イギリスの海岸で遭難した」と記述されているのに、これを「ドーバー海峡あたりで遭難した」と勝手に改ざんして訳している。(25

 

翻訳者の特権と勘違いしたこの種の、訳語の主観的な色づけ、歪曲は、改ざんは亀山訳の一般的な特徴といってよい。これに類した例は、この「検証」と同時に公開する森井友人氏の「アマゾン・レビュー原稿」でも取りあげられているので、ご一覧いただきたい。

 

3)     前後の文脈を考慮しない見当違いの訳

語り手がのべるステパン氏の人物像で、亀山訳に「そういう彼も根は良心的といってもよい人物で(つまりときどきそうなるのだが)」というくだりがあるが、「根は良心的」と「つまりときどきそうなる」という叙述には論理的整合性がない。ちなみにテキストには「根は」と訳せる語はない。

パーベル・ガガーノフという紳士に関して、彼の口癖「自分は他人に鼻面を取って引き廻させはしない(他人にだまされはしないの意)」の語義通りの意味に悪乗りして、スタヴローギンが公衆の面前で、この紳士の鼻面をつまんで引きまわすスキャンダルのエピソードはよく知られているが、亀山訳ではこのガガーノフのセリフを、「いいや、わしをだまそうったってそうはさせませんよ。洟もひっかけるもんですか」とすることによって、この紳士のセリフとスタヴローギンのスキャンダル行為の照応関係が見えなくなっている。これは小説のさわりにかかわる見当違いもはなはだしい訳であり、「洟もひっかけるもんですか」は「洟」と「鼻」を引っかけるつもりでつけ足したのかもしれないが、まったく意味をなさない。

 

4)     読み易さをねらって、と思われる構文、文体崩し

 いかにも読み流しに便利なように、ドストエフスキーの重層的、立体的な文章の構造を崩して、平面的に置き並べ、それを辻褄の合うように再構成しようとして、破綻し、論旨の重心を見失っている例。

ロシア人の国民性のレベルを説明するのに、ドイツ語学校に在籍するロシア人がドイツ人教師に仕置きを受けながら教育される喩えを使ってのステパン氏のセリフの重層的な長い構文を崩して、亀山訳は喩えを羅列し、結果的にはこれが喩えなのか、ドイツ語学校の実態についてのくだくだしい解説なのか、文意の核心がすんなりとは読みとりにくいものになっている。(12

同時通訳式に頭から訳し下ろしをすることによって、全体の構造を見失い、語の間違った係り具合を放置しているケースも多い。(18) (30)49

その典型的な実例 

(亀山訳)「イギリスのある高名な家族を追い出したんですよ、つまり、文字通り、教会から」 

これは正しくは「教会から、文字通り追い出した」である。(18

(亀山訳)「リプーチン、あなたはあまりに知りすぎている、ここにきたのだって、その類のくだらん話を・・・・それに輪をかけて悪い話を伝えるためでしょう!」

(試訳)「リプーチン、きみがやってきた唯一のねらいは、その種の何かいまわしい話….あるいはもっとひどい話をするためだってことを、自分自身よくよく承知してのことなんだろう!」(30)

この類の亀山訳がいかに杜撰なものであるか一目瞭然であろう。

 

5)     あまりに違和感を感じさせる表記

パッサージュ(通廊式のマーケット)を「勧工場」と訳し、「パッサージュ」とルビを振っているが、新訳ならば、いまさら古めかしい「勧工場」はないだろう。その一方で、「古物市場」を「リサイクル市場」と訳す感覚は場当たり的なものを感じさせる。(11)

またピョートル・ヴェルホーヴェンスキーが「誰かから個人的な重大な依頼を受けて」という個所を、「だれかに個人的ながら重大なミッションを託され」と訳し、リーザが出版の「経験がまったくないので」協力を必要としているというくだりを、彼女には「ノウハウがまるっきりないこともあって」と訳すなど、亀山訳のカタカナ表記の使用には、時代背景から見ても、無定見ぶりが感じられる。(34

 

以上、特徴的な例を拾ってみた。そのほかの誤訳、不適切訳については、以下の「検証」を通覧していただきたい。私がこの「検証」でとりあげた問題個所はおそらく全体の何分の一かに過ぎないであろう。私自身今後もリストを補充する可能性があるし、また同憂の士による別稿の形で公開することもありうることを予告しておく。

 

ロシア語原文はアカデミー版30巻全集第10巻からの引用、亀山訳は光文社古典新訳文庫、米川訳は河出書房新社全集第9巻、小沼訳は筑摩書房全集第8巻、江川訳は新潮文庫からの引用で、各引用文前後の数字は引用元のページを示す。

 

なお亀山訳の最後尾「読書ガイド」で、「シベリアでの十年間の苦難を経て、転向の書とされる『地下室の手記』を書いた後は、みずから主宰する雑誌をよりどころに、「土壌主義」と呼ばれる右翼的なイデオロギーを公にし、ロシア国内の革命運動に対してつねに厳しい態度をとってきた」(502頁)とのべられているが、これは粗雑な、間違った記述である。まず「土壌主義(ポーチヴェニチェストヴォ)」を一概に「右翼的なイデオロギー」ということはできない。確かにシベリアから帰還後、ドストエフスキーはネクラーソフ、サルトィコフ=シチェードリンの「現代人」誌一派やチェルヌイシェフスキーなど、より左翼的な陣営とは論争関係にあったが、カトコフなどの保守派とも同調せず、その中間者的立場ゆえに、カトコフ一派から背後を刺される形で、みずからの雑誌「時代」の発禁処分に追いやられたのである。1860年代のドストエフスキーの思想的立場を「ガイド」のように単純化することは、読者を正しいドストエフスキー理解に導かない。

また「転向の書とされる『地下室の手記』」という暗示的ないい方も問題で、このネーミングは昭和9年に日本で、『悲劇の哲学』と題して翻訳された、レオ・シェストフの『地下室の手記』論を含む一冊が当時の左翼知識人の転向に深い影響をあたえたことと関連している。「転向」という言葉自体、日本的な「表現」であって、『地下室の手記』をも含めて、複雑な語りの構造を持つドストエフスキーの作品の解釈に安易に関係づけられる概念ではない。

 

 

第1章      「序に代えて」

 

テキスト

7

Проступая к описанию недавних и столь странных событий, происшедших в нашем, до сих пор ничем отличавшемся городе, я принужден, по неумению моему, начать несколько издалека, а именно некоторыми биографическими подробностями о талантливом и многочтимом СтепанеТрофимовиче Верховенском. Пусти эти подробности послужат лишь введением к предлагаемой хронике, а самая история, которую я намерен описывать, еще впереди.

亀山訳

13

今日まで何ひとつきわだったところのないわたしたちの町で、最近たてつづけに起こった奇怪きわまりない事件を書きしるすにあたり、わたしはいくらか遠回りを覚悟して、まず手はじめに、尊敬する才能豊かなステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェンスキー氏の経歴にまつわる細かい話をいくつか紹介することから始めなくてはならない。なにぶんこのわたしに文才が欠けているためである。といってもこれらの細かい話は、このクロニクルの前置きをはたすだけのもので、わたしがもくろんでいる物語の本編は、そこから先の話ということになる。

コメント

小説巻頭、数行にして、早くも誤訳、恣意訳の疑惑濃厚である。原文黄色マーカー付のフレーズは、副詞句「能力がないために」、「力不足で」の意で、「いくらか遠回りして始めなければならない」に係っている。きわめて論理的に曖昧さのない修飾関係であるのにかかわらず、訳者はこれを意図的にか、無神経にか無視し、文脈を壊している。亀山訳では、この副詞句が切り離されて、別立ての文に仕立てられているために、どの語句に係っているか曖昧であるばかりか、その後に続く文章の流れを阻害する夾雑物と化している。単純な誤訳を超えて、確信犯的な文体いじり、文体破壊である。

米川訳

 

 

 

 

 

小沼訳

 

 

 

 

 

江川訳

奇怪な出来事の叙述にとりかかるに当たって、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話しを始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーという、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、ややや詳しい身の上話から始めようというのである。この身の上話、一編の物語の序言がわりのようなもので、わたしの伝えようと思っている本当の事件は、ずっとさきのほうにあるのだ。7

きわめて奇怪な事件の叙述に取りかかるに当たって、その方面の能力に欠けた私は、それとはいささか縁遠い、つまり才能に恵まれた最も尊敬すべきステパン・トロフィーモヴィッチ・ヴェルホヴェーンスキーの詳細な経歴の一部を紹介することから、はじめなければならない。この詳細な記述には本題の記録の序論の役を勤めさせるだけであって、私が叙述しようと思っている当の物語は、まだずっと先のことなのである。8

最近、相次いで起こったまことに奇怪なる事件の叙述にあたり、私は、おのが非才のいたすところとはいえ、いささか迂遠なところから、すなわち、才能ゆたかにして最も尊敬すべきステパン・トロフィーモヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキー氏の一代記にかかわる若干のディテールからして、稿を起こすことを余儀なくされている。とはいえこのディテールは、本題の物語のほんの前置きをなすにすぎないのであって、私が記述しようとするできごとそのものは、追ってまた展開されることになるのである。7

 

テキスト

Я только теперь, на днях, узнал, к величайшему удивлению, но зато уже в совершенной достоверности, что Степан Трофимович проживал между нами, в нашей губернии, … 

亀山訳

16

<つい先だっても、人づてに話を聞いて腰が抜けるほど驚いたことがある。これはきわめて信頼できる筋からの話だが、ヴェルホヴェンスキー氏がわたしたちの県のこの町に住みついた理由>

