6 どうしてこんな男が生きているんだ!

 

新訳180

いや、ちょっとした感想のほかに、とくにこれといったことはありませんよ」イワンがすぐに答えた。「一般にヨーロッパの自由主義というのは、いやロシアの自由主義的なディレッタント主義にしても、以前から@しばしば社会主義の最終的な結論と、キリスト教のそれとをごっちゃにしているんです。Aこういった野蛮な結論が、むろんその特徴を明らかにしているわけです。しかしB社会主義とキリスト教をごっちゃにしているのは、どうも自由主義者やディレッタントばかりじゃなく、多くの場合、憲兵もそのようなんですよ。つまり、むろん外国のですがねあなたのパリの小話、なかなか味がありましたよ、ミウーソフさん」

 

森井の疑問

パリで秘密警察(公安警察)筋から「キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしい」と聞かされたという小話をミウーソフがし、それに対してイワンがコメントする場面である。問題は2箇所ある。

まず@・Aである。ここを読んでAの「結論」が何を指しているか、すぐさま判然とするだろうか。社会主義およびキリスト教の最終的な結論のことなのか。それとも、この両者をごっちゃにしていることなのか。先行訳を見ると、@では「結果」、Aでは「結論」と訳し分けてあって誤解の余地はない。これはそもそも違う単語ではないのか。

次にBである。新訳では、Bの下線部は、明らかに、イワン自身の話(認識)として語られている。しかしながら、自分の体験の前置きもなしに、「多くの場合、憲兵もそのようなんですよ。つまり、むろん外国のですがね」と言い出すのは、いかにも唐突である。そもそもここは、ミウーソフの先の小話を受けての感想であり、実際このあとすぐにその評価をくだしているではないか。先行訳と比較すると、「今のお話だと」の部分を訳し落としているようだ。つまり、Bはもともと、イワンの話(認識)ではなく、ミウーソフのそれではないのか。それに同意を与えているのである。

 

原訳165

ちょっとした感想以外、特にこれといってありませんがね」すぐにイワンが答えた。「それはつまり、概してヨーロッパの自由主義や、あるいはロシアの自由主義的なディレッタンチズムでさえ、すでに久しい以前から@しばしば社会主義の究極の結果とキリスト教のそれとを混同している、ということなんです。Aこういう野蛮な結論は、もちろん、特徴的な一面であるわけですがね。もっとも、B今のお話だと、社会主義とキリスト教を混同するのは、自由主義やディレッタントだけじゃなく、多くの場合それに加えて憲兵もそのようですね。もちろん、外国のですよ。あなたのパリのお話はかなり意味深長でしたよ、ミウーソフさん」

 

江川訳87

なに、ちょっとした感想以外には、とりたててありませんがね」すぐにイワンが答えた。「つまり、一般にヨーロッパの自由主義は、いや、そればかりかわがロシアの自由主義的なディレッタンチズムもそうですがね、もうだいぶ以前から、@社会主義の究極の結果とキリスト教のそれとをしばしば混同しているということなんですよ。むろん、Aこういう奇怪な結論こそ、瞠目すべき特質ですがね。もっとも、B社会主義とキリスト教を混同するのは、自由主義やディレッタントたちだけではなくて、いまのお話だと、多くの場合、憲兵たちもご同様らしいですね。もちろん、外国の憲兵のことですがね。あなたのパリの一口話はなかなか的を射ていますよ、ミウーソフさん」

 

 

— Ничего особенного, кроме маленького замечания, — тотчас же ответил Иван Федорович, — о том, что вообще европейский либерализм, и даже наш русский либеральный дилетантизм, @часто и давно уже смешивает конечные результаты социализма с христианскими. AЭтот дикий вывод — конечно, характерная черта. Впрочем, Bсоциализм с христианством смешивают, как оказывается, не одни либералы и дилетанты, а вместе с ними, во многих случаях, и жандармы, то есть заграничные разумеется. Ваш парижский анекдот довольно характерен, Петр Александрович.

 

 

 

解 

(by N.N.)

    @とAにおける訳語「結論」について:

 @の結論」は誤訳。新訳でいずれも「結論」と訳されている単語は、原文では全く違う二つの単語です。@の「結論」の原語は“результаты リェズウリタートゥイ”、これは英語の“result に相当する результат リェズウリタート の複数形で、その意味は「結果」。Aの「結論」の原語выводы ヴイヴァドゥイ”は、英語の“conclusion に相当する вывод ヴイヴァド の複数形で、こちらの方は紛れもなく「結論」の意味。

Bの訳文に関する疑問について:

 Bは明らかにイワン自身の見解ではなく、ミウーソフの発言に対する彼の「ちょっとした感想(маленькое замечание マーリンカエ・ザミェチャーニエ」の内容のはず。然るに、新訳ではそのことが何故はっきりと伝わらないのか? 原因は二つあります。

 先ず第一に、 о том, что … ア・トーム、シトー …… へ何の配慮もなされていないため。地の文の挿入によって分断されているものの、これは本来、その前のイワンの台詞に直結して、“Ничего особенного, кроме маленького замечания о том, что… ニチェヴォー・アソービェンナヴァ、クローミェ・マーリンカヴァ・ザミェチャーニヤ・ア・トーム、シトー…… と、一塊りになる表現で、「とくにこれといったことはありませんよ、ちょっとした感想のほかにはね。その感想というのは……」という程の意味を構成する。先行訳が「それはつまり」(原訳)、「つまり」(江川訳)と持ってきて、分断された後の台詞の冒頭に工夫を凝らし、これから続くのは「ちょっとした感想」の内容であることを明確にしているのに対し、新訳はこれをやっていない。

 それから第二に、原文のкак оказывается カーク・アカーズィヴァエッツァ”の訳し方が不十分且つ不適切なため。これは「判明するところによれば、どうやら……だ」というほどの意味で、先行訳は、文意を鮮明にするために、いずれも語を補って、「今のお話だと……ようですね(原訳)」「いまのお話だと……らしいですね(江川訳)」と訳文を工夫しているが、新訳はこれを「ようなんですよ」と無造作に訳している。

 以上、二つの不作為により、Bはイワン自身の見解としか受け取りようのない訳文になってしまっています。

 

森井追記

ここも昨年編集者に直接指摘した箇所で、第20刷で@は直されています。しかし、なぜかBはそのままです。イワン自身の見解のままになっています。

(訂正前)@しばしば社会主義の最終的な結論と、キリスト教のそれとを(…)

(訂正後)@しばしば社会主義の最終的な成果と、キリスト教のそれとを(…)

 

 

 

 

新訳185

「愚にもつかぬ喜劇さ。ここに来るまえからわかってたんだ!」ドミートリーも席から立ちあがり、憤然と声を荒げた。「@長老さま、どうかお許しください」彼は長老のほうに向き直った。「Aわたしは無教養な男ですから、あなたをどうお呼びしてよいかもわかりませんが、あなたはだまされたのです。(…)」

 

森井の疑問

Aのように言っているのだから、@で正しく「長老さま」と呼んでいるのはおかしい。ここは、「長老」とは違う単語が使われているはず。「長老」に当たるロシア語は、「無教養な男」には馴染みのないような単語だったのであろうか。

 

原訳170

(…)「申し訳ありません、尊師」彼は長老に言葉をかけた。(…)

 

江川訳90

(…)「失礼ですが、お坊さま」と彼は長老に向かって話しかけた。(…)

 

 

— Недостойная комедия, которую я предчувствовал, еще идя сюда! — воскликнул Дмитрий Федорович в негодовании и тоже вскочив с места. — Простите, @преподобный отец, — обратился он к старцу, — A я человек необразованный и даже не знаю, как вас именовать, но вас обманули, а вы слишком были добры, позволив нам у вас съехаться.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 「長老」に当たるロシア語そのものは、引用の地の文にも格変化して出ている старец スターリェツ” であり、この単語はドミートリイも無論知っています。要は、「あなたをどうお呼びしてよいかもわかりませんが」と言っているように、単語ではなく、どう呼びかけるかという、呼称の問題です。ロシア正教では、聖職者に対する呼称がその位階によって異なります。ドミートリイは、その正確な知識を持たぬまま、“преподобный отец プリェパドーブヌイ・アチェーツ(敢えて訳すと:聖なる司祭さま)という呼称で一旦長老に呼び掛けるも、『これでよかったのか? 失礼にあたらなかったか?』と確信が持てず、『もし呼称を間違ったとしたら、無知に免じてお許し下さい』という意味を込めてAと付け加えており、彼の非常にデリケートな性格の一端が窺われるところです。ドミートリイが覚束ぬまま口にしたこの呼称を、すぐその後の地の文にも出てくる「長老」に「さま」を付けただけの訳語で処理してしまっては、その辺のニュアンスは出せません。些かなりともそれを伝えるべく、先行訳はそれぞれ訳語を工夫しています。

 ゾシマ長老の位階は иеросхимонах イエロスヒマナーフ(修道苦行司祭) なので、正式な呼称は Ваше преподобие ヴァーシェ・プリェパドービエ”敢えて訳すと:聖なるお方)。ミウーソフは、正教の作法どおり、こう呼び掛けています。しかし、これに相当する慣例的な呼称として、“Отец アチェーツ”、“Батюшка バーチュウシュカ” など(いずれも英語の father に相当)もあり、前者にпреподобный プリェパドーブヌイ(聖なる)”という形容詞を付したドミートリイの呼び掛けは、本人が気にするほど、長老に対して失礼にあたるものではなかったと言えます。

 因みに、「大醜態」の章で、食事の招待をフョードルが辞退せざるを得なくなった理由を修道院長に説明する際、ミウーソフも長老のことを преподобный отец プリェパドーブヌイ・アチェーツ と表現しています。もっとも、それは「ゾシマ長老の許で(フョードルは許しがたい暴言を吐き……)」云々という語りの中でのことで、言葉は同じでも、呼称ではなく、三人称での用例ですが(“у преподобного отца Зосимы プリェパドーブナヴァ・アッツァ・ザシームィ”)。尚、修道院長に対して、ミウーソフは Ваше высокопреподобниеヴァーシェ・ヴィサカプリェパドービエ”(敢えて訳すと:至聖なるお方)、ゾシマに対して用いた Ваше преподобие ヴァーシェ・プリェパドービエ” よりも一段上の呼称で呼び掛けており、これもまた正教の作法に適ったものです。聖職者に呼び掛ける際の言葉の気配りをとおして、たとえ自身は無神論者であっても、相手に対して礼を尽くし、あくまでも上流階級の “教養人” として自らを持そうとするミウーソフという人間がうまく描かれています。

 

 

 

 

新訳189

(ドミートリーの台詞:)たしかにぼくはあの大尉(=スネギリョフ)に対して野獣みたいにふるまった。いまはそのことを後悔しているし、ああいう獣じみた怒りにかられたことをいまわしいとも思っている。

