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亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する

―新訳はスタンダードたりうるか？―

木下豊房　（2007・12・24）

まず冒頭に断っておくが。この検証の公開には、会の運営委員の間にも危惧する意見があることから、

私はドストエーフスキイの会の代表としてではなく、ロシア文学研究者としての専門的な立場からの

個人的責任で行うもので、会の運営委員会の意思とは無関係である。この検証公開によって起きる問題

の一切の責任は私個人に帰せられるものである。

この検証作業をおこなったのは、古くからの会員で、40代後半の商社マン、ＮＮ氏（本人の希望により、名を伏す）である。大学でロシア語・ロシア文学を専攻し、卒業後、ロシア関係の商社勤めのかたわら、ロシア人のチューターを相手に、『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』を音読で読破したという経験の持ち主で、並のロシア語教師をしのぐプロのロシア語使いである。

ＮＮ氏と私の連絡がついたのは、会誌「広場」次号のエッセイを依頼したのがきっかけだった。私はといえば、亀山氏の『悪霊』のマトリョーシャ解釈以来、彼の語学感覚には疑念をもっていたので、「読みやすい」、「わかりやすい」という評判でのブームはただうさん臭いものにしか見えなかった。それにしても、インターネットのニュースにとり上げられ、ＮＨＫのＥＴＶ特集で報じられ、週刊誌の特集記事となり、毎日出版文化賞特別賞を授与され、ジャーナリズムを主導する書評家たちや人気作家たちに褒めちぎられ、さらにはインターネットのニュースでロシアにまで報じられるといった現象には、ただ驚くばかりで、「これは何か違う」という思いがつのっていくばかりだった。

ＮＮ氏は電話で、亀山訳にはとても我慢できない誤訳が多いと語った。まだ手元に訳本がなく、確認しようのない私に、ＮＮ氏はロシア語原文と、亀山訳とコメントをつけた検証のテキストをメールで送りはじめた。私はＮＮ氏の検証作業にだんだんに引きこまれていった。私はＮＮ氏の読みの鋭さに感心すると同時に、亀山訳に唖然とした。これはロシア語の分かる者同士の意見交換にすまさないで、一般読者にも判断をあおぐ手だてを講じるべきだと考えた。そこでＮＮ氏のコメントと並行して、問題個所を先行訳三種（米川正夫、原卓也、江川卓）の当該個所と対比する形をとることにした。

検証作業のために、私も亀山訳第1冊を購入し、ＮＮ氏から問題個所のページと行の指摘を受けて、ロシア語原文と突合せて問題点を確認した。その上で、私が亀山訳の打ち込みを引き継ぎ、私の手元にある米川、原訳と対比、入力する作業をおこなった。江川訳の入力はＮＮ氏がおこなった。

誰もが気がつくのは、先行訳が、表現の違いはあれ、原文に忠実で、語学的にほとんど一致している個所で、亀山訳に限っての誤訳が目につくということである。また作品の文脈から生じる解釈にあいまいさ、不正確さが見られることである。この原因はどう解釈したらよいのであろうか？　訳者の語学力に起因するのか、それとも、もともと出版社の集団的なプロジェクトで、読みやすさをねらうあまりのリライト作業の結果、専門的な立場からの最終的なチェックが効かなかったことによるのか、推測の限りではない。

マスコミでの亀山訳の持ち上げられかたからすれば、先行訳をもしのぐ決定訳のような印象すらあたえられかねない。この新訳は、読書会で、また学生の書く論文の引用で、スタンダードたりうるであろうか？　亀山訳に魅せられ、愛読した読者にこそ、この検証作業を捧げたい。

かならずや先行訳を参照し、できるなら、ロシア語原文と照合していただきたいものである。

この検証作業は現在までのところ、亀山訳（上）第1分冊までに止まる。

しかし一巻のみに限っても、およそすべてを網羅したものではなく、実際の誤訳はこれよりも更に多いはずである。

ともあれ、検証済みのこの範囲でも、この新訳がどのような性格のものか、かなりの程度、推測できるであろう。

なお、対比した先行訳の出典は米川正夫訳＝河出書房新社版全集第12巻、原卓也訳＝新潮社版全集第15巻、江川卓訳＝集英社版世界文学全集第45巻で、引用末尾の括弧内の数字は頁を示す。

	ЧАСТЬ ПЕРВАЯ　第1部
	Книга первая ИСТОРИЯ ОДНОЙ СЕМЕЙКИ　第１編　ある家族の物語
	I. ФЕДОР ПАВЛОВИЧ КАРАМАЗОВ　１　フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ
ﾃｷｽﾄ	<...> Бедняжка оказалась в Петербурге, куда перебралась с своим семинаристом и где беззаветно пустилась в самую полную эмансипацию. <...>
新訳22p	<...> 哀れな妻はペテルブルグにいて、神学校出の教師ともども首都に流れついてから、なんの気がねも無用とばかりに完全に自由な生活にひたった。<...>
コメント	露文和訳試験の回答としてなら、この訳文も間違いではない。しかし、当時のロシアの時代背景、この作品の文脈―「いまいちどペテルブルグに飛び出してって、ネヴァ川のほとりでロシア女性の権利を見つけ出す」（新訳第二巻126p）、「じつはわたし、現代の女性問題にまんざら縁がないわけでもないんですの、ドミートリーさん。女性の進出と近い将来における女性の政治参加、それこそがわたしの理想なんです」（新訳第三巻174〜175p）……etc.―、更に件の章そのものの文脈―「持参金つきのうえに器量よし、おまけに利発な才女であるお嬢さんが（今の世代ではめずらしくないが、その昔にもすでに姿を現していた）＜…＞彼女にしてみれば、たぶん女性の自立を宣言し、社会的な制約や、親戚、家族の横暴に反旗をひるがえしたかったのだろう」（新訳第一巻17〜18p）―に照らすと、これでは不十分だ。現代ロシア語では“эмансипация エマンスィパーツィヤ（解放）”だけで、“женщин ジェンシン（女性の）”という形容が後ろに付かなくても、“婦人解放”を意味するが、19世紀も'60年代以降は既に“эмансипация エマンスィパーツィヤ”だけで“婦人解放”乃至“女権拡張論”を意味していたのである。
〇	米川正夫訳「完全なる女性解放(エマンシぺーション)の気質に耽溺していた」（11）
〇	原卓也訳「完全な解放感にひたっていたのだった」（13）
〇	江川卓訳「そこでだれはばかることなく、文字どおりの女性解放を実践していた」（14）

	II. Первого сына спровадил　２　追い出された長男
ﾃｷｽﾄ	<...> Во-первых, этот Дмитрий Федорович был один только из трех сыновей Федора Павловича, который рос в убеждении, что он всё же имеет некоторое состояние и когда достигнет совершенных лет, то будет независим. <...>
新訳27p	<...> 第一に、このドミートリーは、フョードル・カラマーゾフの三人息子のうち一人だけいくらか財産をもっていたので、成人したあかつきには独り立ちをするという、たしかな信念をもって成長していった。<...>
コメント	誤 訳だが、おそらく誤読によるものではなく、訳文の推敲の不十分さによるものと推察される。原文の逐語訳は「（ミーチャは）何といっても自分には何らかの財 産があり、成人したら自立できるということを確信して（成長していった）」だが、新訳では「いくらか財産をもっていた」という節が「たしかな信念をもっ て」と切り離されてしまい、「いくらか財産をもっていた」というのがミーチャの思い込みではなく、あたかも客観的な事実であるかのような感を醸してしまっ ている。このミーチャ思い込みは今後の物語の展開の中で非常に重要な意味を持ってくる作中人物の性格付けなので、ここでそれが読者にうまく伝わらぬという のはまずい。
〇	米川正夫訳「いくらかの財産を持っているから、成年に達したら独立できる、という信念」　（14）
〇	原卓也訳「自分にはとにかくある程度の財産があるのだから、成年に達したら自立できるだろう、と確信して」（16）
〇	江川卓訳「自分にはともかくもなにがしかの財産があり、成人に達したら独立できるという確信をもっていた」（16）

	III. Второй брак и вторые дети　３　再婚と二人の子供たち
ﾃｷｽﾄ	<...>Так и променяла бедняжка благодетельницу на благодетеля. <...>
新訳31p	<...> こんな次第で、哀れな娘は慈善家から貧乏人の男に乗り換えたのである。<...>
コメント	「こんな次第で哀れな娘は恩人の女性を恩人の男性に取りかえたのである」というのが直訳で、意訳すれば「こんな次第で哀れな娘は恩人を女性から男性に取りかえたのである」となる。「貧乏人の男」に相当するロシア語は原文にはまったく見当たらない。翻訳に際して必要最小限の語を補うことは避けられぬが、この訳文は翻訳というよりはむしろ創作に近く、その意図も判然としない。誤訳と言わざるを得ぬ。
〇	米川正夫訳「哀れな少女は、ただ恩人を女から男に換えただけである」（15）
〇	原卓也訳「哀れな少女は恩人を女から男に取りかえたのだった」（17）
〇	江川卓訳「こうして哀れな少女は、ただ恩人を女性から男性に取り替えただけのことになった」（18）

ﾃｷｽﾄ	<...> Ровно три месяца по смерти Софьи Ивановны генеральша вдруг явилась в наш город личнои прямо на квартиру Федора Павловича и всего-то пробыла в городке с полчаса, но много сделала. <...> Повествуют, что она мигом, безо всяких объяснений, только что увидала его, задала ему две знатные и звонкие пощечины и три раза рванула его за вихор сверху вниз,  <...>
新訳34p	<...> ソフィアの死からきっかり三ヶ月後、将軍夫人は突然この町に姿を現し、フョードルの家にあがりこんでわずか半時間ばかり過ごしただけで、いろいろ後始末をしていった。<...> 人の話によると、彼女はその姿を見るや、なんの前置きもなしにいきなり二発たいそう派手な音のするびんたをくらわせ、前髪をひっつかんで三度、床へ引き倒したという。 <...>
コメント	「将軍夫人は突然自らこの町に現れ、真っ直ぐフョードルの住居に向った。町にいたのは半時間かそこらだったが、多くのことをやってのけた。＜…＞前髪を引っ摑んで上から下へ三度引っ張った」というのが原文下線部の意味だ。将軍夫人は「フョードルの家にあがりこんで」いないし、そこで「半時間ばかり」も過ごしてはおらず、フョードルの前髪を摑んで「三度、床へ引き倒し」てなどいないのである。誤訳。
〇	米川正夫訳「将軍夫人はとつぜんみずからこの村に姿を現わして、まっすぐにフョードルの家へおもむいた。夫人がこの町にいたのはわずか三十分であったが、<…>髪の毛をつかんで、三度ばかりぐいぐいと下へ引っぱった」（16）
〇	原卓也訳「将軍夫人は突然この町にじきじきに乗りこみ、まっすぐフョードルの家におもむき、町ですごしたのは全部でせいぜい三十分かそこらだったのに、おおくのことをやってのけた。<…>前髪をつかんで三度下に引きおろしたあと、」（19）
〇	江川卓訳「将軍夫人は突然自分からこの町に姿を現わし、まっすぐにフョードルの家へ出向いて行った。そして、町にいたのはほんの三十分ほどだったが、その間にたいそうなことをしとげていた。<…>つづいて手をのばして前髪をつかむと、ぐいぐいと三度、相手の頭を引っぱりおろした」（19〜20）
ﾃｷｽﾄ	<...> Помню, он-то (Мимусов) именно и дивился всех более, познакомившись с заинтересовавшим его чрезвычайно молодым человеком, с которым он не без внутренней боли пикировался иногда познаниями. <...>
新訳41ｐ	<...> わたしの記憶では、前々からひどく興味を寄せていたこの青年イワンと知り合ってだれよりも仰天したのが、ほかならぬミウーソフだった。彼はイワンとは、いささか内心の苦痛を覚えながら、ときどき知識を競い合った仲だったからである。 <...>
コメント	引用原文の意味は「わたしは憶えているが、ほかならぬ彼（ミウーソフ）こそ、大いに自分の関心を惹き起こしたこの青年と知り合って、（フョードルとイワンがこれ以上望めぬほど折り合いがいいことに）誰よりも驚いていたものだ。彼は時折この青年と知識を競い合っていたが、その際内心の苦痛を感じずにはおれなかった」である。まず「前々からひどく興味を寄せていた」というのが誤訳だ。ここの動詞“заинтересовать ザインチェレサヴァーチ（誰 かの関心を惹き起こす）”は１回限りの具体的な行為・動作を示す完了体動詞であり、訳文が醸している継続性のニュアンスはない。次の下線部分について言う と、原文ではミウーソフ氏の驚きと彼のイワンとの内心の苦痛を伴った知的競合との間に因果関係などはまったくない。新訳はミウーソフの驚きの対象を読みそ こなっている。ミウーソフはイワンと知り合って、ただ漠然と驚いたのではない、イワンの強靭な知性に直に接し、「どうしてこの男があんな親父とうまくやっ ていけるのか？」と親子の思いがけぬ折り合いのよさに驚いたのである。
〇	米川正夫訳「この人がだれより一ばんこの事実に驚いていたように記憶する。彼は自分にとって非常に興味のあるこの青年と相識になったが、どうかすると、いくぶん心ひそかに苦痛を感じながら、知識の張り合いをすることがあった」（19）
〇	原卓也訳「今でもおぼえているが、彼は大いに関心をそそられたこの青年と近づきになり、時にはいささか内心の苦痛をおぼえながら知識を競い合ったこともあるほどなので、だれにもましておどろいていた」（22）
〇	江川卓訳「私の記憶では、その彼がだれよりもいちばんこの事実に驚いていたようでもある。もっとも、いたく彼の関心を惹いたこの青年と知り合って以後、彼はどうかするとこの青年と知識を張り合っては、ひそかに自尊心を痛めていたようでもある」（23）

	IV. Третий сын Алеша　４　三男アリョーシャ
ﾃｷｽﾄ	<...> ... и вдруг вбегает нянька и вырывает его у нее в испуге. <...>
新訳p45	<…> と、とつぜん乳母が駆けこんできて、驚いた顔の母の手から幼子をうばいとる。<…>
コメント	これまでの訳でこの作品に接してこられ方の中には、新訳のこの個所をご覧になり、びっくりなさった方も少なくないのではなかろうか。各種の『カラマーゾフの兄弟』論の中でもしばしば言及がなされる個所だからだ。鍵となるのは最後の2語“в испуге ヴ・イスプーゲ（驚いた状態にあること示す副詞句）”だ。その前までを直訳すると―「と、突然乳母が駆け込んできて、母の手から彼（アリョーシャ）をもぎ離す」となる。最後の副詞句が何を修飾しているのかが問題であるが、新訳はこれを直前の“у нее ウ・ニェヨー（彼女、即ちアリョーシャの母から）”の“нее ニェヨー（彼女、即ちアリョーシャの母）”の状態を表していると解し、「驚いた顔の母の手から」と訳出している。しかし、これは明らかな誤訳だ。この副詞句は一番近くに位する動詞“вырывать ヴィルィヴァーチ（もぎ離す）”を修飾するもので、その動作の主体 = “нянька ニャーニカ（乳母）”の状態を表しているのである。「と、突然乳母が駆け込んできて、驚いて母から彼をもぎ離す」というのが原文本来の意味で、喚起させるイメージが新訳とはまるで違っている。
〇	米川正夫訳「そこへ乳母が駆けこんで、あわてふためいて彼をその手からもぎとってしまった」（21）
〇	原卓也訳「そこへ突然、乳母が駆けこんできて、怯えきった様子で母の手から彼をひったくる」（24）
〇	江川卓訳「と、ふいに乳母が駆けこんできて、おびえたように母の手から彼をもぎとる」（25）

ﾃｷｽﾄ	<...> И он даже расхныкался.  Он был сентиментален.  Он был зол и сентиментален.
新訳62p	<...>それからフョードルは、しくしくと泣きはじめてしまった。彼は感傷的になっていた。その口ぶりは乱暴ながら、感傷的でもあった。
コメント	問題の焦点は「�@　叙述されているのは、このエピソードの時点における、あくまでも一時的なフョードルの状態なのか？」あるいは「�A　このエピソードに 触れたついでに、語り手はフョードルの恒常的な属性を記しているのか？」ということである。なるほど一般論として「形容詞の短語尾形は一時的な状態を示 し、長語尾形は恒常的な属性を示すことが多い」と言われてはいる。件の下線部分で使われている二つの形容詞もいずれ短語尾形だ（“сентиментален センチメンターリェン = 感傷的な”、“зол ゾール = 悪意にみちた、意地悪な”）。 しかし、これはあくまでも一般論に過ぎず、周知のとおり、一般論というのは万能ではない。形容詞の短語尾形が恒常的な属性を表している例は枚挙に暇がな い。この文脈では�Aの解釈以外あり得ず、それは新訳が、�@の解釈で通すために、「口ぶり」などという言葉を強引に補わざるを得なかったことからも明らかで あろう。「それから彼は、なんと、めそめそと泣き出してしまった。彼はセンチメンタルであった。彼は意地悪であり、センチメンタルでもあった」というのが本来の原文の意味だ。
〇	米川正夫訳「彼はセンチメンタルであった。意地悪だが、同時にセンチメンタルでもあった」（28）
〇	原卓也訳「彼は涙もろい人間だった。心がねじけてはいたが、涙もろかったのである」（31）
〇	江川卓訳「そう言いながら、彼はすっかり涙声にさえなっていた。彼はセンチメンタルだった。腹黒いくせにセンチメンタルなのだった」（33）

	V. Старцы　５　長老たち
ﾃｷｽﾄ	<...> Он (Алеша) видел, как многие из приходивших с больными детьми или взрослыми родственниками　и моливших, чтобы старец возложил на них руки и прочитал над ними молитву, возвращались вскорости <...> обратно и, <...>  благодарили его за исцеление их больных.  <...>
新訳74p	<...> 病気の子どもや身内のおとなたちを連れて修道院をたずね、自分に手をあててお祈りを唱えてほしいと懇願する人々を、アリョーシャは見てきた。彼らの多くが日をおかずに <...> やってきて　<...>　病人を治してくれたお礼を <...> 述べるのだった。 <...>
コメント	いささかぎこちなくなるが、敢えて頭から語順に沿って文字通りの逐語訳を試みてみよう。 �@ 彼（アリョーシャ）は見たものだった（何をみたのかは�Cで判明する）、 �A 病気の子どもや大人の身内を伴ってやってきて祈りを捧げる人たちの多くが（どんな祈りを捧げたのかは�Bで判明する）、 �B 長老が彼らに（на них ナ・ニッフ = 病気の子どもや大人の身内に）手を置いて彼らの上で祈りを唱えてくれるようにと（これが�Aでの祈りの内容である）、 �C 間もなくまたやってきて、病人を治癒してくれたことを長老に感謝するのを（これが�@でアリョーシャが見たものである）。 　整理すると「病気の子どもや大人の身内を伴ってやってきて、長老が彼らに手を置いて病人たちの上で祈りを唱えてくれるようにと祈りを捧げる人たちの多くが、間もなくまたやってきて、病人を治癒してくれたことを長老に感謝するのを、彼（アリョーシャ）は見たものだった」となる。新訳では下線部の“на них　ナ・ニッフ （彼らに）”が指し示す対象が誤解されている。「自分に」 としてしまっては、「病気の子どもや身内のおとなたちを連れて修道院をたずね」てきた「人々」のことになってしまい、これが完全な誤訳であることは前後の 脈絡から誰の目にも明らかだろう。病気のわが子を医者に連れて行き、子どもではなく自分を診察してくれと頼むような母親もおるまい。
〇	米川正夫訳「彼は病気の子供や身内のおとななどを連れて来て、長老さまがその上にちょっと手をのせて。お祈りを言ってくださるようにと頼む多くの人々を見た」（33）
〇	原卓也訳「病気の子供や成人した肉親を連れて訪れ、長老が彼らの頭に手をのせて祈祷を読んでくれるように哀願する人たちの多くが、」（37）
〇	江川卓訳「病気の子供や身内の大人を連れてきて、病人に手をあてて祈祷を捧げてほしいと長老に頼みこむ人たちのうち、」（39）