コメント

原文は「非常に」、「大いに」と最上級の形容詞が使われているとはいえ、「腰が抜けるほど」とは書かれていない。いたずらに誇張したこのような訳語に訳者の主観が入りこんで、テキストの歪曲にまでいたる危険性が感じられる。「驚いた」内容はそれほど大げさなものではない。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

わたしは今度はじめてつい二、三日前、こういう話を聞いて非常にびっくりした8

・・・ということを知って、ひどくびっくりしたものであるが、その代わりこれは十分に信頼すべき事実なのであった。10

それが絶対確実な筋からの話であるだけに、大いに驚き入った次第である。10

 

 

テキスト

10

А если говорить всю правду, то настоящей причиной перемены карьеры было еще прежнее и снова возобновившееся деликатнейшее предложение ему от Варвары Петровны Ставрогиной, …

亀山訳

23

<彼が人生の道を誤ったほんとうの原因は、陸軍中将夫人でたいへんな金持ちだったワルワーラ夫人から、すでに以前にも持ちかけられ、その後また持ち出された、しごくデリケートな提案にあった> 23

コメント

原文では「変化をもたらした」、「変化を来たした」であって、「道を誤った」、「狂わせた」といつた価値評価はここにはない。江川訳も誤訳。

米川訳

小沼訳

江川訳

彼の社会生活に変化を来たした真の原因は  11

彼の経歴に変化をもたらした真の原因は   13

彼の人生のコースを狂わせた真の原因は、  15

 

テキスト

Исследований не оказалось; но зато оказалось возможным простоять всю остальную жизнь, более двадцать лет, так сказать, «воплощенной укоризной» пред отчизной, по выражению народного поэта:

亀山訳

26

民衆詩人ネクラーソフのひそみにならえば、いわば「血肉と化した非難」として祖国の前に立ちつづけることができた。>

コメント

「血肉と化した非難」とは、例え詩句だとしても、何ともこなれの悪い、洗練されていない日本語である。まだしも「非難の権化」、「非難の化身」、あるいは「叱責の権化」(米川)あるいは、意味をとれば「憎まれ役のご意見番」(小沼)のほうがましである。

 また「国民詩人」あるいは「民衆詩人」が「ネクラーソフ」だとはテキストでは明記してはない。小説そのもの、語り手もフィクショナルなのものであり、材源として仮に歴史上の実在の人物がイメージされているとしても、それは注で処理さるべきものであろう。テキスト改ざんの第一歩である。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

国民詩人(ネクラーソフをさす)の表現をかりると、『叱責の権化』として、祖国の前に立ちつづけ得たのである。12

国民詩人の表現を借りれば、いわゆる「憎まれ役のご意見番」として祖国の前に・・・14

国民詩人の表現を借りるなら、いわば《生ける良心》として、彼は祖国の前に・・・18

 

 

テキスト

12

Замечу лишь, что это был человек даже совестливый ( то есть иногда), потому часто грустил.

 

亀山訳

28

<そういう彼も根は良心的といってもよい人物で(つまりときどきそうなるのだが)>

 

コメント

「根は良心的」と「(つまりときどきそうなるのだが)」はどう論理的に整合するのか?「根は」はテキストにはない余分の言葉である

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

彼は良心の働きの強い人であったから(もっとも、これはときどき起こることなので)1213

彼はどちらかと言えば良心的な人物のほうだったので(と言ってもいつでもというわけではなかった) 14

彼はどちらかというと良心的な人物で(つまり、時によってということだが)19

 

 

テキスト

12

В средине самой возвышенной скорби он вдруг зачинал смеяться самым просто-народнейшим образом

亀山訳

28

<やぶから棒におそろしく庶民的な高笑い(をはじめることがあったからである>

コメント

テキストの直訳は「ごく素朴で、このうえなく庶民的な笑い」で、「きわめて庶民的な開けっ広げな笑い」といった程度の意味、「高笑い」というあまりにフィジカルに強調されたイメージには違和感がある。小沼、江川訳も同断。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

きわめて高潔な悲哀に沈んでいるかと思うと、ひょっこり出しぬけに、朴訥な農民でなければ聞かれないような開けっ拡げな笑い声を立てる 13

たとえばきわめて高尚な悲嘆に打ち沈んでいる最中に、だしぬけに、それこそ無学文盲の百姓のように大きな声で笑い出したりするのだ。15

たとえば、しごく高尚な憂愁に沈んでいる最中、だしぬけに、思いきり俗っぽい平民的な高笑いをはじめたりするし、19

 

テキスト

13

Нельзя… честнее… долг…я умру, если не признаюсь ей во всем, во всем!

 

亀山訳

31

<わたしは思わずおぞけだって、どうかその手紙を出さないでほしいと懇願した。「だめです・・・・もっと誠実に・・・・義務なんですから・・・・なにもかも洗いざらい告白しないと、>

コメント

原文黄色マーカーのчестнее の訳は先行訳すべてを含めて、問題があるように私には思われる。これは 挿入句 «честно говоря»の比較級«честнее говоря»の言いよどみからくる略で、「より正直に、本当のことをいうと」で次の「義務」に係っている。「より正直にいうと、これは義務なんだ」と読みとるべきであろう。それでないと、この単語は文脈に収まらない。                

米川訳

 

 

小沼訳

 

江川訳

わたしはぎょっとして、その手紙を出さないように懇願した。

「いけない・・・・公明正大にやらなくちゃ・・・・義務だ・・・・なにもかも・・・・すっかり奥さんにうち明けてしまわないくらいなら、<・・・> 」14

「いや、それはいけない・・・・もっと正直にならなければ・・・・それが私の義務なんだ<・・・> 」16

「だめです・・・・誠実に・・・・義務なんですから<・・・>31

 

テキスト

16

 

И до того бывало, мучился, что заболевал своими припадками холеры. Эти особенные с ним припадки,

 

亀山訳

33

<時によると煩悶が高じて、コレラまがいの下痢を起こすことがあった。持病ともいえるこの下痢は、>

コメント

下痢はコレラの主たる症状の一つであろうが、原語は「発作」で、先行訳はこの訳をとっている。

米川訳

小沼訳

江川訳

ついには持ち前の擬似コレラめいた発作を起こすほど煩悶する。15

持病の急性胃腸炎の発作を起こすほど、悩み苦しむことがよくあった。16

時には、煩悶のあまり、擬似コレラめいた持病の発作があるくらいだった。

 

テキスト

20

Варвара Петровна, вследствие женского устройства натуры своей, непременно хотела подразумевать в них секрет. Она принялась было сама читать газеты и журналы, заграничные запрещенные издания и даже начавшиеся тогда прокламации (всё это ей доставлялось)

亀山訳

46

<ワルワーラ夫人は、女性たる自分の気質からして、それらの理念にどうしても秘密をかぎとらずにはいられなかった。そこで彼女は、新聞や雑誌、外国で出ている出版物、当時出はじめていたアジ文(そういった類のものすべてを入手していたのだ)まで手にとって読んでみた>

コメント

黄色マーカーの単語は「禁止された出版物」の意で、発禁本、禁制本のこと。これはワルワーラ夫人の好奇心ぶりを示す重要な一語。米川訳、亀山訳はこの意味を落としている。

米川訳

小沼訳

 

江川訳

彼女は新聞雑誌を初め、外国の出版物や、当時もう出はじめていた檄文 20

そこで彼女は新聞や雑誌や、外国の秘密出版物や、当時そろそろ出はじめていた檄文の類にまで、 22

彼女は新聞雑誌や、国外で出される禁制出版物や、当時ぼつぼつ出はじめていた檄文にいたるまで    34

 

10

テキスト

21

Степан Трофимович проник даже в самый высший их круг, тогда, откуда управляли движением. До управляющих было до невероятности высоко, но его они встретили радушно, хотя, конечно, никто из них ничего о нем не знал и не слыхал кроме того, что он «представляет идею»

亀山訳

49

<その連中は、高嶺の花といってもよいほどかけ離れた存在だったが、ヴェルホヴェンスキー氏を快く迎えてくれた>

コメント

革命運動のリーダー達との距離をピラミッド的な上下の感覚で、「信じがたいほど高い所」と語り手が叙述しているのであって、「高嶺の花」といったステパン氏の主観的な羨望のニュアンスは、原文では読みとれない。むしろ革命家たちがピラミッドの高みからステパン氏をあしらっている様子が語られているのである。16

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

こういう支配者の階級は、ちょっと信じかねるくらい高いところにあったが、それでも彼らは愛想よく氏を迎えた 21

こうした指導者たちに会うのはちょっと信じられないほどたいへんな難事であったが、それでも彼らは愛想よく彼を迎え入れてくれた。23

この指導者たちは雲の上ほどにもかけ離れた存在だったが、それでもステパン氏は快く迎えられた。37

 

11

テキスト

22

24

 

о каком-то скандале в Пассаже

и вы вдруг встречаете ее уже на толкучем, 

亀山訳

52

57

 

勧工場(「パッサージュ」とルビ)で起こった暴動スキャンダル」>

 <そのうちリサイクル市場のどこか隅っこでいきなり出っくわすはめになる>

コメント

訳者の言語感覚のちぐはぐさを示す一例。「パッサージュ」=アーケード式のマーケットを意味する明治・大正時代の古めかしい用語「勧工場」を使う反面、リサイクルという概念もなかった時代の「古物市」を「リサイクル市場」と訳すのは、いかがなものか。「勧工場」にルビをふるくらいなら、「パッサージュ」とカタカナ表記のほうがまだましであろう。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