ただ、あなた(=フョードル)の代理店をつとめた大尉はですよ、さっき妖艶美人とかあなたがいった例の婦人(=グルーシェニカ)のところへ出かけていってですね、@あなたの頼みと称し、こういう提案をしているんです。もしも、ぼくが財産の処理のことであなたにあまりうるさくいうようだったら、あなたが持っているはずのぼくの手形を彼女が引きとり、その手形をたてにAぼくを監獄にぶちこんでしまえばいい、とです

 

森井の疑問

@にあるように、「提案」とはいえ、そのじつ「頼み」なのだから、Aの「〜してしまえばいい」は変である。これだと、フョードルが自分の利益を慮って(ドミートリーを排斥すべく)グルーシェニカに頼み込んでいるのではなく、あたかも彼女の利益を考えてまさに提案してやっている体となる。なお、先行訳と比べると、「訴訟を起こして」の部分が訳し落とされて(省略されて)いるようである。

 

原訳174

(…)だけど、あんたのあの大尉は、あんたの代理人とやらは、あんたが妖婦とか表現した当の女性のところへ行って、@あんたの頼みだと言ってこんな提案をしたじゃありませんか。もし僕が財産の清算であまりうるさくつきまとうようだったら、あんたの手もとにある僕の手形を彼女が引きとって、その手形をたねにA僕を刑務所へぶちこんでしまえるように訴訟をおこしてくれって

 

江川訳92

(…)けれど、あなたの代理人とかいうあの大尉は、あなたがいま凄腕といわれたその婦人のもとへ出かけて行って、あなたの持っているぼくの手形を引きうけてくれ、で、もしぼくがあまりうるさく財産の清算を迫ってくるようだったら、その手形をたねに訴訟を起こしてAぼくを監獄へぶちこんでくれと、あなたの代理ということで@頼みこんだじゃありませんか

 

 

<…> о этот ваш капитан, ваш поверенный, пошел вот к этой самой госпоже, о которой вы выражаетесь, что она обольстительница, и @стал ей предлагать от вашего имени, чтоб она взяла имеющиеся у вас мои векселя и подала на меня, A чтобы по этим векселям меня засадить, если я уж слишком буду приставать к вам в расчетах по имуществу.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 「〜してしまえばいい」は誤訳です。ここに使われているのは、動詞の不定形乃至過去形を伴って目的(〜するために、〜するように)を表す接続詞 чтоб シトープ” と “чтобы シトーブイ” であり、先行訳はいずれも目的の文意(〜してくれって、〜してくれと)を正しく伝えています(訳す順序の違いは訳者の好みによるもの)。無論、フョードルの提案は自らの利益を慮ってのこと。

  次に訳し落とし如何について触れます。ロシア語には подала в суд на кого パダーチ・フ・スードナ・カヴォー(誰々を裁判所に告訴する)” という成句があり、ここでは в суд フ・スード(裁判所に) が省略されて、“подала на меня パダラー・ナ・ミニャー(彼女 [グルーシェンカ] が僕を訴えるように)”という形になっています。この前に чтоб она взяла имеющиеся у вас мои векселя シトープ・アナー・ヴズィヤラー・イミェーユッシエサ・ウ・ヴァス・マイー・ヴェクスェリャー(あなたの所にある僕の手形を彼女(グルーシェンカ)が引き取って) とあるので、先行訳は「手形をたねに」という言葉を補って(つまり、もう一度繰り返して)「手形をたねに訴訟を起こして」と訳している。新訳もこれを全く訳し落としているわけではありません。ただ、何故か「訴える」の訳出を省略し、先行訳が補った「その手形をたてに」という言葉だけを残して、極めて風変わりな訳文にしている。前後の脈絡に照らせば、こういう訳もあり得なくはないでしょう。しかし、好ましいとはとても思えません。

 

 

 

 

新訳192

「ドミートリー君」別人のような声でフョードルがとつぜん声をあげた。「お前がわたしの息子でなかったら、即座に決闘を申し込んでいるところだ┄┄ピストルでだぞ、距離は三歩だ┄┄ハンカチごしに! ハンカチをかぶせて撃つ!」地団太を踏みながら彼はそう言い切った。

 

森井の疑問

下線部は、いったいどういうことだろう? ハンカチをかぶせて銃先が互いに見えないようにしてということだろうか? フョードル得意のはったりにしても、決闘のやり方としては、今までに聞いたことのないものだったので不思議に思い、先行訳を見ました。すると、江川訳の注記にこうありました。

シラーの『たくらみと恋』でフェルジナンドが宮内官に決闘を申し込む場面で、ハンカチの一端を持たせ、自分はもう一端をにぎり、その距離で決闘を行なおうとする。

さすがは、シラー好きのフョードル(ドストエフスキー)。自分(フョードル)を『群盗』のモール兄弟の父親に擬しただけでなく、こんなところにも隠し味を利かせていたのですね。

 

原訳176

(…)ピストルでな。距離は三歩┄┄ハンカチを、ハンカチ一枚へだててだ!(…)

 

江川訳93

(…)武器は、ピストル、距離は三歩┄┄ハンカチを隔ててだ! ハンカチ一枚の距離を隔ててだぞ!(…)

 

 

— Дмитрий Федорович! — завопил вдруг каким-то не своим голосом Федор Павлович, — если бы только вы не мой сын, то я в ту же минуту вызвал бы вас на дуэль... на пистолетах, на расстоянии трех шагов... через платок! через платок! — кончил он, топая обеими ногами.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 二度繰り返される через платок チェーレス・プラトーク は「ハンカチ(単数)を隔てて」としか解しようがありません。

 

 

 

 

新訳194

(フョードル:)「(…)あなた方はここでキャベツばかり食べて修行しながら、それでもう、自分たちはただしい人間と考えておられる! ウグイを食べておられる。一日にウグイを一匹食べては、そのウグイで神を買うことを考えておられる!」

そんなことあるもんか、買えるはずがあるもんか!」庵室の隅々から、声がわき起こった。

 

森井の疑問

これは珍妙である。これでは、修道僧たちが、フョードルの、余りといえば余りの、およそあり得ない言いがかりを大真面目に受け取って、その内容を、買えるはずがあるもんか!」と、躍起になって否定していることになるからである。内容をではなく、フョードルの暴言そのものを否定していなくては、なんともおかしなことになってしまう。この箇所は、「検証」でも取り上げられています。

 

原訳179

(…)「許せない、もう許せん!」庵室のいたるところから、声があがった。

 

江川訳94

(…)「あんまりだ、あんまりだ!」の声が、庵室の四方から起った。

 

 

<…>Вы здесь на капусте спасаетесь и думаете, что праведники!  Пескариков кушаете, в день по пескарику, и думаете пескариками бога купить!

Невозможно, невозможно! — слышалось в келье со всех сторон.

 

 

 

解 

(by N.N.)

「検証」で詳しく触れたので、ここでは省略します。

 

 

 

 

新訳196

「あの方が足もとにお辞儀したのは、いったいなんだったんでしょうね。何かの兆しなんでしょうかね?」なぜか急におとなしくなったフョードルが話の口火を切ったが、さすがにだれかに声をかける勇気はなかった。そのとき、一行は僧庵の囲いを出るところだった。

精神病院や精神病患者の責任はもてませんよ」すぐさまミウーソフがいらだたしげに答えた。「そのかわり、あなたのお仲間とはお別れです、カラマーゾフさん、いいですか、永久にですよ。ところでさっきの坊さん、どこへ消えたかな?」

 

森井の疑問

あなたのお仲間」とは誰のことなのか。イワンやカルガーノフのことなのか。彼らをフョードルの「お仲間」と言えるのか、と悩みました。彼らと永久に別れるというのも妙です。

 

原訳180

(…)「わたしは気違い病院や気違いどもの責任はとりませんよ」すぐさまミウーソフが憎々しげに答えた。「でも、その代りあなたのお付き合いはごめんこうむります。フョードル・パーヴロウィチ、いいですか、永久にですよ。さっきの坊主はどこへ行っちまったんだろう?」

 

江川訳191

(…)「気ちがい病院だの、気ちがいどもだのに対しては、私は責任を負いませんよ」すぐさまミウーソフが毒々しく答えた。「その代り、フョードルさん、あなたと同席するのはもうまっぴらですよ、いいですか、今後永久にね。それにしてもさっきの坊さんはどこへ行ったかな┄┄?」

 

 

— Это что же он в ноги-то, это эмблема какая-нибудь? — попробовал было разговор начать вдруг почему-то присмиревший Федор Павлович, ни к кому, впрочем, не осмеливаясь обратиться лично. Они все выходили в эту минуту из ограды скита.

Я за сумасшедший дом и за сумасшедших не отвечаю, — тотчас же озлобленно ответил Миусов, — но зато избавлю себя от вашего общества, Федор Павлович, и поверьте, что навсегда. Где этот давешний монах?..

 

 

 

解 

(by N.N.)

 「私はあなたのобществоオープシェストヴァ)から自分を免れさせます」というのが下線部の半逐語訳。ロシア語のまま残した“обществоオープシェストヴァ)”は、ここでは「(共に時を過ごす)仲間、同席すること、つきあい」という意味。逐語訳を完成させると、「私はあなたと共に時を過ごす仲間であること= あなたと同席すること = あなたとおつきあいすること)から自分を免れさせます」となります。つまり、「あなたと一緒に何かをするなどということはしない」、「あなたとの同席は勘弁させてもらう」、「あなたとのおつきあいは願い下げである」とミウーソフは言っているのであって、新訳のあなたのお仲間とはお別れです」は誤訳です。先行訳では正しく訳されています

 

 

 

 

新訳197

「お聞きですか神父さん、じつはミウーソフさんは、このわたし(=フョードル)と同席するのがいやでたまらないんです。そうでなけりゃ、二つ返事で行くところですよ。ミウーソフさん、お行きなさいな。修道院長のところへ行かれたらどうです。ゆっくり召し上がったらいい! でも、いいですか。遠慮させていただくのはこのわたしであって、あなたじゃないんですからね。帰りますよ、さっさと帰ります。食事は、家でします。ここじゃ、わたしは能なし同然ですからね、最愛の親戚ミウーソフさん、そうでしょう」

 

森井の疑問

赤字下線部のここでの意味合いがよく分からなくて、先行訳を見ました。見て、びっくり。ここは、実際そういう意味なんでしょうか。だとしたら、フョードル殿下、相当な悪乗りぶりということになりますが…。

 

原訳181

「(…)帰りますとも、帰って、家で腹ふさげをしますさここじゃ忰(せがれ)もおっ立たないような気がするんでね、いとしい親戚のミウーソフさん」

 