ﾃｷｽﾄ	<...> Не смущало его нисколько, что этот старец, все-таки стоит пред ним единицей  <...>
新訳77p	<...> その長老が、それでもやはりひとりの人間にすぎないということに、アリョーシャはすこしもたじろがなかった。 <...>
コメント	難しいところだ。「この長老もやはりひとつの個として彼（アリョーシャ）の前に立っている」というのが原文下線部の直訳である。新訳が「すぎない」という語を補ったのは妥当だが、“единицей イェジニーツェイ（ひとつの個として）”を「ひとりの人間」と訳したのは頂けない。これではニュアンスがかなり異なってくる。新訳の訳文に沿って訂正するならば、「ひとつの個としての存在にすぎない」ということになろう。
〇	米川正夫訳「なんといっても、自分の目に見える真理の保持者は、この長老ひとりにすぎないということも、決して彼を当惑させなかった」（34）
〇	原卓也訳「この長老も彼の前ではやはり一個の人間であることなぞ、少しも彼を困惑させなかった」（38）」
〇	江川卓訳「この長老が、なんといってもやはり個としての存在でしかないことも、いっこうに彼を当惑させなかった」（40）

ﾃｷｽﾄ	<...> он трепетал за него, за славу его, боялся оскорблений ему, особенно тонких, вежливых насмешек Миусова и недомолвок свысока ученого Ивана, так это всё представлялось ему.
新訳82p	<...> 長老の、とくに名誉に侮辱が加えられたりはしないか心配でならず、ミウーソフが慇懃無礼な調子でからかったり、博学なイワンがさも見下したように話を途中でやめてしまったりする光景が、ことさらありありと目に浮かんできた。 <...>
コメント	“недомолвка　ニェダモールフカ”というロシア語には、「言い忘れ、言いそびれ」という意味と、「あてこすり」という意味があるが、ここでは直後に“свысока スヴィサカー（傲慢に）”という副詞があるので必然的に「あてこすり」の意味になる（傲慢に言い忘れたり、言いそびれたりする者もなかろう）。新訳の文体で訂正すると「博学なイワンがさも見下したようにあてこすりを言ったり」という感じだ。“недомоловка　ニェダモールフカ”という名詞は「不完全・不足」を表す接頭辞“недо- ネェダ”と“молвка モー ルフカ（言うこと、話すこと）”から構成されており、「最後まで言い切らないこと」というふうに字解きできる。即ち、その第一義は「言い忘れ、言いそび れ」という意味で、「（わざと最後まで言い切らず、曖昧な言語表現をすることで相手を）あてこすること」というのは転義である。「話を途中でやめてしまったり」という訳は“недомолвка　ニェダモールフカ”の字解きをそのまま日本語に置き換えたものだろうが、これでは「あてこすり」という転義が活きてこないので読者にはなはだ不可解な印象を残すことになってしまう。
〇	米川正夫訳「博学なイワンの人をみくだしたような口数少ない皮肉などが恐ろしかった」（36）
〇	原卓也訳「学識豊かなイワンの見くだすような当てこすりとを恐れた」（40）
〇	江川卓訳「とりわけ、慇懃無礼なミウーソフの冷笑と、学識あるイワンの人を見下したような言外のあてこすりが恐ろしかった」（42）

	Книга вторая НЕУМЕСТНОЕ СОБРАНИЕ　第２編　場違いな会合
	I. ПРИЕХАЛИ В МОНАСТЫРЬ　１　修道院にやってきた
ﾃｷｽﾄ	<...> Дмитрию Федоровичу еще накануне сообщен был и час и срок, но он запоздал. <...>
新訳87p	<...> ドミートリーにはすでに前の晩、始まりと終わりの時間を伝えてあったが、彼は遅れていた。 <...>
コメント	原文 “и час и срок　イ・チャース・イ・スローク” の “час チャース” は 「（単位としての）一時間、時、時間」の意で、“срок スローク” の方は「期間、期限、刻限」の意味、それから “и … и … イ…イ…” という表現には「…も…も」というニュアンスがある。文字通りに訳せば「時も刻限も」となるが、日本語として語呂が悪いので、「時刻を」ぐらいに訳しておくのが妥当だろう。「始まりと終りの時間を」という訳は文章の中で不自然に浮いてしまっており、座りが悪い。
〇	米川正夫訳「ドミートリイは、きのう時刻も日取りも知らせてやったのに遅刻したのである。」（38）
〇	原卓也訳「ドミートリイにはすでに前の晩に時間を連絡しておいたのに、遅刻していた。」（41）
〇	江川卓訳「ドミートリイにはもう前日のうちに時間と刻限を知らせてあったのだが、彼は遅刻だった。」（44）

	II. СТАРЫЙ ШУТ　２　老いぼれ道化
ﾃｷｽﾄ	<...> Сам же я всегда аккуратен, минута в минуту, помня, что точность есть вежливость королей.... <...>
新訳102p	<...> わたしどもはいつも几帳面でして、一分たりとも遅れたことはございません。 <...>
コメント	ケアレスミスであろう。原文は“Сам же я サム・ジェ・ヤー（わたし自身は）”と一人称単数形で、フョードルはあくまでも自分自身のことを述べている。庵室を訪れた一同を代表して「わたしどもは」と一人称複数形で発言しているのではない。
〇	米川正夫訳「当のわたしはいつもきちょうめんで、一分と違えたことがございません」（44）
〇	原卓也訳「わたし自身はいつも几帳面で、一分たりとも遅れたりはしないのですが」（48）
〇	江川卓訳「私はまた、時間はいつも正確なほうで、一分一秒とたがえません」（51）

ﾃｷｽﾄ	<...> Действительно, в келье происходило нечто совсем невозможное. В этой самой келье, может быть уже сорок или пятьдесят лет, еще при прежних старцах, собирались посетители, но всегда с глубочайшим благоговением, не иначе. Все почти допускаемые, входя в келью, понимали, что им оказывают тем великую милость. Многие повергались на колени и не вставали с колен во всё время посещения. Многие из «высших» даже лиц и даже из ученейших, мало того, некоторые из вольнодумных даже лиц, приходившие или по любопытству, или по иному поводу, входя в келью со всеми или получая свидание наедине, ставили себе в первейшую обязанность, все до единого, глубочайшую почтительность и деликатность во всё время свидания, тем более что здесь денег не полагалось, а была лишь любовь и милость с одной стороны, а с другой — покаяние и жажда разрешить какой-нибудь трудный вопрос души или трудный момент в жизни собственного сердца. <...>
新訳108p	<...> たしかに庵室では、何かとうてい起りようのないことが起ろうとしていた。 こ の庵室へは、おそらくすでに四十年か五十年、先々代の長老の時代も訪問客が集まってきたが、彼らはみなほかでもない、深い敬虔な思いをいだいた人たちだっ た。長老との面会を許された人々のほとんどが、庵室に入りながら、自分が大きな恩恵に浴しているということを理解していた。面会が終わるまでのあいだ、多 くの人々はひざまづき、そのまま立ち上がることができなかった。 　 ≪王侯貴族≫や学識者たちの多く、さらには好奇心やらほかの動機でやってくる自由思想の持ち主でさえ、他のみんなと連れだってか、あるいは差し向かいの面 談が許されて庵室に入るときは一人の例外もなく、面談の間ずっと　、このうえなく深い敬意とこまやかな配慮を、何にもまして大事な義務と心得るのだった。ましてやここでは、金は受け取らないならわしであり、いっぽうに愛と慈悲が、他方に悔いが、そして精神面での難問や自分の心の生活における難題を解決したいという、ひたすらな願いがあるだけだった。<...>
コメント	“полагаться パラガーッツァ”という動詞には「支払うことになっている」という意味もあるので、「ましてやここでは、金は受け取らないならわしであり」も間違いではないとお感じにになる向きもあるやもしれぬ。しかし、敢えて長めに引用した断章の文脈では、この“полагаться パラガーッツァ”が別の語義、即ち「定められている」の意味で使用されているのは明らかで、「ましてやここでは金銭は定められておらず」が本来の意味、転じて「ましてやここでは金銭はなど全く問題にならず」というように意訳すべきところだ。
〇	米川正夫訳「ここでは金というものは少しも問題にならないで、」（47）
〇	原卓也訳「ここでは金はかからず、一方からからは愛と慈悲」（51）
〇	江川卓訳「ここでは金銭は問題にならず」（54）

ﾃｷｽﾄ	<...> Ну-с, а прочее всё еще подвержено мраку неизвестности, хотя бы некоторые и желали　расписать меня. Это я по вашему адресу, Петр Александрович, говорю, а вам, святейшее существо,　вот что вам: восторг изливаю! — Он привстал и, подняв вверх руки, произнес: — Блаженно чрево,носившее тебя, и сосцы, тебя питавшие, — сосцы особенно! <...>
新訳111p	<...> たとえある人たちが、このわたしをどんなにけなしたがろうが、ほかのことがどうなるかは、全然わかりませんよ。 これはねえ、ミウーソフさん、あなたのことを言っているんですよ。でも、大長老さま、あなたには、ほらこの通り、歓喜の思いを口にしているわけです」　そ う言って腰を浮かせると、フョードルは両手を高く差し上げ、はっきりとこう唱えた。「『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎は、あなたが吸った乳房は。とくに乳房は！』 <...>
コメント	原文の理解に間違いはなかったのであろうが、推敲不足が祟って訳文のピントが暈けてしまい、後続の「これはねえ、ミウーソフさん」以下へと文章が自然に流れて行かないため、少なからぬ読者が大いに首を傾げるところであろう。読者の混乱を避けるためには、せめて「まあ（Ну-с　ヌゥー-ス）、ほかのことがどうなるかは全然わかりませんや、たとえこのわたしをどんなにけなしたがる人たちがいるとしてもですな。こ れはねえ、ミウーソフさん（以下略）」とつなげるべきであった。二つの節の前後を入れ替え、字句を少し修正しただけではないかと思われるかもしれない。正 にそのとおりで、実は原文そのものがそういう順序で書かれているのである。一般論として、日本語として無理がない限り、原文の流れどおりに訳した方が叙述 がすっきりする。その判断はあくまでも文脈によるが、ここはその典型的な例と言える。 後半の下線部のロシア語“сосцы サスツィ”の意味は「乳首」で、「乳房」はロシア語で“грудь グルーチ“という。類義語とは言え、やはり別の言葉なので、訳し分けるのが自然である。意訳した方がよい文脈もあり得るが、ここはフョードルが背徳的な道化パフォーマンスの中で聖句を捩った戯れ歌を披露している場面であり、戯れ歌の文脈の中では“сосцы サスツィ”は本来の語義どおりに訳すべきだ。
〇	米川正夫訳「まあ、ほかのことはまだ『未知の闇に葬られて』おります。もっとも、中には、わたしという人間を、むやみとあしざまに言いたがる仁もありますがな <…> なんじを養いし乳房は幸いなり、わけても乳房こそ幸いなれ！」（48）
〇	原卓也訳「ま、ほかの事は以前として未知の闇に包まれていますけどね。もっとも、なかにはわたしを漫画に仕立てあげようと望んでいる人もいるようですが <…> なんじを育てし乳首は幸いなるかな、特に乳首こそ！」（52）
〇	江川卓訳「ですが、まあ、ほかの点はいまだに未知の闇とやらに包まれておりますな、もっとも、なかにはやたらと私のことを大げさにふれまわる方もございますが <…> なんじを養いし乳首もまた幸いなり、とりわけ乳首こそ幸いなれ！」（55）

	III. Верующие бабы　３　信仰心のあつい農婦たち
ﾃｷｽﾄ	<...> Но тогда же я услышал от иных помещиков и особенно от городских учителей моих, на мои расспросы, что это всё притворство, чтобы не работать, и что это всегда можно искоренить надлежащею строгостью, причем приводились для подтверждения разные анекдоты.. <...>
新訳122p	<...> しかしすでにそのころ、わたしの問いに対してほかの地主や、ことに町の先生方は、 あんなものは働かずにすむよう仮病を使っているだけで、しかるべき厳格な措置を講じればいつだって根絶できるという話をし、それをうらづけるいろんな小話まで持ち出してきたものだった。<...>
コメント	唐突に「ほかの地主」などという言葉が出てくるので、少なからぬ読者が当惑するだろう。対照されるべき地主への言及が前後にまったく見当たらないからだ。“иной イノーイ”というロシア語には「ほかの」という意味もあるが、この文脈ではもうひとつの語義「ある種の」と解さねばならない。読書の“流れ”に思わぬ渋滞を惹き起こすあらずもがなの誤訳である。
〇	米川正夫訳「その当時、地主のだれかれや、ことに町の学校の先生などに根堀り葉堀ししてきいてみたら」（52）
〇	原卓也訳「そのころそこらの地主たちや、特に町の学校の先生などは」（56）
〇	江川卓訳「その当時、私が何人かの地主たちから聞いたところでは、また町にいる私の先生たちにわざわざたずねてみたところでは」（60）

ﾃｷｽﾄ	<...> По сыночку мучусь, отец, по сыночку. Последний сыночек оставался, четверо было у нас с Никитушкой, да не стоят у нас детушки, не стоят, желанный, не стоят. <...>
新訳125p	<…>　私とニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、でも立って歩けるまでには育ちませんでした。長老さま、育たなかったのでございます。<…>
コメント	短い文中にまったく同じ表現が三度も繰り返されているので、ロシア語をご存知ない方にもやや異様な印象を与えるのではないだろうか？　ここではわが子を失った農婦の抑えようもない嘆きが民衆の素朴な会話体で綴られているが、 “стоять スタヤーチ”という動詞が「育つ」の意味で使われているところにそれが特徴的に現れている。上流階級の人間であれば、“стоять スタヤーチ”を「育つ」の意味で使うことはよもあるまい。“стоять スタヤーチ”にはいろんな意味があるが、ここでは「存続し続ける」、「（食べ物が腐らずに）保つ」という語義が転じて「（子どもが亡くならずに）育つ」という意味合いで用いられるようになったものであろう。農婦のいかにも素朴なもの言いのニュアンスを伝えるのであれば、そのまま「うちでは子どもが保たないのでございます、保たないので、お前さま（註：　長老への呼び掛け）、保ちませんのでございます」という訳し方も悪くない。もちろん新訳の「育ちませんでした、育たなかったのでございます」でも別に問題はない。しかし、「立って歩けるまでは」というのは逸脱もはなはなだしい過剰な語の補いであり、既に創作の領域に入っており、到底首肯できるものではない。
〇	米川正夫訳「どうもわたしどもでは子供が育ちません。どうも聖人さま、育たないのでございます」（54）
〇	原卓也訳「うちでは子供が育ってくれません。うまく育ってくれないのでございます」（58）
〇	江川卓訳「うちでは子供が育ちませんのです、はい、ありがたいお坊さま、ひとつも育ちませんのです」（61〜62）

ﾃｷｽﾄ	<...> А младенчика твоего помяну за упокой, как звали-то? — Алексеем, батюшка. — Имя-то милое. На Алексея человека божия? — Божия, батюшка, божия, Алексея человека божия! — Святой-то какой!  Помяну, мать, помяну и печаль твою на молитве вспомяну и супруга твоего за здравие помяну. <...>
新訳129〜130p	<…> 今からあなたのお子さんの安息のお祈りをしてあげましょう。なんという名前でしたか？」　 「アレクセイといいます。長老さま」　 「かわいらしいお名前ですね。神の人アレクセイにあやかったのですか？」 「は、はい、神の人に、神の人アレクセイにあやかりました、長老さま」　 「なんて尊い子だろう！　お祈りしてあげましょう。 <…>」
コメント	下線を施した“Святой-то какой! スヴャトーイ・タ・カコーイ！”という長老の言葉を直訳すれば「何という（立派な）聖じゃ！」となり、直前に置かれた農婦の言葉“На Алексея человека божия! ナ・アレクセーヤ・チェラヴェーカ・ボージヤ！”（「神 の人アレクセイにあやかりました！」）を受けたゾシマの神人アレクセイへの感嘆として極めて自然に受けとめられる。わたしは久しくこの部分にそれ以外の解 釈があるとは夢にも思わなかったので、新訳の当該部分を読んで驚きを禁じ得なかった。それから他の訳の当該個所をあたってみて、複数の先行訳が新訳と同様 の解釈を採っていることを知り、ますます驚いた。果たしてここは二つの解釈の中いずれが正しいかの判定が微妙なところであろうか？　そうではない。原文を 朗読してみるとよくわかるが、“Святой-то какой! スヴャトーイ・タ・カコーイ！”という長老の感嘆は「なんと尊い子じゃ！」という思い入れではまったく読みようがない。“святой スヴャトーイ”というロシア語は形容詞として「神の力を与えられた、神聖な」という宗教的な語義が第一義で、その他に「高潔な、崇高な、完全な」という転義があるが、日本語で列挙した語義からおわかりのとおり、いずれも“младенчик ムラヂェーンチク（幼な児）”に冠するには重過ぎるものばかりだ。複数のロシア人に確認したところ、やはり形容詞と名詞のこの結びつきはあり得ないと口を揃えていた（「いや、ただ一人例外的にこの重い形容詞を支え得る幼な児がある」とも言っていたが、それが誰かはご想像にお任せしよう）。そもそも“святой スヴャトーイ”は、形容詞から派生した名詞として、「聖、聖人」の意味でごく普通に用いられる単語で、長老もその意味で使っているのである。従い、“Какой святой ―Алексей человек божий! カコーイ・スヴャトーイ ―― アレクセイ・チェラヴェーク・ボージー！（何と立派な聖人であろう、神の人アレクセイは！）”という解釈以外はあり得ない。
〇	米川正夫訳「<…> なんとういう聖（とうと）い子じゃ！ <…>」（56　）
〇	原卓也訳「<…> 立派な神の人じゃ！ <…>」（60　）
〇	江川卓訳「<…> なんと聖い子じゃ！ <…>」（64）

