一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検 

 

 

目次:

 

公開にあたっての序文     ・・・・ 木下豊房

検者の前書        ・・・・ 森井友人

点検             ・・・・ 森井友人+NN

書き            ・・・・ 森井友人

証」「点検」に寄せて    ・・・・ 木下豊房

亀山郁夫氏の「踏み越え」(«преступление»)−『カラマーゾフの兄弟』テクスト改ざんと歪曲の疑い

 

公開にあたっての序文

 

私とNN氏が「検証」を公開したのは、昨年(2007年)1224日のことだった。間もなく、年が明けての12 付けで、森井氏から長文の手紙が届いた。そこには、「検証」を見て、「我が意を得たりと、胸のつかえがおりる思いがし、非礼を顧みず一筆差し上げることに しました」と書かれていた。日本語だけが頼りの一読者として、亀山訳の不適切な個所に疑問を感じ、光文社の編集者直々に問題個所を指摘するなど、私たちの 「検証」公開に先立つ、森井氏の孤軍奮闘の幾月かがあったのである。その詳しいいきさつは森井氏の「前書き」で読んでいただきたい。

 森井氏はすでに誤訳とおぼしき 不適切な個所のリストを作成しており、そこには「検証」と一部重なりながらも、そのほか私達が見逃した数々の重要な個所が指摘してあった。それらは当然な がら、ロシア語の専門的立場から検討に値するものと思われた。そこでNN氏の賛同と協力を得て、「一読者による点検」の作成を開始したのである。

 ロシア語の知識がなくとも、先行訳をすでに深く読み込んでいる読者ならば(あるいは森井氏ならずとも)気づくであろう疑問点を氏が指摘し、参考に先行訳の当該個所を対置、NN氏がそれにロシア語の専門的知識を駆使してコメントするという形で作業を進めた。

 この作業によって亀山訳の断面 がさらに浮き彫りになったように思われる。それは、単純な誤訳にとどまらない日本語表現の問題である。さらにはドストエフスキー特有の文体の改ざん、さら にはテクストそのものの改ざんにつながる疑いである。これについては、私は別稿で論評したい。

 「検証」公開の際と同じよう に、この「点検」も私の個人的責任において公開するものであることを明言しておく。ドストエフスキーを愛する者たちの「開かれた場」としての発足以来の会 の精神に、「検証」も「点検」も背くものではなく、むしろその意味を高めるものと確信するからである。

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                      森井友人

 はじめまして。

 筆名ですが、森井友人(ゆうじん) 申します。私は、九州に在住する五十代前半の一市民、一介のドストエフスキー・ファンに過ぎません。と言っても、つい最近までこの「ドストエーフスキイの 会」の存在も知りませんでした。従って、会員でもありません。その程度のファンですので、むしろ一介の文学好きと自称すべきかもしれません。会員ではあり ませんが、ドストエフスキー好きは拒まずという会の開放的な方針の下に、今回このホームページに登場させて頂くことになりました。この間の事情は、後で申 し述べる所存です。

 その前に、まずもって断わっておかなければならないことが二点あります。第一点は、私のこの点検作業はもともと昨年10月に単独で行われたものであって、昨年12月下旬に公開された木下先生とNN氏による新訳の「検証」を受けたものではないということ。第二点は、私はロシア語の読めない一読者であるということです。

  こう打ち明けると、原語の読めない者にどうして点検でき、ましてや誤訳が云々できるのかと訝しむ方も多いと思います。ところが、それができるのです。ま た、できるところに新訳の問題の所在があると私は考えています。それは取りも直さず、丁寧に読んだ一読者が気づくことのできる誤訳・悪訳を、訳者や編集者 が見逃しているという事実、また、書評者や文化人もそれに気づかず推奨しているという事実を、証することになるのです。言い換えれば、訳者、編集者、 書評者(中には専門家もおられます)は、一読者ほどにも丁寧に訳稿や訳書を読まずに、出版し書評しているのではないか、ということです。

  これが、今回私が提起したい問題点です。ただし、関係の方々を責めるのがこの「点検」公開の目的ではありません。訳文に不備はあるものの、新訳が大勢の読 者に受け入れられたのも事実です。新訳で初めてこの大作を読み通したという方も多いと思います。ドストエフスキー・ファンとしてこれはうれしいことです。 受け入れられた最大の要因は、他ならぬドストエフスキーの魅力そのものにあったとファンの私は見ていますが、それだけではないとも感じています。様々な工 夫を凝らした新訳自体の魅力も大きかったに違いありません。ただし、不備があるのもまた事実です。文庫という性質上、長く読み継がれることが想定されます。私の願いは、先の「検証」やこの拙い「点検」をカンフル剤として、新訳が、訳者や編集者によって徹底的にチェックし直され、不備を正され、その上で、 読み継がれることです。

 それでは、今回この「点検」を私が公開するに至った経緯をお話することにします。

 