江川訳191

「(…)私は帰りますよ、帰って、家で食事をしますよ、ここじゃ一発なにしようてえ元気もでませんや、おやさしい親戚のミウーソフさん」

 

 

— А ведь непредвиденное-то обстоятельство — это ведь я! — сейчас же подхватил Федор Павлович.— Слышите, отец, это Петр Александрович со мной не желает вместе оставаться, а то бы он тотчас пошел. И пойдете, Петр Александрович, извольте пожаловать к отцу игумену, и — доброго вам аппетита!  Знайте, что это я уклоняюсь, а не вы. Домой, домой, дома поем, а здесь чувствую себя неспособным, Петр Александрович, мой любезнейший родственник.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 「ここでは私は自分に能力があるとは思わない」というのが赤字下線部の逐語訳。原文で дома ドーマ(家で)” здесь ズヂェーシ(ここで)” が、“a ア”という対比の接続詞を挿んで明らかに対置されており、この構文の常として、“a ア” 以下の節では動詞 поесть パイェースチ(食事をする の不定形が省略されていると考えるべき。従い、ごく自然に読むならば、「家に帰ります、家に、家で食事をすることにしますここでは(食事をすることは)出来そうにありません」というほどの意味。砕けて訳せば、「ここじゃあ食事なんか咽喉を通りそうにありませんのでね」という感じになるでしょう。

 新訳の「ここじゃ、わたしは能なし同然ですからね」では、確かに意味がよくわからない。

 一方先行訳二例では、意味はわかり過ぎるほどよくわかるものの、文脈からの飛躍が甚だしい。文脈を問わず、 “そういう意味” にしかならぬ特殊なロシア語表現がなされているのならともかく、当該箇所にそのようなものはない。念の為、文学に造詣の深いロシア人に確認を求めたところ、「確かに文脈によっては “そういう意味” にもなり得るが、ここはおよそそのような文脈ではない」とのこと。原訳、江川訳は,あまりに穿ち過ぎた結果、誤訳となってしまったもののようです(或は、酷似した言葉遣いで、正に “そういう意味” にしかならぬ表現を、お二人ともかつて耳にされたことがあり、その経験に基く類推の結果かも知れません)。

 

森井追記

 その後、米川訳、小沼訳を図書館で借りて見たところ、ともに、「ここではとてもそんな元気がありません」、「ここじゃどうもそんな気にはなれませんからね」と、尋常な訳になっていました。

 

 

 

 

 

7 出世志向の神学生

 

新訳203

彼(=アリョーシャ)は林道の両側に茂る古い松の木立を眺めはじめた。抜け道はさほど長くなく、せいぜい五百歩ほどだった。この時刻ならだれとも行き合うはずはなかったが、最初の曲がり道で彼はふいにラキーチンの姿を認めた。だれかを待ちうけている様子だった

「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」彼と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。

「Aいや、きみさ」ラキーチンはにやりと笑った。

 

森井の疑問

フョードルを除いた一行に遅れて、アリョーシャが修道院長のもとに向かう場面である。@に違和感を覚えた。「〜じゃないよね?」は、「自分は〜じゃないと思うが、そうだろう?」と相手に相槌を求める問いかけである。ところが、その前の青緑下線部を見れば分かるように、この状況で、ラキーチンが待ちうけているのは自分だと、明敏なアリョーシャが気づかないはずがない。したがって、それに対するラキーチンのAの答えも自ずと違ってくる。この箇所は「検証」でも指摘されています。

 

原訳187

(…)「@僕を待ってたんじゃないの?」相手と並ぶと、アリョーシャはたずねた。

「Aまさしく君をさ」ラキーチンがにやりとした。

 

江川訳98

(…)「@ぼくを待っていたのかい?」すぐ近くまで行って、アリョーシャはたずねた。

「Aきみをだよ」ラキーチンはにやりとした。

 

 

Он <…> стал смотреть на вековые сосны по обеим сторонам лесной дорожки. Переход был не длинен, шагов в пятьсот, не более; в этот час никто бы не мог и повстречаться, но вдруг на первом изгибе дорожки он заметил Ракитина. Тот поджидал кого-то.

@ Не меня ли ждешь? — спросил, поравнявшись с ним, Алеша.

A Именно тебя, — усмехнулся Ракитин.

 

 

 

解 

(by N.N.)

  「検証」では、新訳の@-Aの応答には原文にない妙な捻りがあり、不自然であることに軽く触れたに過ぎません。しかし、「疑問」では、先行する語り手の語りの文(地の文)における二つの青緑下線部との齟齬が指摘されており、これは重要な問題を含んでいます。

  最初の青緑下線部 “никто бы не мог и повстречаться ニクトー・ブイ・ニェ・モーク・イ・パフストリェチャーッツァ” の訳はよいとして、二つ目の“Тот поджидал кого-то トート・パッドジィダール・カヴォー‐タ” の訳は些か不正確。原文には、「誰をなのかはわからぬが、ラキーチンは間違いなく誰かを待っていた」というニュアンスがあるので、「だれかを待ちうけているのは明らかだった」とすべきところ。そして、この二つの下線部はいずれも、主人公に寄り添った語り手が主人公の意識を伝えている言葉。問題のアリョーシャの問いも、彼のこの意識の流れ(『誰にも会わないと思っていたら、ラキーチンがいる。明らかに誰かを待っている』)の延長上に発せられたもの。従い、そこでアリョーシャの問いの中心にあるのは『誰を待ってるんだろう? ぼくじゃないのかな?』ということであり、原文の字義通りの「ぼくを待ってる(た)んじゃないの?」が最も当を得た問い方。一方、新訳の「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」は、恰も待たれていたのは自分ではないことの確認を相手に求めているかのような口吻であり、上述の意識の流れから発された問いとしてはやはり不自然。ここで違和感を覚える読者も少なくないでしょう。それは語り手の語りの中に潜在する主人公の意識の流れを捉えそこなった結果と言えます。

 

森井追記

「検証」を受けて、第20刷で訂正が施されていますが、これもまったく不十分です。

  (訂正前)「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」(…)「Aいや、きみさ

  (訂正後)「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」(…)「Aまさにきみさ」

 

 

 

 

新訳207

(ラキーチン:)「(…)ああして、ものすごく高潔でも女好きな男(=ドミートリー)には、越えてはいけない一線があるんだよ。もしもそうでなきゃ、あの人は親父をぐさりとやりかねない。きみの親父は飲んだくれで、抑えのきかない道楽人で、節度なんてものは一度だって理解したことがない人間だけど、二人とも堪(こら)えきれなくなったら、溝のなかに一緒にどぶんと┄┄

 

森井の疑問

これも接続の問題である。文脈上、ここは順接であり、「人間だから」としなくてはならない。

 

原訳191

「(…)それに親父さんてのが飲んだくれで、抑えのきかない道楽者で、いまだかつて何事にも節度ってものをわきまえたことがないから、どっちも抑えがきかなくなって、もろともに溝(どぶ)の中へざんぶりと┄┄

 

江川訳100

「(…)ところが親父さんときたら、飲んだくれで、どうにも抑えのきかない道楽者だ、何事につけても節度ということを知らない。二人が二人とも抑えがきかないとなりゃ、一緒に溝(どぶ)のなかへどぶんさ┄┄

 

 

У этих честнейших, но любострастных людей есть черта, которую не переходи. Не то — не то он и папеньку ножом пырнет.  А папенька пьяный и невоздержный беспутник, никогда и ни в чем меры не понимал не удержатся оба, и бух оба в канаву…

 

 

 

解 

(by N.N.)

 原文の対応個所では、 二つの文が ダッシュ で繋がれています。“ ダッシュ が逆接の意味を表すことはありません。ここは「原因を表す従属節」と「結果を表す主節」を繋ぐ ダッシュ の用例です。逆接で訳したのは明らかな間違い。先行訳では、原訳が従属節と主節の因果関係を明示しており、江川訳は、明示してはいないものの、文を一旦切って、接続詞無しで次の文を始めているので、因果関係のニュアンスは仄かに感じられます。

 ところで、新訳の引用個所にはもう一つ問題があります。「ああして<中略>ぐさりとやりかねない」でラキーチンが述べているのはドミートリイの性質。「きみの親父は<中略>理解したことがない人間」で述べられているのはフョードルの性質。これは対比です。この対比を明確にすべく、ラキーチンは対比の接続詞 A ア…(「一方〜はどうかと言えば」の意)” でフョードルの性質の話を始めているのに、新訳では何故かこの А が訳されていない。先行訳はいずれもこの А への目配りを忘れていません。

 

 

 

 

新訳208

(ラキーチン:)「(…)でもアリョーシャ、ぼくもきみにだけは驚くよ。どうしてきみは、そうもうぶなんだ? きみだってカラマーゾフだろう! きみら一家って、女好きが炎症を起こすぐらい深刻だっていうのにさ。ところで、あの女好き三人組、今じゃもう、おたがい後をつけまわしているありさまだものね┄┄靴のなかにナイフ隠してさ。三人が@()()()つんと(・・・)やった(・・・)。で、ひょっとすると、きみがその四人目ということになるのかな」

 

森井の疑問

下線部に「あれっ?!」と思いました。なるほど確かに、この少し前の204ページに次のような遣り取りがあった。

「(…)アレクセイ、ひとつぼく(=ラキーチン)に教えてくれないか。あの予言、いったい何を意味してるんだ? それが聞きたくてね」/「なんの予言さ?」/「ほら、きみの兄貴のドミートリーに、頭を地面にまでつけておいてお辞儀しただろう。おまけにA額をごつんとやったじゃないか?」

@の傍点は、@がAを受けていることを強調するためと理解される。しかし、これは妙ではないか。Aは「叩頭」のことだが、これを当てはめて、@を「(三人が)叩頭した」と解することはできない。先行訳および文脈から考えて、ここは「(三人が)額をぶつけ合った」というほどの意味であろうと推測される。つまり、@とAは、原文ではそもそも別の言い回しではないのか、という疑いが生じる。

もう一つ、かなり重大な問題がある。先行訳を見ると、ともに@に傍点は施されていない。Aの「叩頭」の箇所とまったく違う表現なのだから、当然と言えば当然なのだが、そもそも原文にイタリック等による強調はなかったと考えるのが自然であろう。ということはつまり、新訳は原文にない強調を訳者の判断で(勝手に)入れたということになる。この操作は(例えば、@をAと関連づけてしまう、などのように)、読者を誤読させることになりかねない。一見軽微なようだが、テクスト改変には違いなく、私には、訳者として許される裁量の範囲を超えているように感じられる。原文に触れられず、翻訳だけが頼りの読者にとって、手の施しようがないからである。それにしても、この強調にいかなる意味を見いだされたのか。それがいまだに分からない。

 