	IV. Маловерная дама　４　信仰心の薄い貴婦人
ﾃｷｽﾄ	<...> Но ночные лихорадки совершенно исчезли, вот уже двое суток, с самого четверга <...>
新訳138p	<…> 夜のけいれんはもうすっかり治まりました。この木曜日からすでに二昼夜になります <…>
コメント	下線を施したロシア語“лихорадка リハラートカ”の語義は「熱病、病熱、悪寒」であり、「けいれん」という意味はない（「けいれん」を意味するロシア語は“конвульсия カンヴーリスィヤ”乃至“спазма スパーズマ”）。明らかな誤訳だ。
〇	米川正夫訳「それでも毎夜毎夜の発熱は」（60）
〇	原卓也訳「ですけど、夜中の高熱は」（64）
〇	江川卓訳「でも夜分の高熱は」（68）

	V Буди, буди!　５　アーメン、アーメン
ﾃｷｽﾄ	<...> Таким образом (то есть в целях будущего), не церковь должна искать себе определенного места в государстве, как «всякий общественный союз» или как «союз людей для религиозных целей» (как　выражается о церкви автор, которому возражаю), а, напротив, всякое земное государство должно бы впоследствии обратиться в церковь вполне и стать не чем иным, как лишь церковью, и уже отклонив всякие несходные с церковными свои цели. <...>
新訳162〜163p	<…> 「こういうわけで（つまり将来の目的において）教会は、（ぼくが反論している著者が教会について述べていますが）『すべての社会団体』ないし『宗教的な目的をもつ人々の団体』として国家のうちに一定の地位を求めたりすべきではない。それどころか、この地上のどんな国家もゆくゆくはすっかり教会に変わるべきなのであり、教会そのものになり変わることで、ついには教会と相いれないすべての目的を排除するほかはないのです」 <…>
コメント	「≪ひとつの社会団体≫乃至≪宗教的な目的の為の人々の結社≫として（僕の論敵である著者は教会のことをこのように表現していますが）、教会が国家の中に定められた場所を求めるべきなのではなく」というのが下線部分の本来の意味である。「僕の論敵である著者は教会のことをこのように表現していますが」と、新訳の「ぼくが反論している著者が教会について述べていますが」とでは、それぞれの文中で果たす機能が大きく違っている。誤読したわけでもあるまいが、訳文の推敲不足は蔽いようもなく、本来の意味とはまったく別の意味で読者に受け取られかねない。やはり誤訳である。
〇	米川正夫訳「それゆえ（つまり未来の目的としていえば）教会は、ぼくの論敵たる著者の言葉を借りると、『社会団体』としても『宗教目的を有する人間の結社』としても、本来の目的において、国家の中に一定の地位を求めるべきではなく＜・・・＞」（70）
〇	原卓也訳「というわけで、将来の目的においては、僕の論敵が教会に関して言った言葉借りるなら、教会が『あらゆる社会団体』や『宗教目的のための人々の結合体』として国家の中に一定の地位を求めたりすべきではなく、＜・・・＞」（75）
〇	江 川卓訳「となれば（つまり、将来の目的という点では）、教会が国家の中に『社会的団体一般』として、あるいは『宗教的目的のための人々の結社』」（これ は、ぼくが反論している著者が教会について使っている表現ですがね）として一定の地位を占めることを求めるべきではなくて」（79）

	VI. Зачем живет такой человек!　６　どうしてこんな男が生きているんだ！
ﾃｷｽﾄ	<...> Иные, видевшие в его глазах что-то задумчивое и угрюмое, случалось, вдруг поражались внезапным смехом его, свидетельствовавшим о веселых и игривых мыслях, бывших в нем именно в то время, когда он смотрел с такою угрюмостью. <...>
新訳177p	<…> また彼のまなざしに、なにか物思わしげで気難しいものを見てとった別の人たちは、突然の高笑いに不意を突かれることがよくあった。その笑いは、彼が気難しそうに見える反面、彼のなかに陽気でおどけた考えがあることを物語っていた。 <…>
コメント	「彼（ミーチャ）の目の中に何か考え深げな陰気臭いものを見ていた人たちは、彼の突然発的な笑いに突如として驚かされることがあった。その笑いによって、いかにも気難しそうな目つきをしていたミーチャがその実考えていたのは愉快なふざけた事柄だったということがわかったのである」というのが原文の意味である。新訳とはかなりニュアンスが違う。他の人びとが「見ていた = видевшие　ヴィーヂェフシエ」行為とミーチャが「（いかにも気難しそうな）目つきをしていた = смотрел (с такою угрюмостью)　スマトリェール（ス・タコーユゥ・ウグリューマスチュウ）」行為が原文では同期しているのだが、新訳はこの行為の同期性を捉えそこなっている。
〇	米川正夫訳「ま たある人は彼が何かもの思わしげな、気むずかしそうな目つきをしているなと思ううちに、とつぜん思いがけなく笑いだされて、面くらうことがあった。つまり そんな気むずかしそうな目つきをしていると同時に、陽気なふざけた考えが彼の心中にひそんでいることが、証明されたわけである」（76）
〇	原卓也訳「彼の目に何か物思わしげな気むずかしい光を見いだす人々も、そんな気むずかしい目つきをしている反面、陽気なおどけた考えが存することを証明するような突発的な高笑いに、ふいに肝をつぶすことがよくあった」（81）
〇	江 川卓訳「何かもの思わしげな、陰気くさい目つきをしているなと見ているうちに、思いもかけず大声で笑い出され、あれほど陰気くさい表情を浮かべていたその 瞬間に、実は彼の内心には陽気なふざけた考えが浮かんでいたのだと思い知らされて、度胆を抜かれることが人もあった」（86）

ﾃｷｽﾄ	<...> — Простите великодушно за то, что заставил столько ждать. Но слуга Смердяков, посланный батюшкою, на настойчивый мой вопрос о времени, ответил мне два раза самым решительным тоном, что назначено в час. Теперь я вдруг узнаю... — Не беспокойтесь, — перебил старец, — ничего, не сколько замешкались, не беда... — Чрезвычайно вам благодарен и менее не мог ожидать от вашей доброты. — Отрезав это, Дмитрий Федорович еще раз поклонился, затем, вдруг бернувшись в сторону своего «батюшки», сделал и тому такой же почтительный и глубокий поклон.. <...>
新訳178〜179p	<…> 「ながらくお待たせしましたことを心より深くおわびします。でも、父の使いで来ました下男のスメルジャコフにしつこく時間のことを聞きましたのに、二度にわたってきっぱりとした口調で、一時のお約束ですと答えたものですから。ところが、いまわかったのは、……」 「心配はご無用」長老がさえぎった。「だいじょうぶです。ほんの少し遅刻なさっただけのことです、たいしたことではありません……」 「ほんとうに恐縮です。ご親切なお言葉をいただけるものと、期待しておりました」 　ぶっきらぼうな調子でそう言いきると、ドミートリーは改めてお辞儀をしなおし、それから急に「親父」のほうをふり向いて、そちらにも恭しげに深々とお辞儀をした。<…>
コメント	二つの下線部は、格変化のため多少字面が異なってはいるが、いずれも“батюшка バーチューシカ（男 性主格）”というまったく同一のロシア語で、意味は「父親」である。より正確には父親に対する親しみを込めた呼称で、敢えて日本語でそのニュアンスを表す とすれば、文脈によって「父ちゃん」、「親父」その他いろいろに訳せる言葉だ。その限りにおいては、新訳の「父」も「親父」も別に間違いではない。ここで 問題にしたいのは、二回目の“батюшка バーチューシカ”にドストエフスキーが敢えて括弧 《》 を付した意味について考察した節が窺われぬことである。実はこの括弧 《》 、「二回目の“батюшка バーチューシカ”は直前のミーチャの言葉の引用ですよ」という意味なのだ。従い、二つの“батюшка バーチューシカ”の訳語にはいずれも同じ訳語を充てねば、地の文における登場人物の言葉の引用というニュアンスが伝わらなくなってしまう。万が一、そのようなニュアンスの伝達など金輪際不可能と考えるのであれば、律儀に括弧だけ残しても無意味ゆえ、最早何の機能も果たさぬ括弧などはむしろ外して然るべきであろう。
〇	米川正夫訳「どうも長らくお待たせして相すみません。ご寛容をねがいます。父の使いでまいりました下男のスメルジャコフに、時間のことを念を押してたずねましたところ、きっぱりした調子で、一時だと、二度まで答えましたので、････ところが今はじめて・・・・」　 ＜・・・・＞ 「実に恐縮のいたりです＜・・・＞」 こうたち切るように言って、ドミートリイはいま一ど頭をさげた。それから急に自分の『おやじ』ののほうを向いて、おなじようなうやうやしい低いお辞儀をした。」（77）
〇	原卓也訳「こんないお待たせしてしまって、ほんとうに申しわけございません。でも、父の使いできた召使のスメルジャコフに時間のことをくどいほどたずねたのに、二度まで約束は一時だとはっきりと答えたものですから。ところが今になってふいに・・・・」 ＜・・・・＞ 「まことに恐れ入ります。＜・・・・＞」挨拶を打ち切るようにぴしゃりと言って、ドミートリイはもう一度おじぎをし、それからふいに《お父さん》の方をふりかえると、同じようにうやうやしく深々と一礼した。」（82）
〇	江川卓訳「<…> 「たいへん遅参いたしましたこと、どうぞご寛恕ねがいます。父親の使いでまいりました召使のスメルジャコフに、時刻について念を押しましたところ、一時の予定だと二度までも実にきっぱりと答えたものですから。ところが、いましがた思いがけず……」 　「ご心配くださるな」長老がさえぎった。「なに、すこし遅刻されただけのことで、なんでもありませぬ……」 　「それはどうも痛み入ります、あなたさまの好意に甘えまして」投げ出すように言うと、ドミートリイはもう一度会釈をし、それから、ふいに自分の《親父》のほうへ向き直ると、彼に対しても同じように礼儀正しい、深く頭をさげた会釈をした」 <…>」（86〜87）

ﾃｷｽﾄ	<...> а вместо того я вам расскажу, господа, другой анекдот о самом Иване Федоровиче, интереснейший и характернейший. Не далее как дней пять тому назад, в одном здешнем, по преимуществу дамском, обществе он торжественно заявил в споре, что на всей земле нет решительно ничего такого, что бы заставляло людей любить себе подобных, что такого закона природы: чтобы человек любил человечество — не существует вовсе, и что если есть и была до сих пор любовь на земле, то не от закона естественного, а единственно потому, что люди веровали в свое бессмертие. Иван Федорович прибавил при этом в скобках, что в этом-то и состоит весь закон естественный, так что уничтожьте в человечестве веру в свое бессмертие, в нем тотчас же иссякнет не только любовь, но и всякая живая сила, чтобы продолжать мировую жизнь. Мало того: тогда ничего уже не будет безнравственного, все будет позволено, даже антропофагия. Но и этого мало, он закончил утверждением, что для каждого частного лица, например как бы мы теперь, не верующего, ни в бога, ни в бессмертие свое, нравственный закон природы должен немедленно измениться в полную противоположность прежнему, религиозному, и что эгоизм даже до злодейства не только должен быть дозволен　человеку, но даже признан необходимым, самым разумным и чуть ли не благороднейшим исходом в его положении. <...>
新訳p180−181	<…>　 そのかわり、みなさんにもうひとつお話をお聞かせすることにします。ほかでもありません、このイワン君にかんするじつに面白い、味のある小話ですがね。つ い四、五日まえのことですが、この町のおもに上流婦人を中心としたある集まりの席で、イワン君は議論の最中に堂々とこう宣言したんです。 　つまり、全地上には自分と同類の人間を愛することを強いるようなものは何ひとつ断じてない、人間が人類を愛するような自然界の掟はまったく存在しない、もしもこの地上に愛があり、これまであったとするなら、それは自然の掟から出たものではなく、ひとえに人々がみずからの不死を信じてきたからだ、と。イワン君はそこで、括弧つきながらこう付けくわえたのです。まさにこの点にこそ自然の全法則が ある、だから、人類から不死に対する信仰を根絶してしまえば、たんに愛ばかりか、この世の生活を続けて行くためのあらゆる生命力もたちまちのうちに涸れは ててします、と。それだけじゃありません。そのときには、もう不道徳もなにも何ひとつなくなって、すべては許される、人喰いだって許されるというのです。 　いや、それでも足りず、イワン君はこう主張して話を終えられました。たとえば現にわたしたちがそうであるように、神も自分の不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律などといったものは、これまでの宗教的な掟とはまったく正反対のものにたちまち変化するはずだ。悪事を犯すぐらいの エゴイズムは、たんに人間に許されるどころか、その立場においては、不可欠でもっとも合理的な、ほとんど高尚きわまりない帰結としてすら、認められるべきだというわけです。
コメント	最初の下線部は「自然界の掟」、二番目は「自然の掟」、三番目は直前の定代名詞と合わせて「自然の全法則」、四番目は直前の形容詞を含めて「自然の道徳律」と訳出されている。訳し分けてある「掟」、「法則」、「律」に対応するロシア語は原文ではすべて同一の言葉“закон ザコーン”だ。一番目と四番目は、「道徳の」を意味する形容詞“нравственный ヌラーフストヴェンヌイ”の有無の違いだけで、まったく同じ二つの単語“закон природы ザコーン・プリロードゥイ”で構成されているが、実はこれ、ドストエフスキーの後期の作品に頻出する概念「自然の法則」を表す言葉そのままなのである（『地下室の手記』、『白痴』……etc.）。二番目と三番目も、「全ての」を意味する定代名詞“весь ヴェーシ”の有無の違いだけで、まったく同じ二つの単語“закон естественный ザコーン・イェスチェーストヴェンヌイ”で構成されており、“естественныйイェスチェーストヴェンヌイ”は形容詞で「自然の」という意味で、これもまた「自然の法則」のことだ。この作品では、逝去したゾシマ長老の遺体から発した腐臭騒ぎで悲嘆にくれるアリョーシャの心境を伝える地の文にも“закон естественный ザ コーン・イェスチェーストヴェンヌイ”が出てくる（新訳はそこでも「自然の掟」という訳語を充てている）。のみならず、「自然」というモチーフは様々に変 奏されながら、通奏低音として作品全体に亘って流れつづけているのである。そうであれば、訳文においても作中の言葉が相互に響き合うような工夫を凝らす必要があろう。“закон ザコーン”には「法律」の意味もあるので、これを「掟」 と訳出したのは必ずしも間違いではないが、「自然界の掟、自然の掟」と「自然の法則」では日本語としての意味と語感は随分違う。「掟」という日本語は、 「法律」とは等値であり得ても、「法則」とは等値ではあり得ない。「掟」や「法律」はあくまでも人間がそれを遵守すべき対象であり、有無を言わさず人間を 含めたすべての現象に君臨する非人称的な「法則」とは明らかに別のものである。その辺りの意味・語感の違い、及び作品全体の中における言葉の交響に留意す るならば、やはり「自然の法則」で訳語を統一すべきであった。「自然界の掟、自然の掟」という言葉は、動物ドキュメンタリー番組のナレーション乃至は擬人 化された動物を主人公とした小説の中であればいざしらず、ドストエフスキーの作品の文脈にはおよそそぐわないのではないか？ 　最後の下線部分は直訳すると「エゴイズムは、たとえそれが悪事にまで至るとしても、人間に許されるのみならず、置かれた状況における最も必要不可欠且つ最も理に適った、ほとんど最も高貴なとさえ言ってもよいくらいの出口と見做されるべきである」となる。引用原文イタリック表記の“даже до злодейства ダージェ・ダ・ズラヂェーイストヴァ”を「悪事を犯すぐらいの」と訳出したのは、“даже до ダージェ・ダ（たとえ…に至るとしても）”の誤読に起因する誤訳だ。
〇	米川正夫訳「<…>そ の代わり、ぼくはいま一つ、今度は当のイヴァン君に関するきわめて興味ぶかい特徴的な逸話を、お話しましょう。つい五日ばかり前のことでした。当地の婦人 が集まったある席で、イヴァン君ｊは堂々たる態度で次のような議論を吐かれたのです。すなわち、地球上には人間同士の愛をしいるようなものは決してない、 人類を愛すべしという法則は、ぜんぜん存在していない。もしこれまで地上に愛があったとすれば、それは自然の法則によるものではなく、人間が自己の不滅を 信じていたからだ、というのであります。その際、イヴァン君はちょっと括弧の中に挟んだような形で、こういうことをつけたされました。つまりこの中に自然 の法則が全部ふくまれているので、人類から自己の不滅に対する信仰を滅したならば、人類の愛がただちに枯死してしまうのみならず、この世の生活をつづけて 行くために必要なあらゆる生命力をなくしてしまう。そればかりか、そのときは非道徳的なものは少しもなくなって、すべてのことが許される。アンスロポファ ジイ（人肉嗜食）さえ許されるようになるとのことです。おまけに、そればかりでなく、今日のわれわれのように、神も不死も信じない各個人にとって、自然の 道徳律はたちまちのうちに、これまでの宗教的なものとはぜんぜん正反対なものになり、悪行と言いうるほどの利己主義が人間に許されるのみならず、むしろそ ういう状態においては避けることのできない、最も合理的な、いわば最も高尚な帰結として認められざるを得ない、という断定をもって論を結ばれたのでありま す<…>」（78）
〇	原卓也訳「<…>そ の代わり、ほかならぬイワン君に関するきわめて興味深い、この上もなく特徴的な話を、みなさんにご披露しましょう。つい、四．五日前のことですが、この町 の主として上流婦人を中心とする集まりで、この人は議論の中で得々としてこんなことを明言したんですよ。つまり、この地上には人間にその同類への愛を強い るようなものなど何一つないし、人間が人類を愛さなければならぬという自然の法則などまったく存在しない。かりに地上に愛があり、現在まで存在したとして も、それは自然の法則によるのではなく、もっぱら人間が自分の不死を信じていたからにすぎないのだ。その際イワン君が括弧つきで言い添えたことですが、こ れこそ自然の法則のすべてなのだから、人類のいだいている不死への信仰を根絶してしまえば、とたんに愛だけではなく、現世の生活をつづけようという生命力 さえ枯れつきてしまうのだそうです。それどころか。そうなればもう不道徳なことなど何一つなくなって、すべてが、人肉食いさえもが許されるのです。しか も、これでも足りずに、この人は結論として力説したのですが、例えば現在のわれわれのように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただ ちに従来の宗教的なものと正反対に変わるべきであり、悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、 もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える質全的な帰結として認められるべきなんだそうです<…>」（83）
〇	江川卓訳「<…> そ のかわり、みなさん、イワン君その人について、たいへん興味深い特徴的な逸話をもうひとつ紹介しましょう。つい五日ばかり前のことですが、当地の上流夫人 たちを主にした集りの席で、イワン君は堂々と次のような説を主張されたものです。つまり、この地上にはどこを探しても、人間として自分と同じ人間への愛を 強制するようなものは断じて存在しないし、また、人間は人間を愛せよというような自然の法則ももともと存在していない、で、もし現に愛が存在し、これまで も地上に愛が存在したとすれば、それは自然の法則によるものではなくて、ただただ人々が自分たちの不死を信じていたからにほかならない、というのですね。 さらにイワン君はそれにつけ加えて、いわばカッコにはさむという形で、この点にこそ自然の法則の全本質があり、したがって、もし人類が抱いている不死につ いての信仰を根だやしにしてしまえば、人間のもつ愛ばかりか、現世の生活をつづけて行くためのいっさいの生命力もたちどころに涸渇してしまうだろう、と言 われました。そればかりじゃない、そのときには、不道徳などということはひとつもなくなって、すべてが許される、人肉嗜食さえも許されるというのです。い や、まだ先がありましてね、イワン君はその話の結びに次のように主張されたものですよ。要するに、いまのわれわれのように、神も信じなければ自分の不死も 信じない個々人にとっては、自然の道徳律がただちにこれまでの宗教的な道徳律とは正反対のものに変り、悪業にもひとしいよう極端なエゴイズムが人間に許さ れるばかりでなく、それこそがその状況のもとでは不可欠な、もっとも合理的な、むしろもっとも高潔な活路としてみとめられることにさえなるはずである、と いうのです。 <…>」（88）