 評判の新訳を楽しもうと、全巻を購入して読み始めたのが、昨年10 上旬のことでした。亀山先生の著訳書は以前にも拝読したことがあり、また、新訳に対する識者の評や世評も非常に高いものでした。そこで、迷わず全巻まとめ て買いました。ところが、読み始めてみると、すいすい読めるという評判に相反して、これが読みにくい。訳文が頭に入ってこない、言い換えれば、文脈が読み 取りにくいのです。最初は、こちらの頭の調子が悪いのかと思ったのですが、途中でいくらなんでもこれはおかしいと思い、原訳・江川訳を引っ張り出して確認 したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。それまでも引っかかりながら読んで いたので、ここで私は改めて初めから読み直すことにしました。さて、その気になって読んでみると、あちこちに誤訳・悪訳が目に付きます。これまでも誤訳に 気づいた訳書はあります。しかし、今回はその数がちょっと多すぎます。正直なところ、唖然としました。一文ごとに3冊の訳本を逐一照合しながら読んだわけ ではありません。新訳で違和感を覚え、疑問に感じた箇所、とりわけ意味の通じない箇所を突き合わせただけです。その多くが、誤訳ないし不適切な訳と判断さ れました。原典と突き合わせたらどうなるのだろうとも思いました。また、誤訳にもまして、とにかく文脈が読み取りにくいのが気になりました。

 こうして照合しながら第1巻第2編の終わり(241) で読みました。脱落も偶然に1箇所発見しました。もっとあるかもしれません。その後、試しに第5巻のエピローグにざっと目を通したところ、そこにも意味の 通じない訳文があります。この両者の間にはまだ千数百ページが残されています。そこで私は完全に力尽きました。信頼できないテクストを、疑いながら読むほどつらいことはありません。それ以上読み続けることができなくなりました。率直に申しあげて、全巻買った一購買者としては怒りを、一ドストエフスキー・ ファンとしては義憤を覚えました。しかし、これだけの誤訳です。しかも、第1巻が出て1年以上が経っています。とっくに誰かが指摘しているに違いないと考 えて、インターネットで検索してみました。ところが、見当たりません。ただ、第3巻末に「有罪」を「無罪」と取り違える誤訳があったらしく、それは、ネッ ト上で指摘されて、既に増刷の際に訂正されていました。しかし、それだけです。それ以外に誤訳を指摘したサイトは見当たらないのです。悶々として数日過ご しました。そして、このままでいいはずがないと決心し、もう一度確認した上で、出版元に電話したのが、1030 のことです。直接の編集者の方とお話しすることができました。私は、第2編まで、およびエピローグの明らかな誤訳を7〜8箇所、脱落を1箇所、そして、日 本語の不備を1箇所ほど告げました。丁寧に話を聞いてくれました。私は、気づいた誤訳・悪訳は他にもかなりあること、全巻では膨大な数に上ると見られるこ と、また日本語にも問題があること、よって全面的な再点検が必要であることを語り、これまでにこのような指摘はなかったかと尋ねました。すると、「初めてだ」との返事でした。「誤訳はこれまでも増刷の際に直しており(第3巻のことでしょうか)、原文との検証作業は今も続けている(順序からして、ちょっと不思議です)、貴重な意見として訳者に伝える」というのが編集者の回答でした。

 読書家の友人にも相談しました。彼は、新訳は読んでいませんでしたが、ネットに詳しく、思いもかけず、amazon 読者レビューへの投稿を勧めました。インターネットが開通してまだ1年余りで、アドレスはあるもののメールすらやったことのない私には抵抗がありました。 匿名で批判するのも嫌でした。といって、実名を出す勇気は小心者の私にはありません。それに、私の指摘を受けて出版社が何とかするのでは、という淡い期待 もありました。

 こうして、12 を迎えました。書店で確かめたところ、相変わらずそのままで増刷しています。急には難しいとしても、脱落箇所さえ補われていません。ネット上にも、噂はあれども、実際の批判や検証はありません。指摘が訳者に伝えられていない可能性もあります。このままではいけないとの思いはいよいよ募り、1212日に私は、思い切ってamazonに投稿しました。事実を述べているとは言え、匿名で批判することに対する居心地の悪さに胃が痛くなり、掲載後、一時削除しましたが、友人に促されて再投稿しました。(自動的に最初の投稿の日付になるようです。) それが、現在yuzinの名で載っているレビューです。今から見ると、少しぶっきらぼうすぎる嫌いがありますが、ここに私の考えがコンパクトにまとめられています。文意が通りにくいとするレビューが他にあることも知りました。

 そうした折に、昨年末、私はネット上に「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」を発見したのです。胸のつかえが降りる思いでした。専門家は何をしているのだと歯がゆい思いをしていただけに感慨ひとしおでした。肩の荷が降りる思いでもありました。

  「検証」を読んだ感想を一言でいうと、非常に参考になった、これに尽きます。ドストエフスキー理解が深まったとも感じました。もう一つ感じたのは、ドスト エフスキーへの愛でした。NN氏は、商社の仕事をこなしながら、検証の労作業に取り組まれたわけです。また、木下先生は、作業の監修をされると同時に、批判する側の責任を引き受け、その後に予想される荒波をかぶる覚悟で公開に踏み切られたのでしょう。その根底に、ドストエフスキーへの並々ならぬ愛があると 私は感じました。もちろん、亀山先生も同じ愛情をお持ちであることは言うまでもありません。だからこそ、とにかく読み通せる訳書を作ろうとなさったので しょう。その工夫はよかった。ただ、基礎固めとチェックに甘さがあったのは否めません。そして、それはかなり重大なことと思われます。