勧工場で見苦しい騒ぎが始まったという噂 22

古道具市の泥の中へ    24

マーケットでまたスキャンダルめいたことが起こった話とか 24

古物市に並べられ   26

勧工場(「パッサージュ」とルビ)でのスキャンダル

古物市の隅っこか何かに  43

 

12

テキスト

32

-- Друзья мои, -- учил он нас, -- наша национальность, если и в самом деле «зародилась», как они там теперь уверяют в газетах, -- то сидит еще в школе, в немецкой какой-нибудь петершуле, за немецкой книжкой и твердит свой вечный немецкий урок, а немец-учитель ставит ее на колени, когда понадобится 

亀山訳

81

<「いいですか、きみたち」と彼は教えさとすように言った。「ロシアの国民性なんてものは、じっさいいま新聞でさかんに書きたてられているとおり、それが本当に誕生したとしても、まだ小学校の段階にとどまっていましてね、そこらのドイツ式ペテルシューレじゃ、ドイツ語の教科書を前に、お定まりのドイツ語の文章を丸暗記させ、ドイツ人の教師なんか、必要とあれば生徒をひざまずかせることまでする。>

コメント

ここはロシアの国民性のレベルを、ドイツ語学校でドイツ語をドイツ人教師にたたきこまれているロシア人の例えで、のべたものだが、亀山訳で読む限り、それが例え話として完結せず、ドイツ語学校についての無味な饒舌で終わっている。

安易な文体崩しの結果、比喩を比喩として完結させることができず、込み入った文脈を日本語に移しきれていない。

米川訳

 

 

 

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

「諸君よ」と彼はわたしたちに説いて聞かせた。「わが国民性なんてものは、かりにいま新聞などで喧しくいっているとおり、本当に生まれ出たものといても、まだやっと小学校時代だよ、ドイツ学を基礎としたペテルシユーレあたりで、ドイツ語の本をかかえながら、一生懸命に、いつも変わりないドイツ語の学科を暗記しているといったところさ。そして、ドイツ人教師は必要な場合、罪として膝をつかすこともあるんだよ。35

われわれのナショナリズムなんてものは<・・・>ドイツ語の学科を一生懸命に暗記しているといったところなんだよ。ドイツ人の教師は、もしその必要があれば、罰としてひざまずかせることだってできるんだ。37

ロシアの国民精神なんぞ、<・・・>万年変わらぬドイツ語の宿題を暗誦させられている、で、何かといえばドイツ人教師に罰としてひざまずかせられているです。63

 

13

テキスト

34

Обыкновенно, проговорив подобный монолог (а с ним это часто случилось), Шатов схватывал свой картуз и бросился к дверям, в полной уверенности, что уже теперь всё кончено и что он совершенно и навеки порвал свои дружеские отношение к Степану Трофимовичу. Но тот всегда успевал остановить его вовремя

 

亀山訳

87

ふつうなら、これに類したひとり語りを終えると(しばしば生じたことである)、シャートフは帽子をつかんで勢いよくドア口のほうに向かっていったものだが、そのときの彼は、これでヴェルホヴェンスキー氏との友情に満ちた関係も完全に、永久に断ち切ったと言う自信に満ちあふれていた。ところがヴェルホヴェンスキー氏は、いつもどおりほどよいところでうまく彼を引きとめた

 

コメント

「ひとり語り」は「ひとり芝居」と同じ意味あいの演技のスタイルを示すもので、他者との関係性を示す「モノローグ」「独白」とは本質的に違う。

この場面はシャートフとステパンの関係のいつも繰り返されるパターンをのべたものだが、亀山訳は、いつもは<ふつうなら>こうこうだが、今回は<そのときの彼>はこうこうだと特定化して、意味を取り違えている。<そのときの彼>という語は原文にはない。先行訳と比較してもその間違いは明白である。

米川訳

 

 

 

 

小沼訳

 

 

 

 

 

江川訳

たいていいつもこんなふうの独白をいった後で(彼はよくこんなことをやった)、シャートフはいきなり粗末な帽子を引っつかむと、そのまま戸口を目ざして飛び出したものである。彼はもう万事了した、自分とスチェパン氏との交遊は、これで永久に終わりを告げたのだと、固く信じきっていた。しかしこちらはいつも機敏に彼を引きとめた。37

いつもたいてい、このようなモノローグをしゃべり終わると、(彼にはこんなことはしょっちゅうだった)、シャートフは学生帽子を引っかんで、戸口のほうへ駆け出すのであった。もうこれでなにもかも終わってしまった。自分のスチェパン・トロフィーモヴィチに対する友好的な関係を、これで完全にしかも永久に断ち切ってしまったのだと、彼は信じて疑わなかったのである。だが相手はいつもその前にうまく彼を引きとめるのであった。39

たいていの場合、こうした独白をぶち負えると(彼にはよくあることだったが)、シャートフは自分の縁なし帽を引っつかんで、勢いはげしく戸口のほうへ向かったものだ。それは、もうすべては終わった、ステパン氏との友人づきあいも、これで永遠に断ち切られた、と信じきっているふうであった。だが、ステパン氏はいつも、よい潮時をつかんで彼を思いとどまらせるのだった。68

 

 

第2章 「ハリー王子。縁談」

 

14

テキスト

38

Павел Павлович Гаганов, человек пожилой и даже заслуженный, взял невинную привычку ко всякому слову с азартом приговаривать: «Нет-с, меня не проведут за нос

 

亀山訳

101

<この町のクラブの最古参の一人に、ピョートルパーヴロヴィチ・ガガーノフという、かなり年輩でそれなりに功績もある人物がいたが、この人物は何かにつけ、ついかっとなっては「いいや、わしをだまそうったってそうはさせませんよ。洟もひっかけるもんですか」と口にする罪のない癖があった>

コメント

これはまったくの不適切訳である。いずれの先行訳にも見られるように、原文の語義は「鼻をつかんで引き廻させるものか」で、ここを押さえないと、次に続く場面、スタヴローギンがガガーノフの鼻をつかんで引きまわす場面との照応関係が明らかにならない。

なおこの「鼻をつまんで引き廻す」のフレーズには「だます」「ペテンにかける」の口語的な意味があり、カガーノフ本人の口癖の意味は「おれをだませるもんか」であったであろう。しかしここでは「鼻をつかんで引き廻させはしない」という語義がポイントとなっている。「洟もひっかけるもんですか」は訳のわからない迷訳。

 (以下、以前の記述を訂正)1025

ちなみにガガーノフの名前であるが、小沼訳だけがパーヴェルで、他の訳はすべて ピョートルとなっている。アカデミー版第10巻(38頁)ではПавел(パーヴェル)で、そのほかの、例えば1957年に出た10巻選集第7巻(48頁)やネット検索で見ことが出来る1920年〜30年代に出たトマシェフスキー、ハラバーエフ編集13巻ではПетр(ピョートル)となっている。どちらが正しいか今、即断はできない。小沼訳がアカデミー版に従ったことだけは確かであろう。

米川訳

 

 

 

小沼訳

 

 

 

江川訳

ピョートル・パーヴロヴィチ・ガガーノフという、もう相当の年齢で、なかなか功労のある人があったが、二こと目には『いや、どうしてどうして、わしの鼻面を取って引き廻すことなんかできるものじゃない!』と、むきになっていい添える罪のない癖を持っていた。43

パーヴェル・パーヴロヴィチ・ガガーノフという、もうかなり年輩の、しかも相当の功労さえもある人物がいた。この人にはふたこと目には「いいや、わたしの鼻面を取って引きまわそうったって、そりゃだめですよ!」とむきになってつけ加える罪のない習慣があった。45

この町のクラブの最古参のメンバーの一人に、ピョートルパーヴロヴィチ・ガガーノフという、もうかなり年輩で、なかなかに功労もある人物がいたが、この人は何かというとすぐむきになって、「どういたしまして、わしの鼻面をつかんで引きまわすなんてできることじゃない!」と言いそえる罪のない癖をもっていた。 79

 

15

テキスト

43

Весь этот смертный страх продолжался с полную минуту, и со стариком после того приключился какой-то припадок

亀山訳

115

<この、まる一分近くつづいた死の恐怖のせいで、その後の老人の身には発作のようなものが起こるようになった>

コメント

「起こるようになった」とその後の反復を意味する訳語は誤訳である。

「何かの発作が起こった(完了体)」と一回の事実を示している。江川訳も曖昧。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

この死ぬような恐ろしい思いがものの一分間もつづいたので、老人はその後なにかの発作を起こしたほどである。 48

このいまにも死にそうな恐怖はたっぷり一分間もつづいた。それで老人にはそのおかげでなにか発作のようなものが起こったほどであった。51

この死の恐怖はたっぷり一分間もつづいたので、老人はその後何かの発作を起こすようになったほどである。90

 

16

テキスト

43

Решение было резкое, но наш мягкий начальник до того рассердился, что решился взять на себя ответственность даже пред самой Варварой Петровной.