ﾃｷｽﾄ	<...> — Не совсем шутили, это истинно. Идея эта еще не решена в вашем сердце и мучает его. Но и мученик любит иногда забавляться своим отчаянием, как бы тоже от отчаяния. Пока с отчаяния и вы забавляетесь — и журнальными статьями, и светскими спорами, сами не веруя своей диалектике и с болью сердца усмехаясь ей про себя... В вас этот вопрос не решен, и в этом ваше великое горе, ибо настоятельно требует разрешения... <...>
新訳183p	<…> 「まるきり冗談を言っているわけではない、それはたしかです。この問題はあなたの心のなかでもまだ解決されておらず、苦しめているのです。しかし受難者も、やはり 絶望に 苦しむかに見せて、ときに 絶望で 気晴らしを楽しむことがあるものです。いまのところあなたも、絶望で 気晴らしされている。自分の弁証法が自分にも信じられず、胸の痛みをおぼえ、ひそかにそれをあざけりながら、雑誌の論文やら社交界での議論で気晴らしをなさっている……　あなたのなかでこの問題は解決されておらず、そこにあなたの大きな悲しみがある。なぜなら、それはしつこく解決を求めているからです…… <…>」
コメント	引用下線部の本来の意味は「この思想はまだあなたの心の中で解決されておらず、心を苦しめているのです。しかし、苦しむ者も時には自分の 絶望で以って 気晴らしをするものですし、それもまた 絶望のあまり のことらしい。今の所、あなたも 絶望のあまり 気晴らしをなされておられる、雑誌論文でも社交界の論争でもな、そのくせご自分でご自分の弁証法を信じておられず、心の痛みとともに無言でそれを笑っておられるのです」である。イタリック表記した三つの中、最初のсвоим отчаянием スヴァイム・アッチャーヤニエム を除き（新訳では節が倒置されているので、二番目の「絶望で 気晴らしを楽しむ」がこれに相当する）、後の二つ ― от отчаяния アト・アッチャーヤニヤ と с отчаяния ス・アッチャーヤニヤ ―　は完全な誤訳だ。これはいずれも「絶望のあまり」という意味だ。また二番目の от отчаянияアト・アッチャーヤニヤ の直前にある“как бы カーグ・ブィ”を「あたかも…のように」と解し、「絶望に苦しむ かに見せて 」と訳したのも誤訳で、これは “как бы カーグ・ヴィ”のもう一つの語義（「…らしい」）の用例である。
〇	米川正夫訳「<…> この思想はまだあなたの心の中で決められていないで、あなたを悩まし通しておるのじゃ。しかし、悩めるものもときには絶望のあまり、自分の絶望を慰みとすることがある。 <…>」（79）
〇	原卓也訳「<…> この思想はまだあなたの心の中で解決されておらないので、心を苦しめるのです。しかし、受難者も絶望にくるしむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。 <…>」（84）
〇	江川卓訳「<…> この思想はまだあなたの心のなかで解決されぬまま、あなたを苦しめておるのじゃ。しかし殉教の受難者もまた、ときにはおのれの絶望を、やはり絶望のあまりに、慰みとすることがある。あなたもいまは絶望のあまり慰みとしておられるのじゃ<…>」（89）

ﾃｷｽﾄ	<...> в лице Алеши выразился почти испуг. Но Миусов вдруг вскинул плечами, и в ту же минуту Федор Павлович вскочил со стула. <...>
新訳184p	<…> アリョーシャの顔にはほとんど怯えにも似た表情が浮かびあった。しかしミウーソフがとつぜん肩をすくめ、同時にフョ−ドルが椅子から立ち上がった。 <…>
コメント	まず引用個所全体を直訳してみる。「＜…＞アリョーシャの顔にはほとんど驚きの表情が現れた。しかしミウーソフは突然肩を聳やかした。と同時にフョードル・パーヴロヴィチが椅子から飛び上がった＜…＞」　微妙な違いがおわかり頂けるだろうか？　新訳ではミウーソフとの動作とフョードルの動作が生起する展開のダイナミズム、メリハリ、 “リズム” がまったく感じられない。これは、第一に、下線部の“в ту же минуту フ・トゥー・ジェ・ミヌートゥ”をあまりに無造作に「同時に」としてしまったこと、それから第二に、突発的な激しい動作を示す動詞“вскочить フスカチィーチ”を不用意にも何の切迫感も伴わぬ別の動詞“встать　フスターチ（立ち上る、起き上がる）”と同じ語感で訳出してしまったことによる。完全な誤訳ではないが、新訳に散見される推敲不足の典型的な一例と言える。
〇	米川正夫訳「アリョーシャの顔にはほとんどおびえたような表情が浮かんだほどである。しかし、とつぜんミューソフがひょいと肩をすくめると、それをきっかけにフョードルはいすを飛びあがった」（80）
〇	原卓也訳「アリョーシャの顔にはほとんど怯えに近い表情があらわれた。ミウーソフが「だしうけに肩をすくめ、それと同時にフョードルが椅子から跳ね起きた」（８４）
〇	江川卓訳「<…> アリョーシャの顔にはおびえにも近い表情が浮かんだ。しかしふいにミウーソフが肩をぐいとそびやかすと、それを合図のようにフョードルがイスからとびあがった。 <…>」（89）

ﾃｷｽﾄ	<...> Пескариков кушаете, в день по пескарику, и думаете пескариками бога купить! — Невозможно, невозможно! — слышалось в келье со всех сторон. <...>
新訳194p	<…> ウグイを食べておられる。一日に一匹ウグイを食べては、そのウグイで神を買うことを考えておられる！」 　「そんなことあるもんか、買えるはずがあるもんか！」　庵室の隅々から、声がわき起こった。 <…>
コメント	明らかな誤訳で、しかもかなり滑稽なものである。これを読んだときは正直仰天した。おそらく“невозможно ニェヴァズモージュナ（不可能である）”というロシア語を無人称述語と解し、これを直前のフョードルの暴言に出てくる“пескариками бога купить　ピスカーリカミ・ボーガ・クピィーチ（ウグイで以って神様を買う）”の不定形と結びつけて解釈したものであろうが、見当違いもはなはだしい。ここの“невозможно ニェヴァズモージュナ”は形容詞“невозможный ニェ ヴァズモージュヌイ”の短語尾形で、その意味は「許しがたい、けしからぬ、言語道断な」であり、現代ロシア語でも他者の非常識な振る舞いに憤慨した場合な どしばしば用いられる。正に件の文脈にぴったりの言葉ではないか。フョードルのあまりの暴言に、居合わせたものたちが堪りかねて「許せん、けしからん！」と憤慨しているのだ。誤訳は明白であり、先にも書いたとおり、はなはだ滑稽なものである。
〇	米川正夫訳「川ぎすを食べて、―　一日に一匹ずつ川ぎすを食べて、川ぎすで神さまが買えると思うていなさる！」　 　「もうあんまりだ、あんまりだ！」という声が庵室の四方から起こった」（84）
〇	原卓也訳「ウグイを食べて、一日に一匹ずつウグイを食べて、ウグイで神さまが買えると思っているんだ！」　 「許せない、もう許せん！」庵室のいたるところから、声があがった」（89）
〇	江川卓訳「小指みたいなすなむぐりを食されて、一日にすなむぐり一本あてで、そのすなむぐりで神さまを買収しようってお考えだ！」 　「あんまりだ、あんまりだ！」の声が、庵室の四方から起った」（94）

ﾃｷｽﾄ	<...> — А ведь непредвиденное-то обстоятельство — это ведь я! — сейчас же подхватил Федор Павлович.— Слышите, отец, это Петр Александрович со мной не желает вместе оставаться, а то бы он тотчас пошел. <...>
新訳197p	<…> 「その予期できなかった事情というのが、このわたしでしてね！」フョードルはすぐさま言葉尻をつかまえて言った。「お聞きですか神父さん、じつはミウーソフさんは、このわたしと同席するのが、いやでたまらないんです。そうでなけりゃ、二つ返事で行くとこですよ」 <…>
コメント	新訳では、下線部のフョードルの言葉が僧侶（一行をゾシマの庵室へ案内し、今度は僧院長の許へ案内すべく、再び一行を出迎えた）に向けられたものとして訳出されているが、私見ではこれはミウーソフ氏の発言に対するリアクションとして同氏に向けられたものである。さもないと、直後の地の文「すかさずフョードルはその言葉尻を捉えた（— сейчас же подхватил Федор Павлович　[ スィーチャース・ジェ・パトフヴァチィール・フョードル・パーヴロヴィチ ].—）」と齟齬を来してしまう。この地の文に続く台詞から、フョードルは件の僧侶に向き直ったと考えるのがもっとも自然である。
〇	米川正夫訳「その思いがけない事情というのはわたしのことでしょう！」とすぐフョードルは押さえた。「もしあなた、ミウーソフさんはわたしといっしょにいたくないから、ああ言われるんです。でなければ、すぐに出かけなさるはずなんですよ」（85）
〇	原卓也訳「その予期せぬ事情とやらは、このわたしのことですな！」フョードルはすぐに言葉尻をとらえた。「おききになりましたか、神父さん、このミウーソフさんはわたしといっしょに残るのがいやなんですよ。でなけりゃすぐにでも飛んで行くところなんです」（90）
〇	江川卓訳「その予期せぬ事情とやらいうのは、私のことでしょうが！」すぐにフョードルが横から口をはさんだ。「まあ、聞いてくださいな、お坊さま、ミウーソフさんは私といっしょに残りたくないからああ言われるんで、でなければさっさと参上するはずなんですよ」（95）

	VII. Семинарист-карьерист　７　出世志向の神学生
ﾃｷｽﾄ	<...> — Не меня ли ждешь? — спросил, поравнявшись с ним, Алеша. — Именно тебя, — усмехнулся Ракитин. <...>
新訳203〜204p	<…> 「ぼくを待ってたんじゃないよね？」相手と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。 「いや、きみさ」　ラキーチンはにやりと笑った。 <…>
コメント	素直に読むならば、原文の会話は「ぼくを待ってんじゃないの？　―　正にきみをさ」となり、新訳の「ぼくを待ってたんじゃないよね？―いや、きみをさ」と は応答のニュアンスが微妙に異なる。新訳はアリョーシャの問いを付加疑問文のように訳しているが、原文はごく普通の疑問文である。新訳バージョンでも意味 は通るものの、非常に不可解な意訳だ。
〇	米川正夫訳「ぼくを待っているんじゃないの？」アリョーシャはそばまで寄るとこうきいた。 「図星だ、きみなのさ」ラキーチンはにやりと笑った。（88）
〇	原卓也訳「僕を待ってたんじゃないの？」相手と並ぶとアリョーシャはたずねた。　 「まさしく君をさ」ラキーチンがにやりとした。（93）
〇	江川卓訳「ぼくを待っていたのかい？」すぐ近くまで行って、アリョーシャはたずねた。 「きみをだよ」ラキーチンはにやりとした。（98）

ﾃｷｽﾄ	<...> Скажи ты мне, Алексей, одно: что сей сон значит? Я вот что хотел спросить. — Какой сон?<...> Вот теперь и заговорят все святоши в городе и по губернии разнесут: «Что, дескать, сей сон означает?»  По-моему, старик действительно прозорлив: уголовщину пронюхал. Смердит у вас. — Какую уголовщину? Ракитину видимо хотелось что-то высказать. — В вашей семейке она будет, эта уголовщина. Случится она между твоими братцами и твоим богатеньким батюшкой. Вот отец Зосима и стукнулся лбом на всякий будущий случай. Потом что случится: «Ах, ведь это старец святой предрек, напророчествовал», — хотя какое бы в том пророчество, что он лбом стукнулся?  <...>
新訳204p	<…> アレクセイ、ひとつぼくに教えてくれないか。あの予言、いったい何を意味してるんだ？　それが聞きたくてね」 　「なんの予言さ？」 <…> きっとそのうち、町じゅうの信心深い連中がそろって噂しだしてさ、県全体にふれまわるに違いないんだ。『あの予言は何を意味しているのか』ってね。ぼくに言わせりゃ、あの老人、たしかにものを見ぬく目はある。だから、犯罪の臭いを嗅ぎつけたんだね。きみの家ってへんに臭うじゃないか」 　「犯罪って、なんのさ？」 　ラキーチンはどうやら、何かを最後まで言ってしまいたいらしかった。 　「きみらの家族に起るんだよ、その犯罪が。きみの兄さんと、きみの金持ちの親父さんとのあいだで持ち上がるんだ。だからゾシマ長老も、将来の万が一にそなえて額をごつんとやったわけさ。あとで何かが起こったときに、『ああ、あれは長老さまが予言されたことだ。やっぱり予言どおりのことが起こった』って言わせるためにね。でもさ、額をごつんとやったことに、いったいどんな予言があるっていうのさ？ <…>
コメント	引用文の前半に3回出てくる “сон ソーン（夢）” を “予言” としたのは、後半部で下線を施した3個所にいずれも“予言”という訳語を使用することから、文脈を考慮して断行した意訳であろうか？　しかし、それでは引用部の最初のラキーチンの問いに込められた皮肉なイントネーションも、これに対するアリョーシャの応答が通常とは違ったラキーチンの言葉遣い（сон ソーン）に虚をつかれた結果としての反問であるというニュアンスもまったく伝わらない。それでは、原文はあまりにもロシア語独特の表現で到底日本語ではその微妙なニュアンスを伝え得ないようなものであろうか？　そうではない。3個所の “сон ソーン” をすべてごく普通に“夢” と訳出するだけでも、そのニュアンスは或る程度伝達可能である。さほど難しいとも思えぬ原文のニュアンスの伝達を放棄した意図は奈辺にあるのだろうか？
〇	米川正夫訳「<…>ただ一つききたいことがあるんだ。いったいあの夢のような出来事はなんのこったね？ぼくはこいつがききたくってさ」 「夢のような出来事ってなに？」 <…>今 に見たまえ、町じゅうのありがたがりや連が騒ぎ出して、県下一円に持ちまわるから。『いったいあの夢のような出来事はなんのことだろう？』ってんでね。ぼ くの考えでは、おじいさんはほんとうにものをみぬく目があるよ。犯罪めいたものをかぎ出したんだね。まったくきみの家庭は少々くさいぜ」 「いったいどんな犯罪を？」 ラキーチンは、なにやら言いたいことがあるらしいふうであった（　） 「き みの家庭で起こるよ、その犯罪がさ。それはきみのふたりの兄さんと、金満家のおやじさんとの間に起こるんだよ。それでゾシマ長老も万一をおもんばかって、 ひたいでこつんとやったのさ。あとで何か起こったときに、『ああ、なるほど、あの聖人さまが予言したとおりだ』と言わせるためなんだ。もっとも、あのおじ いさんがひたいでこつんとやったのは、予言でもなんでもありゃしないよ」（89）
〇	原卓也訳「<…>ところで、一つだけききたいんだけどさ、アリョーシャ、あの夢はいったいどういう意味なんだい？それをききたかったんだよ」 「何の夢さ？」 <…>「今にこの町や県内一体の信者たちが、『あの夢は何の意味だとう？』って言い出すにちがいないんだから。僕に言わせると、あの老人、たしかに炯眼だよ。犯罪を嗅ぎつけたものな。君の一家は不吉なにおいがするもの」 「犯罪って、どんな？」 　明らかにラキーチンは何事か言ってしまいたい様子だった。 　 「君の家庭に起るのさ、その犯罪が。君の兄さんたちと金持ちの親父さんとの間でね。だからゾシマ長老は、将来の万一の場合にそなえて、おでこをこつんと やっといたってわけさ。あとで何か起れば、『ああ、そういえば長老さまが予告してらした。予言なさっていたっけ』ということになるからな。とはいっても、 おでこをこつんとぶっつけることに、どんな予言があると言うんだい？<…>（93−94）
〇	江川卓訳「<…> アレクセイ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだ。例の寝言はどういう意味だい？　それを聞きたいと思ってさ」 　「寝言って、どんな？」  <…>「 まあ、見ていたまえ、そのうち町じゅうのありがたがり屋たちが騒ぎだして、県下一帯ににふれまわるから。『あの寝言はどういう意味でしょうか？』ってね。ぼくの考えじゃ、あの爺さんなかなか目が利くぜ。犯罪を嗅ぎつけるんだから。きみの家はだいぶ臭いものな」 　「犯罪って、どんな？」 　ラキーチンは何か言いたいことがあって、うずうずしているらしかった。 　 「きみの一家に起るのさ、その犯罪はね。きみの二人の兄貴と、きみの金持ちの親父さんの間にね。だからゾシマ長老は、万一を考えて、おでこをこつんとやっ たんだよ。あとで何かが起ったときに、『ああ、あの神聖な長老さまの予言なすったとおりだった』と言わせようというんだ。もっとも、おでこをこつんじゃ予 言にも何もならないがね。<…> （99）