  さて、この「検証」と、公開された木下先生ご自身の気骨に感じるところのあった私は、「前文」末の「亀山訳に魅せられ、愛読した読者にこそ、この検証作業 を捧げたい」とう言葉に注目し、自分のレビューに、「検証」の存在を知らせる追記を付すことにしました。寄せられたレビューから判断して、amazonの来訪者の多くがそういう読者であろうと推測できたからです。そういう読者に「検証」を見てもらいたいと考えました。これは、決して皮肉ではありません。初 読者が多く、作者と作品への飾りのない賛辞は、ファンにとってうれしいものです。今回、新訳によってドストエフスキーの凄さに目覚めた読者も多いことで しょう。これは新訳の最大の功績です。彼らのドストエフスキーに対する熱は冷めてほしくない。けれども、実状はやはり知られなければなりません。でない と、翻訳の質の向上は望めません。これは、私のような原語の読めない外国文学好きには困りものです。また、書評者にも(仮に今回のブームに寄与するところ があったにしても)もっと責任をもって仕事をしてほしい。実状を知った上で、それでも、ドストエフスキーは面白い、深い、凄いと感じて、特に若い読者が、 よりよい再読へ、また、別の作品へと向かってくれること。これが、五十の峠を越した一ドストエフスキー・ファンの願いです。そのためにも、新訳の改訂は必要と感じます。

  1月の初め、私は、全く面識のないまま、木下先生に手紙を出しました。一つには、「検証」の存在を勝手にレビューに書き込んだ断りを入れるためです。この ことで、万が一にも先生にご迷惑がかかるようだったら、追記をすぐに削除する旨お伝えしました。(その後も、会のホームページの閲覧数の増加率に変化がないのを見て、心配するがものはなかったと悟りました。)手紙を出したもうひとつの理由は、私の点検作業が少しでもお役に立てばと思ったからです。先の「検 証」は網羅的なものでなく、実際の誤訳はもっと多いだろうと「前文」に語られていますが、その通りです。私はあの後、昨年11月に第3編にもざっと目を通していました。偶然にも、私の点検作業は「検証」と同じ第1巻の全体を対象にしていたことになります。これももとより網羅的なものではないのですが、この第1巻で私が誤訳と判断したおよそ30箇所のうち、「検証」と重複するのは7箇所だけです。この他に、「検証」が取り上げていない悪訳や日本語の不備が相当数あります。その内容をお知らせしたいと考えた私は、手っ取り早い方法として、新訳第1巻を新たにもう1冊買い求め、該当箇所に朱書して、これを一覧表とともに同封することにしました。

  この手紙を出して、これで後は専門家に任せればよいと、気が楽になりました。ところが、それで終わりになりませんでした。手紙を読まれた木下先生から電話 があり、私の点検作業を「検証」に活かしたいとのこと。そして、その方法を検討する中から、今回のこの「一読者による点検」の形が浮かび上がってきまし た。私の作業は、学問的に価値のあるものではありません。これに意味があるとすれば、それは、この点検がまさにロシア語の読めない一読者によってなされた 点にあると考えます。それによって、今回の翻訳、出版、書評の仕事の質を問い、一ドストエフスキー・ファンとしての願いをストレートにぶつけることもできるからです。

  多くの読者が、誤訳・悪訳に気づかなかったのも不思議です。この点について考えてもらう契機になるのではないかとも考えました。これについては、背景とし て、書評者や文化人の推奨、そして、メディアの取り上げ方もあると思われます。これらを集中的に浴びて、読者は、大げさに言えば、一種のマインド・コント ロールの状態にあった、また、今もある、のかもしれません。かくいう私も、そうだったわけです。これは、自分を誇ろうというのではありません。私はただ理 解しようとゆっくり丁寧に読んだだけです。他にも気づかれた方はきっとあると推測しています。逆に言えば、読者の多くは、物語に引き込まれて読むのに加速 がつき、細部が気にならなかったのだろうと考えられます。これはよくあることです。(しかしながら、細部は文学の命でもあります。)それにしてもやはり不 思議です。著名な文化人でさえ気づかずに直接・間接に推奨したのですから。一考に値する現象だと思います。

  ところで、そもそも、なぜこの誤訳・悪訳が生じたのか。その原因については、推断すべき具体的材料を持ち合わせませんので、行きすぎた臆測は差し控えます。ただ、少し急ぎすぎたのでは、とは思います。訳出、校正、出版を併行して進めるのはかなり苦しいのではないでしょうか。これは、新訳に限ったことでは ありません。読者としては、全部訳し終わってしばらく間を置いた後、さらに全体を見直してから出版してほしいものです。チェックに問題があったのも確かで しょう。

  最後に、もう一つお断りしておきたいことがあります。それは、タイトルは便宜上「新訳の点検」となっているものの、この「点検」は基本的に、あくまで新訳 第1巻に係るものであるということです。点検していない残りの部分について論議するものではありません。ましてや、亀山先生の他の仕事に係るものでは全く ないということです。ショスタコービチの好きな私は、先生による関係の訳書に随分お世話になりました。また、『ドストエフスキー 父殺しの文学』は資料が 豊富で重宝させていただいています。学長としてのお仕事も激務と拝察しております。拝察してはおりますが、最初に述べましたように、機を見て、新訳の改訂 作業に取り組んでいただけたら、と願っております。それまでのことは私の云々すべきことではありますまい。

  点検作業は、どうしても他人の欠点をあげつらう形にならざるをえず、決して心地のいいものではありません。それに、本来なら、これは出版社の責任でなされるべきものですし、さらに本来なら、出版前に徹底的になされるべきものです。「検証」にしろ、「点検」にしろ、万やむをえず行われるものとご了解ください。その中に、ドストエフスキー理解に寄与するものが少しでもあれば、幸いです。ドストエフスキーへの愛がすべてを大きく包んでくれることを願っていま す。