亀山訳

115

<この処置はきびしいものだったが、われらが心優しき知事もこの件にはすっかり腹を立て、ワルワーラ夫人に対する非難まで自分ひとりが背負い込む気になった>

コメント

「知事」と訳している<начальник>は長官。「非難」は誤訳で、正しくは「責任」

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

もの柔らかなわが長官も、すっかり腹を立ててしまって、いっさいの責任ヴァルヴァーラ夫人に対する責任すらも、一身に引き受けようと決心したのである。48

しかしさすがに気のやさしいわれわれの長官もこれにはすっかり腹を立ててしまって、当のワルワーラ・ペトローヴナに対する責任すらも、全部自分で引き受けようと決心したのである。 51

さすがに柔和なわが長官もすっかり腹を立ててしまって、ワルワーラ夫人に対しても自分がいっさいの責任を負う気になっていた。90

 

17

テキスト

45

Но теперь отмечу, ради курьеза, что из всех впечатлений его, за всё время , проведенное им в нашем городе,

 

亀山訳

120

<さしあたりひとつ、後学のために 紹介しておけば、この町で過ごした期間中>

 

コメント

ради курьеза>の意は「お笑い草に」、「お慰めに」で、亀山訳はずれている。

米川訳

小沼訳

江川訳

いまただ珍しい話として、ちょっとこれだけのことをいっておこう。50

しかしひとつのお笑い草として、ここでちょっとご紹介しておくが、53

ここで一つ、お笑いぐさまでに披露しておくと、95

 

18

テキスト

48

Я вот прочел, что какой-то дьячок в одной из наших заграничных церквей <….> - выгнал, то есть выгнал буквально, из церкви одно замечательное английское семейство

亀山訳

128

<わたしはこんな話を読んだことがあるんですよ。外国のあるロシア教会に勤める寺男が、<・・・>イギリスのある高名な家族を追い出したんですよ、つまり、文字通り、教会からLes dames charmantes(魅力的なご婦人がたをです)、大斎期の礼拝がはじまる直前にね>

コメント

亀山訳には同時通訳式に頭から訳する杜撰な訳文がほかにも見られるが、その一例で、結果として単語の係り具合を間違えている。「文字どおり追いだした」とすべきところを、「文字通り、教会から」と見当違いの訳になっている。

米川訳

 

 

 

小沼訳

 

 

 

江川訳

わたしはこんな話を本で読んだことがあります。在外のさるロシヤの教会で一人の小役僧が、<・・・>ある立派な英国人の家族を、四旬斎の勤行の始まるちょっと前に、教会から追い出してしまったのです。本当に<・・・>追い出してしまったのです。5354

私はこんな話を読んだことがあるんですがね。なんでも外国にあるわが国の教会の一つで下働きの会堂番の男かなにかが、<・・・>ある立派な英国人の家族を<・・・>四旬節の礼拝がはじまるすぐ前に、教会から追い出した、つまりその文字通り追い出してしまったというのですよ。 56

ぼくはこんな話を読みましたよ。わが在外教会に勤める寺男か何かがですね。<・・・>あるイギリスの名家の人たちを、<・・・>いよいよ大斎期の勤行が始まろうというときになって、教会からたたき出した。いや、文字どおりたたき出してしまったんです。 101

 

19

テキスト

51

По крайней мере вы бы записывали и запоминали такие слова, в случае разговора… 

亀山訳

139140

せめてあなたぐらい、そういう言葉を、会話のやりとりでは、そう、そういう言葉をメモして、誰かとお話するときにお使いになるといいわ・・・>(222

コメント

 

「そう言う言葉を」が二度繰り返されているが、これはテキストにはない混乱した訳である。「せめてあなたぐらい」ではなく、「あなたはせめて、そういう言葉をメモして、会話の時のために、覚えておくとよいでしょう」である。「メモして覚えておくこと」に勧めの重点があるので、亀山訳では脱落している。「使うように」は付随的な表現である。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

 

とにかく、あなたは話の時の用意に、そんな言葉を書き留めて、覚えていたらいいでしょう。58

まいずれにしてのそうしたことばを書き抜いて、よく覚えておいたらいいでしょう。ほら、会話のときにすぐ使えるようにね。61

ともかくあなたはそんな言葉を書き抜いて、覚えておかれるといいわ。会話のときつかうように・・・110

 

20 

テキスト

52

Он всё что-то предчувствовал, боялся чего-то, неожиданного, неминуемого; стал пуглив; стал большое внимание обращать на сны.  1

亀山訳

144

つねに何かを予感し、唐突になにか避けがたいことが起こるのではないかとびくびくしていた。臆病になっていたのだろう。夜見る夢をひどく気にするようになった。

コメント

「夜見る夢」という記述はない。単に「夢」であって、昼寝の夢であってもかまわないはずである。白夜で夜眠れないロシア人には午睡は生活習慣といってもよい。このような余分な、あるいは過剰な意味をつけ加えてテクストを歪曲するのが、訳者の悪い癖である。

米川訳

小沼訳

江川訳

<・・・>そして妙に臆病になり、ひどく夢を気にし始めた。60

彼は臆病になった。そして夢を非常に気にするようになった。

すっかり臆病になり、夢見をひどく気にするようになった。113

 

21

テキスト

56

Стой, молчи. Во-первых, есть разница в летах, большая очень; но ведь ты лучше всех знаешь, какой это вздор. Ты рассудительна, и в твоей жизни не должно быть ошибок.

亀山訳

155

<待つて、何も言うんじゃないの。まず第一にだね、年齢の差っていう問題があるんだ。でもおまえは、ほかのだれよりもそれがどんなにばか臭いことか、わかっているはずだよ。おまえは思慮深い子だし、一生過ちなんておかすもんですか。>

コメント

 

年齢の差を問題にするのは「くだらない」、「つまらない」、「意味がない」ではあっても「ばか臭い」とはいわないのではなかろうか。ダーシャとのやりとりでは、全体としてワルワーラ夫人がいかにも高圧的な粗野な感じの女性に仕立てあげられている。「過ちなんておかすもんですか」ではなく、テキストは「おまえの人生に過ちなんてあるはずがない」である。

米川訳

 

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

 

まず第一、年の違いだがね、これがたいへん大きいいのさ。けれどそんなことくらいなんでもないってことは、だれよりもお前が一番よく承知しておいでのはずだね。お前は分別のある女だから、お前の生涯に間違いのあろう道理がないよ64

まず第一に、年の違いだがね。これがひどく大きいんだよ。けれどそんなものは意味がなってことは、お前が誰よりも知っておいでだろうよ。お前はなかなか思慮深い娘だからね。お前の生涯に間違いなんかあるはずはありませんよ67

まず第一に、年のちがいだけどね、これがたいへん大きいのさ。でも、そんなことに意味のないことは、だれよりもおまえがいちばんよく承知しておいでだろう。おまえは分別のある子だから、一生まちがいのあろうはずがない123

 

22

テキスト

57

Это хоть и правда, что я непременно теперь тебя вздумала замуж выдать, но это не по необходимости, а потому только, что мне так придумалось, и за одного только Степана Трофимовича. Не будь Степана Трофимовича, я бы и не подумала тебя сейчас выдавать, хоть тебе уже и двадцать лет…

亀山訳

159

<どうしてもおまえをお嫁にやりたいって思ったのはほんとうだけど、でも、そうするのが必要ってわけじゃないんだよ、たんにそんなことを思いついたからでね。相手だってヴェルホヴェンスキー先生ひとりなわけだし、先生がいなかったら、いますぐおまえをお嫁にやろうなんて考えもしませんでしたよ>!

コメント

 

亀山訳ではワルワーラ夫人のせりふの核心部分が明快に伝わらない。夫人がダーシャに結婚話を勧めるのも、相手が誰でもというのではなく、「相手がステパン氏にかぎっての話」というわけで、先行訳はすべてそこをきちんと押さえている。

米川訳

 

 

 

 

小沼訳

 

 

 

 

江川訳

 

そりゃまったく、わたしは今ぜひともお前を嫁にやろうと考えついたけど、何もけっして必要があってのことじゃない。ただそう思い立ったからというだけの話で、それも相手はスチェパン・トロフィーモヴィチにかぎるんです。もしスチェパン・トロフィーモヴィチという人がなかったら、わたしは今すぐお前を嫁にやろうなどと、考えつきはしなかったでしょうよ。66

そりゃたしかに、わたしはいまどうしてもお前を嫁にやろうと思いついたには相違ないけれど、それはなにもその必要があるからではなく、ただふっとそんな気になっただけのことで、相手もスチェパン・トロフィーモヴィチに限るんですよ。スチェパン・トロフィーモヴィチという人がいなかったら、なにもわたしだっていますぐお前を嫁にやろうなんてことは考えなかったでしょうよ。69

そりゃわたしがどうしてもおまえを嫁にやろうと考えたのはほんとうだけど、これは何もそれが必要だからというんじゃなくって、そう思いついたからというだけで、それも相手はステパンさんにかぎるんだからね。ステパンさんがいなければ、おまえを嫁にやろうなんて、思いつきもしなかったでしょうよ。126

 

23

テキスト6364

Он писал теперь с юга России, где находился по чьему-то частному, но важному поручению и об чем-то там хлопотал.