ﾃｷｽﾄ	<...> Ты это нечаянно брякнул, это вырвалось. Тем драгоценнее признание: стало быть, тебе уж знакомая тема, об этом уж думал, о сладострастье-то. Ах ты, девственник! <...>
新訳209〜210p	<…> きみは思わず口をすべらせた、つい本音が出たってわけさ。そうなると、その告白はますます価値がでる。つまり、きみはそういう話がもうわかっている、そういうことについて考えたことだってある、セックスのことさ！ ああ、きみって人は、とんだ童貞坊やさ！<…>
コメント	“сладострастье スラダストラースチエ”というロシア語の語義は「情欲、色欲、肉欲」であり、従い下線部分の直訳は「肉欲のことについて」となる。砕けて訳せば「助平なことについて」といったところで、新訳がこれを現代風に「セックスのことさ」と大胆に意訳したのは必ずしも間違いではない。しかし、敢えてこの個所を取り上げたのには理由がある。新訳を論じている若者たちの或るブログで、この「セックスのことさ」という訳語に衝撃を受け、「これは凄い！　こういうことだとは知らなかった。従来の訳ではよくわからなかったことが、これでよくわかった」というような書き込みが偶然目に入り、眉を顰めた経験があるからである。故江川卓氏が自著『謎とき『白痴』』で、自身の “説” を 展開するのに都合がいいように、第一編の大詰め、夜会の席におけるナスターシャ・フィリッポヴナの台詞をあまりにも強引に、性的な意味合いを露骨に剥き出 しにした形で訳出しておられるのを読んだ時も同様な疑問を持ったものだ。訳者によるこの種の牽強付会は黙認すべきではないと思う。「セックスのことさ」は確かに誤訳ではないし、その目的を達して現代の若い読者の一部にアピールしたようであるが、これが19世紀中葉のロシアの片田舎で神学生と見習僧の間で交わされた会話であることを思えば、この訳語には大きな疑問が残るのである。
〇	米川正夫訳「つまり、このテーマはもうきみにおなじみなんだね。この肉欲ということをもう考えてたんだね！とんでもない童心無垢の少年だよ！」（91）
〇	原卓也訳「要するに、君にはすでにお馴染みのテーマなんだな、これについては考えたことがあつたわけだ。情欲ってことについてさ。いや君、たいした純情坊やだな！」（95）
〇	江川卓訳「つまり、これがもうきみにおなじみのテーマで、このことをもうきみが考えているということだものね、この情欲のことをさ。いやはや、たいした童貞君だよ！」（101）

ﾃｷｽﾄ	<...> — Кланяйся, скажи, что не приду, — криво усмехнулся Алеша. — Договаривай, Михаил, о чем зачал, я тебе потом мою мысль скажу. <...>
新訳210p	<…> 「ちゃんと伝えるんだよ。ぼくは行きませんとね」　アリョーシャは軽く苦笑をもらした。「ミハイル、それより、さっき言いかけたことをちゃんと最後まで話しなよ。ぼくの考えはあとで教えてあげるからさ <…>
コメント	まったくの間違いではないものの、訳文があまりにも生硬。ごく自然に訳せば「よろしく言っといてよ、伺いませんってね」となるところである。また、新訳は“Кланяйся クラーニャッツァ（「よろしく伝えてくれ」を意味する旧い言い方。逐語的な意味は「お辞儀してくれ」）“を黙殺して、まったく訳していない。何故だろう？
〇	米川正夫訳「よろしく言ってくれたまえ、行きゃしないから」、とアリョーシャは苦笑いした。（91）
〇	原卓也訳「よろしく伝えといて。伺えませんからって言っといてよ」　アリョーシャは苦笑した（96）
〇	江川卓訳「よろしく伝えてくれよ、行かないからって」アリョーシャは苦笑した（102）

ﾃｷｽﾄ	<...>  Статья его смешна и нелепа. А слышал давеча его глупую теорию: «Нет бессмертия души, так нет и добродетели, значит, всё позволено». <...>
新訳215p	<…> 彼の論文なんてお笑い草だし、ばかげたもんだよ。最近の彼のくだらない理論、聞いたことがあるかい。『霊魂の不死がないなら善もない。つまり、すべてはゆるされている』とこう来たぜ。 <…>
コメント	下線部分の正しい意味は「さっきは彼の馬鹿々々しい理論を聞いた」であり、これは前の章（「どうしてこんな男が生きているんだ！」）のゾシマの僧庵におけるイワンと同席者たちとの対話の内容を指している。つまり、あくまでも「さっき」の話であり、およそ「最近」のことではない。おそらく“давеча ダーヴェチャ（さっき）”と“недавно ニェダーヴナ（最近）”という二つの副詞を混同した結果であろうが、文脈に照らすならば、およそあり得べからざる誤訳である。
〇	米川正夫訳「<…> あの人の論文だってこっけいな、ばかばかしいものさ。さっきもあのばかげた理論を聞いたが、『霊魂の不滅がなければ、したがって善行というものない。つまり、何をしてもかまわないわけになる』ってことだったね <…>（93）
〇	原卓也訳「<…> 彼の論文なんざ、こっけいで愚劣なものさ。さっきも『不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべては許される』というばからしい理論をきかされたがね <…>」（98）
〇	江川卓訳「<…> あの論文は滑稽なたわごとだし、さっきはあの人の愚説を拝聴させてもらったよ。『霊魂の不死がなければ、善行もない、つまりはすべてが許される』とね。 <…>」（104）

ﾃｷｽﾄ	<...> — Меня не было, зато был Дмитрий Федорович, и я слышал это своими ушами от Дмитрия же Федоровича, то есть, если хочешь, он не мне говорил, а я подслушал, разумеется поневоле, потому　что у Грушеньки в ее спальне сидел и выйти не мог всё время, пока Дмитрий Федорович в следующей комнате находился. <...>
新訳218p	<…> 「ぼくはいなかったさ、でもドミートリーさんがいたんだ。この話をぼくはドミートリーさんから自分の耳で聞いたんだ。つまり、彼がぼくに話してくれたといってもいい。ただし、ぼくは盗み聞きしたのさ。もちろんやむをえずだよ。なぜって、グルーシェンカの寝室にいて、隣の屋にドミートリーさんがいるあいだ、ずっとそこから出られなかったんだもの。 <…>
コメント	「つまり、ほんとのことを言えば、彼はぼくに話してくれたわけではない」というのが原文下線部の意味で、新訳とはまるで正反対なのである。反駁の余地のない誤訳だ。とりたてて難しい個所でもなく、何故このように誤訳したのか理解に苦しむ。
〇	米川正夫訳「じっさいいうと、あの人がぼくに向かって話したわけじゃない。ぼくが立ち聞きしたのさ、とは言っても、もちろんひとりで耳にはいったんだ」（95）
〇	原卓也訳「つまりさ、知りたきゃ教えるけど、彼が僕に話したわけじゃなく、僕が盗みぎぎしたんだよ、もちろん、心ならずもね」（99）
〇	江川卓訳「いや、実を言うと、ぼくに話してくれたわけじゃなくって、ぼくは盗み聞きする羽目になったんだ、むろん、心ならずもね」（105）

ﾃｷｽﾄ	<...> Нет, вы, господа Карамазовы, каких-то великих и древних дворян из себя корчите, тогда как отец твой бегал шутом по чужим столам да при милости на кухне числился. <...>
新訳219p	<…> いやはや、きみたちカラマーゾフ家のみなさんは、どこぞの由緒ある大貴族の末裔をきどって、そのくせ親父ときた日にゃ道化役者さながら、他人さまの食事にありつこうと駆けずりまわり、人のお情けで台所にいさせてもらっているだけの男じゃないか。 <…>
コメント	下線を施したロシア語の二つの動詞“бегал ベーガル（走っていた）”“числился　チィースリルサ（数えられていた）”はいずれも過去形である。それは当然そうあるべきで、フョードルが寄食生活を送っていた既に過去の話だ。ところが、新訳はこれをなんと現在形で訳出し、あたかもフョードルが未だに寄食生活をしているかの印象を醸してしまっている。誤訳。
〇	米川正夫訳「<…> きみたちカラマーゾフ一統はしきりに何かえらい家柄の貴族を気どっているが、きみのおやじは道化役なんか買ってでながら、他人の家の居候をしてまわって、お情けで台所のすみにおいてもらってたんじゃないか。 <…>」（95）
〇	原卓也訳「<…> ええ、君ら、カラマーゾフ家の連中はなにやら古い家柄の偉い貴族を気どっているけど、その実、君の親父なんざ道化役でよその食卓をまわって歩き、お情けで台所に入れてもらったくせにさ。 <…>」（100）
〇	江川卓訳「<…> いや、もう、きみたちカラマーゾフ家のご一統ときたら、まるで由緒正しい大貴族気どりだけれど、その実、きみの親父さんは、道化役でよその家を居候してまわっちゃ、お情けで食卓の末席にはべらせてもらっていたんじゃないか。 <…>」（106）

	VIII. Скандал　８　大醜態
ﾃｷｽﾄ	<...> Вспомнил он вдруг теперь кстати, как когда-то, еще прежде, спросили его раз: «За что вы такого-то так ненавидите?» И он ответил тогда, в припадке своего шутовского бесстыдства: «А вот за что: он, правда, мне ничего не сделал, но зато я сделал ему одну бессовестнейшую пакость, и только что сделал, тотчас же за то и возненавидел его». <...>
新訳227〜228p	<…> 以前こう訊ねられたときのことを、彼は今さらながら思い出した。「あなたはどうして、そうまで人を憎むのですか？」 そしてそのとき、道化役者らしい破廉恥な思いにかられて答えたものだった。「つまりこういう理由なのですよ。たしかに彼はわたしに何も悪いことはしなかっ た、でもそのかわりにこちらから、とてつもなく恥知らずな嫌がらせをひとつしてさしあげたのです。で、それをすると、たちまちわたしはそのことで彼が憎ら しくなったのです。 <…>
コメント	「あなたはどうして誰々さんをそんなに憎むのですか？」というのが原文下線部の意味である。「あなたはどうして、そうまで人を憎むのですか？」とはまるで意味が違う。新訳バージョンではフョードルの憎しみの対象が “人間一般”に普遍化され、後続の彼の言葉がまるで意味をなさなくなっている。弁解の余地のない誤訳。
〇	米川正夫訳「<…> 「あなたはどうしてだれそれをそんなに憎むんです？」ときかれたことを偶然思いだした。<…>」（99）
〇	原卓也訳「<…> いつだったか、もっと以前に一度、「あなたはどうして、だれそれをそんなに憎んでいるんです？」ときかれたときのことを、ふいに思いだした。 <…>」（103）
〇	江川卓訳「<…> 彼はこのとき突然、かつてずっと以前に、『どうしてあなたはだれそれをそうまで憎むのかね？』と聞かれたときのことを思い出した。 <…>」（109）

ﾃｷｽﾄ	<...> — Что же это такое? Как же это? — послышались голоса в группе иеромонахов. <...>
新訳231p	<…> 「それはなんの話です？　どういうことなんです？」修道司祭たちのあいだから声があがった。 <…>
コメント	露文和訳問題の回答としては、これでも別に間違いではない。しかし、作品の生きた文脈に照らし、下線部分がフョードルの道化パフォーマンスを前にした聖職 者たち憤慨の言葉であることに思いを致すならば、このような訳にはなるまい。原文はごくふつうの疑問形だが、ここで聖職者たちはフョードルに対して、応答 の一環として問いを投げかけているのではない。これは問いかけではなく、憤慨なのだ。
〇	米川正夫訳「<…> 「いったいこれはなんたることだ？　どうしてこのようなことができるのであろう？」という声が主教の群れから聞こえた。 <…>」（100）
〇	原卓也訳「「これはいったいなんということだ？　よくもこんなことが？」司祭修道士のグループの中で声があがった（105）
〇	江川卓訳「<…> 「なんということだ？　どうしてこんなことが？」修道司祭たちの間からこんな声が聞えた。 <…>」（111）
ﾃｷｽﾄ	<...> Он так спешил, что в нетерпении занес уже ногу на ступеньку, на которой еще стояла левая нога　Ивана Федоровича, и, схватившись за кузов, стал было подпрыгивать в коляску. <...>
新訳239p	<…> 彼はあまりに急いでいたので、がまんができずイワンが すでに 左足をかけていたステップに自分の足を乗せ、車体にしがみついて、馬車のなかに飛び込もうとした。 <…>
コメント	下線部の中でイタリック表記したロシア語副詞“еще イッショー” が「すでに」の 意味で使われるためには通常、併用される動詞は、�@完了体過去形か、完全に過去のものとなり完結された反復行為を表す不完了体過去形で、�A動作が行われた 具体的な時を示す語を必ず伴うのだ。ところが、当該個所ではこのいずれの条件も満たされていない。下線部の本来の意味は「（マクシーモフは）早くもステッ プに足を掛けた。そこには まだ イワンの左足が載っていた」であり、「イワンが すでに 左足をかけていたステップに自分の足をのせ」とはニュアンスが違う。また、新訳の訳文は、場所を示す関係代名詞 “на которой ナ・カトーライ” に 翻弄された結果、いかにも翻訳調のぎこちない日本語となってしまっている。無論、ロシア語と日本語はまったく違う言語なので、関係代名詞がある場合、どう しても原文の流れどおりには訳せず、文の後半を先に訳し、それから前の方に戻るような形の訳にせざろう得ぬケースはままあるが、原文の順序どおりに訳して差し支えなければ、そのように訳すに越したことはない。そうしてこそ、初めて日本語で些かなりともロシア語原文の“流れ”と“リズム”を読者に伝えることが可能となろう。
〇	米川正夫訳「<…> 彼はおそろしくあわてて気がせくあまりに、まだイヴァンの左足がのっかっている踏み段へ、待てしばしもなくさっそく片足をかけ、手を車台へかけながら、馬車の中へ飛びこもうとした。 <…>」（104）
〇	原卓也訳「<…> 彼は急ぐあまり、まだイワンの左足が置かれているステップにはや片足をかけ、車体にしがみついて、馬車にとびのろうとしかけた。 <…>」（108-109　）
〇	江川卓訳「<…> ひどくあわてていたマクシーモフは、まだイワンの左足がかかっていた踏み段に、もどかしげに片足をかけ、車体にとりすがって、馬車の中へ跳びこもうと身がまえた。 <…>」（115）

	Книга третья　Сладострастники　第３編　女好きな男ども
	I. В лакейской　１　下男小屋で
ﾃｷｽﾄ	<...> Нечто в этом роде случилось с Федором Павловичем и по приезде Алеши. Алеша «пронзил его сердце» тем, что «жил, всё видел и ничего не осудил». Мало того, принес с собою небывалую вещь <...>
新訳249p	<…> これに似たことは、アリョーシャが戻ってきてからもフョードルの身に起こった。アリョーシャは、「一緒に過ごして一部始終を見ながら、なにひとつとがめだてしなかった」ことで、彼の「心臓をぐさりとつらぬいた」。それだけでなくアリョーシャは、これまで自分が経験したこともないようなものを持って帰ってきた。 <…>
コメント	なるほどアリョーシャは、ほとんどそこで育ったとは言えぬが、スコトプリゴーニエフスクの生まれであり、この物語の始まる一年ほど前にこの町にやってきた彼の行為を帰省と呼べぬこともない。従い、下線部を「戻ってきてから」、「持ち帰ってきた」とした新訳を誤訳と決めつけることはできない。しかし、わたしは、カラマーゾフ家が作中で “偶然の家庭” 位置づけられていること、三兄弟のいずれもが、この町の出身でこそあれ、幼少期、思春期、青年期の大部分をよその土地で過ごしていることから、引用部分を原文で読んでいて、アリョーシャのスコトプリゴーニエフスク入りに帰省のニュアンスをまったく感じない。下線部も「やってきてから」、「もたらした」としか感受できないし、事実この二個所で使われているロシア語“по приезде　パ・プリイェーズヂェ（到着後）”と“принес プリニョース（もたらした、持ってきた）”は、いずれも帰省のニュアンスなど持たぬニュートラルな語である。
〇	米 川正夫訳「アリョーシャが帰ってきたときも、ちょっとこれに似かよったことがフョードルの心中に生じた。アリョーシャは『いっしょに暮らして何もかもみて おりながら、少しもとがめだてをしない』というところで、彼の『心を刺し通した』のである。それどころか、アリョーシャは枯れにとって経験したことのない ものをもたらした」（107）
〇	原 卓也訳「アリョーシャの帰郷後もフョードルの心にこれに類したことが起こった。アリョーシャは『いっしょに暮らして、すべてを見ていながら、何一つ非難し なかった』ことによって、『彼の心を突き刺した』のだった。そればかりではなくアリョーシャは、老人に対する軽蔑の完全は欠如と、むしろ反対に、そんな値 打ちもない父親に対する常に変らぬやさしさや、ごく自然な偽りのない慕情という、これまで彼の知らなかったものをもたらした」（112）
〇	江川卓訳「<…> ア リョーシャが帰郷したときにも、これと似たようなことがフョードルに起った。アリョーシャは、『いっしょに暮して、何もかも見ながら、けっして責めようと しない』ことで、『彼の心をぐさりとやった』のだった。そればかりでなく、アリョーシャは、老人がかつて知らなかったものをもたらした」（119）

	II. Лизавета Смердящая　２　リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ
ﾃｷｽﾄ	<...> В самом деле, ее как будто все даже любили, даже мальчишки ее не дразнили и не обижали, а мальчишки у нас, особенно в школе, народ задорный. <...>
新訳258p	<…> 事実、彼女はみんなから愛され、子どもたちでさえ、彼女をからかったりいじめたりすることはなかった。ちなみに、わが国の子どもというのは、ことに小学生はおしなべて腕白である。 <…>
コメント	下線部の字義どおりの意味は「わたしたちのところでは」である。文脈によっては「わが国の……」と訳すこともあり得よう。しかし、この作品は、『悪霊』の雑報記者G氏とはやや趣を異にするが、主人公たちと同じ町に住み、主人公たちと馴染みがあり、同時代を生きたと思しき語り手からの物語という体裁を取っている。これを考慮すれば、「わたしたちの町（スコトプリゴーニエフスク）の……」以外には考えられない。
〇	米川正夫訳「<…> 子供、ことに学校子供というものはとかく腕白をしたがるものであるが、その子供たちでさえこの町では <…>」（112）
〇	原卓也訳「<…> この町の少年たち、それも特に小学校の生徒なぞは腕白な連中なのである。<…> （116）
〇	江川卓訳「<…> この町の男の子たち、とりわけ学校の生徒たちときたら、手のつけられない腕白ぞろいだったのだが。 <…>」（124）

ﾃｷｽﾄ	<...> В церковь редко заходила, спала же или по церковным папертям, или перелезши через чей-нибудь плетень (у нас еще много плетней вместо заборов даже до сегодня) в чьем-нибудь огороде. <...>
新訳259p	<…> 教会のなかに立ち入ることはまれで、どこかで眠るにしても、教会の入り口とか、だれかの屋敷の垣根を乗りこえ（わが国ではまだ、今日にいたっても塀の代わりに網垣がたくさん残っている）、その野菜畑で眠るのだった。 <…>
コメント	前述の“у нас ウ・ナース（わたしたちのところでは）”の場合とまったく同じ理由で、ここもまた「わが国では……」は誤訳。「わたしたちの町（スコトプリゴーニエフスク）では……」である。
〇	米川正夫訳「<…> 夜は、寺院の玄関か、さもなくばよその編みがきをのり越えて（この町にはへいの代わりをつとめる編みがきが、こんにちにいたるまで随所にあるから）菜園の中に寝るにきまっていた。 <…>」（112）
〇	原卓也訳「<…> でなければどこかの生垣を乗りこえて（この町には今日でもまだ塀の代わりに生垣が数多くあるのだ）どこかの菜園でだったりした。 <…>」（116）
〇	江川卓訳「<…> でなければ、どこかの編垣を乗り越えて（この町にはいまでも塀がわりの編垣が多い）、だれかの菜園で夜を過すのが普通だった。<…>」（124）