  以下、「点検」本体の体裁について説明します。次の順で並んでいます。

  1 新訳の訳文

  2 森井の疑問(なぜ、その箇所に疑問を感じて先行訳を参照したかを中心に)

  3 原訳(新潮文庫2004年改版、初版=1978)

  4 江川訳(集英社版世界文学全集第45巻、1979年刊、現在絶版)

  5 ロシア語原文

  6 NN氏による解説

 

  ここで原訳、江川訳を掲げたのは、それによって翻訳の優劣を論じるためではありません。これは、私が実際に参照したものであり、また、これによって、読者 自身に判断していただけると考えたからです。しかし、最終的な検証は原文との校合作業に委ねられなければなりません。今回もNN氏にその労をとっていただくことになりました。タイトルの「点検」もこれに由来します。私が行ったのはあくまで点検、もっと正確には照合作業あり、上の1〜4がこれに当たります。 その後の5〜6がNN氏による検証部分です。作業もこのように分担され、互いの手元にある私の訂正入り新訳第1巻を介して行われました。以下の「点検」で は、ここから49箇所が引用され、合わせて56例について問題を指摘しています。その後私は新訳を読み返しておらず、これら全ては昨年1011月に拾い出されたものであり、後で追加したものは1例もないことを付言しておきます。

全体の校閲は、ロシア文学・ドストエフスキー文学の専門家である木下先生にして頂きました。

付記

 前書きをここまで書き、作業もほぼ終了した時点で、新たな事態が発生しましたので、ここに報告しておきます。

 2月上旬、書店に寄って、新訳第1巻の増刷第20(130日発行)を手に取った私は、238頁の脱落が補われているのに気がつきました。これだけは直してほしいと気になっていた箇所です。さらに、「検証」でもまた私のレビューでも取り上げている7475頁の誤訳も訂正されています。第19(110日発行?)にはなかったことです。これはうれしいことです。他の箇所がどうなっているか知りたくなった私は、この第20刷を買い求めました。確認してみると、昨年10月末に直接編集者に指摘した7箇所(脱落含む)の全てが直されています。ただし、1箇所(180)は2例を含み、内1例はそのままで訂正されていません。また、別の1箇所(92)は、驚いたことに、より悪くなっています。

続いて私は「検証」とも照合してみました。「検証」には全部で74箇所が取り上げられていますが、その内の26箇所で指摘に従って訂正が入れられていました。中には、並置されている米川・原・江川の3訳がそろって誤訳(不適切訳)となっているのに、新訳だけが正しくなっている箇所(178416)もあります。しかし、8箇所については、直されてはいるものの、なお不十分です。残った48箇所についても、見解の相違ではなく、明らかな誤訳のケースもあるのに、なぜそれを訂正しないのか不思議でした。

ともあれ、この両者(私の指摘と「検証」)で重複する1箇所(7475)を含めて、合計32 所に不十分とはいえ手が入れられています。それ自体は決して悪いことではなく、歓迎すべきことです。少しでもよくしようとされたのでしょうし、そもそもそ のための指摘でもあるのですから。ところが、さらに調べていって少し悲しくなりました。というのは、今回この「点検」で取り上げている49箇所(56)の内、昨年直接指摘した7箇所と、「検証」の指摘に副って直されたもので「点検」とも重複する4箇所(4145203325頁、これも4つとも不十分です)を除いた38箇所については、全く手が着けられていなかったからです。第20 を、最初に買った第9刷と逐一比べたわけはありません。しかしながら、「検証」および昨年の私の指摘を下敷きにして、それに限って訂正を施したことはほぼ 確実と思われます。これは残念でした。というのは、昨年直接指摘した際に、編集者も私が挙げた箇所以外は訊いてこなかったし、こちらも私のようなロシア語 の出来ない一読者よりプロに任せた方が確かだと思っていたからです。また、訂正ないし改訂するからには、訳者、編集者、出版社が自らの責任において、全巻 にわたって網羅的かつ徹底的にチェックするものという期待がありましたし、社会的道義的にそうする義務があるのではないかと感じてもいたからです。じつの ところ、第1巻はこれでまだましになったとして、(私は読んでいないものの)2巻以降はどうするのだろうと心配になりました。(第5巻エピローグの、編集者に指摘した箇所は、その巻がまだ増刷されていないからでしょう、いまだ直っていません。)色々な意味で、この「点検」はやはり公開されなければならないようです。

 第119刷を手にされて関心をお持ちの方もおられると思いますので、以下に、私が確認した第20刷訂正箇所のページ一覧を掲げます。@についてはこの「点検」の本体を、Aについては先の「検証」の該当ページをご参照ください。*印付きは私が不十分と判断したものです。(但し92頁はより悪くなっています。)

 

@昨年直接指摘したもの

74*92159160161*180238

A「検証」で指摘されたもの

*22*41457482122125138*162178184*203*204

215218219259269*295*312314318*325354380416

 