原訳192

「(…)ところで、その三人の女好きが今や互いにあとをつけまわし合ってるんだ┄┄長靴にナイフを忍ばせてね。三人が@鉢合わせしたのさ、君はことによると四人目かな」

 

江川訳100

「ところでこの三人の好色漢がいまやたがいに相手の出方をうかがっているんだ┄┄長靴の胴にナイフをかくし持ってね。で、三人が@角突き合わせたわけだが、きみも、ひょっとして、第四の好色漢かもしれないな」

 

 

Алеша, дивлюсь: как это ты девственник? Ведь и ты Карамазов! Ведь в вашем семействе сладострастие до воспаления доведено. Ну вот эти три сладострастника друг за другом теперь и следят... с ножами за сапогом.   @ Состукнулись трое лбами, а ты, пожалуй, четвертый.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 先ず、@の傍点は訳者が付したもので、原文の対応部分には何の強調もありません。

 次に@とAについてですが、確かにこの二つは違う言い回しです。ただし、中心となる動詞に限って言えば、この二つは全く別物というわけでもない。

 @ Состукнулись трое лбами. サストゥークヌリィスィ・トロエ・ルバーミィ。

 A лбом-то стукнулся! ルボーム‐タ・ストゥークヌゥルサ

 Aの動詞の不定形 стукнуться ストゥークヌゥッツァ は、物を軽くたたくときの擬音語 тук トゥーク(こつん、とん、こつこつ、とんとん)”から派生した動詞 стукнуть ストゥークヌヌゥチ(こつんとたたたく) の再帰動詞で、「こつんとぶつかる」という意味。よって、Aは「こつんと額をぶつけた(叩頭した)」と訳せます。これに「共同・協力・一致」を表す接頭辞 со- サ‐” が付いてできたのが @の動詞の不定形состукнуться サストゥークヌゥッツァ で、これは「お互いにぶつかり合う」という意味。従い、@の訳は「三人が額をぶつけ合った」となります。実はAの стукнуться ストゥークヌゥッツァ にも「お互いにぶつかり合う」とほぼ同じ意味があります。しかし、それは文脈次第。ゾシマ長老を主語としたAの用例ではあくまでも「叩頭」の意味。@の Состукнулись サストゥークヌリィスィ については 、微妙な語感の違いこそあれ、AのСтукнулись ストゥークヌリィスィ”と置き換えることも可能ではある。だがしかし、仮に@に使われている動詞がAと全く同じ стукнуться ストゥークヌゥッツァ であったとしても、文脈がまるで違う以上、新訳のように@をAと同じように訳せるはずがない。ましてや、@が接頭辞 со- サ‐ によって「お互いに、共に」という意味を強調されていれば尚更の話である。@をAと全く同じに訳し、かつ、強調したのは不可解としか言いようがありません。

 ところで、@とそっくり同じ表現が、第8編第1章「クジマ・サムソーノフ」にも出て来る。サムソーノフから何とか三千ルーブルを引き出すべく、長広舌を揮うミーチャは、グルーシェンカをめぐって父親と自分とサムソーノフの「三人が角突き合わせた」という意味合いで、思わず трое состукнулись лбами トロエ・サストゥークヌリィスィ・ルバーミィ と口走ります。語順が違うだけで(@では真ん中にあった трое トロエ という主語が文頭に来ている)、二つは全く同じ表現。新訳がこれをどう訳しているかを見てみると、「三人がおでこをぶつけ合っている」とある。つまり、奇異に映る@の訳とは打って変り、こちらは尋常な訳になっています(動詞が完了体過去ですから、「三人がおでこをぶつけ合って、その状態がいまだに続いている」というニュアンスがあるので、訳文が現在形になっているのは問題なし)。

 

 

 

 

 

8 大醜態

 

新訳236

(フョードル:)「(…)勤勉なロシアの百姓たちがまめだらけの手で稼いだわずかばかりの金を、家族や国家の要は二の次にして、こっちに回しているんだ! 神父さん、あなたがただって民衆の生き血を吸っているんだ!」

 

森井の疑問

突然舞い戻ったフョードルが修道院長との会食の場に姿を現し、テーブル上のワインなどを見て毒づく場面。「〜だって」とは「〜もまた、〜さえも」の謂いである。ではフョードルは、他に誰が民衆の生き血を吸っていると言うのか。自分のことか? それにしても、他人を責め立てる言い方としては、余りにピンボケである。ここは、ずばり相手の懐に切り込んでいくべきではないか。

 

原訳218

(…)あんた方はね、尊い神父さんたち、民衆を食いものにしてるんですぜ!

 

江川訳114

(…)え、坊さま方、あんた方は人民の生き血を吸っておられるんだ!

 

 

<…> Это мужик русский, труженик, своими мозольными руками заработанный грош сюда несет, отрывая его от семейства и от нужд государственных!  Ведь вы, отцы святые, народ сосете!

 

 

 

解 

(by N.N.)

 ロシア語で「あなたがただって(= あなたがたもまた)」を表すとすれば、 вы ヴィ の前に助詞 и を付けて и вы イ・ヴィ とするか、或は вы ヴィ の後に副詞 тоже トージェ を付けて вы тоже ヴィ・トージェ とするか、この二つがまず考えられる(更にこれらを併用して и вы тоже イ・ヴィ・トージェ とすることも可能)。しかし、当該個所の原文は、ごく普通にただ вы ヴィ(あなたがた) とあるだけ。「〜だって= もまた)」というニュアンスは訳者が勝手に付け加えたものです。

 「検証」でも触れましたが、新訳は、「〜もまた」を表すロシア語表現 и … イ・〜 に対して、非常に無頓着。殆どの場合これを黙殺して訳出していません。ところが、当該個所では正反対のことをやっている。全く不思議な話です。

 

 

 

 

新訳238

フョードルのこの悪意に満ちた嘘八百に対して、修道院長は頭を下げ、さとすような態度でふたたび言った。

「こうも言われています。『あなたにふりかかる不本意な辱しめを、喜びとともに堪え、心をみださず、あなたを辱しめる者を決して憎んではいけない』。わたしたちはそのようにふるまいます」

「@ちぇっ、にふんてはいへない、か! わっけもわからんたわ言ならべやがって! Aせいぜい偽善者やってるんですな、神父さんがた、わたしはもう行きますよ! 息子のアレクセイは、父親の権利で今日から永久に引き取らせてもらいますよ!       フォン・ゾーン、何の用事があってこんなところに居残っている! いますぐ町なかのおれの家へ来い。こっちは楽しいぞ。(…)」

 

森井の疑問

下線部@の表現が面白いので、先行訳ではどうなっているのか興味を感じて覗いてみたところ、   部の脱落にたまたま気がつきました。これは補ってほしいものです。

ところで、ここの新訳のフョードルの毒舌には確かに勢いがある。@は原文でどうなっているのか、知りたいところである。

 

原訳192

(…)「@これだ、これだからな、偽善そのものだ! わけのわからないごたくを並べやがって! Aせいぜい偽善者ぶるんですな、神父さん、わたしは帰りますよ。忰のアリョーシャは、父親の権利で今日限り永久に引きとりますからね。さ、イワン、尊敬すべき息子さん、わしにつづけと命令させてもらおうか! フォン・ゾーン、どうしてこんなところ残るんだい! 今すぐ町の俺の家へ来いよ。うちは楽しいぜ。(…)」

 

江川訳114

(…)「@それそれ、お得意のマドワズアリだ! まるでちんぷんかんぷんじゃねえか! まあ、神父さん方、Aせいぜいマドワズアリでいなさるがいいや、私は行きますぜ。でも、息子のアレクセイは父親の権利で永久に引き取らせてもらいますからね。なあ、わが尊敬すべきご子息のイワン・フョードロヴィチ、おれのあとについてきてくれるだろうな! フォン・ゾーン、お前もここに残ってることはないさね!  おれの町の家へ来いよ、うちは楽しいぜ。(…)」

 

 

<…> Игумен на злобную ложь его наклонил голову и опять внушительно произнес:

— Сказано снова: «Претерпи смотрительне находящее на тя невольно бесчестие с радостию, и да не смутишися, ниже возненавидиши бесчестящего тя». Так и мы поступим.

@Те-те-те, вознепщеваху! и прочая галиматья!  AНепщуйте, отцы, а я пойду. А сына моего Алексея беру отселе родительскою властию моею навсегда. Иван Федорович, почтительнейший сын мой, позвольте вам приказать за мною следовать!  Фон Зон, чего тебе тут оставаться!  Приходи сейчас ко мне в город.  У меня весело. <…>

 

 

 

解 

(by N.N.)

 不注意によるものでしょうが、脱落としてはかなり大きなものです

 ところで、@ですね。青緑表記したロシア語原文は Те-те-те, вознепщеваху! チェ-チェ-チェ、ヴァズニェプシチェヴァーフゥ!”。最初の“те-те-те チェ-チェ-チェ は驚き、遺憾、無念等々を表す間投詞。問題は次の вознепщеваху ヴァズニェプシチェヴァーフゥ です。フョードルの口から突然飛び出したこの言葉は普通のロシア語ではなく、古代ロシア語の動詞 непщевати ニェプシチェヴァーチィ から派生したものとアカデミー版全集の註にあります。同全集の註は誠に緻密を極めたものですが、この語に関しては、何故か実にそっけない。「(1)考える。判断する。(2)注意を払わない。気に留めない。」という古代ロシア語動詞 непщевати ニェプシチェヴァーチィ の語義説明の他は、参考文献として『古代ロシア語辞典編纂用資料』(しかも1902年刊行!?)が挙げられているのみ。これでは全く語感が摑めぬ道理で、三つの訳のどれを見ても、訳者の困惑ぶりが窺えます。

 更に、原文では、@の“вознепщеваху ヴァズニェプシチェヴァーフゥ の少し後に、青表記したA“Непщуйте ネェプシチューイチェ という語が出て来る。語形から見て、この語は古代ロシア語の動詞 непщевати ニェプシチェヴァーチィ の命令形であろうと推察できます。しかし、これを命令形として、上述の語義(1)と(2)のいずれの意味で直訳してみても、どうもピンとこない。

 そこで Те-те-те, вознепщеваху! チェ-チェ-チェ、ヴァズニェプシチェヴァーフゥ! Непщуйте ネェプシチューイチェ を三つの訳がそれぞれどのように訳しているかを今一度比べてみると―

原訳  : 「これだ、これだからな、偽善そのものだ!」 「せいぜい偽善者ぶるんですな

江川訳: それそれ、お得意のマドワズアリだ!     せいぜいマドワズアリでいなさるがいいや

新訳  : 「ちぇっ、にふんてはいへない、か!」      せいぜい偽善者やってるんですな

 いずれも苦労の跡がありありと見える訳ですが、原訳と江川訳は、訳語こそ違っているものの、いずれも二つの原語が同語根であることを意識し、訳文にもこれを反映させようとしているのに対し、新訳はそのことには全く拘らずに訳していることがわかります。

 そもそも問題の古代ロシア語は、19世紀においても完全に死語だったのではないか? 先行する修道院長の言葉(フョードルの一連の暴言を神が自らに与えた試練として、それに堪え、無抵抗を貫くことの表明)を「御託」と受け止め、Те-те-те, вознепщеваху! チェ-チェ-チェ、ヴァズニェプシチェヴァーフゥ!”という言葉を思わず口にしたフョードルは、果たしてその語義を正しく理解していたかどうか? 甚だ疑問です。フョードルにしてみれば、相手の発言が「御託」であることを強調し、これを罵倒する言葉であれば、何でもよかったのであって、この語の選択は何ら必然性のない恣意的なものだったと解するべきではないか?