	III. Исподель горячего сердца. В стихах　３　熱い心の告白 ―― 詩
ﾃｷｽﾄ	<...> Алеша знал, что и старик назавтра же наверно отпустит его опять в монастырь, даже сегодня же, может, отпустит. Да и был он уверен вполне, что отец кого другого, а его обидеть не захочет. Алеша уверен был, что его и на всем свете никто и никогда обидеть не захочет, даже не только не захочет, но и не может. <...>
新訳266〜267p	<…> じっさいアリョーシャは、父が、他の人間はどうあれ自分を怒らせるようなどという気を起こすはずがない、と固く信じきっていた。世界にだれひとり、自分を怒らせようなどという気を起こす人はいない、いや、気を起こさないのではなく、気をおこさせないのだとアリョーシャは信じきっていた。 <…>
コメント	ここには問題点が二つある。一つは“обидеть アビィーヂェチ”の訳語の不適切さ、もう一つは最後の“не может ニェ・モージェット”の誤訳である。訳者は“обидеть アビィーヂェチ”を“рассердить ラッセルヂィーチ（怒らせる）” の意味で受け取られたようだ。なるほど“обидеть アビィーヂェチ”には確かにそういう意味もある。しかし、ここに至るまでに読者はアリョーシャの性格について既に十分な情報を与えられており、その性格に照らすならば、またこれはフョードルのアリョーシャに対する行為であることを考慮すれば、ここの“обидеть アビィーヂェチ”は“рассердить ラッセルヂィーチ（怒らせる）”ではなく、 “оскорбить アスカルビィーチ（侮辱する）”の意味に解するのがもっとも自然だ。もう一つの問題点“не может ニェ・モージェット”の方はあからさまな誤訳である。「（怒らせようとする）気を起こせないのだ」という訳文は、原文を“не может захотеть обидеть ニェ・モージェット・ザハチェーチ・アビィーヂェチ（怒りたくなることができない）”と読みそこなった結果であろうが、原文は“не может обидеть　ニェ・モージェット・アビィーヂェチ（怒らせることができない）” としか読みようがない構文である。「怒らせようとする気を起こせない」のではなく、「怒らせることができない」のである。更に、先に問題にした“обидеть アビィーヂェチ”の語義に拘れば（わたしは拘りたい）、「侮辱することができない」がもっとも原文の意を汲んだ解釈ということになる。
〇	米川正夫訳「<…> 父がほかの人はともあれ、自分を侮辱しようなんて気を起こすはずがない、こう彼は固く信じていた。彼は世界中で誰一人自分を侮辱するものはいない。いな、単にないばかりではなく、できないのだと信じきっていた。 <…>」（118）
〇	原卓也訳「<…> それに、父がほかのだれかをならともかく、この自分を侮辱する気など起こしっこないという自信も十分にあった。アリョーシャは、世界のだれ一人、決して自分を侮辱しようなどと思わぬことを、いや、単に思わぬばかりか、侮辱するはずもないことを確信していた。 <…>」（120）
〇	江川卓訳「<…> そ のうえ彼は、父がほかの者ならいざ知らず、自分をいじめようなどという気を起こす気づかいはないと、確信しきっていた。この世の中で自分をいじめようなど という気を起す者は絶対にいない、たんにそんな気を起こすはずがないでけでなく、起こすことができないのだ、とはアリョーシャの確信だった。 <…>」（128）
ﾃｷｽﾄ	<...> Притом его ждал отец, может быть не успел еще забыть своего приказания, мог раскапризиться, а потому надо было поспешить, чтобы поспеть туда и сюда. <...>
新訳269p	<…> おまけに父が待っていたし、例の言いつけのこともきっと忘れずにいて、すねたりしかねなかった。だからどちらにも間に合わせるためには、とにもかくにも急ぐ必要があった。 <…>
コメント	原文には「きっと」を意味するような副詞はない。あるのは “может быть モージェット・ブィチ” という挿入語だが、これは「きっと」ではなく「もしかしたら」という意味である。誤訳。
〇	米川正夫訳「<…> それに、父親も彼を待っている。ことによったら、まだ例のいいつけを忘れないで、またまた気まぐれを出さぬともかぎらない。 <…>」（116）
〇	原卓也訳「おまけに父が待っているし、ことによると先ほどの命令をまだ忘れずに、気まぐれを起こしかねなかったから、どちらにも間に合うよう急がなければならなかった。（121）
〇	江川卓訳「<…> それに父親も待っていて、ことによると、まだ自分の命令を忘れずにいて、わがままを言いださないともかぎらない。 <…>」（129）

ﾃｷｽﾄ	<...> Теперь, пока весело, говорю! Садись вот здесь за стол, а я подле сбоку, и буду смотреть на тебя, и всё говорить. Ты будешь всё молчать, а я буду всё говорить, потому что срок пришел. <...>
新訳275p	<…> これからしばらく楽しく話そう！　さあ座れ、ほら、ここの席だ。おれはその横にすわって、おまえの顔をよく眺めながら何もかも話しちまうのさ。おまえはずっと何もしゃべらないでいい。おれが何もかもしゃべるからな。だって、そのときがやって来たんだ。 <…>
コメント	細心の注意を要する微妙な個所である。最初の下線部を「これからしばらくは楽しく話そう！」としたのは誤訳だ。それはまず、短い文中に二つも出てくるзапятая ザピャターヤ（コンマ）を黙殺したことに起因する。それから次に、文の冒頭に置かれた“теперь チェピェーリ”が誤読されたこと。“теперь チェピェーリ” にはいろんな意味があるが、ここでは話題転換の接続詞と解するのがもっとも自然だ。即ち、引用個所の直前で、自らのグルーシェンカに対する破滅的な愛に触れ、“влюбиться ヴリュビィーツァ（惚れる）” と “любить リュビィーチ（愛する）” の違いについて自説を開陳したミーチャが、「さて」とアリョーシャに向けて話す話題を転換しているのである。この話題転換の “теперь チェピェーリ” の後に最初のзапятая ザピャターヤ（コンマ）が入る。続く “пока весело, говорю パカ・ヴェーセラ、ガヴァリュー” だが、新訳の誤りは“весело ヴェーセラ（愉快だ、愉快に）” を“говорю ガヴァリュー（話す）” に掛かる副詞として訳出したことだ。二つ目のзапятая ザピャターヤ（コンマ）を考慮するに、ここは「今の所は愉快だ、話して聞かせるよ！」程度の意味であり、そう解して初めて、次の“ほらここに坐れや（Садись вот　здесь за стол サヂィーシ・ヴォット・ズヂェーシ・ザ・ストール） ＜...＞” への、原文に即した自然な言葉の“流れ”が得られる。従い、最初の下線部の直訳は「さて、今の所は愉快だ、話して聞かせるよ！」となる。 　二つめの下線部は新訳では「＜...＞なにもかも話しちまうのさ。おまえはずっと何もしゃべらないでいい。おれがなにもかもしゃべるからな。だって、その時がやってきたんだ」とある。下線を付した「なにもかも（все　フスィヨー）」は、いずれも動詞“ガヴァリィーチ（話す、しゃべる）”の前に位しているが、「なにもかも」は完全な誤訳である。ここの“все フスィヨー”は「ずっと」 の意味でしか解しようがない。何故か？　言葉で説明するのが難しいところだが、朗読してみるとこれがよくわかる。ロシア語テキストの朗読の際には、アクセ ントを強調する語を正しく見極めぬと朗読のリズムが崩壊し、その結果意味も成立せぬことになり、大変に恐いのだが、ここの原テキストを朗読する場合には “и буду <...> и всё говорить. Ты будешь всё молчать, а я буду все говорить <...> イ・ブゥードゥー<…>イ・フスィヨー・ガヴァリィーチ。トゥイ・ブゥーヂェシ・フスィヨー・マルチャーチ、ア・ヤー・ブゥードゥー・フスィヨー・ガヴァリィーチ”と下線及び網掛けを付した三つの動詞のアクセントをそれぞれ強調せねば朗読のリズムがまったく得られない。そういうふうにドストエフスキーは書いているのであり、彼の原テキストはいわば楽譜のようなものだ。後半の “молчать マルチャーチ（黙っている）”と“говорить　ガヴァリィーチ”という二つの動詞のアクセントを強調せねばならぬ理由については “文法的（？）” な説明も可能である。鍵となるのは二つの節を繋ぐ対比の接続詞 “а ア” だ。ここで対比されているのは「“ты トゥイ（お前）” の行為（молчать [マルチャーチ]　黙っていること）」と「“я ヤー（俺）” の行為（говорить　[ガヴァリィーチ] 話すこと）」である。朗読の際には、対比されている二つの動詞のアクセントを強調せねば、リズムが失われてしまう。アクセントが強調される動詞の前の“все フスィヨー”はいずれもアクセントが強調されず、アクセントを強調せずに読む“все フスィヨー”は「なにもかも」ではなく、「ずっと」の意味なのだ。従い、二つめの下線部の意味は「（俺は）ずっと話し続ける。お前はずっと黙っていて、俺はずっと話し続けるんだ＜...＞」であり、新訳バージョンはドストエフスキーの“楽譜”が指向する音を聞きそこなった誤訳である。 （“все フスィヨー”と“говорить ガヴァリィーチ”という二つの語の組み合わせが、当該個所から原文で１ページほどを隔てたミーチャの言葉の中にも出てくる。 　« Теперь я намерен уже все говорить.　チェピェーリ・ヤー・ナミェーリェン・ウジェ・フスィヨー・ガヴァリーチ。（今や俺はもうなにもかも話すつもりだ。）» 　この“все フスィヨー”は「なにもかも」の意味で、朗読の際には“все フスィヨー”のアクセントを強調せねばならない。 　更に作品の大詰めであるイワンとスメルジャコフの三度目の対面の場面にも同じ言葉の組み合わせが出てくる。漸くスメルジャコフが真犯人であることを知ったイワンが「なにもかも話せ（“все говори フスィヨー・ガヴァリィー”）と迫る台詞だ。ここもまた朗読の際“все フスィヨー”のアクセントを強調して読む以外は考えられず、その意味も「ずっと」ではなく「なにもかも」である。）
〇	米川正夫訳「<…> 今しばらく気楽に話させてもらうぜ！まあすわれ、このテーブルの前にな。おれはこの横のほうへすわって、おまえの顔を見ながらすっかり話しちゃうから。お前は黙ってるんだぞ、おれがすっかり話しちゃうから。もうその時機が到来したんだからなあ。 <…>」（119）
〇	原卓也訳「<…> ま、今のところは陽気に話そう！ほらこのテーブルの前に坐れよ。俺は横に坐ってお前を眺めながら、すっかり話してきかせるから。お前はずっと黙ってていいから、俺がすっかり話してきかせるよ。なぜってついにこの時期が来たのさ。<…>」（123）
〇	江川卓訳「<…> いまのところはまだ陽気にしゃべれるからな！　さあ、ここのテーブルの前へ坐ってくれ、おれは、こう、横のほうに坐って、おまえの顔を眺めながら、ずうっと話し続けるんだ。おまえはずうっと黙っていて、おれはずうっとしゃべりどおしだ <…>」（132）

ﾃｷｽﾄ	<...> И куда печальным оком Там Церера ни глядит — В унижении глубоком Человека всюду зрит! <...>
新訳282p	<…> ケレースがどこを見ても― いたるところ、深い恥辱にまみれた 男の姿が見えるだけ！ <…>
コメント	“человек チャラヴェーク（人間、人）” を “мужчина ムッシーナ（男）” と訳した方がよい文脈というのはあり得るが、ここはそのようなケースではない。“человек チェラヴェーク”の本来の意味はあくまでも「人間、人」である。引用されているシラーの『エレウシースの祭』そのものの文脈に照らしても、『カラマーゾフの兄弟』全体の文脈に照らしても、そのまま「人間、人」の意で、或は敷衍して“человечество チェラヴェーチェスとヴォ（人類）” の意で訳すべきところだ。さもないと、このシラーの詩と明らかに響き合っている先行または後続する他の章（「信仰心の薄い貴婦人」、「反逆」、「ガリラヤのカナ」、「餓鬼」…etc.）と有機的なつながりが失われてしまう。作品全体への目配りを欠いた不用意な訳と言わざるを得ない。
〇	米川正夫訳「<…> ケレスが見やるかなたには / 深きけがれに沈みたる / 人よりほかに見ゆるものなし！ <…> 」（122）
〇	原卓也訳「<…> ケレースがいずこを見ても、 / いたるところ、目に映るは / 深き恥辱に泣く人の姿ばかり！ <…>」（126）
〇	江川卓訳「<…> 女神ケレースがいずこを見ても― / いたるところ汚辱に沈む / 人の子のすがたを見るばかり！ <…>」（135）

ﾃｷｽﾄ	<...> Но только вот в чем дело: как я вступлю в союз с землею навек? Я не целую землю, не взрезаю ей грудь; что ж мне мужиком сделаться аль пастушком? <...>
新訳283p	<…> ただし、問題はだ、つまりどうやってこのおれが、大地と永遠の契りを結ぶかってことさ。おれは大地に口づけなんかしないし、大地の胸を叩いたりするようなまねもしない。 <…>
コメント	翻訳が難しいところではある。“взрезать ヴズリェザーチ” は同義語である “вскрывать フスクルィヴァーチ” 同様、「切開する」、「切り開く」の意で、ここでは擬人化された大地（земля ゼムリャー）の胸（грудь グルーチ）を切り開く（взрезать ヴズリェザーチ）という“詩人”ミーチャの面目躍如たる隠喩表現を形造っている。しかし、日本語で「胸を切り開く」などと訳すと詩的な感興などまったく生まれず、何やらおどろおどろしい剣呑な雰囲気すら惹き起こしかねない。こうなると最早一定の“創作”に頼らざるを得ぬ。新訳の「大地の胸を叩く」という“創作”はいかにも無粋である。日本語として何の詩的な感興も誘わない。直訳すると「大地の胸を切り開く」となるこの言葉は、まずはミーチャの命名の由来と、それから作品全体の有機的なつながりの中で後続の幾つかの章（「うわ言[新訳のこの章醍の訳も感心できない]」や「一瞬、嘘が真実になった」等々）でも繰り返される大地を耕すというモチーフ（「あんたとあたしは大地を耕しに行きましょう。あたし、ほらこの手で大地を掘り返したいわ（「うわ言」の章でのグルーシェンカの言葉）」、「ここへ戻ってからも、どこか片田舎で大地を耕すんだ（「一瞬、嘘が真実になった」の章でのミーチャの言葉）」等々）とも響き合っているのだ。そのことを念頭に置けば、伝えようもない微視的な言葉のニュアンスには拘らず（新訳ではそのニュアンスは伝わっていない）、むしろ「大地を耕す」と意訳した方が作品全体を視座におさめた巨視的な効果が生まれてくるはずである。
〇	米川正夫訳「<…> おれは大地を接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもしない。 <…>」（122）
〇	原卓也訳「<…> おれは大地に接吻もしないし、大地の胸を切りひらきもしない。 <…>」（127）
〇	江川卓訳「<…> おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をこの手で耕すこともしない <…>」（135）

ﾃｷｽﾄ	<...> И мы все, Карамазовы, такие же, и в тебе, ангеле, это насекомое живет и в крови твоей бури родит. Это — бури, потому что сладострастье буря, больше бури! <...>
新訳286p	<…> そしておれたちカラマーゾフ家の全員が、じつはそういう虫けらだったんだ。だから天使みたいなおまえのなかにも、この虫けらが住みついていて、おまえの血のなかに嵐を引き起こすのさ。そいつは嵐だ。なぜって、嵐のような好色だからさ。いや、嵐以上だ！ <…>
コメント	ごく素直に訳すならば、「こいつァ嵐だよ。だって好色ってやつは嵐なんだ、いや嵐以上なんだ！」となる。新訳が敢えて訳語を捻ったのは、『直訳すると「好色が嵐なのは、好色が嵐だからだ」となってしまい、理由説明の“потому что パタムー・シタ（なぜならば）”で始まる節がまったく論理的ではなくなり、同義反復になってしまう。これではおかしい』との判断が働いた結果でもあろうか？　そこで「なぜって、嵐のような好色だからさ」 と日本語訳文を捻られたのだろう。しかし、これは直訳よりももっとおかしい。ここは直訳で一向に差し支えない。日本語の日常会話でも、形の上ではあたかも 理由を説明しているかのようなレトリックでありながら、その実ただ同じことを繰り返しているだけというような表現はしばしば見受けられる。会話が生きもの である以上、それは当然の話で、中にはその発言を録音してテープを起こせば、そのまま活字として立派に通用する話術をお持ちの御仁もいらっしゃるが、それ は例外中の例外であろう。個人差はあっても、大半の人間の発言は、客観的にみれば、本人が思っているほどには理路整然としていないことがしばしばではない か。ましてや、ここはミーチャの発言である。“自然さ”の意味を履き違え、なまじ賢しらな訳語を捻ると、ミーチャの肉声が持つ表情豊かなアクセントやイン トネーションが却って読者に伝わらない。“いま、息をしている言葉で……”とは、自然らしく見せ掛けるために小手先で語尾を「・・・だぜ」、「・・・ な」、「・・・さ」等々といじりまわすことの謂いであってはならぬはずだ。
〇	米川正夫訳「<…> われわれカラマーゾフ一統はみんなこういう人間だ。おまえのような天使の中にもこの虫けらが巣食っていて、おまえの血の中に嵐をひき起こすんだ！まったくこれは嵐だ。実際、情欲は嵐だ。いや、嵐以上だ。 <…>」（124）
〇	原卓也訳「<…> 俺たち、カラマーゾフ家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、この虫けらが住みついて、血の中に嵐をまき起こすんだよ。これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以上だよ！ <…>」（128）
〇	江川卓訳「<…> カラマーゾフ一族はみんなそうなんだ、天使みたいなおまえの身内にも、この虫けらが住んでいて、おまえの血の中で嵐をまき起すんだ。これは嵐だよ、なぜって情欲っていうやつは嵐だもの、いや、嵐以上だもの！ <…>」（136）