なお、@の7箇所、および、「点検」と重複するAの4箇所については、「点検」本体の各該当箇所末に「森井追記」として第20刷での訂正状況を報告しています。

   さて、思わぬ事態で、長い前文がますます長くなりました。いよいよ、点検です。前述のように、疑問箇所、特に意味の通らない箇所を先行訳と照合したわけで すが、中にはその過程でたまたま目に入って気づいたものもあります。それから、最初の「著者より」に関しては、この部分から既に読みにくさを感じていた私 は、その原因を探りたいと考えて、ここに限って、全文を先行訳と比べてみました。その結果と、ご承知おきください。また、第3編については、もはや力及ばず、ざっと目を通して気づいたもののみが挙げてあります。なお、先の「検証」と重複する7箇所についても、上記報告も兼ね、また、観点の違うものもありま すので、日本語のみ訳書のみで分かる例として、そのまま載せました。

 <凡例>

・各訳書の後の数字は引用の始まったページを表します。従って、問題箇所そのものは次のページにある場合もあります。

・読者の便を考慮して、新訳の所々に(  )書きで説明を補いました。

 例えば、彼(=アリョーシャ)、など。

・先行訳の引用は、簡略化のため一部を省略したものがあります。

       「森井の疑問」には、疑問以外のコメントの入ることもあります。

 

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以上で、誤訳・悪訳の点検は終わりです。この中には翻訳というよりむしろ日本語に起因する問題がすでに幾つか挙げてありますが、最後にここで少し、日本語そのものの不備についても触れさせて頂きたいと思います。

今回の新訳の日本語で一番気になったのは「連用形 、」の形の多用です。確かにこれによって訳文に勢いが出ているのは事実です。しかし、この形だと、そこで一旦文が切れるのか、それとも後に続くのか、一瞬 判断に迷うことがよくある。連用形は、その名のとおり下の用言に続ける用法に加えて、そこで文を一旦中止する用法を持つからです。126頁から例を引きます。

「よいですか、母さんや」と長老が言った。「あるとき、昔の大聖人が聖堂で、神に召されたひとりっ子のわが子を思い、あなたと同じように泣きくれている母の姿をお認めになった。()」

なるほど、文脈上誤読の余地はありません。しかしながら、一瞬の惑いはあり得ます。この箇所は、

「よいですか、母さんや」と長老が言った。「あるとき、昔の大聖人が聖堂で、神に召されたひとりっ子のわが子を思ってあなたと同じように泣きくれている母の姿をお認めになった。()」

のように、「て」で続けて「、」も取れば、中止ではなく次に接続することがはっきりします。さらに、この例については、

「よいですか、母さんや」と長老が言った。「あるとき、昔の大聖人が聖堂で、あなたと同じように(、)神に召されたひとりっ子のわが子を思って泣きくれている母の姿をお認めになった。()」

のように、勢いは若干そがれるものの、語順を変える方法もあります。似たようなケースで私はたびたび惑いました。

 次に気になったのが、いわゆる係り受けの乱れです。一例を 91頁から挙げます。

しかし、この要領を得ない言葉は、後から一行に追いついた一人の修道僧によってさえぎられた。

頭巾をかぶり、小柄で青白い、やつれはてた顔の僧だった。

このままでは、下線部は「顔」に係り、「頭巾をかぶった顔の僧」ということになります。これは

頭巾をかぶった、小柄で青白い、やつれはてた顔の僧だった。

頭巾をかぶり、小柄で青白い、やつれはてた顔をした僧だった。

のどちらかにすれば、下線部が「僧」に係ることが明瞭になります。これは連体修飾句(語)の場合ですが。連用修飾句(語)にも係り受けの曖昧な箇所がかなりあります。

この他、主述の不一致(26頁、「フョードルは一生をとおして芝居を打ち・・・演じるのが好きだった。しかも@大事な点は・・・・・・それが自分の損になるとわかっていてなおかつ芝居をA打つのである」。@はこの場合、「大事な点については」の意ではなく、主語である。従って、「@大事な点は・・・・・・それが自分の損になるとわかっていてなおかつ芝居を打つAということである」とならなければならない)、また、文脈の乱れ(38頁、「(イワンは)なんとかアルバイトの職を手にし、はじめは家庭教師の口で二十コペイカ、その後は新聞の編集部を走りまわって・・・・・・十行記事を寄稿したものだった」。これを先行訳を参考にして直せば、「はじめは一回二十コペイカの家庭教師で」となるでしょう)、なども気にかかります。じつは、「申される」(95頁)、「おっしゃられる」(171頁)、「みえられる」(397頁)等の二重敬語も私などにはまだ違和感があるのですが、言葉は変わるものです、やがては公然と認知されることでしょう。

   ここで私は「美しい日本語」を主張しているのではありません。そもそも言語にとって何が美しいかは極めて主観的なことであり、日本語に限らず、これを押 し付けられてはたまりません。しかしながら、正誤については、ある程度客観的に判断できます。改訂されるときには、日本語についても配慮していただけると 幸いです。これまで著訳書を拝読して、この点が気になったことは一度もなく、むしろ達意の文章家と拝見していましたので、新訳の日本語は不思議なくらいで した。