 三人の訳者も、おそらくそう考えたからこそ、それぞれ自分の才覚で以って、当該個所のフョードルの言葉を自由に “作った” のでしょう。従い、どれが正しく、どれが間違いなどということは問題になりようもなく、どのバージョンが一番よいかというのはあくまでも好みの問題ということになります。

 

森井追記

 この脱落も昨年直接指摘済みのものです。第20刷で以下のように補われました。これはうれしいことです。

(補正後)尊敬する息子のイワン君、わたしにつづけって命令させていただきますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3編 女好きな男ども

 

 

1 下男小屋で

 

新訳250

外見を見ると、グリゴーリーは冷ややかないかめしい無口な男だったが、口からでる言葉は重々しく、軽はずみとは無縁だった。

 

森井の疑問

細かいことかもしれないが、無口かどうかは外見からは判断できないので、この表現はやはり気になる。「いかめしい男で、無口だったが」とすればリズムも損なわずに自然な文になるのだが…。

 

原訳229

外貌からしてグリゴーリイは冷静な、おごそかな男で、口数も少なく、発する言葉は重みのある慎重なものだった。

 

江川訳120

そのくせ容貌だけ見れば、グリゴーリイは冷淡な、勿体ぶった感じで、口かずも少なく、話しぶりにしても、軽はずみなところなどつゆほどもない重みのある言葉を、一語一語押し出すような具合であった。

 

 

По наружности своей Григорий был человек холодный и важный, не болтливый, выпускающий слова веские, нелегкомысленные.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 誤訳です。原文では

По наружности своей Григорий был человек холодный и важный,

パ・ナルージュナスチィ・スヴァエイ・グリゴーリィ・ブイル・チェラヴェーク・ハロードヌイ・・ヴァージュヌイ

(外見を見ると、グリゴーリーは冷ややかで、いかめしい男で)

の後に句点( , )が置かれているので、外見から感じ取れるグリゴーリイの性質は列挙はここで終りです。新訳はこれを

По наружности своей Григорий был человек холодный, важный и не болтливый,

パ・ナルージュナスチィ・スヴァエイ・グリゴーリィ・ブイル・チェラヴェーク・ハロードヌイ・ヴァージュヌイ・ニェ・バルトリィーヴィ と同じように訳している。 и と句点( , )の位置の違いで、意味が変わってくるのです。

 たとえば―

@ Могут быть разные случаи, а именно: A, B, C, D.

A Могут быть разные случаи, а именно: A, B, C и D.

という二つの文があるとします。両者は非常に酷似している。コロンまでは一字一句違わず、「いろいろな場合があり得る。即ち―」という意味で、コロン以下に具体的にどんな場合なのかが示される構文です。しかし、@とAでは意味が違う。@は、例示はA, B, C, D4つだけだが、それが全てではなく、その他にもあるという意味。Aは、例示のA, B, C, Dで全てが尽くされているという意味。ご覧のとおり、и の有無だけで、これだけ意味が変わってくる。

 無口かどうかは外見からは判断できないということは、無論ドストエフスキーにとっても自明の理で、だからこそ холодный(冷ややかな)” важный(いかめしい)” и で繋ぎ、その後に怠りなく必要不可欠な句点( , )を打った。それなのに、新訳はその意味を捉えそこなっているわけです。

 先行訳を見ると、いずれも и と句点( , )の位置の意味に然るべく思いを致していることがよくわかります。尤も、江川訳は、「軽はずみなところなどつゆほどもない」(とりわけ「つゆほどもない」という辺り)や「一語一語押し出すような具合」という訳語など、些か想像の翼を広げすぎている感がしないでもありませんが。

 

 

 

 

 

2 リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ

 

新訳257

 あるとき、こんなことがあった。わたしたちの県の新知事が、この町の視察に立ち寄ったさい、リザヴェータを見て@ひどく良心を傷つけられた。報告を受け、なるほどその女が「神がかり」であることはわかったが、それでも若い女が肌着一枚でふらふらしていてはA町の風紀が乱れる、今後はこういうことがないようにと訓令を出した。しかし、知事が去ってしまうと、リザヴェータは今までどおりに放っておかれた。

 

森井の疑問

下線部@に違和感を覚える。「良心を傷つけられる」とは、通常、自分の言動に対してやましさを感じることである。確かに、知事は県の全責任を負っているかもしれない。しかし、Aから判断すると、この知事はこれを専ら自分の責任とは思っていないようである。「良心」の訳語が不適切なのではないか。

 

原訳236

あるとき、この県の新知事がこの町を視察に立ち寄ったことがあったが、知事はリザヴェータを見て、@やさしい心をいたく傷つけられ、報告のとおりそれが《神がかり行者》であると理解はしたものの、やはり、うら若い娘が肌着一枚でさまよい歩いているのはA良俗を乱すものだから、今後はこんなことがないようにと、注意を与えた。しかし、知事が去ってしまうと、リザヴェータは今までどおり放っておかれた。

 

江川訳123

当県に着任した新任の知事が、この町の視察に立ち寄ったとき、リザヴェータに目をとめて、@その高尚な感情をいたくそこねられ、彼女が《聖痴愚》であることは報告で承知はしたものの、やはり、うら若い娘が肌着一枚でうろつくのはA大いに風紀を乱すから、爾後かかることのないように、と訓告を垂れていった。しかし、知事が行ってしまうと、リザヴェータはまたもとのままにほっておかれた。

 

 

Раз случилось, что новый губернатор нашей губернии, обозревая наездом наш городок, @очень обижен был в своих лучших чувствах, увидав Лизавету, и хотя понял, что это «юродивая», как и доложили ему, но все-таки Aпоставил на вид, что молодая девка, скитающаяся в одной рубашке, нарушает благоприличие, а потому чтобы сего впредь не было. Но губернатор уехал, а Лизавету оставили как была.

 

 

解 

(by N.N.)

 やはり、問題は「良心」という訳語。原語 свои лучшие чувства スヴァイー・ルーチシエ・チゥーストヴァ は、逐語訳すれば「自らの最良の感情」となるが、語感的には「善良な心持ち」、「やさしい心根」といった感じで、「良心」という日本語とは、読者(聴き手)に喚起させるイメージを大きく異にします。「良心」、即ち「善 持ち」などと字解きできようはずもなく、不適切な訳語と言わざるを得ません(日本語の「良心」に当たるロシア語は совесть ソーヴェスチ で、この言葉は『カラマーゾフの兄弟』でも盛んに出て来ます。その中でも特に多いのがドミートリイやイワンに関わる使用例)。

 先行訳では、江川訳が逐語的な意味に近い分、まだ堅さが抜け切らぬのに対して、原訳は原語の語感をうまく摑まえたこなれた訳になっています。

 ところで、新訳Aで「訓令を出した」と訳されている原語は поставил на вид パスターヴィル・ナ・ヴィード です。この熟語は「過失・失態などに注意を与える」という意味の公用語で、日本語の「譴責する、戒告する」に相当するもの。「訓令」と「譴責、戒告」では意味が大きく異なる。「訓令を出した」は明らかに誤訳であり、せめて「厳重に注意を与えた」とすべきところでしょう。

 

 

 

 

 

3 熱い心の告白──

 

新訳276

(ドミートリー:)「彼女(=カテリーナ)と親父のところだって? ほほう! そいつは偶然の一致だな! だって、おまえ(=アリョーシャ)をここに呼んだのはいったいなんのためだと思う? あんなにおまえと会いたいと願っていたのは、なんのためだと思う。それこそ藁をもつかむ思いでおまえを求め、おまえを渇望していたのは、ほかでもない、おまえをその親父のところに使いにやって、それからカテリーナさんの家へ行ってもらい、それでもって彼女とも親父とも縁を切るためだったんだ。(…)」

 

森井の疑問

「藁をもつかむ思い」は、日本語の慣用句を使った意訳と推測され、また、激情家ドミートリーにしてはインパクトに欠けるとも感じて、先行訳と比べました。先行訳はともに、原文のオリジナルな表現を忠実に訳しているようである。この場合も、こっちの方が、通俗慣用句より、登場人物の性格と真情をうまく映し出しているように私には感じられる。

 

原訳254

(…)だってさ、俺がお前を呼ぼうとしたのは何のためだと思う、俺がお前に会いたがり、心の襞という襞、肋骨という肋骨までお前を求め、渇望していたのは、何のためだと思う? まさしく、お前を親父のところへ(…)

 

江川訳132

(…)だって、おれがおまえを呼んだのは何のためだと思う、会いたがっていたのは何のためだと思う、おれが心のひだのひとすじひとすじ、いや、あばら骨の一本一本にまで熱き思いをこめて、おまえを待ちこがれていたのは何のためだと思う? ほかでもない、まずおまえを親父のところへ(…)

 

 

— К ней и к отцу!  Ух!  Совпадение!  Да ведь я тебя для чего же и звал-то, для чего и желал, для чего алкал и жаждал всеми изгибами души и даже ребрами?  Чтобы послать тебя именно к отцу от меня, а потом и к ней, к Катерине Ивановне, да тем и покончить и с ней, и с отцом.

 

 

解 

(by N.N.)