ﾃｷｽﾄ	<...>　Нет, широк человек, слишком даже широк, я бы сузил.  <...>
新訳287p	<…> いやあ、人間って広い、広すぎるくらいだ。だからおれはちっちゃくしてやりたい。 <…>
コメント	「狭くする」という第一義を持つ動詞“сузить スゥーズィチ”には「縮小する」という意味も確かにある。しかし、ここでミーチャが“сузить　スゥーズィチ”したいと言っているのは人間の“широкость　シローカスチ（広さ）” である。「広さ」を「小さくする」というのは日本語としても明らかにおかしい。「小さくする」対象は「大きさ」であって、「広さ」の方は「狭くする」乃至「狭める」であろう。ここの“сузить スゥーズィチ”はその第一義である「狭くしたい、狭めたい」と解して訳すべきだ。 　 余談になるが、ソ連映画『カラマーゾフの兄弟』（イワン・プィリエフ監督）でミーチャを名演したミハイル・ウリヤーノフによる当該個所の台詞回しは絶品で ある（映画シナリオでもこの台詞は一字一句そのまま使用されている）。何度聴いても惚れ惚れとしてしまう。あの極めて表現力豊かな台詞回しに思いを致せ ば、「ちっちゃくしたい」という訳語など考えも及ばぬ。
〇	米川正夫訳「いや、じつに人間の心は広い、あまりに広すぎるくらいだ。おれはできることなら少し縮めてみたいよ」（124）
〇	原卓也訳「いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ。俺ならもっと縮めたいね」（128）
〇	江川卓訳「<…> いや、人間の心は広いよ、あまりに広すぎるくらいだよ、おれは狭めたいくらいだ。 <…>」（137）
		IV. Исподель горячего сердца. В анекдотах　４　熱い心の告白 ―― 一口話の形で
ﾃｷｽﾄ		<...> но я всегда переулочки любил, глухие и темные закоулочки, за площадью, — там приключения, там неожиданности, там самородки в грязи. Я, брат, аллегорически говорю. <...>
新訳289p		<…> でもな、おれが好きだったのは、いつも裏町だったんだ。広場の奥のひっそりして暗い路地裏さ――ああいうところには、とんでもないアバンチュールがひそんでるものだ、掃きだめに鶴だよ。おれはな、アリョーシャ、比喩的に言っている。 <…>
コメント		「掃きだめに鶴」という訳語は大いに疑問である。これは「その場所には相応しくないほど立派な人物がいる」という意味で、およそ文脈にそぐわない。そのため、ここで読者は虚をつかれ、読書の“流れ”は中断される。下線部分の原義は「泥の中の金の塊」なので、字面だけ眺めると『けだし名訳ではないか。なぜ駄目なのだ？』という気がするかもしれない。しかし、ここでミーチャは、過去の放蕩生活において自分がいかに “переулок ペレウーラク（新訳の訳語は「裏町、路地裏」）” を愛したかということを語っているのであり、彼が口にしている “самородки サマロートキィ（= 塊金、天然鉱）” には普遍妥当性を持った肯定的な意味合いはなく、むしろ世間の目には背徳的と映るものをミーチャは敢えてこのような比喩で表現しているのだ。曰く―「路地裏にはアバンチュールがある、思いもよらぬことが起こる、泥の中に混じりっけのない天然の金を見つけるような悦びがある」と。このような文脈へ唐突に「掃きだめに鶴」が飛び込んできては、言葉の自然な“流れ”も何もあったものではない。「おい、通訳さん、俺はおよそそんなつもりで言ったんじゃないぜ！」というミーチャの抗議の声さえ聞こえてきそうである。
〇		米川正夫訳「しかし、おれはいつも露地の奥が好きだった。広場の裏にある、暗い、陰気な曲がりくねった裏通りが好きだった、―そこには冒険がある。そこには意外な出来事がある。そこにはどろの中に隠れた荒金がある」（125）
〇		原卓也訳「でも、俺はいつも裏街が好きだった。広場の奥の、ひっそりとした暗い横町がさーそこには冒険が、思いがけぬ楽しみがある。泥濘の中に天然の宝がひそんでいるからな　」（129）
〇		江川卓訳「<…> だが、おれはいつも裏街のほうが好きだった。広場の向こうの、うす暗く、さびしい路地――そこにこそ冒険があり、そこにこそ思いもかけない掘出物が、泥にまみれた純金があるんだ。いいかい、これは比喩だぜ。 <…>」（137〜138）

ﾃｷｽﾄ	<...> Тетка — бессловесная простота, а племянница, старшая дочь подполковника,— бойкая простота.  <...>
新訳294p	<…> この叔母さんというのが無口なおばかさんで、姪のほう、つまり中佐の長女のほうは、これが元気のいいおばかさんだったのさ。 <…>
コメント	下線部ロシア語 “простота プラスタター” を露和辞典で引くと、「≪旧≫愚かさ、愚鈍さ」という語義も確かに載っており、“Простота хуже воровства プラスタター・フージェ・ヴァラフストヴァー（ばかはどろぼうより始末が悪い）.” という諺が例文として挙げられている。しかし、ここで、アガーフィヤとその叔母について「おばかさん」 という訳語を採用したのはいかがなものか？　「さん」付きとは言え、「ばか」の第一義はやはり否定的な評価である。それが親愛の表現となったり、肯定的な ニュアンスを獲得したりするためにはかなりの付帯条件を必要とする。アリョーシャへの告白の中でミーチャにアガーフィヤとその叔母のことを「おばかさん」 と呼ばせて、二人に対する親愛の情が感じられるとはとても思えない。ミーチャの告白を聞くかぎり、彼はアガーフィアを見下しているどころか、「あの娘ほど 気だてのいい娘には一度もお目にかかったためしがない」と最大限の賛辞すら述べている。このような文脈に照らすならば、やはり他の訳語を探すべきところ だ。多少なりとも「愚かさ、愚鈍さ」を含意させたいのであれば、せめて「お人好し」程度の訳語に止めておくべきだろう。
〇	米川正夫訳「この伯母さんは無口で素朴なたちだったが、姪のほう、つまり中佐の姉娘のほうは、はきはきして素朴な人だった。」（127）
〇	原卓也訳「叔母さんというのは、口数の少ない素朴な人だったし、姪、つまり中佐の姉娘はきびきびした素朴な娘だった」（131）
〇	江川卓訳「<…> その叔母のほうは口数の少ない純朴な人だったが、姪のほう、つまり中佐の長女は、同じ純朴でもはきはきした娘だった。 <…>」（）

ﾃｷｽﾄ	<...> Да и недурна она вовсе была, в русском вкусе — высокая, дебелая, полнотелая, с глазами прекрасными, лицо, положим, грубоватое. <...>
新訳294p	<…> ほんとうにいい娘だった。それがロシア風でさ。背が高くて、でんとしてて、肉づきがよくって、すばらしい目をしていて、顔のほうは、そうだな、ちょっとざつではあったがな。 <…>
コメント	「ざつな顔」とはどういう顔のことだろう？　顔の形容としてはあまりにも破格ではないか？　原文が顔の形容であれば、あくまでもそれに相応しい訳語を充てねばならぬし、それが難しいような個所でもない。原文の意味は「顔は、そう、ちっとばかしお品がなかったな」である。
〇	米川正夫訳「それに顔もロシヤ趣味で悪いほうじゃなかった、−　せいの高い、よくふとった、目つきのいい女で、顔こそ少し下品だったかもしらんが、なかなかいい目をしていたよ」（127）
〇	原卓也訳「でも、器量はいかにもロシア風で、なかなかわるくなかったし、背が高く、むっちりと肉づきがよくって、顔はまあいくらかぎすぎすしていたものの、目が実にきれいなんだ」（131）
〇	江川卓訳「<…> それにけっして器量が悪いわけでもなかった、背が高くて、体格がよくて、むっちりしていてさ、顔は、まあ、いくぶん品がなかったが、 <…>」（140）

ﾃｷｽﾄ	<...> Подполковник же, тот — куда!  <...>
新訳295p	<…> で、中佐のほうだが、これがとんでもない食わせものなのさ。 <…>
コメント	下線部ロシア語“куда!　クゥダー！”を「とんでもない食わせものなのさ」と訳したのは間違い。件の章を読めばわかるとおり、中佐は「食わせもの（表面はさりげなく見せて、実は油断のならない者）」などではない。ここの“куда　クゥダー！”は助詞で、口語的に「……なんてとんでもない、……どころではない」という意味合いで用いられている。「中佐は（へりくだって謙虚に生活しているアガーフィヤとその叔母）どころではない、（むしろその対極に位するような人間である）」、即ち「中佐は二人とは似ても似つかない！」という意味である。
	米川正夫訳「中佐のほうにいたっては、なかなかそんなことはない！」（127）
	原卓也訳「ところで、当の中佐となると、大違いさ！」（132）
	江川卓訳「ところが中佐のほうは、まるでちがった！」（140）

ﾃｷｽﾄ	<...> И однако, когда приехала институтка (погостить, а не навсегда), весь городишко у нас точно обновился, самые знатные наши дамы — две превосходительные, одна полковница, да и все, все за ними, тотчас же приняли участие, расхватали ее, веселить начали, царица балов, пикников, живые картины состряпали в пользу каких-то гувернанток. <...>
新訳295〜296p	<…> そ れでも、女学校出の彼女がやってくると（ほんのちょっと里帰りしただけのことで、すっかり居ついたわけじゃなかった）、町全体がすっかり若返ったみたい で、町でも名門の奥さん連中は、といっても将軍夫人が二人に大佐夫人が一人、つづいてみんなが彼女を褒めそやして、ご機嫌とりにかかったんだ。となるとも う、舞踏会でもピクニックでも女王さまだし、どこぞの家庭教師を助けるために活人画の催しまでやってのけるありさまだった。 <…>
コメント	原文を誤読したわけでもなかろうが、「やってのける」などという不適切極まりない訳語を採用しため、新訳はあたかも活人画を開催したのがカテリーナであるかのような印象を与えかねぬものになってしまっている。活人画を開催したのはカテリーナをちやほやしている町の上流の奥方たちである。「活人画の催しまでやってのける」を「活人画まで開催される」に改めれば、少なくとも読者の誤読を誘発する危険性はぐっと小さくなるだろう。
〇	米 川正夫訳「しかし、その令嬢が帰ってきたとき（ただし永久にというわけではなく、ほんの当分逗留して行くつもりだったのだ）、町じゅうはまるで面目を一新 したようなぐあいだった。第一流の貴婦人たち　―　将軍夫人がふたりに大佐夫人がひとり、さっそくそのあとについてねこもしゃくしも動きだした。どうかし て令嬢をたのしませようというので、四方から引っ張りだこにするさわぎで、令嬢はたちまち舞踏会やピクニックの女王となってしまった。何か家庭教師の扶助 だとかいって、活人画の催しまであった」（128）
〇	原 卓也訳「ところで、いよいよその女学校出がやってくるや（といっても、すっかり帰ってきたわけじゃなく、遊びにきただけなんだが）、町全体がすっかり面目 を一新したようになって、いちばんの上流夫人である、将軍夫人ふたりと、大佐夫人ひとりをはじめ、みながそれにつづいてすぐに仲間入りして、彼女をちやほ やし、楽しませにかかって、舞踏会だのピクニックだのの女王にまつりあげ、お付きの家庭教師か何かのためには活人画なんぞ催してやる始末さ」（132）
〇	江川卓訳「<…> そ れはそうと、いよいよその女学院出がやってくると（しばらく滞在するだけで、ずっと住みつくわけじゃなかった）、町じゅうがまったく面目を一新した感が あった。町でも一番名流のご婦人、つまり、将軍夫人が二人と大佐夫人一人が先頭を切ると、それにつづいて、だれもかれもが、たちまち彼女にご執心で、引っ ぱりだこでご機嫌をとり結ぶんだ。彼女は舞踏会やピクニックの女王におさまって、婦人家庭教師救済の名目で活人画の会まで催される騒ぎだった。 <…>」（141）

ﾃｷｽﾄ	<...> и вот крест кладу: я на эту глядел тогда секунды три или пять со страшною ненавистью, — с тою самою ненавистью, от которой до любви, до безумнейшей любви — один волосок! <...>
新訳305p	<…> だが、誓ってもいい。おれはあのとき三秒から五秒ぐらい、恐ろしい憎しみをかんじながら相手をにらんでいた。そう、恋なんだ、気がくるうほどのはげしい恋と、紙一重の憎しみを感じながらだ！ <…>
コメント	誤訳ではないが、見せかけの自然さに囚われるあまり、訳文が徒に装飾過剰（「そう、恋なんだ」）となり、他方ごく自然な語順や語尾への然るべき配慮がなさ れなかったため、ミーチャの語りの“流れ”と“リズム”がそこなわれてしまっている。僭越ながら、新訳の文体の埒内で、原文の“流れ”と“リズム”を可能 な限り伝えるべく、添削を試みると次のようになる。 　「だが、誓ってもいい。おれはあのとき三秒から五秒ぐらい、相手をにらんでいた、恐ろしい憎しみをかんじながらな、恋と、気がくるうほどのはげしい恋と、紙一重の憎しみを感じながらだ！」
〇	米川正夫訳「―ところでそのときばかりは、あのひとを三秒か五秒ほどの間、恐ろしい憎悪をいだきながら見つめていた。まったくだ。誓ってもいいよ。しかし、その憎悪こそは恋―それこそ気ちがいじみた恋と、わずか間一髪を隔てたようなものだった！」（132）
〇	原卓也訳「ところが、誓ってもいい、あのとき俺は彼女を三秒か五秒の間、おそろしい憎しみをこめて見つめていたんだよ。恋と、それも気の狂うほどの恋と髪一筋で隔たっているだけの憎しみをこめてな！」（136）
〇	江川卓訳「<…> 誓ってもいい、このときばかりは、三秒か五秒の間、おれは恐ろしいばかりの憎悪の目で彼女をねめつけていたものさ。もっともその憎悪と恋とは、それも狂気そのもののような恋とは、ほんとうに紙一重の差だったんだがな！ <…>」（145）

	V. Исподель горячего сердца. "Вверх пятами"　５　熱い心の告白 ―― 「まっさかさま」
ﾃｷｽﾄ	<...> Сотрясенная старуха Кате обрадовалась, как родной дочери, как звезде спасения, накинулась на нее <...>
新訳309p	<…> で、茫然自失した未亡人は、カテリーナが戻ってきたのを、生みの親のように喜んだわけだ。救いの星だったんだな。で、彼女に飛びつかんばかりに、 <…>
コメント	下線部原文の直訳は「実の娘のように」であるのに、新訳の方では「生みの親のように」 と、まったく意味が違ってしまっている。しかし、これはこれで主語（将軍夫人）の形容と読めるから、一応意味は通じる。しかし、逐語訳でも目的語（カテ リーナ）の形容として十分に意味が通じ、しかもそれが自然でさえあるのに、何故このような改作”を敢えてするのであろうか？
〇	米川正夫訳「取り乱して前後を失った夫人は、親身の娘かなんぞのように、カーチャの上京を喜んで、まるで救いの星でも見つけたように、飛びかかったのさ」（134）
〇	原卓也訳「すっかりショックを受けた老夫人は、カテリーナを救いの星のように、実の娘のように喜んで迎え、とびつかんばかりにして、＜…＞」（　）
〇	江川卓訳「<…> たいへんなショックを受けた婆さんは、カーチャを見ると、それこそ実の娘に、救いの星にめぐり合ったような喜びようでさ、さっそく飛びつかんばかりにして、 <…>」（147）

ﾃｷｽﾄ	<...> Тогда я тотчас же написал ответ (я никак не мог сам приехать в Москву). Слезами писал его; одного стыжусь вечно: упомянул, что она теперь богатая и с приданым, а я только нищий бурбон — про деньги упомянул! Я бы должен был это перенести, да с пера сорвалось. <...>
新訳311p	<…> で、おれはすぐに返事を書いた（おれとしてはどうしてもモスクワに行けなかった）。涙ながらに書いたのさ。おれはあることを永久に恥ずかしく思っている、とね。つまり、あなたは持参金付きの金持ちだが、おれはたんに成りあがりの貧乏士官にすぎない。そう、金のことを書いたんだ！ <…>
コメント	下線部原文の意味は「永久に恥ずかしく思っていることがひとつある」であり、次のコロン（：）以下に一体何を恥ずかしく思っているかの説明（「彼女は今や 金持ちで持参金付きの娘だが、俺は素寒貧の叩き上げ士官に過ぎないなんて書いちまった、金のことに触れちまったんだよ！」）が続く構文だ。新訳では、あろ うことか、「あることを永久に恥ずかしく思っている」 ということをカテリーナ宛の手紙に書いたことになってしまっている。直前のセミコロン（；）で一旦意味が区切られていることが見落とされたのだ。このよう に、セミコロンとコロンを相次いで誤読した結果として、引用部の訳文全体がおよそわけのわからないものになってしまっている。
〇	米 川正夫訳「そのときおれはすぐ返事を書いた（どうしても自分でモスクワへ出向くわけにはいかなかったのだ）。おれは涙ながらにその返事を書いた。ただ一 つ、いつまでも恥ずかしいと思うことがある。ほかでもない、その手紙に、あなたはいま金持ちで持参金つきの花嫁さんなのに、わたしは一介の貧乏士官だと書 いたのだ」（134）
〇	原卓也訳「俺はすぐ彼女に返事を書いた。どうしても自分でモスクワへ行くことはできなかったんだ。涙ながらに手紙を書いたよ。ただ一つ、永久に恥じていることがある。つまり、彼女は今や持参金の裕福な身なのに、俺は乞食同然のがさつ者だなんて、書いたんだよ」（138）
〇	江川卓訳「<…> お れはすぐさま彼女に返事を書いた（どうしても自分でモスクワへ行くわけにはいかなかったんだ）。その手紙は涙ながらに書いたよ。ひとつだけ、永久に恥ずか しくてならないのは、彼女はいまや持参金つきの大金持ちだが、おれは乞食も同然の成りあがり者でしかないなんて書いたことだ、金のことなんか口に出したこ とだ！ <…>」（148）