  さて、原文との照合そして解説に当たって頂いたNN氏についても少しご紹介させてください。

  いまだに互いに面識はないのですが、今回のやりとりで私はずいぶん益せられました。氏は、ここ17年間は専ら原文で『カラマーゾフの兄弟』に親しみ、「検証」の前文にもあるように、モスクワ駐在中には、文学部出のロシア人チューターを相手に、1年をかけてこの大長編を朗読で読破したという本物のドストエフスキー・ファン。そのための練習も含めると既に30回以上は原文で読んでいるだろうとのこと。その間、原訳と江川訳を懐かしさと好奇心から一度ずつ読み直し、ともに、誤訳無しとはいかないが、全体としては良訳であると判断されたそうです。そして、一昨年この両訳から実に30年ぶりの新訳登場ということになります。この新刊広告を目にしてすぐに氏は第1 を購入。期待を持って読み始めたところ、それは裏切られ、逆に誤訳の余りの多さに失望(新訳を原文と逐一突き合わせたのではない。氏のからだには『カラマーゾフの兄弟』の「あり得べきテキストのイメージ」がしみついている)、とにかく続刊の出来を見ようと、順次リアルタイムで読み継いだものの、誤訳は減らず巻を追うごとにむしろ増えていると確認。自分は原語で読めるからいいようなものの、そうでない一般読者のことを思えば、これは看過できない事態と観じて、木下先生に相談。かくして「検証」の労作業に取り組むことになったとのことです。氏によれば、各巻の誤訳の概数はそれぞれ最小値で、

   第1巻: 5060箇所     第2巻: 5060箇所

   第3巻: 90100箇所    第4巻: 150160箇所(但し、これは第5巻エピローグの56頁を含む)

これを今回の第1巻の「点検」のように、もう一つの違った目で見ればさらに増えるだろうとの予測です。「点検」は専ら第1巻に係るものと「前書き」では述べ ましたが、第2巻以降について「検証」を続行するつもりはないと聞きましたので、関心をお持ちの方もあると考えて、あえてここに記しました。

ここからは、私事になります。

回の「点検」で、ロシア文学・ドストエフスキー文学およびロシア語の専門家との協同作業に携わったことは私にとってこの上なく有益なことでした。お二人の 高い知見に触れたことはこれからのドストエフスキー再読に生きてくると確信しています。また、単に誤訳指摘に終わらずに、それをきっかけに作家と作品について思いを致すことの出来たのも本当にありがたいことでした。必要に迫られて五十の手習いで始めたワードとメールもなんとか打てるようになりました。それ から、「検証」および「点検」で、親しんできた原訳・江川訳にも誤訳があることを知ったのも有益でした。やはり完璧な翻訳はないと、改めて翻訳という仕事 の大変さに思いを馳せました。ただし、そこで、「誤訳のない翻訳はない」と、どの翻訳も同列にしてしまっては、翻訳家のご苦労に対して失礼ですし、建設的 な議論にもなりません。私の読書家の友人が、送ってきたメールで喝破していますが、この場合、要は程度の問題。つまり誤訳・悪訳の質と量の問題です。この 問題と翻訳家は日夜格闘されているのですね。本当に大変なお仕事です。

最後にもう一度繰り返しますが、新訳が不備を正されて、いよいよ魅力を増して読み継がれることを私は強く願っています。それぞれに特徴のある良い翻訳が幾つもあることは読者にとってもファンにとっても喜ばしいことです。

 

【付記】

回の作業がまだ始まっていなかった1月上旬、本ホームページの姉妹サイトである「ドストエフ好きーのページ」の「意見情報」交換ボードを興味深く閲覧して いた私は、そこでの議論に導かれるような形で、新訳第5巻「エピローグ」に重大と思われる誤訳があることに気がつきました。この誤訳については、他の問題 も含めて木下先生が詳論されますので、ここでは触れませんが、ハンドルネームで少しばかり議論に参加させてもらった身としてこの場を借りて、サイトの主宰 者のSeigoさん、そして、ボードのご常連に、知識を授けて頂いたお礼を申し述べさせていただきます。ありがとうございました。

 

                                              

 

 

 

「検証」「点検」に寄せて

 

亀山郁夫氏の「踏み越え」(«преступление»)  『カラマーゾフの兄弟』 テクスト改ざんと歪曲の疑い

                          

木下豊房

 

文学研究や翻訳にとって、どのようなテクストを選ぶかということは、ゆるがせに出来ない問題である。古来、「原典批判」、「テクスト・クリテーク」、「テクストローギヤ(ロシア語)」という基礎的な人文科学のジャンルが重視されてきたのも、故なしとしない。翻訳者は使用したテクストを明記するのが常識であり、亀山氏もその例外ではない。

彼が自分の翻訳の底本として挙げているのは、科学アカデミー30巻全集中の1415巻(1976年)とインターネット検索による、トマシェフスキー、ハラバーエフ編集の1881年版であって、後者については。「随時、左記のテクストも参照した」と付記されている。

ところで、すでに公開された「検証」、そして今回公開する森井友人氏とNN氏による「点検」で明らかになったおびただしい誤訳、不適切訳に付随して、亀山氏による幾つかのテクスト改ざん、文体歪曲の疑い浮かび上がってきたことを、私は指摘せざるをえない。

 

テクスト改ざんの疑い

 

その見過ごすことの出来ない事例の一つが、森井氏の発見による、エピローグの一場面、すなわち、アリョーシャがコーリャのせりふを受けて、自分の言葉でその意味を言い換える個所である。(この指摘はインターネット・サイト「ドストエフ好き−のページ」の18日付けの掲示板(総合ボード)において、議論の流れの中で森井氏によってはじめてなされたものであり、第1分冊の範囲に限定した氏の「点検」には含まれていない)