亀山訳

179

<彼はいま、ロシアの南部から手紙を書いてよこしていた。手紙では、だれかに個人的ながら重大なミッシヨンを託され、何ごとかしきりに奔走しているとのことだった

コメント

 

ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーにかかわる「個人的ながら、重要な依頼」の「依頼」を「ミッション」と訳す言語感覚はいかがなものか。「リサイクル市場」と同じように、時代の感覚を取り違えた恣意的な訳語である。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

だれかの私用ではあるが、だいぶ重大な任務を帯びて出かけたので、なにかしきりに奔走しているのであった。 74

彼がそこへ出かけたのは誰かに頼まれて個人的な、だが重要な任務を果たすためで、なにかの問題でしきりに奔走しているようであった。76

ある人物から個人的な、しかし重要な用件を依頼されたからだそうで、何かしきりと奔走しているとのことだった。142

 

 

3章、他人の不始末

 

24

テキスト

68

а я убежден, что ему не только уже известно всё со всеми подробностями о нашем положении, но что он и ещё что-нибудь сверх того знает,

亀山訳

196

ぼくは、こう確信してるんですよ。リプーチンはもう何もかも知っているとね、ぼくたちが置かれている状態について、ありとあらゆる細部にいたるまで知りつくしている、そればかりか、ほかにまだいろんなことを知っていると、

コメント

 

原文では斜体で強調されている個所を無視。このようなミスは『カラマーゾフの兄弟』訳の幾つかの重要な個所でも見られた傾向である。先行訳はすべて傍点で表示している。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

あの男は今のわれわれ(「われわれ」傍点)の状況を、最大洩らさず知っているばかりではなく、80

あの男にはわれわれの(「われわれの」傍点)立場がもう一から十まで、それこそ微細な点までわかっているばかりではなく、83

あの男にはもうぼくら(「ぼくら」傍点)の状況が微細なところまですっかりわかっているだけじゃない。 155

 

25

テキスト

70

Он описывал гибель одного парохода где-то у английского берега, чему сам был свидетелем, и видел, как спасали погибающих и вытаскивали утопленников.

亀山訳

200

どこやらドーバー海峡あたりで遭難した汽船の様子を描いたもので、彼自身がその目撃者となり、遭難者が救助され、溺死者が引き上げられるさまを目にしたというのだった。

コメント

「ドーバー海峡」なる訳の原語は「イギリスの海岸・沿岸」であり、先行訳もすべてそう訳している。亀山訳の原テキストと思われるアカデミー版第10巻の注釈によると、材源の一つとして18385月に起きた汽船「ニコライ一世号」の遭難事件が背景にあって、後にツルゲーネフが「船火事」という作品に書いたことをあげている。しかしこれはツルゲーネフの晩年1883年の作品で、米川訳の括弧内注のように、これを材源とするには、時代的な齟齬がある。いずれにせよ、ロシア語版全集注にも、場所を「ドーバー海峡」と特定した記述はない。

それはともかく、カルマジーノフというフィクショナルな人物の作品を紹介するにあたり、語り手は「イギリスの海岸」と記しているのであるから、これを「ドーバー海峡」と改変するのは、訳者による恣意的な改ざんというほかはない。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

彼の一文(「船火事」ツルゲーネフ)を読んだことがある。それはどこかイギリスの海岸で、一艘の船が沈没した模様を書いたもので、<・・・> 82

それはどこかイギリスの海岸あたりで起こった、ある船の遭難の模様を書いたもので、<・・・> 84

この文章は、どこやらイギリスの沿岸で一艘の汽船が難破した様子を書いたもので、<・・・> 158

 

26

テキスト

71

 

Он вдруг уронил крошечный сак, который держал в своей левой руке <・・・> впрочем не знаю, что это было, но знаю только, что я, кажется, бросился его поднимать. 

亀山訳

204

彼はふと、左手に持っていた小さな袋を落とした<・・・>かといってそれが何であるのか、わたしにはわからなかった。わかっていたのはたんに、どうやらわたしがそれを急いで拾いあげようとしたらしいことである。

コメント

 

бросился>は「突進した」の意で、「それを拾いあげようとしてとびだした」が正しい訳。情景のイメージが違ってくる。語り手が初対面の有名作家カルマジーノフに対してとった卑屈な態度の回想場面。

米川訳

小沼訳

 

江川訳

わたしがそいつを飛んで行って、拾おうとしたのだけは確かである。84

知っているのはただ、どうやら私が、飛んで行ってそれを拾い上げようとしたらしいことだけである。86

忘れようもないのは、それを拾おうとして、私が思わず夢中でとびだしたということなのである。161

 

27

テキスト

74

 

А главное, сынка вашего знают, многоуважаемого Петра Степановича; очень коротко-с; и поручение от них и имеют. Вот только что пожаловали.

-- О поручении вы прибавили, --резко заметил гость, -- поручения совсем не было, а Верховенского я, вправде, знаю.

亀山訳

214

「いや、それよりもなによりも、あなたの息子さんをご存知です。ピョートル・ヴェルホヴェンスキーさんのことですよ。とっても身近なおつきあい、とかで。伝言をお持ちだそうです。まだ到着なさったばかりでしてね。」

「伝言のことをいうのは、おせっかいがすぎます」と、客はとがった口調で言った。「伝言などありませんが、ヴェルホヴェンスキー君のことはたしかに存じあげています。」

コメント

 

原文の<прибавили>は「つけ足し」「作り話」の意であって、伝言があったことを前提としたような、「おせっかい」とはちがう。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

 

「ことづけというのはきみのつけたりですよ」と客はぶち切るようにいった。「ことづけなんかありゃしません。しかしヴェルホーヴェンスキイ君は実際知っています」87

「ことづけなんていうのはあなたが勝手に付け足したことです」とぶっきら棒に客は言った。「ことづけなんかぜんぜんありゃしませんよ。しかしヴェルホーヴェンスキーなら、知っていることは事実です」89

「伝言のこと、きみのつけ足しですね」客はきびしく口をはさんだ。「伝言は何もありませんでしたが、ヴェルホーヴェンスキー君、知っているのは事実です。169

 

28

テキスト

75

--Я… давно уже не видал Петрушу… Вы за границей встретились? – пробормотал кое-как Степан Трофимович гостью.

-- И здесь и за границей.

亀山訳

215

「息子のペトルーシャとは・・・・もうずいぶん長いこと顔を合わせてないんです・・・・で、あなたは、外国でお会いに?」ヴェルホヴェンスキー氏は、どうにかこれだけつぶやくことができた。

ここと、外国です

コメント

И…иも の意で「ここでも、外国でも」と文型通り訳すのが自然であって、亀山訳はことさらに片言めいている。

米川訳

小沼訳

江川訳

「ええ、ここでも、外国(「外国」=「あちら」と振り仮名)でも89

「こちらでも外国でも」90

「こちらでも、外国でも」170

 

29

テキスト

79

Инженер нахмурился, покраснел, вскинул плечами и пошел было из комнаты

亀山訳230

技師は眉をひそめ、顔を赤らめると、肩をすくめて部屋から出ていこうとした。

コメント

вскинул плечами>は「肩を持ち上げる」「肩をそびやかす」の意で、「肩をすくめる」は完全な誤訳。技師キリーロフがリプーチンにたいして怒っている場面。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

技師はちょっと眉をひそめ、赤い顔をして、ひょいと肩を突き上げるような恰好をして、部屋を出ようとした。94

技師は額に八の字を寄せ、顔を赤らめると、肩をそびやかして部屋から出て行こうとした。96

技師は眉を寄せ、顔を赤らめると、両肩をひょいとそびやかして、部屋から出ていこうとした。181

 

30

テキスト

80

-- Липутин, вы слишком хорошо знаете, что только затем и пришел, чтобы сообщить какую-нибудь мерзость в этом роде и … еще что-нибудь хуже!

亀山訳

232

「リプーチン、あなたはあまりに知りすぎている、ここにきたのだって、その類のくだらん話を・・・・それに輪をかけて悪い話を伝えるためでしょう!」

コメント

構文のポイントを無視することによって、まったくまとまりのない、意味のとれない訳文となっている。

試訳:「リプーチン、きみがやってきた唯一のねらいは、その種の何かいまわしい話あるいはもっとひどい話をするためだってことを、自分自身よくよく承知してのことなんだろう!」

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

「リプーチン君、きみは自分で知りすぎるくらい知ってるだろうが、きみは何かそんなふうな穢らわしい話がしたいばっかりに、わざわざここへやって来たのだ。」95

「リプーチン、君がここへやって来たのは、なにかそういった種類の汚らわしい話か・・・・あるいはなにかもっとひどい話をするためにすぎないということを、君は知りすぎるくらいよく知っているはずだ」96

「リプーチン、きみは知りすぎるぐらいに知っているはずだがね、きみがここへ来たのは、なにかそんなふうな汚らわしい話が・・・・いや、もっとひどい話がしたかったからだけなんだ」182183

 

31

テキスト

86

Я только и ждал этого слова. Наконец-то это заветное, скрытое от меня слово было произнесено после целой недели вилянии и ужимок. Я решительно вышел из себя.