 「検証」でも触れましたが、ドミートリイは、あらゆる物事を劇的に捉え、何事につけ芝居がかった大袈裟な表現をする性向の持主です。しかも、ご本人自ら十分そのことを自覚してもいる。下線部は、そのドミートリイの、普通の人間とは一線を画した、破格の言葉遣いの一例と言えます。翻訳の際、これを日本語の常識的な慣用句に置き換えるということは、主人公の独特の言葉遣いを通した作者による人物造形をも毀してしまいかねない、極めて危険な選択です。先行訳はその点を考慮し、日本語としては破格なものになることも辞さずに、原文のオリジナルな表現に副った訳をしたのでしょう。しかし、ここは破格になったとしても、一向に差し支えない。原文のドミートリイの物言いそのものが、ロシア語として既に破格なのですから。

 

 

 

 

新訳282

「(…)悲しみの目で/ケレースがどこを見ても──/いたるところ、@深い(・・)恥辱(・・)()まみれた(・・・・)/男の姿が見えるだけ!」

 ドミートリーの胸から、ふいにすすり泣きがほとばしった。彼はアリョーシャの手をつかんだ。

「アリョーシャ、いいかい、A恥辱なのさ、おれはいまもB恥辱にまみれているんだ。(…)」

 

森井の疑問

@の強調は、シラーのこの詩句をドミートリーがAとBでそのまま自分に当てはめていること明示するためと思われる。先行訳にこの強調はない。だたし、原文に強調がないとしても、この傍点は読者への親切心から施されたのでしょう。なお、下線部@の後の「男」は「人間、人」の誤訳であると「検証」に指摘されています。

 

原訳258

「(…)悲しみの眼差しもて/ケレ−スがいずこを見ても、/いたるところ、目に映るは/@深き屈辱に泣く人の姿ばかり!」 (中略)

「なあ、アリョーシャ、A屈辱だよ、今だってB屈辱に泣いているのさ。(…)」

 

江川訳135

「(…)悲しみにくもる眼差をあげて/女神ケレ−スがいずこを見ても──/いたるところ@汚辱の底に沈む/人の子のすがたを見るばかり!」 (中略)

「いいかい、いいかい、アリョーシャ、A汚辱の底なんだよ、いまだってB汚辱の底に沈んでいるんだ。(…)」

 

 

                        И куда печальным оком

                         Там Церера ни глядит —

               @ В унижении глубоком

                              Человека всюду зрит!

  Рыдания вырвались вдруг из груди Мити. Он схватил Алешу за руку.

— Друг, друг, A в унижении, B в унижении и теперь.

 

 

解 

(by N.N.)

 「疑問」の推察のとおり、@の強調は原文にはなく、これは、AとBでドミートリイが繰り返す言葉が件のシラーの詩に由来することを読者に告げるサインとして、訳者の判断で行なったものです。その是非については意見がわかれるところでしょう。

 человека チェラヴェーカ の訳語の問題については「検証」で詳論済み。

 

 

 

 

 

 

5 熱い心の告白──「まっさかさま」

 

新訳318

「で、兄さんもほんとうにあの人と結婚したいんですか?」

「向こうがその気になるならすぐにでもするし、@いやだっていうならこのまま残る。あいつの家の庭番でもやらしてもらうよ。おいおい、アリョーシャ┄┄」そういって彼はアリョーシャの前に立ちどまり、つかんだ肩を、ふいに思いきり揺すりだした。

「純真な坊やにわかるかな、Aなにもかも寝言だってことが、考えられもしない寝言だってことが、なにしろこれは悲劇だからな!(…)」

 

森井の疑問

まずAの「寝言」の訳語に違和感を覚えた。これは比喩的には「たわ言」の意で用いられる。ところが、自ら「悲劇」と呼んでいるようにドミートリーにとって事態は深刻である。「たわ言」どころではない。この直後に彼は、カテリーナの三千ルーブルを使い込んだことをアリョーシャに「告白」する。返済のあては全くなく、今やにっちもさっちもいかない状態なのである。それを念頭においての発言なのだから、ここは「寝言」ではおかしい。

続いて、@に目が行って、新訳および先行訳相互のニュアンスの違いに気づいた。原文はどうなっているのであろうか。

 

原訳291

(…)「先方がその気になってくれりゃ、すぐにするし、@いやなら、今のままさ。彼女の家の門番にでもなるよ。おい┄┄なあ、アリョーシャ」(…)「お前は純真な坊やだから、わからんだろうが、Aこれはすべて、悪夢なんだ。考えもつかぬような、悪夢なんだよ、なぜならこれは、悲劇だからさ!(…)」

 

江川訳151

(…)「向こうがその気になってくれさえすりゃ、すぐにもするさ、@いやだと言えば、このまま居坐るまでさ。あいつの家の庭番にでもなるよ。なあ┄┄なあ、アリョーシャ┄┄」(…)「おまえみたいな純真な少年にはわかるまいが、Aこれはみんな悪夢なんだよ、想像もつかないような悪夢なんだよ、なにしろこれは、悲劇なんだからな!(…)」

 

 

— И ты в самом деле хочешь на ней жениться?

— Коль захочет, так тотчас же, @ а не захочет, и так останусь; у нее на дворе буду дворником. Ты... ты, Алеша... — остановился он вдруг пред ним и, схватив его за плечи, стал вдруг с силою трясти его, — да знаешь ли ты, невинный ты мальчик, A что всё это бред, немыслимый бред, ибо тут трагедия!

 

 

 

解 

(by N.N.)

「A寝言」の原語およびその訳語について

 「寝言」の訳語の原語は“бред ブリェード”であり、この単語の第一義は「譫妄; うわ言」。しかし、口語的に「たわ言; 無意味なくだらぬこと」の意味でも用いられます。作中、この言葉は全部で10回出て来ます。その中1回は章題としてで、即ち、「昔の男」ムッシャローヴィチの「追放」に続く、モークロエのどんちゃん騒ぎの章 第8編第8章 の章題が Бред ブリェード”。残る9回の中、1回だけイワンの言葉(第5編第5章「大審問官」)として出て来る以外、作中でこの言葉を口にするのはドーミトリイだけです。第一義、第二義のいずれの意味に解するかは文脈次第。たとえば第8編第8章の章題を「たわ言」と訳してしまっては全く様にならない(因みに、新訳はこの章を「うわ言」と訳しています)。ドミートリイの使用例にしても、時に応じて、第一義であったり、第二義であったりで、常に一定しているわけではありません。

 それでは当該個所ではどうか? 既に別の個所で触れたように、ドミートリイはあらゆる物事を劇的に捉え、何事につけ芝居がかった大袈裟な表現をする性向の持主です。カテリーナとのかつての出会いを “ドラマ”として物語り、その後のグルーシェンカに対する運命的な愛とそれに伴うカテリーナへの背信を “悲劇” として、今アリョーシャに語って聞かせているドミートリイが口にする言葉の語義として相応しいのは「譫妄;うわ言」か、それとも「たわ言」か? これは勿論前者でしょう。

 但し、語義は「譫妄;うわ言」であるとしても、これをそのまま訳語として採用するかどうかは、また全くの別問題。訳者の判断によって様々な訳があり得る道理で、その一例が原訳、江川訳に見る「悪夢」という訳語です。おそらく語の連想に留意してのことでしょう、両者は第8編第8章の章題もやはり「悪夢」としています。意訳としては悪くない訳だと思います。「譫妄」とは、「熱病等による幻覚症状」のことですから。

  新訳「寝言」は、「うわ言」、「たわ言」のいずれの語義からも敷衍できる訳語ですが、日本語の語感からみて、件の文脈にはおよそ相応しからぬものです。

 

「@いやだっていうならこのまま残る。」の原文ニュアンスについて

  新訳のみならず、二つの先行訳も、原文ニュアンスを正確に伝えているとは言えません。 ここで鍵となるのは、原文下線部@の“и так … イ・ターク ”。 これは、 и без того уже … イ・ビス・タヴォー・ウジェー 〜” という慣用句と同じく、“そうであっても〜だ” という意味を表します。この慣用句は、第7編第3章「一本のねぎ」でも、グルーシェンカの言葉の中に次のような形で出て来ます。

 если бы ты его вчера али третьего дня привел!.. Ну да рада и так.

 イェスリィ・ブイ・トゥイ・イェヴォー・フチェラー・アーリ・トリェーチェヴァ・ドニャー・プリヴョール! ヌゥー・ダ・ラーダ・イ・ターク

 あんた(ラキーチン)が彼(アリョーシャ)を昨日か一昨日連れてきてくれてたらねぇ! まあ、今日だって嬉しいけど。

 下線部@は、“а не захочет ア・ニェ・ザホーチェット(もし嫌だと言った場合)、и так останусь イ・ターク・アスターヌゥスィ(その時だって居残る) という意味です。状況に照らしても、ドーミトリイは最早グルーシェンカから離れられないのですから、「彼女がその気になってくれれば、すぐにも結婚するけど、たとえその気にならない場合でも、そのまま居残って、彼女の庭番にでもなるつもりだ」という、彼の言葉の流れは極めて自然。「いやだっていうならこのまま残る」、「いやなら、今のままさ」、「いやだと言えば、このまま居坐るまでさ」と訳しても、全体の文意が大きく損なわれることはないかもしれませんが、やはり「いやだといったってこのまま残る」の方が遥かに当を得ているはずです。

 

 

 

 

新訳322

(ドミートリー:)「いいか。@法的にはやつはおれに一銭の借りもない。Aでもいまは特別なんだ。Bあいつからもらうものはすべてもらった。すべてだ。だが、やつは道義的におれに借りがある。そうだろう? だって、やつはおふくろの二万八千ルーブルを元手に十万ルーブルの金を作ったんだからな。(…)」

 

森井の疑問

@・A・Bを続けて読むと、文の流れが妙に屈折する。阻害要因はAである。Aがなければ流れは滞らない。先行訳に、Aに相当する一文はない。どこで紛れ込んだかといぶかしんでいると、直後にこういう遣り取りがある。

 「兄さん、でもお父さんはぜったいにくれません」

 「くれないのはわかっている。そんなことは百も承知だ。Cとくにいまは、な。それだけじゃない。おれはこんなことも知っている。(…)」

紛れ込んだのはひょっとしてこのCであろうか?

 

原訳296

「いいかい、@法的には親父は俺に何の負い目もないんだ。B俺は全部引き出しちまったからな、それは俺にもわかっている。でも、(…)」

 

江川訳153

「まあ聞け、@法律的には親父はおれに一文の負債もない。Bおれは取れるだけのものはそっくり親父から取ってしまった。それはわかっているんだ。しかしだ、(…)」

 

 

— Слушай: @ юридически он мне ничего не должен. B Всё я у него выбрал, всё, я это знаю. Но ведь нравственно-то должен он мне, так иль не так? Ведь он с материных двадцати восьми тысяч пошел и сто тысяч нажил.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 確かに原文にAに該当する句は存在しません。「疑問」の推察の通り、新訳のAは、すぐ後に続くドミートリイとアリョーシャの次の遣り取りの中のCから紛れ込んだものと断定して間違いないでしょう。

— Митя, он ни за что не даст.