コーリャのせりふ:「人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね(«Я желал бы умереть за всё человечество»)」(亀山訳第5分冊42頁)に対して、アリョーシャがそれを受けて言うのは、「コーリャ君は先ほどこう叫びましたね、『すべての人達のために苦しみたいって』・・・(«Вот как давеча Коля воскликнул: «Хочу пострадать за всех людей»)」(拙訳)。この部分について亀山氏はこう訳している。「コーリャ君は『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが・・・」−(同上58頁)

この亀山訳下線部に相当するテクスト(『人類全体のために死ねたら』)は上記の底本のどこにも見出すことはできない。なぜこういう明白な改ざんがなされたのであろうか?憶測に過ぎないとはいえ、亀山氏が別著「続編を空想する」(光文社新書)でコーリャを皇帝暗殺者に、またアリョーシャをその使嗾者に仕立てるための伏線として、意図的におこなったのではなかろうか?この疑いは森井氏の提起によるが、私も否定しがたいと思う。

そもそも亀山氏によるこの種のテクスト偽造は、みすず書房刊の「理想の教室」と称する高校生向けのシリーズ「『悪霊』神になりたかった男」ですでに経験ずみものだった。スタヴローギンに陵辱され母親に鞭打たれる少女マトリョーシャの年齢を、10歳から14 に偽造し、この少女にマゾヒスチックな快感を押し付ける亀山流の手のこんだテクスト解釈の歪曲は、原語を理解できない、しかも若い読者を相手にしているだけに、吐き気を催させられる程のものだった。この問題については、当サイトの表紙のメニュー「亀山郁夫氏『悪霊』のマトリョーシャ解釈をめぐる議論」をク リックして、私、および冷牟田幸子氏の批判を読んでいただきたい。

こうした前歴を持つ人物であれば、驚くにあたらない偽造ともいえるが、百歩譲って、深い魂胆はなく、ただコーリャのせりふを日本の読者にわかりやすいよう に、作者に代わって言い換えてやったのだと弁明しても、通る筋合いの問題ではないだろう。一見たわいのない読者サービスのような言葉の入れ換えを亀山氏は 他でもやっている。これは「検証」でとりあげた例であるが、ゾシマ長老が庵室でドミトリーに叩頭した謎の振る舞いを、ラキーチンがアリョーシャに対して 「あの夢のようなこと «сон»」はなんの意味だと問いかける言葉を、「あの予言 «пророчество»」と言い換えているのである(新訳204頁)。後段の叙述でそれが予言的な行為であることが説明されているにしても、テクストの勝手な改ざんが許されるわけはない。他にも、意味不明な訳に原文にはない傍点をふる「三人が()()()つんと(・・・)やった(・・・)(新訳208頁)といった事例も見られる。テクストに対するこのような無原則的な安易な態度偽造、改造がどのような結果をもたらすかを訳者、編集者は真剣に考えたのだろうか? 

代の世界のドストエフスキー研究のレベルを踏まえた者ならば、ドストエフスキーの文体が複雑な構造を持っていることを知っている。作者の言葉、語り手の言葉、人物の言葉が

それぞれ独立し、多声楽的(ポリフォニー的)、対話的な構成によって作品が息づいていることを知っている。亀山訳のように、アリョーシャ の言葉を改変することは、アリョーシャの発話の立場を歪曲することにほかならない。森井氏が前出のネットの掲示板で、「アリョーシャがコーリャの台詞を言い換えて引用しているのなら、そこには、それなりの意味があるはずです(アリョーシャにとっても、また、作者にとっても)」と記しているのは、正しい。ラキーチンや民衆がゾシマ長老の振る舞いの謎を「夢のようなこと」と表現しているのには文化的背景があることを、亀山氏も底本としているアカデミー版全集の注には書かれている。「この(あの)夢は何を意味する? «что сей сон значит?» は、1860年代から70年代にかけて大変に流行したフレーズで、風刺作家のサルトゥイコフ−シチェードリンの好きな言葉でもあったらしい。『悪霊』でも(第1編5−2)民衆の一人がセミョーン長者に夢占いを聞く場面に、同じフレーズが見られ、いまに町じゅうも信心深い連中が「あの夢は何だ?」と騒ぎだすとラキーチンがいうのも、こうした背景があるからである。流行語に敏感なラキーチンがこうしたフレーズを口にし、世間離れしたアリョーシャが「何の夢さ」と問い返すところにも、彼らの性格の特徴づけがうかがえるだろう。ちなみに、このフレーズのルーツはプーシキンの民話詩「求婚者」(1825)にあると注記されていて、気乗りしない縁談を親達によってとり決められた商人の娘が自分の悪夢を語り、父親が「おまえのその夢は何を告げる」という場面に由来するらしい。このような背景を念頭におくならば、それを安易に「予言」と別の 言葉に置き換えて訳すのは、自分で勝手にテクストをでっちあげることに等しい。

また次のような見逃せない歪曲もある。それは「点検」(新訳129頁) にかかわる個所で、幼児を失って涙にくれる農婦に、ゾシマ長老が聖書の句を引いて慰める場面で、長老は聖書の原句を自分の言葉に直して(というのは、あえて原句からはずれる形で)発話しているのに対して、あろうことか亀山氏はそれを聖書の原句に勝手に戻して訳し、結果的にゾシマの言葉を殺してしまっている。この点については、「点検」のなかで、森井氏とNN氏によって詳細な検討が加えられているので、読んでいただきたい。

 

文体歪曲の疑い

 