亀山訳

250

「ぼくはね、結婚するわけにはいかないんです。『他人の不始末』とね!」

ひたすら待ちかねていたひとことだった。まる一週間、ごまかしと渋い顔につきあわされたあとでようやく、この聖なる、わたしにひたかくしにしていたそのひとことが発せられた。わたしは完全にわれを忘れていた。

コメント

「聖なる」と訳されている<заветное>は、ステパン氏の立場からの文脈からいっても「秘められた」の意味であって、亀山訳は見当ちがいである。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

わたしは実にこの一言を期待していたのである。長い間わたしに隠していた秘密の一言は、一週間のごまかしと弥縫の後、ついにかれの口から発しられた。わたしはすっかり憤慨してしまった。102

私はただこのことばを待っていたのである。私にひたかくしにかくされていた、この秘められた一言が、一週間にわたるごまかしとしかめつらの連続のあとで、ついに彼の口から出されたのだ。私は腹を立てて完全にわれを忘れてしまった。

私はこの一言を待っていたのだった。私からかくしおおされてきたこの秘密の一言が、まる一週間逃げをはり、ごまかしとおしたあげくに、とうとう口にされたのである。私は断然かっとなった。197

 

32

テキスト

87

А помните, как вы мне описывали, как из Европы в Америку бедных эмигрантов перевозят?  И всё-то неправда, я потом всё узнала, как перевозят,

亀山訳

254

貧しい貧民たちがヨーロッパからアメリカに送られていったときのお話も、でもあれってみんな嘘だったんですね。あとでわたし、じっさいに送られていく様子をこの目ですべて確かめたんですもの。

コメント

 

貧民たちがアメリカに「送られていったとき」は「送られていくとき」と、歴史的現在形(ロシア語では文字通り現在形)で訳すのが、より正しい。さらに問題なのは、小沼訳以外はリーザが移民輸送の様子を目で見て確かめたように訳していること。テキストからは、「あとですっかり分った」ということ以上の意味は読みとれない。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

だけど、あれはみんな嘘でしたわ。あたしその後、ほんとうの輸送の模様を見ましたもの。104

でも、あれはみんな嘘でしたわ。だってあたしはあとで、どんなふうに輸送されるかすっかりたしかめてみたんですもの。105

でも、あれはみんな嘘でしたわ、わたしはそのあと、どうやって運ばれるものか、ちゃんと見ましたもの。 201

 

33

テキスト

97

Заметьте эту раздражительную фразу в конце о формальности, Бедная, бедная, друг всей моей жизни! Признаюсь, это внезапное решение судьбы меня точно придавило

亀山訳

288

「どうです、さいごのところの、この形式的なやりかたっていう、いらだたしそうな文句。ぼくはね、ぼくの一生の友がほんとうにかわいそうで、白状すると、この運命の宣告のおかげで、もうおしつぶされてしまったにひとしいんです。」

コメント

亀山訳では「運命の宣告」に係る斜体の強調部分「突然の」の訳語が欠落。なお先行訳ではすべて、これに相当する訳語に傍点を振っている。

「ぼくはね」に始まるくだりが、「一生の友がかわいそうで」と「おしつぶされた」に二重に係るため、すんなりとは読みとり難い。後段では「ぼくはこの突然(・・)()運命の宣告のおかげで」と、主語を補うべきであろう。

米川訳

 

 

 

小沼訳

 

 

 

江川訳

「このしまいに書いてある形式的云々の、いらいらした文句に注意してくれたまえ、気の毒だ。本当に気の毒な人だ、わたしの生涯を通じてたった一人の友だちなんだがなあ!しかし、まったくのところ、わたしの運命はこの思いがけない(「思いがけない」傍点)決定のために、まるで圧しひしがれてしまったようなものだ」 117

「この終わりのほうに書いてある形式がどうしたとかいう、妙にいらだたしい文句に注意してくれたまえ。気の毒な人だ、可哀そうな人だ、一生を通じての唯一の友達なのになあ!しかし正直なところ、この思いがけない(「思いがけない」傍点)決定のおかげで、私の運命はまるで圧しつぶされてしまったも同然だ・・・・」118

「最後のところの形式うんぬんのいらいらした文句に注意してくれたまえ。かわいそうな、かわいそうな、ぼくの生涯の友! 白状するとね、ぼくは運命のこのとつぜんの(「とつぜんの」傍点)宣告に、そおれこそ押しひしがれんばかりだったんですよ・・・・」227

 

 

4章 「足の悪い女」

 

34

テキスト

103

Всё состояло в том, что Лизавета Николаевна давно уже задумала издание одной полезной, по его мнению, книги, но по совершенной неопытности нуждалась в сотрудничестве.

亀山訳

306

要するにリザベータはかなり以前、彼女の意見によるとある有益な本の出版を思いついたのだが、ノウハウがまるきりないこともあって、協力者を必要としていたのである。

コメント

出版については「まったくの未経験であるため協力を必要とした」と訳せばすむところを、「ノウハウがまるきりないこともあって」などと余分なニュアンスを持ち込む必要があるだろうか。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

リザヴェータはもうとうから、彼女の意見によると非常に有益な、ある書物の出版を思いついていたが、まるでそのほうの経験がないので、協力者を必要とするというのであった。124

リザヴェータ・ニコラーイェヴナはもうだいぶ以前から、彼女の意見によると、ある有益な書籍の出版を思いついたのであるが、そのほうの経験がまるっきりないので、協力者を必要としているというわけだった。125

かねがねリザベータがある有益な(というのは彼女の意見だが)書物の出版を思いついたところ、そのほうの経験がまるでないので、協力者を必要としていると言うことだった。241

 

35

テキスト

106

 

Может ли солнце рассердиться на инфузорию, если та сочинит ему из капли воды, где их множество, если в микроскоп?

亀山訳

316

はたして、太陽が滴虫類に腹を立てるなどということがありましょうか?たとえそれが、顕微鏡で見るなら滴虫が数かぎりなくいるところで、太陽のために水滴によって詩を作ったとしても、であります。

コメント

太陽をリーザに比し、滴虫類を自分に比したレビャートキンのリーザへのふざけたプロポーズの手紙で、「滴虫類が太陽に詩を捧げたとしても、太陽は気を悪くするだろうか」、というのが趣意である。「太陽のために水滴によって詩を作ったとしても」の主語「滴虫類が」は亀山訳では判断しづらく、その文意は汲みとりにくい。「顕微鏡で見るなら滴虫が数かぎりなくいる水滴から、滴虫類が太陽に捧げる詩を作ったとしても」の意で、「太陽のために」という訳語もまだるっこしい。米川訳、小沼訳にも注文をつけたい。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

たとえ滴虫類が水滴をもて何物かを作り出したればとて、太陽がこれに対して怒りを発するごときことこれあるべきや(もし顕微鏡をもて見れば、一滴の水中にも、無数の滴虫類を見出し得るものにこれあり候)」128

「たとえ滴虫類が、もし顕微鏡で見るならば無数の滴虫類が泳いでいる水滴を並べて、太陽のために詩をつくったとしても、はたして太陽が彼らに怒りをぶちまけるなどということがありえましょうか?」129

もし一個の滴虫類が、顕微鏡もて見れば無数の滴虫類のひしめく一滴の水のなかより、太陽に讃歌を捧げたとするならば、はたして太陽はこれを怒るでありましょうや?」249

 

36

テキスト

106

Не презирайте предложения. Письмо от инфузории разуметь в стихах.

亀山訳

317

どうか小生の提案をないがしろになさいませんように。滴虫類からの手紙、詩として理解していただきたく。

コメント

<педложении>ここでは「申し込み」、もっと分りやすく言えば「プロポーズ」の意味である。「提案」ではレビャートキンの手紙の意図がピントこない

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

希くば、小生が申込みを一笑に付したもうことなかれ、詩もてしたためしたる方を、滴虫類の手紙と思召し下さるべく候。128

どうか小生の申し込みを無視なさらぬよう。滴虫類の手紙の趣旨は手紙によってご理解あらんことを。129

この申し出を無視されることなきよう。滴虫類の真意は詩のうちにお汲みとりくだされたし。250

 

37

テキスト

109

но мне было жалко, жалко, - вот и всё! Секреты ее стали для меня вдруг чем-то священным, и если бы даже мне стали открыть их теперь, то я бы, кажется, заткнул уши и не захотел слушать ничего больше.

亀山訳

326-327

しかし、わたしは、彼女がかわいそうでならなかった。それだけのことなのだ!

わたしにとって彼女の秘密は、ふいに何か神がかったものとなり、今それを打ちあけられたとしても、わたしは耳に栓をし、何ひとつその先の話を聞こうとはしなかったろう。

コメント

ここで語り手の「私」は彼女(リーザ)に同情し、身を寄せる視点でのべているのであって、だから彼女の秘密が「神聖なもの」に映るのである。「神がかったもの」というに訳は、その文意をとらえていない。亀山訳だとわけのわからないものゆえに耳に栓をしたいという、ネガチブな意味にとれる。先行訳も含めて「それだけのことなのだ!」という個所は、「かわいそうで、かわいそうでならなかったそのひと言につきた!」といった同情心のきわみを表現しているのである。

米川訳

 

小沼訳

 

 

江川訳

しかし、とにかくかわいそうだ、まったくかわいそうだ、 それだけのことなのだ!すると、急に彼女の秘密が神聖犯すべからざるものに思えてきた。132

しかし私には彼女が気の毒だった。気の毒でならなかったただそれだけのことなのである!すると彼女の秘密が私にとっては、急になにか神聖なもののように思われてきた。133

ただ、私は気の毒で、気の毒でならなかった、それだけのことなのだ!彼女の秘密はふいに私に取って何か神聖なものとなり、<・・・>257258

 

38

テキスト

118

Ох, Шатушка, дорогой ты мой, что ты никогда меня ни о чем спросишь?

亀山訳

355

ああ、シャーさん、シャーさん、大好きよ、あんた、どうして何もたずねてくれないのよ?

コメント

シャートフという姓を愛称形よばわりした「シャートゥシカ」であるから、「シャーさん」と訳すのは一理あるとしても、“дорогой ты мой”(ごく一般的な親密な呼びかけ、英語の «my dear»に相当 )は「ねえ、あんた」「ねえ、君」「ねえ、お前さん」など、イントネーションによって、アイロニカルなニュアンスから、文字通り親密感の表現まで、幅の広い意味合いをもつた呼びかけの常套句。語義どおり「大事な人」と訳してみても、かならずしもおさまりのいい言葉ではない。江川訳の「大好きな人」は行き過ぎの感があるが、これを「大好きよ」と訳すのはさらにおかしい。江川訳の「大好きな人」の孫引きならぬ孫訳の結果か?