— Знаю, что не даст, в совершенстве знаю. C А теперь особенно. Мало того, я вот что еще знаю:

 

 

 

 

 

 

新訳325

「ということは、(お父さんは)今日もグルーシェニカを待っているってことですね?」

「いや、今日は来ない。思い当たるふしがある。だから、たぶん来ない!」ドミートリーはふいに叫んだ。「スメルジャコフもそのつもりだ。親父は今ごろイワンとテーブルで酒を飲んでいる。アリョーシャ、さあ行くんだ、三千ルーブルを頼みこんでくれ┄┄

 

森井の疑問

「そのつもり」とは、どのつもり(どういう意志)なのか? 「スメルジャコフ」というのだから、彼もここは当然、その前のドミートリー同様、推量していなければならない。この箇所は「検証」でも触れており、それによれば、ドミートリーの「たぶん(来ない)」と訳された推量副詞も、19世紀には「きっと」の意で用いられたという。

 

原訳298

(…)「いや、彼女は今日は来ないよ、思い当る節があるんだ。きっと来ないとも!」突然ドミートリイは叫んだ。「スメルジャコフもそう見てるしな。(…)」

 

江川訳154

(…)「いや、きょうは来ない、その兆候があるんだ。まず確実に来ないな!」ミーチャは突然大声で叫んだ。「スメルジャコフもそう見ている。(…)」

 

 

— Стало быть, он и сегодня ждет Грушеньку?

— Нет, сегодня она не придет, есть приметы. Наверно не придет! — крикнул вдруг Митя. — Так и Смердяков полагает. Отец теперь пьянствует, сидит за столом с братом Иваном. Сходи, Алексей, спроси у него эти три тысячи...

 

 

 

解 

(by N.N.)

 「検証」で詳論済みです。

 

森井追記

 20刷で「検証」に則って直されている。しかし、全く中途半端である。なぜだろうか?

  (訂正前)「(…)たぶん来ない!」(…)「スメルジャコフもそのつもりだ。(…)」

  (訂正後)「(…)きっと来ない!」 (…)「スメルジャコフもそのつもりだ。(…)」

 

 

 

 

新訳326

「じゃあ、行ってきます。でも兄さんはここで待っててくれますね?」

「ああ、待ってるとも。話がすぐにまとまるはずなんてないし、入っていっていきなりドンとぶつけるわけにもいかんじゃないか! 親父は酒に酔ってるし。待ってるとも。三時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも。でもな、これだけは覚えておいてくれ。今日、たとえ真夜中でも、おまえはカテリーナさんのところへ行くんだ。@金を持とうが持つまいが。で、言うんだ。『あなたによろしくとのことです』とな。このひとことだけは、どうしても言ってもらわなくちゃならない。『Aあなたによろしくとのことです』だ」

 

森井の疑問

最後の「Aあなたによろしくとのことです」の句にドミートリーがこだわっているので、先行訳はどう訳しているのかと覗いてみたところ、これもたまたま、先行訳にはある下線部@の強調が新訳にないことに気づいた。ここに傍点が施されているのは、どんな条件であろうと、先の句を伝えてほしいという切迫した気持ちを表すもので、ドミートリーはこの部分をとりわけ強い口調で語ったはずである。原文でも強調されていると推測される。原文の強調を落として、そこに込められたものが読者に伝わらなくなるのはまずいのではないか。

さて、元に戻ってAである。「よろしく」という極平凡な句に妙に拘泥するドミートリーがやはり気になる。ここの言い回しを比べてみると江川訳は目立って特徴的である。と、ここで思い出した。新訳210頁に対する「検証」のコメントである。そこに、「よろしく伝えてくれ」の(旧い言い方の)逐語的意味は「お辞儀をしてくれ」であると書いてある。ここも同じ表現が使われているのだろうか。そしてドミートリーはそれにどんな思いを込めたのであろうか。

 

原訳299

(…)たとえ真夜中になろうと、お前は今日のうちに、@()()ある(・・)なし(・・)()かかわらず(・・・・)、カテリーナのところへ行って、『兄がよろしく申しました』というんだぞ。俺はぜひともお前に、その言葉を言ってもらいたいんだ。『Aよろしく申しました』とな」

 

江川訳155

(…)きょうのうちに、たとえ真夜中でもいい、カチェリーナのところへ行って、@()()あって(・・・)()なくて(・・・)、『兄から頭を下げるようにことづかりました』と言ってほしいんだ。おれはどうしてもおまえにこの一行を言ってほしいんだよ。『A兄から頭を下げるようにことづかりました』というやつをな」

 

 

— Я пойду. Скажи, ты здесь будешь ждать?

— Буду, понимаю, что нескоро, что нельзя этак прийти и прямо бух! Он теперь пьян. Буду ждать и три часа, и четыре, и пять, и шесть, и семь, но только знай, что сегодня, хотя бы даже в полночь, ты явишься к Катерине Ивановне, @ с деньгами или без денег, и скажешь: «Велел вам кланяться». Я именно хочу, чтобы ты этот стих сказал: A «Велел, дескать, кланяться».

 

 

 

解 

(by N.N.)

@ 金を持とうが持つまいが」の強調について

 原文ではイタリック体によって強調されています。この強調がドーミトリイの切迫した気持ちを表し、彼はこの部分をとりわけ強い口調で語ったはずという「疑問」の推察は正にその通りで、朗読の際にもここは強調して読まねばならぬところ。故意にしろ過失にしろ、翻訳の際にこのような強調を落してもらっては困ります。

A ドミートリイが「よろしく」という言葉に拘る理由について

 下線部Aで、ドミートリイが「よろしく」という言葉に拘るのにも、江川訳だけ異なっているのにも、もちろん理由があります。原文ロシア語は“Велел вам кланяться ヴェリェール・ヴァム・クラーニャッツァ ですが、下線部の動詞 кланяться クラーニャッツァ が実は大変な曲者。作中でこの動詞が出て来るのは、当該個所が2回目で、一回目は、「疑問」の指摘にもある、「検証」で触れた新訳210pのアリョーシャのラキーチンに対する台詞の中です。グルーシェンカがアリョーシャにご執心で、連れてきてくれと何度も頼まれていることをラキーチンに告げられたアリョーシャはこう答えます。

  Кланяйся, скажи, что не приду. クラーニャイサ、スカジイー、シトー・ニェ・プリドゥー。

  (よろしく伝えといてくれよ。行きませんって言っといて。)

  кланяться クラーニャッツァ ここで「よろしく伝える」という意味で用いられており、 кланяйся クラーニャイサ”は命令形。

  一方、下線部Aでドミートリイがアリョーシャに託す伝言 Велел вам кланяться ヴェリェール・ヴァム・クラーニャッツァ も、その基本的な意味は「あなたによろしく伝えるようにと言付かりました」で、動詞の語義“кланяться クラーニャッツァ”は上のアリョーシャの用例と同じ。新訳と原訳はこの意味で訳出しています

  ところが кланяться クラーニャッツァ には「お辞儀をする、頭を下げる」という意味もあり、この語義で訳しているのが江川訳。では、江川はなぜ敢えてこのように訳したのか? それは読者に与える言葉の連想効果を期してのことです。

 アリョーシャに託した、カテリーナに対するドミートリイの кланяться クラーニャッツァ は、挨拶の言葉として、常識的には「よろしく伝える」の意味ながら、異常な出会いに始まり今日に至るドーミトリイとカテリーナ二人の関係の文脈では「お辞儀をする」の意味合いをも帯びてきます。公金横領の罪で窮地に立った父親を救うべく、必要な金を借りに放蕩者のドミートリイの許へ赴いたカテリーナに対し、瞬間の心の葛藤の後、彼はあくまでも高潔な人間として振る舞い、金を融通した上、深々と彼女にお辞儀をしたпоклонился パクラニィールサ”[動詞 кланяться クラーニャッツァ”の完了体過去形]、その名詞形が поклон パクローン”[「お辞儀」の他に「挨拶」という意味がある])、彼女もこれに純ロシア式の深いお辞儀で答えた、あの二人の出会い。“кланяться クラーニャッツァ というドミートリイの言葉には、「よろしく伝える」という意味の他に、カテリーナだけに通じる「お辞儀をする」という意味が込められていた。そして、それは確実に彼女に伝わった。この言葉をアリョーシャから聞いた際の彼女の反応(新訳393頁以下)にそれは明らかです。

 ロシア語としてはあくまでもただ一つの言葉 кланяться クラーニャッツァ が、作品の特定のプロットの中で二重に響いている。この二重の響きを完全に日本語で伝えることは無論不可能です。そこで江川は読者に与え得る言葉の連想効果の方を優先し、敢えて兄から頭を下げるようにことづかりました」と訳したのでしょう(実は江川自身、自著「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」の中で、この「頭を下げる」という言づけをドミートリイとカテリーナの馴れ初めの場面のお辞儀と関連づけて詳しく考察しており、その拘りぶりを見ても、この訳語が熟考の上の意図的な選択であったことが察せられます)。

 果たしてどちらの訳が好ましいか? これはもう意見のわかれるところでしょう。

 

 

 

 

 

9 女好きな男ども

 

新訳382

「ぼくは、明日ホフラコーワさんのお宅にうかがいます」とアリョーシャは答えた。「@カテリーナさん宅にもこれから行って、もし会えなければ、やはり明日ということになるかもしれません┄┄

「Aでも、これからカテリーナさんのところへ行くんだろう? 例の『くれぐれもよろしく、くれぐれもよろしく』って用で?」イワンが、ふいににこりとした。アリョーシャはどぎまぎした。

 

森井の疑問

@でアリョーシャがはっきり「これから行く」と言っているのに、すぐその後のAでイワンが「でも、これから行くんだろう?」と問うているのは、とんちんかんである。ここは確認のニュアンスの濃いものでなければならない。また、「でも」という逆接もおかしい。

 

原訳351

(…)「じゃ、これからやっぱりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行くわけか? 例の『くれぐれもよろしく』ってやつだな?」(…)

 

江川訳181

(…)「じゃ、いまはやはりカチェリーナさんのところへ行くんだな! 例の『頭を下げます、頭を下げます』だろう?」(…)

 

 

— Я завтра буду у Хохлаковых, — ответил Алеша. — @ Я у Катерины Ивановны, может, завтра тоже буду, если теперь не застану...