このような訳者の恣意的、主観的な態度に由来して、発話者の言葉を殺す例のほかに、発話者の言葉の指向性を見失った結果の見当違い、あるいは滑稽な訳が散見される。その端的な一例をあげるならば、小説冒頭「著者より」の一文である。その文法上の問題点は「点検」(新訳13頁)を見ていただくとして、私が指摘したいのは、「著者より」の言葉の指向性がきちんと捉えられていないため、読者への語りかけの部分がそれ自体として、訳に的確に反映されず、どっちつかずの曖昧さを残していることである(「読者のみなさんは・・・自分で決めることになる」〔亀山訳〕、正しくは「読者のみなさんは・・・自分で決めてくれるだろう «читатель сам уже определит»)。  その一方で、三人称的に客体化した対象(「批評家たち」、というのは「公平な判断を誤らぬため、最後まで読み通そうとする親切な読者」とか、彼らの「律 儀さ」、「誠実さ」といった皮肉な修飾語から見ても、検閲関係者をも暗示しているかもしれない相手)に、「みなさん」という二人称の訳語を当てる見当ちがいを起こしている(「ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく」〔亀山訳〕。テクストに従えば、ここは三人称で、「正当な口実を彼らに «им» あたえておく」)である。

発話者の置かれた状況とその言葉の指向性に対するこのような鈍感さによって生み出されたちぐはぐなやりとりが、「点検」(新訳203)でとりあげたラキーチンとアリョーシャの会話の場面である。アリョーシャは路上で誰かを待ち受けているラキーチンの姿を認める。「誰かを待ち受けている様子だった」はアリョーシャの視線である。そこで彼は 自然の流れで、「ぼくを待っていたんじゃないの«Не меня ждешь?»」と問いかける。それに対して相手は「正にきみをさ «Именно тебя»」と答える。アリョーシャの視線に寄り添いながら叙述されるこの場面で、亀山氏はアリョーシャの問いかけを、「ぼくを待っていたんじゃないよね」と訳し、相手には「いや、きみさ」と、テクストでは読みとれないとんちんかんな応答をさせている。

発話者である主人公の状況や性格を無視したもう一つの例をあげよう。第33「熱い心の告白詩」の章で、ドミトリーがアリョーシャに語るせりふ、激情家で芝居がかったせりふをはくドミトリーの性格を反映したおおげさな言葉:「魂の襞という襞、肋骨さえもかけておまえを渇望し、待ち焦がれていた «алкал и жаждал всеми изгибами души и даже ребрами»」を、亀山訳(276頁)は「それこそ藁をつかむ思いでおまえを求め、おまえを渇望していた」と、平板な、そこに何ら発話主体の性格を反映しない、つまらない文体に貶めているのである。

ストエフスキーの創作に特徴的な人物の独立した声を殺すこのような無神経な仕事ぶりは、次のような面でも現れている。語り手が人物の声を独立したものとし て、間接話法ながらも伝えている部分を、語り手の中立的な、単なる客観的な情報に改変してしまい、人物の性格(思いこみ、意識)の伝達を損なっているケー スである。

これは「検証」(新訳27頁)にかかわる個所である。ドミトリーは自分が「いくらか財産を持っており、成人したら独立できるという信念をもって育った( «рос в убеждении, что он всё же имеет некоторое состояние и когда достигнет совершенных лет, то будет независим»)」という、主人公の信念にかかわる個所が、亀山訳によると「いくらか財産をもっていたので、成人したあかつきには独り立ちをするという、たしかな信念をもって成長していった」という風に、「信念」にかかる下線の部分が、中立的、客観的な情報の形に改変されてしまっている。

もう一つの同様の例をあげよう。「点検」(新訳19頁)で、アデライーダのフョードルに対する思いこみにかかわる個所である。アデライーダの意識:「フョードル・パーヴロヴィチはその居候という身分にもかかわらず(«убедила<……>что Федор Павлович, несмотря на свой чин приживальщика, »)」が、亀山訳では「たんに居候の身にすぎないフョードルが」という風に、フョードルの中立的、客観的な規定づけに改変されている。大体、「フョードル・パーヴロヴィチ」という名前+父称の用法自体が、日本語では「フョードルさん」という程度の、2人称的な呼称であって、彼女の意識を伝える鍵語であることに注目するならば、亀山訳のようなことはありえない。これはテクスト改ざんに近い文体歪曲というべきである。

このような文体歪曲に伴う誤訳がその他にも数多く見られる(逆接順接の問題など)のも、複数の立場からの発話が交差するドストエフスキーの文体、すなわち それぞれの主体の発話の指向性を的確に見極めきれていないからである。これはドストエフスキー作品の翻訳者の資格としては致命的なことである。

亀山氏は自分の翻訳の底本としてあげた原文のほかに、明らかに自分流のテクストを作ってしまっている。読みやすいという幻想を生み出しているのは、この自分流のテクストと戯れているからである。

日本のロシア文学翻訳の歴史は二葉亭四迷の身を削るような苦労からはじまった。「原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にもまたピリオドが一つコ ンマが三つという風にして、原文の調子を移さうとした」というのは二葉亭の言葉であるが、原文と真剣に向かい合うという姿勢は一貫して先人翻訳者たちが受け継いできた伝統であったはずである。亀山氏がいかに苦労話を語ってみても、その残された結果が裏切っている。

彼の偽装に幻惑されて、理由もなく彼を偶像に仕立てあげ、読者を欺こうとするメディア、ジャーナリズム、書評家、作家達の社会的責任は大きい。

 

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