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

おお、シャートゥシカ、わたしの大事なシャートゥシカ、どうしてお前さんはちっともわたしにきかないの?143

おお、シャートゥシカ、シャートゥシカ、わたしの大事なシャートゥシカ。あんたは一度だって、なんにもわたしにきいたことがないのね?144

ああ、シャートゥシカ、シャートゥシカ、大好きな人、どうしてあんたは、わたしになんにもたずねちゃくれないの? 280

 

39

テキスト

120

Началось с того, что < ….

Кстати, костюм его отличался на этот раз необыкновенною изысканностью

亀山訳

364

 

そもそものはじまりが妙で、<・・・>

ちなみに、彼がこの日身につけていた服は、異様とも思えるほどの凝りようだった。

コメント

「妙で」といった評価のニュアンスはない。衣装の凝りようを修飾する形容詞も「いつにない」「普段ではない」程度の意味で、「異様とも思えるほど」といった思わせぶりな強調はない。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

まずこの日の幕開きとして、<・・・>

ついでにいっておくが、この日の彼のいでたちは、すっきりと垢抜けがしていた。

146147

まずそれはこんなふうにしてはじまった。

ついでに言っておくが、この日の彼の服装は珍しく凝りに凝ったものであった。147

事のはじまりはまず <・・・>

ついでに言っておくと、この日の彼の服装はきわだって瀟洒なものであった。288

 

40

テキスト

 

Если бы она еще капельку промедлила, то ее бы, может быть, и не пропустили в собор…

亀山訳

370

もしも彼女がもう少しでも遅れていたら、教会内には通してもらえなかったろう・・・

コメント

「彼女の足がもう少し遅かったら」の意味で、時間的に「遅れていたら」の意味はない。イメージが喚起される情景が異なる。マリヤは足を引きずっているのである。

米川訳

 

小沼訳

江川訳

もし彼女がいまちょっとぐずぐずしていたら、とても中へ入れてもらえなかったろう・・・・

もし彼女がそれ以上ほんのすこしでもぐずぐずしていたら、彼女は、おそらく、会堂の中へ入れてもらえなかったに相違ない・・・・149

もし彼女がもうちょっとぐずぐずしていたら、おそらく教会堂への入れてもらえなかっただろう・・・・292

 

 

第5章 「賢しい蛇」

 

41

テキスト

127

Карету не откладывать

亀山訳

382

「馬車はそのまま待たせておいて」

 

コメント

「馬を馬車から切り離さないで」の意味。「待たせておく」、の意味ではない。

ワルワーラ夫人の下男への采配の情景を読者のイメージに喚起するもので、亀山訳ではその小説的ディテールの味が失われる。江川訳も曖昧。

米川訳

小沼訳

江川訳

馬はまだ車から放さないでおおき154

馬車には馬をそのままつけておいて155

馬車はそのままにして303

 

42

テキスト

129

 

Последний визит был со стороны Варвары Петровны, которая и уехала «от Дроздихи» обиженная и смущенная

亀山訳

390

 

最後に訪問したのはワルワーラ夫人のほうだが、<雌ツグミ>の家を出た彼女はもう腹立ちがおさまらず、困惑しきっていた。

コメント

<雌ツグミ>とドロズドワという姓の語源を持ち込んだのは訳者一人よがりの記述で、一般読者には理解できないだろう。これはドロズドワ夫人のことで、米川訳、小沼訳にもあるように、ワルワ−ラ夫人による蔑称である。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

最後に訪問したのはワルワーラ夫人のほうであったが、夫人はそのとき当惑げな立腹の様子で、「ドロズジーハ」(ドロズドヴァを侮辱した呼び方)のもとを立ち去った。157

最後に訪問したのはワルワーラ・ペトローヴナのほうであったが、「ドロズディーハ」(ドロズドーヴァの軽蔑した呼び方)の家を出たときには、彼女はすっかり腹を立ててむしゃくしゃしていた。158

最後に訪ねていったのはワルワーラ夫人のほうだったが、彼女は「ドロズドワ後家婆さん」のところから、気分を害し、当惑顔で引揚げてきた。309

 

43

テキスト

139

--Страдали вы, сударыня, в жизни?

--Вы просто хотите сказать, что от кого-нибудь страдали или страдаете.

亀山訳

420

「奥さまは、これまで苦しみを受けたことがおありですか?」

「あなたはたんにこうおっしゃりたいだけでしょう、つまり、わたしがだれのためにくるしんできたか、でなければ、現にくるしんでいるのか

コメント

ロシア語がきちんと読める人間ならばありえない誤訳である。「苦しんできたか、あるいは苦しんでいるか」の語句の主語は「あなた」(二人称)であることは、動詞の語尾を見れば間違いようがなく、ワルワーラ夫人は自分のことではなく、相手の立場でいっているのである。つまり、つまり夫人は相手レビャートキンの質問の裏を読んで、相手の立場の文脈で、「あなたが誰のために苦しんでいるか」をいいたいのだろうと問い返しているのである。

米川訳

 

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

 

「奥さん、あなたはこれまでお苦しみになったことがありますか?」

「つまり、あなたがおっしゃりたいのは、あなたがだれかに苦しめられたことがあるとか、またはいま苦しめられているとか、そういうふうなことなんでしょう?」169

「あなたは、奥さん、いままでにお苦しみになったことがおありですか?」

「簡単に申しますと、あなたがおっしゃりたいのは誰かに苦しめられたとか、現に苦しんでいるとかいうことなのでしょう」170

「奥さん、あなたはこれまでに苦しまれたことがおありですか?」

「つまりあなたは、ご自分がだれかのために苦しんできた、でなければ、いまも苦しんでいるとおっしゃりたいんでしょう」333

 

44

テキスト

143

Это был молодой человек лет двадцать семи тли около как будто с первого взгляда сутуловатый и мешковатый, но , однако ж, совсем не сутуловатый и даже развязный.

亀山訳

431

その青年は年のころ二十七前後で、<・・・>一見したところ、猫背ぎみでずんぐりとした感じがあったのだが、それでもじっさいには、猫背に固有の陰気さはまるきりなく、むしろくだけた感じのする男だった。431

コメント

「猫背に固有の陰気さ」とはどこにも書かれてない。「猫背の人」に「陰気さ」が固有なものとはいえないだろう。強いていえば「前かがみの、内にこもる感じ」程度の意味であろう。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

これは年の頃、二十七かそこいらの若者で、<・・・>ちょっと見には、ずんぐりむっくりして不恰好のようだが、けっしてずんぐりむっくりどころでなく、かえってとりなしは捌けたほうである。174

それは年は二十七か、あるいはその前後、<・・・>一見したところちょっと猫背で風采があがらないように見える。だが、その実、決して猫背でもなんでもなく、態度もむしろくだけていると言ったほうがいいくらいである。174175

それは年の頃二十七、ないしそれ前後の、<・・・>ちょっと見たところ猫背でずんぐりした感じだったが、実際には猫背の気むずかし屋どころか、むしろさばけた男だった。342

 

45

テキスト

156

Надобно вам узнать, maman, что Петр Степанович – всеобщий примиритель;

Это его роль, болезнь, конек, и я особенно рекомендую его вам с этой точки. Догадываюсь, о чем он вам тут настрочил. Он именно строчит, когда, когда рассказывает; в голове у него канцелярия.

亀山訳

470

母さん、ピョートル君はどこに行っても、調停役を引き受けてくれるんですよ。それが彼の役回りだし、弱みだし、得意とするところなんです。で、この点では彼を推薦しますよ。彼があなたたちに何を吹きこんだか、だいたいの察しはつきます。彼が話をするときは、いつもかならず吹き込んでいますからね。彼の頭んなかは、事務所になっていまして。

コメント

「弱み」と訳している単語は「病気」で、「病みつき」というほどの意味である。

「吹き込む」という訳は適切ではない。「鉄砲を連射するように話す」のイメージで、「しゃべりまくる」、「まくしたてる」が適訳である。亀山訳は江川訳を踏襲

米川訳

 

 

 

 

小沼訳

 

 

 

 

江川訳

この人はどこへ行っても調停者の役廻りなんです。これがこの人の病気で、そして得手なんです。ぼくはとくにこの点でこの人を推薦しますよ。この人がここでどんなことをしゃべりまくったか、たいてい見当がつきます。いや、この人が何かの話をするのはまったくしゃべりまくるんですからね。この人の頭の中は、まるで事務所かなんぞのようになってるんですよ。190

ピョートル・ステパーノヴィチはどこへ行っても調停者で通っているんですよ。これが彼の役割で、病気でもあれば、道楽でもあるわけなんです。ですからこの点で特に彼を推薦して置きます。彼がここでみんなにどんなことをまくしたてたか、大体見当がつきます。まったく話をするというよりも、まくしたてるんであすからね。彼の頭の中は事務所みたいになっているんですよ。190191

ピョートル君はどこへ行っても、調停者の役まわりなんですよ。これが彼の病気でもあり、十八番でもあるんで、とくにこの見地から彼を推薦したいですね。ここで彼があなた方に何を吹きこんだかは、おおよそ見当がつくな。彼は話をするとなると、かならず何か吹き込んでいる。この男の頭の中は事務所になっていましてね。373374

 

46

テキスト

156

Она раскраснелась. Контраст с ее недавним мрачным видом был чрезвычайный. Пока Николай Всеволодович  разговаривал с Варварой Петровной, она раза два поманила к себе Маврикия Николаевича, будто желая ему что-то шепнуть;

亀山訳

472

彼女の顔は真っ赤だった。ついさっきまでの陰気な表情と比べて、その差異は異常ともいえるものだった。スタヴローギンがワルワーラ夫人と言葉を交わしているあいだ、リーザは何か耳打ちしようと、二度ばかりマヴリーキーに体をよせた472

コメント

「身体をよせた」は完全な誤訳。「招きよせた」が正しい訳。

米川訳

 

小沼訳

 

江川訳

彼女は何やら耳打ちでもしたいらしいふうで、二度までもマヴリーキイを招き寄せた190

彼女は二度ばかりマヴリーキー・ニコラーイェヴィッチを手招きして、なにか耳打ちでもしたいような様子を示した。191

彼女は何か耳打ちでもしたい様子で、二度ほどマヴリーキーを招き寄せた375

 

47

テキスト

157

-- Часа два с лишком, -- ответил Nicolas, пристально к ней присматриваясь. Замечу, что он был необыкновенно сдержан и вежлив, но, откинув вежливость, имел совершенно равнодушный вид, даже вялый.

