朝日新聞「私の視点」(2008年5月8日)投稿原稿(不採用)
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』ブームの問題
木下豊房
一昨年来、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がブームとなり、
話題になったことは記憶に新しい。売れ行きは好調らしく、3月15日には22版を重ねて
いる。先行訳と比べて読みやすいというのが、ブームの引き金だったらしいが、その翻訳
の質については、まともな検証もおこなわれないまま、マスメディアの話題となり、関係
する書評家、作家、文化人から賛辞が寄せられて、亀山氏はあっという間に、わが国ドス
トエフスキー研究の「第一人者」(NHK,ETV特集評)となってしまった。公共放送であ
るNHKの扱いが彼の評価を一気に高め、売り上げに貢献したことは間違いない。
その一方、亀山訳の質を問う声が、「ドストエーフスキイの会」会員の中から出てきた。
大学でロシア語を専攻し、商社勤務のかたわら原文で『カラマーゾフの兄弟』を精読した
NN氏から、全5冊中の第一冊(正味422頁)に限ってではあるが、誤訳、不適切訳と思
われる75個所のリストとコメントが送られてきた。これを「検証」と題して、会のホー
ムページに公開したのが、昨年12月24日。早速、北九州の一読者(森井氏)から反応が
あり、ロシア語の知識は無いながら、先行訳との対比と、長年、文学に親しんできた言葉
の勘から、疑問とする48個所の指摘が来た。これをNN氏による原文との照合、解説を
付けて、「一読者の点検」と題して、今年2月20日に、ホームページで公開した。
ここで問題なのは、訳者の誤訳、不適切訳、文章改ざんもさることながら、私達の指摘
を受けての出版社の対処の仕方である。「検証」での75個所の指摘のうち、明らかにこれ
を受けて出版社は、26個所の訂正を、増刷20刷(1月30日)でおこない、さらに2個所
の訂正を22刷(3月15日)でおこなっている。また「一読者の点検」での48個所(「検
証」との重複を省42個所)の指摘のうち、12個所の訂正を、22刷でおこなっている。
しかも森井氏は私達が「検証」を始める以前に、直接に光文社に指摘し、7個所を訂正さ
せていた。このように、何のことわりもなく、なし崩しに大量の訂正を増刷で重ねていく
出版社のやり方は、商業道徳上、許されることだろうか。読者への背信行為ではないのか。
私はいわば同業者として、非を訳者にだけ着せるのは気が進まない。問いたいのは出版
社のマスメディア戦略の陰に潜む、無責任な商業主義である。疑う人は、増刷訂正にあた
って、私達の指摘がいかにこだわりも無く受け入れられているか、「ドストエーフスキイの
会」のホームページで確認していただければ幸いである。http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/