AА теперь все-таки к Катерине Ивановне! Это «раскланяться-то, раскланяться»?— улыбнулся вдруг Иван. Алеша смутился.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 原文ではAは接続詞 А で始まり、その後に теперь チェピェーリ(今は)” という副詞が続いている。直前のアリョーシャの台詞は、「明日の朝会いたい」というイワンの申し入れに対して、自分の明日の予定を説明しているもの。従い、この А は明らかに「明日」に対する「今(“теперь チェピェーリ”)」という「対比」を示しています。アリョーシャの説明を聞いて、「(明日のことはわかった。)で、今はやっぱりカテリーナさんのところへ行くってわけだ!」と少し揶揄するような調子でイワンは応じているので、そのイワンの台詞を「でも」と逆接で始めてしまっては、会話がちぐはぐになるのも当然です。

 しかも、新訳は「やはり(“все-таки フスィヨー・ターキイ”)」という言葉をどういうわけか訳し落としています。この言葉は、上述の時の「対比」の流れの中で自然にイワンの口をついて出たものなので、これを訳さぬというのはやはり拙い。

 「でも」といい、「やはり」の脱落といい、この場面の兄弟の会話の呼吸を完全に摑みそこねていると言わざるを得ません。

 

 

 

 

 

10 二人の女

 

新訳391

 それだけに、彼はいま、走り寄ってきたカテリーナをひと目見て大きな驚きを覚え、自分はあのときとんでもない間違いをおかしてしまったかもしれないと感じたのだった。あらためて見ると、その顔は偽りのない素朴な善良さと、率直で燃えるような誠実さに輝いていた。あのときアリョーシャをあれほど驚かせた@「プライドの高さや傲慢さ」は嘘のように消えて、A今は勇敢で気だかいエネルギーと、どこか晴ればれとした力づよい自信ばかりが目立っていた

 

森井の疑問

ドミートリーに連れられて最初に紹介された時の印象と、いま目の前にいるカテリーナの姿とがひどく異なるのにアリョーシャが戸惑う場面である。下線部@が、私の抱くカテリーナのイメージとずれるので先行訳を見ました。やはり、どうも「嘘のように消えて」はいないようである。

 

原訳358

(…)あのときあれほどアリョーシャをおどろかせた@《気位の高さや高慢さ》のうち、A今目につくのは、大胆なエネルギーと、何か明確な力強い自信だけだった

 

江川訳185

(…)この前、アリョーシャの印象に強く残った@《気ぐらいの高さと傲慢さ》のなごりは、Aきょうはただ、大胆で高潔なエネルギーと、どこかはればれと感じられるたくましいほどの自信のうちにうかがわれるだけであった。

 

 

Тем с большим изумлением почувствовал он теперь при первом взгляде на выбежавшую к нему Катерину Ивановну, что, может быть, тогда он очень ошибся. В этот раз лицо ее сияло неподдельною простодушною добротой, прямою и пылкою искренностью. @Изо всей прежней «гордости и надменности», столь поразивших тогда Алешу, A замечалась теперь лишь одна смелая, благородная энергия и какая-то ясная, могучая вера в себя.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 「嘘のように消えて」というのは誤訳(乃至は創作)。原文本来の意味は先行訳、特に原訳がよく伝えています。

 

 

 

 

新訳395

(カテリーナ:)「(…)わたし、この一週間というもの、それこそ胸が苦しくなるくらい心配でした。使い込んだ三千ルーブルのことを、あの人に恥と思わせないようにするにはどうすればよいかと。つまり、いろんな人や自分のことを恥ずかしく思うのはかまいません。でも、わたしに対しては気がねしてほしくないのです。(…)」

 

森井の疑問

ドミートリーが「自分のこと」を恥ずかしく思うのは分かる。だが、なぜ「いろんな人」のことまで恥ずかしく思わなければならないのか。

 

原訳363

(…)つまり、世間の人たちみんなや自分自身に対して恥じるのは結構ですけど、あたくしには恥じないでほしいんです。

 

江川訳187

(…)ええ、ほかの人に対して、ご自分に対して恥ずかしいと思われるのはかまいませんけど、私に対しては恥ずかしいと思ってほしくないんです。

 

 

<…> Меня всю неделю мучила страшная забота: как бы сделать, чтоб он не постыдился предо мной этой растраты трех тысяч?  То есть пусть стыдится и всех и себя самого, но пусть меня не стыдится. <…>

 

 

 

解 

(by N.N.)

 誤訳です。確かに стыдиться себя самого ストゥイヂィーッツァ・スィビャー・サマヴォー だけであれば、「自分自身を恥ずかしく思う」という意味にもなり、現に第7編第3章「一本のねぎ」ではグルーシェンカが正にそのような意味で同じ表現をしています。しかし、動詞“стыдиться ストゥイヂィーッツァ” の補語として「全ての人(всех フスィエッフ)」が来て、“стыдиться всех ストゥイヂィーッツァ・フスィエッフ となった場合、「全ての人を恥ずかしく思う」ではなく、「全ての人に気がねする、全ての人に対して恥ずかしく思う」というほどの意味。従い、下線部原文の逐語訳は「全ての人に気がねしたり、自分自身を恥ずかしく思ったりするのは構わない」となります。しかし、ここは一つの動詞 стыдиться ストゥイヂィーッツァ” に対し、“и всех и себя самого イ・フスィエッフ・イ・サマヴォー(全ての人と自分自身)” と補語が二つあり、そこには「〜も〜も(“и … и … イ・〜・イ・〜)」というニュアンスも出ているので、「全ての人に対しても、自分自身に対しても、恥ずかしく思われるのは構いません」とした方がよいでしょう。先行訳はいずれも意訳として首肯し得るものです。

 

 

 

 

新訳412

アリョーシャはよろめくようにして通りに出た。カテリーナと同じように、自分も泣きたかった。そこへとつぜん、小間使いが後ろから追いかけてきた。

「ホフラコーワさまからことづかった手紙です。@お嬢様(=カテリーナ)がお渡しするのをお忘れでしたので。A昼のお食事のときからお預かりしていました

 

森井の疑問

@で、えらく気のつく小間使いだなと思ったところ、Aで「ん?」となりました。小間使いは昼すでに手紙を預かっていた? そんなことはない。リーザ・ホフラコーワの手紙をことづかったのはむろんカテリーナである。

 

原訳379

(…)「お嬢様がホフラコワ様のお手紙を@お渡しするのを、お忘れになったそうですので。Aお昼のお食事のときからお預かりしておりましたのに

 

江川訳195

(…)「お嬢様が@お渡しするのをお忘れになったそうです、ホフラコワさまからのお手紙で、Aお食事のときお預かりしたままになっておりましたので

 

 

   Алеша вышел на улицу как бы шатаясь. Ему тоже хотелось плакать, как и ей. Вдруг его догнала служанка.

@ Барышня забыла вам передать это письмецо от госпожи Хохлаковой, A оно у них с обеда лежит.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 推敲が不十分なため、読者の誤読を招きかねない不適切な訳文になっているということでしょう。手紙をことづかったのは “お嬢様” であり、「お昼に預かって、そのままずっと “お嬢様” の許にあった」というのがAの原文の意味。誤読されることのないように、先行訳はいずれも適宜、語を補って訳しています。

 

 

 

 

 

11 もうひとつ、地に落ちた評判

 

新訳413

「さあ、命が惜しけりゃ、金を出すんだ!」

「なあんだ、兄さんか!」アリョーシャは、震えあがったが、それでも驚きのほうが強かった

 

森井の疑問

下線部の表現では、「震え」と「驚き」とが併存していることになるが、「なあんだ、兄さんか!」と認識した時点でアリョーシャの「震え」は収まっているはず。つまり本来、「震え」、「認識」、「驚き」の順になるはずである(多少の重なりはあっても)。ところが、新訳では、「認識」、「震え」+「驚き」、のように読めるため、違和感がある。

 

原訳379

「金を出すか、生命をよこすか!」

「なんだ、兄さんじゃありませんか!」ひどく震えあがったアリョーシャは、びっくりして言った

 

江川訳195

「金か、命か!」

「なんだ、兄さんですか、ミーチャ!」一瞬ふるえあがったが、アリョーシャは意外さに目を見張った

 

 

— Кошелек или жизнь!

— Так это ты, Митя! — удивился сильно вздрогнувший, однако, Алеша.

 

 

 

解 

(by N.N.)

 “Так это ты, Митя! ターク・エータ・トゥイ、ミーチャ!(なあんだ、兄さんか!)” に続く地の文の主語は勿論アリョーシャで、述語は удивился ウヂィヴィールサ(驚きの声を上げた)”。従い、「アリョーシャは驚きの声を上げた」というのが文意の中心。 しかし、主語アリョーシャに вздрогнувший スィーリナ・ヴズドローグヌゥフシィー(震え上がった)” という能動形動詞過去が冠されているので、「震え上がったアリョーシャは驚きの声を上げた」という意味になり 更に однако アドナーカ(それでもやはり)” という間投詞が入ることで、「震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、驚きの声を上げた」という意味を構成します。

 残るは副詞 сильно スィーリナ(ひどく)” の扱いのみ。新訳はこれをどうやら удивился ウヂィヴィールサ” に掛るものと取っているらしい。江川訳もそうです。しかし、これは誤り。もし作者がそのつもりだったならば、次のような語順で書いたはずです。

  сильно    удивился    /   вздрогнувший,   однако,  Алеша.

   スィーリナ   ウヂィヴィールサ   /    ヴズドローグヌフシィー、 アドナーカ、 アリョーシャ。

 スラッシュ / は朗読の際に不可欠なpause(間)を表します。短い文ですが、それでも必要な個所で最低限の極小のpause(間)を置かぬと、朗読してもまともに意味が通じません。これならば、副詞 сильно スィーリナ” は間違いなく удивился ウヂィヴィールサ” に掛り、全体で「震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、ひどく驚いて声を上げた」という意味になります。しかし、現実に見るテキストは―

  удивился    /   сильно    вздрогнувший,   однако,  Алеша.

  ウヂィヴィールサ   /    スィーリナ    ヴズドローグヌフシィー、  アドナーカ、 アリョーシャ。

という語順である。スラッシュ / の意味は上述の通り(これ以外の位置にpause(間)を置いたのでは、ロシア語としての朗読が成立しない)。副詞 сильно スィーリナ” は “удивился ウヂィヴィールサ” ではなく、あくまでも вздрогнувший スィーリナ・ヴズドローグヌゥフシィー” に掛っているのであり、「ひどく震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、驚きの声を上げた」というのが全体の正しい意味です

 新訳の「アリョーシャは、震えあがったが、それでも驚きのほうが強かった」は副詞 сильно スィーリナ” がどの語に掛かるかを捉えそこなっているのみならず、後半などは完全な創作に陥っています。

 原訳は基本的な意味は確実に捉えている。“однако アドナーカ(それでもやはり)”という間投詞が反映されていないのは、おそらく意図的なものでしょう。この間投詞はロシア人にも些か場違いに映るようですから、敢えて無視したものと思われます。

 江川訳の「意外さに目を見張った」という訳が異様に感じられるかもしれませんが、これは“удивлиться ウヂィヴィーッツァ(驚く、驚いて言う)” というロシア語動詞が「全く予期もしなかった意外な驚き」を表すものだからでしょう。加えて、副詞 сильно スィーリナ” が “удивился ウヂィヴィールサ” に掛かるとの誤読により、「目を見張った」というふうに「驚き」を強調することで、副詞 сильно スィーリナ” のニュアンスを活かそうとしたものと推察されます。

 

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