亀山訳

473

「二時間あまり前です」リーザの目をじっと見つめながら、<ニコラ>は答えた。ここでひとこと注意しておくと、彼はいつになく控え目で慇懃だったが、その慇懃さをのぞけばまったく無関心で、憂鬱そうな表情をしていた。

コメント

「のぞけば」というより、「振り捨てると」、「かなぐり捨てると」で、スタヴローギンの仮面的な表情の動きを端的に示す表現である。江川訳が適訳

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

ついでにいっておくが、彼はなみなみならず慇懃で控え目だったけれども、その慇懃さという点をのけてしまうと、まるで気のないだらけた顔になるのであった。191

ついでに言っておくが、彼の態度はおそろしく控え目でていねいであった。だが、そのていねいな点を除くと、彼はまったく関心のなさそうな、ものうげと言ってもいいほどの顔つきをしているのだった。192

断っておくと、彼はいつになく控え目で丁重だったが、いまはその丁重さをかなぐり捨てて、まるで無関心な、むしろぐったりしたような顔つきをしていた。376

 

48  

テキスト

162

Эти «грехи»-с – эти «чужие грехи» -- это, наверно, какие-нибудь, наши собственные грехи и, об заклад бьюсь, самые невиннейшие, но из-за которых вдруг нам вздумалось поднять ужасную историю с благородным оттенком – именно ради благородного оттенка и подняли. Тут, видите ли , что-нибудь по счетной части у нас прихрамывает – надо же. наконец, признаться. Мы, знаете, в карточки очень повадливы… а впрочем это лишнее, ・・・Варвара Петровна, он меня напутал, и я действительно приготовился отчасти «спасти» его. Мне, наконец, и самому совестно. Что я, с ножом к горлу, что ли, лежу к нему? Кредитор неумолимый я, что ли?

Он что-то пишет тут о приданом… 

亀山訳

483

この『不始末』、この『他人の不始末』とかいうのは、きっと何か親父自身のちょっとした不始末のことなんでしょうし、賭けてもかまいませんが、ごくごく無邪気な不始末でしょう。でもその不始末のせいで、親父はふとある恐ろしい事件を引き起こすことを思いいたった。高潔なニュアンスを帯びた事件で、ほかでもない、その高潔なニュアンスのためにこそ起こしたと言ってもいいくらいだ。しかも、いいですか、親父は何やら支払いの面で穴をあけたわけでしてね。そろそろ白状しなくちゃならないところですよ。うちの親父は、そう、カードに目がありませんから・・・・・いや、こいつはよけいな話でした。<・・・>ですがワルワーラさん、ほんとう言って、親父には驚かされましたよ。で、ぼくとしてはまあ親父を『救い出して』やるのもいいかって気になったわけです。そりゃぼくとしたってやっぱり恥ずかしいですよ。なんです、このぼくが親父の喉もとにナイフを突き立てるとでもいうんですか、親父のところに忍びこむとでも?そんなあこぎな債権者だっていうんですか、このぼくが?そういや、親父は手紙のなかで、何か持参金のことも書いていましたっけ・・・・

コメント

小沼訳を除いて、亀山訳を含む他の訳は、「他人の不始末・罪業」をステパンの「無邪気な」あるいは「つまらない」「他人の不始末・罪業」というふうに第三者的に叙述しているが、テキストではピョートルは一貫してнаши(われわれ)と一人称複数で、このくだりをのべていて、自分と父親との間に、トランプの勝ち負けをめぐる貸し借りの関係があって、そのトラブルが「他人の不始末・罪業」の隠された原因であるかのように説明しているのである。これがピョートルの作り話かどうかは別として、ここのピョートルのおしゃべりのくだりは、自分も加担しているという意味合いを踏まえなければ、「自分が容赦のない債権者だろうか?」云々も理解できない。この点で米川、江川訳にも問題あり。唯一、「他人の不始末・罪業」を「われわれの身内のなにかつまらない罪のこと」とした小沼訳は正しい。

米川訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小沼訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江川訳

この『罪業』はですなこの『他人の罪業』というやつは、大方なにか詰まらない先生自身の罪業なんでしょうよ。ぼく、賭けでもしますが、ごく無邪気な罪業なんですよ。そいつを枷に使って、高尚なるニュアンスを帯びた恐ろしい騒ぎを持ち上げる気に、ふいとなったに相違ありません、 しかもただその高潔なる陰影のためのみにおっ始めたのです。ご承知でもありましょうが、ぼくらはちょっと金銭問題でゆき悩んでることがあるのです、 これはどうしても白状しなけりゃなりません。先生はご承知のとおり、カルタにはごく慎みの悪いほうで・・・・しかい、これは余計なことですね。<・・・>けれど、実際のところ、奥さん、ぼくはすっかり親父の嚇しつけられましてね。ほんとうに親父を『救う』気になったんですが、これじゃぼく自身のほうできまりが悪くなりますよ。いったい、ぼくが親父の喉もとへ、短刀でもつきつけようとしてるんでしょうか?そんなにぼくが没義道な債権者に見えるでしょうか?親父は持参金がどうとか書いているのですが・・・・ 195

この『罪』というのはですねこの『他人の罪』というのはですねこれは、おそらく、われわれの身内のなにかつまらない罪のことにちがいありませんよ。なんなら賭けをしてもようござんすがね、それもきわめて罪のないものに相違ありません。ところがそれを種にして、不意に高尚なニュアンスのある恐ろしい話をでっちあげる気になったものと見えます高尚なニュアンスだけがお目当てででっちあげたものなんですよ。実はですね、僕たちのあいだに金銭問題でちょっとしたいざこざがあるんですよこれはいずれにしても白状しておかなければなりませんがね。僕たちは、ご存知のようにカード勝負には目がないほうでしてね。もっともこれは余計なことですね。<・・・>僕はこの人にすっかりおどかされてしまったのです。それで僕はこの人を『救い出して』やってもいいような気になってしまったのです。いまとなると、自分でも気恥ずかしいくらいですよ。この僕がそんな情け容赦もない債権者だとでも言うのでしょうか?この人はこの手紙に持参金がどうとかしたと書いているのですがね・・・・ 196

この『不始末』うんぬんは、この『他人の不始末』うんぬんはね、おおかた、親父自身の何かつまらない不始末、そても、賭けたっていいですが、およそ無邪気きわまる不始末なんでしょうが、それを種に親父のやつは、ふいに何か高潔な色合いを帯びたとてつもない大事件を引起したくなった、いや、その高潔な色合いのためにこそ引起したというところでしょう。そこへもってきて、いや、もうそろそろ白状しなければいけないが、親父は金銭面で少々窮屈になっていましてね。ご存知じでしょうが、どうもトランプに弱いところがあって・・・・いや、これはよけいなことでした、<・・・>ワルワーラさん、親父にはほんとうにびっくりさせられて、ぼくは本気で親父の《救出》に手をかすつもりになっていたんですよ。いや、ぼくとしても、お恥ずかしい次第なんです。いったいぼくが、親父の喉もとに短刀でもつきつけようとしているんですかね?ぼくはそんなに阿漕な債権者でしょうか?親父は何か持参金のことも書いていましたっけ・・・・ 384

  

 

49

テキスト

165

Николая Всеволодовича я изучал всё последнее время и, по особым обстоятельствам, знаю о нем теперь, когда пишу это, очень много фактов.

亀山訳

492

わたしはこのところずっとニコライ・スタヴローギンを研究し、ある特別の事情もあってこれを書きしるしている今は、彼についてじつにたくさんの事実を知っている。

コメント

「特別の事情もあって」は正しくは「知っている」に係るのであるが、訳文では「書きしるしている」にかかるように読みとれる。読点の打ち忘れではないかと、善意に推測もできるが、亀山訳ではこの類の、文脈上の係り具合についての、正確さに欠ける例がめずらしくない。安易な構文崩し、文体崩しの傾向と無関係ではない。

米川訳

 

 

小沼訳

 

 

江川訳

私は最近絶え間なくニコライの人物を研究していたから、今これを書くに当たっても、いろいろな特別の事情でずいぶんたくさんの事実を知ることができた199

私はこのところずっとニコライ・フセーヴォロドヴィッチのことを研究しつづけてきたので、さまざまな特殊の事情で、これを書いているいまでは、彼について非常に多くの事実を知っている。200

私は最近ずっとニコライ・スタヴローギンを研究していたし、また特別の事情で、これを書いているいまは、彼について実にたくさんの事実を知っている391