ﾃｷｽﾄ	<...> В том и трагедия, что я знаю это наверно.  Что в том, что человек капельку декламирует?  Разве я  не декламирую? 　А ведь искренен же я, искренен.<...>
新訳312p	<…> 要するに悲劇っていうのは、おれがそのことを正確にわかっているっていうところにあるのさ。人がちょっとばかり熱弁をふるったからといって、なんだというんだ。おれは本当に熱弁をふるっていないか？　だって、おれは真剣なんだぞ、ほんとうに真剣なのさ。 <…>
コメント	最初の二つの下線部のロシア語動詞“декламировать デクラミィーラヴァチ”の 元々の語義は「あたかも芝居におけるかのように、思い入れたっぷりに、話すこと（或は読むこと）」であり、現代ロシア語における第一義は「朗読する」であ る。それが転じて文字どおりの朗読ではなく「（あたかも朗読でもするかのように）熱弁をふるう」という意味でも用いられる。その限りでは、この動詞を「熱弁をふるう」と訳すことを間違いとは言えない。しかし、「熱弁をふるう」という日本語は“декламировать デクラミィーラヴァチ”という動詞の転義としてふつうの露和辞典に載っている言葉の一字一句そのままの借用で、これを何の咀嚼もせずに文学作品の訳語として用いるのはどうにも頂けない。この動詞はミーチャの人となりを如実に表す体のものなのである。アリョーシャへの告白をシラーの詩の “朗誦” から始め、カテリーナとの馴れ初めを “ドラマ” と位置づけ、彼女との今後の関係を “悲劇” と定義づけるミーチャは、あたかも役者のように終始思い入れたっぷりに話しているのだ。同時にミーチャはおのれのこの感激性を自覚してもいる。このようなミーチャの言葉は “悪魔のように細心に、天使のように大胆に” 訳さねばならない。ミーチャの言葉が持つニュアンスを最大限に活かしながら引用部前半を訳すとすれば、「そこに悲劇があるんだ、俺がそれをちゃんとわかってるってことにな。人がちっとばかり芝居掛かった言い方するからなんだってんだ。ぶっちゃけた話、今の俺は芝居掛かってやしないか？」といったところになろう。 　それから最後の下線部“А ведь ア・ヴェチ”を「だって」と訳しているのは間違いである。ここの“А ア”は逆説の接続詞で、“ведь ヴェチ” はその直後の形容詞“искренен イースクリェニェン（誠実な、正直な、真心のある）” を強調する助詞だ。形容詞“искренен イースクリェニェン” は後続の助詞 “же ジェ” によって更に強調されている。従い、引用部後半の訳は「でもな、本当に真面目なんだ俺は、真面目なんだよ」といったところに落ち着くであろう。
〇	米川正夫訳「おれはそれをちゃんと知っている。そして、この中に悲劇がふくまれるのだ。しかし、人間が少しばかり演説めいた口のきき方をしたって、いったいどこが悪いのだ？たしかのおれは演説口調でしゃべっただろうよ？しかし、おれは真剣なのだ、まったく真剣なのだ」（135）
〇	原卓也訳「それをちゃんと承知している点に、悲劇もあるわけさ。人間がちょっとばかり演説口調で話したからというって、それがどうだっていうんだい？ほんとうに俺は演説口調じゃないかね？でもおれは真剣なんだ、真剣だとも」（139）
〇	江川卓訳「<…> そして、おれがそれを確実に知っているという点にこそ、悲劇はひそんでいるんだ。人がちょっぴり演説口調になったからって、なんてことはないだろう？　確かにおれは演説口調だろう？ しかし、おれは真剣なんだ、真剣なんだぜ。<…>」（149）

ﾃｷｽﾄ	<...> Ну, слова-то были и гордые.  <...>
新訳314p	<…> そう、言葉は自信に満ちていたよ。 <…>
コメント	“ и … イ（……も）” のニュアンスがまったく訳されていないため、ミーチャの言葉がはなはだ平板なものになってしまっている（当該個所のみならず、新訳全体において、この種の “ и …” に対する無頓着さは一驚に値する）。「いや、言葉は（同時に）高慢でもあった」というのが原文の本来の意味だ。
〇	米川正夫訳「いや、言葉はおごそかなものだったよ」（136）
〇	原卓也訳「いや、言葉は自信たっぷりなものだったがね」（140）
〇	江川卓訳「<…> いや、言の葉のほうにはなかなか傲慢な感じもあったな。 <…>」（150）

ﾃｷｽﾄ	<...> Пошел я бить ее, да у ней и остался.  <...>
新訳317p	<…> で、一発ぶんなぐるために出かけていって、そのままそこに泊り込んじまった。 <…>
コメント	“そのまま彼女のところに残った”というのが下線部ロシア語の直訳である。その限りでは「泊まりこんじまった」も間違いではない。しかし、日本語としては読者の誤読を誘発しかねぬ危険が多き過ぎる。この時点でミーチャは「泊まりこんじまう」どころか、その希望さえ全く与えられていない。文字どおりではなく、「離れなれなくなっちまった」とか「忘れられなくなっちまった」など、転義での訳語を考案する必要があろう。
〇	米川正夫訳「おれはぶんなぐりに出かけたが、そのまま女の家にみ輿をすえてしまった」（137）
〇	原卓也訳「俺はあの女をぶん殴りに行って、そのままあいつの家に尻を落ちつけてちまったんだ」（141）
〇	江川卓訳「<…> ところがおれはあいつをぶん殴りに出かけて行って、そのまま居坐っちまったのさ。 <…>」（151）

ﾃｷｽﾄ	<...> Говорит: «Хочешь, выйду замуж, ведь ты нищий. <...>
新訳317　〜318p	<…> 『お望みなら結婚してあげてもいいわ、だってあんたは乞食同然だもの。 <…>
コメント	ロシア語の接続詞“ведь ヴェチ”には「だって」の意味もあるが、ここでは「……なのに、……にもかかわらず」という逆接の意で用いられている。従い、引用文は「（グルーシェンカは）言いやがる、―“お望みなら、あんたのところにお嫁に行ってあげるわ、あんたは貧乏ではあるけどね” とな」という意味である。文脈に照らしても、「だって」ではまるで体をなさない。馴れ初めからモークロエでの真の邂逅に至るミーチャとグルーシェンカの関係が正しく理解されておれば、このような誤訳はあり得ない。
〇	米川正夫訳「<…>『お望みならお嫁にいきましょうが、だってあんたはこじき同様の身分じゃなくって。』」<…>（137）
〇	原卓也訳「<…>『お望みなら、結婚してあげるわ、あなたは素貧漢だけど<…>』」（　）
〇	江川卓訳「<…> 『なんならお嫁に行ってもいいわよ。そりゃああんたは乞食も同然だけどさ。　<…>」（151）

ﾃｷｽﾄ	<...> теперь, на днях только, всего только, может быть, вчера, он в первый раз узнал серьезно (подчеркни: серьезно), что Грушенька-то в самом деле, может быть, не шутит и за меня замуж захочет прыгнуть. <...>
新訳323p	<…> いまというか、つい最近、ひょっとしたら昨日のことかもしれないんだが、やつははじめて本気で考えはじめたんだ（本気ってところに気をつけろよ）。つまり、グルーシェニカがひょっとすると冗談ぬきで自分の頭ごしに、おれと結婚する気になるかもしれないってな。 <…>
コメント	“узнать ウズナーチ”という動詞の語義は「知る、情報を得る」なので、下線部の直訳は「あいつは初めて知ったんだ」となる。一体どうして「考えはじめた」などという訳語が導き出されたのだろうか？
〇	米川正夫訳「<…>おやじはグルーシェンカがほんとうに冗談を抜きにして、おれと結婚するかも知れないってことを、初めて本気になって（『本気になって』というのに気をつけてくれ）かぎだしたのさ<…>」（139）
〇	原卓也訳「<…>親父ははじめて、グルーシェニカがことによると本当に、冗談ではなく俺と結婚する気になるかもしれないってことを、本気で（本気で、というところが大事なんだぜ）嗅ぎつけたんだよ」（144）
〇	江川卓訳「<…> 親父ははじめて本気に（本気にというところ強調するよ）嗅ぎつけたんだな、 <…>」（153）

ﾃｷｽﾄ	<...>дал он ей знать, а та знать дала, что «может-де и приду». <...>
新訳324p	<…> 彼女にそのことを知らせたら、彼女は『たぶんうかがいます』ってな返事を寄こしてきたらしい。 <…>
コメント	“может-де　モージェット‐ジェ”の意味は「たぶん」ではなく「もしかしたら」だ。「もしかしたら行くかもしれない」が下線部の直訳であり、新訳とはまったく意味が異なる。原因不明の誤訳。
〇	米川正夫訳「<…>『もしかしたら行くかも知れない』と返事したそうだ<…>」（140）
〇	原卓也訳「彼女に連絡したら、先方も『行くかも知れない』と連絡してきたそうだからな<…>」（　）
〇	江川卓訳「<…> 『もしかしたら、行くかもしれないわ』 <…>」（154）

ﾃｷｽﾄ	— Нет, сегодня она не придет, есть приметы. Наверно не придет! — крикнул вдруг Митя. — Так и Смердяков полагает.  <…>
新訳325p	「いや、今日は来ない。思い当たるふしがある。だから、たぶん来ない！」ドミートリーはふいに叫んだ。「スメルジャコフもそのつもりだ。<…>
コメント	まず第一の下線部は副詞“наверно ナヴェールナ”の19世紀における用例、特にドストエフスキーの作品における用例に通じていないことに起因する誤訳である。現代ロシア語でこそ、この語は「おそらく、たぶん」の意味だが、かつては「きっと、確かに」の意味で用いられていた。 　次の下線部も誤訳で、これは 《たぶん》 誤読によるものではなく、推敲不足のために原文の意味とはまるで違った意味を伝えるものとなってしまったのであろう。原文の意味は「スメルジャコフもそのつもりだ（Так и Смердяков намерен ターク・イ・スメルジャコーフ・ナミェーレン）」などではない、「スメルジャコフもそう考えている」である。現代日本語がいかに乱れているとしても、この二つの文意の違いは明白なはずだ。
〇	米川正夫訳「いや今日は来ないよ。ちゃんとそういう前兆があるんだ。きっと来やしない！<…>スメルジャコフもそう思ってるよ」（140）
〇	原卓也訳「いや彼女は今日は来ないよ、思い当たる節があるんだ。きっと来ないとも！<…>」スメルジャコフもそう見てるしな」（145）
〇	江川卓訳「まず確実に来ないな！ <…> スメルジャコフもそう見ている」（154）

	VI. Смердяков　６　スメルジャコフ
ﾃｷｽﾄ	<...> Эта зала была самая большая в доме комната, с какою-то старинною претензией меблированная. <...>
新訳328p	<…> 屋敷ではこの客間がいちばん広い部屋で、見せかけばかりの古い家具が据えつけられてあった。 <…>
コメント	「見せかけばかりの古い家具が据えつけられた」では日本語としておかしい。原義は「どこか古めかしく装った家具を備えた」である。
〇	米川正夫訳「<…>これは家じゅうで一ばん大きな部屋で、見せかけだけ古代ものの家具が飾ってあった<…>」（142）
〇	原卓也訳「広間は家じゅうでいちばん大きな部屋で、なにやら思わせぶりな古めかしい調度を配してあった<…>」（146）
〇	江川卓訳「<…> この広間は家でいちばん大きな部屋で、妙に古めかしく見せた家具が備えられていた。 <…>」（156）

ﾃｷｽﾄ	— Таракан, что ли? — спросит, бывало, Григорий. — Муха, может,— заметит Марфа.
新訳335p	「油虫でも入っていたか？」グリゴーリーはなんども訊ねた。 「蠅でしょう、きっと」マルファは答える。
コメント	二つの下線部の本来の意味は、それぞれ「しばしばグリゴーリーは尋ねたものだった」、「（グリゴーリーの問い掛け応じるかのように）マルファは自分の考えを述べたものだった」である。この解釈以外にはあり得ず、どの露和辞典を覗いてみても、「бывало ブィヴァーラ: бывать ブィヴァーチの過去・中性。−<助詞> 《口》」として、 「よく……したものだ」 という意味がちゃんと掲載されている。「なんども訊ねた」という訳ではこの意味にはならない。
〇	米川正夫訳「油虫でもいるのか？」とグリゴーリイがきく。 「きっとはえでしょう」とマルファが口をいれる。（145）
〇	原卓也訳「油虫でも入っているのかい？」よくグリゴーリイはきいてみた。 「蝿じゃないかね」マルファが注意する（149）
〇	江川卓訳「ごきぶりか？」グリゴーリイがたずねる。 　　　　　　「蠅じゃないのかえ」とマルファが口をはさむ。（159）

ﾃｷｽﾄ	<...> Надо прибавить, что не только в честности его он был уверен, но почему-то даже и любил его, хотя малый и на него глядел так же косо, как и на других, и всё молчал. <...>
新訳338p	<…> さらに付けくわえておくと、フョードルはたんに彼の正直さを信じきっていたばかりか、なぜか彼を愛してもいたのだった。そのくせ相手は、まだひよっ子ながら、他人同様に彼を横目でにらみ、ずっと黙りこくっていた。 <…>
コメント	新訳ではスメルジャコフはフョードルを含めた他人を「横目でにらんでいた」ことになっているが、 原義は「うさんくさそうに見ていた」であり、読者に与える印象はかなり違うはずだ。些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。
〇	米川正夫訳「断っておかねばならぬのは、フョードルは単に彼の正直なことを信じていたのみならず、なぜかこの青年が好きなのであった。そのくせ、若い料理人は彼にたいしてもほかの者と同様に、不気味な横目づかいばかりして、しじゅうむっつりしていた」（146）
〇	原卓也訳「<…>フョードルは彼の正直さを信じていただけではなく、なぜか目をかけてさえいたのだけど、そのくせ青年のほうでｊは、ほかの者に対するのと同じように冷ややかに相手を眺め、いつも黙りこくっていた」（150）
〇	江川卓訳「<…> つけ加えておかなければならないが、フョードルは彼の正直さを信じていただけでなく、この青年が自分のことも、他の人たちに対すると同様、白い目で見ていて、いつも黙りこくっていたにもかかわらず、 <…>」（160）

ﾃｷｽﾄ	<...> А между тем он иногда в доме же, аль хоть на дворе, или на улице, случалось, останавливался, задумывался и стоял так по десятку даже минут. Физиономист, вглядевшись в него, сказал бы, что тут ни думы, ни мысли нет, а так какое-то созерцание. <...>
新訳339p	<…> ところで、彼はしばしば家のなかで、あるいは中庭や通りの真ん中でふと立ちどまり、何か考えごとをしながら十分ちかくも立ちつくしていることがあった。かりに人相学者がそんな彼の顔をのぞきこんだら、物思いも考えごとも彼はしていない、なにか瞑想にふけっているだけだと答えたことだろう。 <…>
コメント	下線を施した語は、新訳ではそれぞれ「何か考えごとをする」、「物思い」、「考えごと」、「瞑想にふける」と訳出されている。いずれもさして変り映えのしない訳語ばかりで、十分な訳し分けがなされていないため、首を傾げる読者も少なくなかろう。読者のことを考えて、もう少し注意深く訳し分けるべきである。。
〇	米 川正夫訳「彼はどうかすると、家の中でも庭の上でも、または往来のまん中でも、ふいと立ちどまって、何やら考えこみながら、十分くらいも立ちすくんでいる ことがよくあった。もし人相学者が彼の顔をじっと観察したならば、今この男の心中には想念もなければ思想もなく、ただ何か一種の瞑想ともいうべきものがあ るばかりだ、こう言うに相違ない」（146）
〇	原卓也訳「ところが実際、彼はときおり家の中や、あるいは庭や往来でさえも、たちどまって、物思いに沈み、十分くらいそのままたたずんでいることがあった。人相見なら、彼を見つめて、ここには思索も思考もなく、ただ一種の瞑想があるだけだ、と言うことだろう」（150）
〇	江川卓訳「<…> と ころで、彼はどうかすると家のなかでも、でないまでも、庭先や往来で、ふいと立ちどまってもの思いに沈み、かれこれ十分間もじっとたたずんだままでいるこ とがあった。観想家なら、そういう彼の様子を見やって、この男の脳裏にはなんの思念も思考もあるわけではなく、あるのはただ一種の観照だけだということだ ろう。 <…>」（161）

	Контроверза　７　論争
ﾃｷｽﾄ	— Ты чего? — спросил Федор Павлович, мигом заметив усмешку и поняв, конечно, что относится она к Григорию. <...>
新訳341p	「なんだいそれは？」　その薄笑いにすぐに気づき、しかもその笑いがグリゴーリーをあてこすったものとみて、フョードルが訊ねた。 <…>
コメント	「グリゴーリーをあてこすったもの」という訳語は、わたしの日本語感覚に照らせば、非常に奇異に映るが、いかがであろうか？　原文は「グリゴーリーに向けられたもの」 という極めてニュートラルな表現である。「あてこすり」とは「他の事にかこつけて、それとなくわかるように悪口や皮肉を言う」という意味で、それはあくま でも言語による行為であり、それが「笑い」にまで敷衍されるのは不自然ではなかろうか？　それとも現代日本語の慣例としては、このような敷衍も最早まった く不自然ではないのか？
〇	米川正夫訳「この笑いは、当然、グリゴーリイに向けられたものだと悟って」（148）
〇	原卓也訳「それがグリゴーリイに向けられたものであることをもちろんさとって」（152）
〇	江川卓訳「すかさずその薄笑いを見とがめ、むろん、これはグリゴーリイのことを笑ったのだなと承知して」（162）

	VIII. За конячком　８　コニャックを飲みながら
ﾃｷｽﾄ	<...> — То-то, брат, вот этакая валаамова ослица думает, думает, да и черт знает про себя там до чего додумается. <...>
新訳354p	<…> 「そうなんだ、イワン、あのバラムのロバが、あれこれ物事を考えているとはな。でもまあ、どこまでちゃんと考え抜いているかは、知れたもんじゃないさ。 <…>
コメント	下線部分の原義は「（バラムのロバが考えて考えて）一体どんなことまで考えつくか、知れたものではない」である。ニュアンスの違いは明白であろう。誤訳。
〇	米川正夫訳「ほんとうにどんなところまで考えつくか知れやせんぜ」（153）
〇	原卓也訳「ついにはどこまで考えぬくか、わからんな」（157）
〇	江川卓訳「腹のなかでいったい何を考えつくか知れたもんじゃないからな」（168）

ﾃｷｽﾄ	— Иван, Иван! Скорей ему воды. Это как она, точь-в-точь как она, как тогда его мать! Вспрысни его изо рта водой, я так с той делал. Это он за мать свою, за мать свою... — бормотал он Ивану.
新訳370p	「イワン、イワン、早く水をのませてやれ。まるで母親だ、母親と瓜二つだ。あの時の母親と同じだ！口で水をふっかけてやれ、おれもあれにもそうしてやった。こいつは自分の母親のために、母親のために・・・・」彼はしどろもどろになってイワンにつぶやいた。
コメント	下線部分の逐語訳は「早くこいつに水を！」で、具体的な文脈から切り離して考えれば新訳の「早く水をのませてやれ」は必ずしも間違いではないが、この文脈では完全な間違いだ。後続のフョードルの言葉に、かつてアリョーシャの母に同様の発作が起った際、まず自分で口に水を含んで彼女に吹きかけてやっていたとあるとおり、フョードルが「早くこいつに水を！」とイワンを促したのがアリョーシャに水を飲ませるためではなかったことは明らかだ。ケアレスミス。
〇	米川正夫訳「早よう水を持って来てくれ」（160）
〇	原卓也訳「早く水をやれ」（164）
〇	江川卓訳「早く水をやれ」（175）

	IX. Сладострастники　９　女好きな男ども
ﾃｷｽﾄ	<...> Алеша, милый, единственный сын мой, <...>
新訳379p	<…> アリョーシャ、いいか、ほんとうのひとり息子よ <…>
コメント	下線部の新訳「ほんとうのひとり息子よ」は完全な逐語訳。間違いではないが、日本語としては不自然極まりない。せめて「アリョーシャ、愛しいやつ、わしが息子と思えるのはお前だけだよ」という程度の自然な会話体に意訳すべきところである。このような個所で遮二無二逐語訳をして、原文に貞節を尽くす意味など何もない。
〇	米川正夫訳「<…> アリョーシャ（おまえはわしのたったひとりの子供だ） <…>」（164）
〇	原卓也訳「<…> アリョーシャ、お前だけだよ、俺の息子は <…>」（168）
〇	江川卓訳「<…> アリョーシャ、おれのたった一人のかわいい子 <…>」（179）

ﾃｷｽﾄ	<...> Образок-то, божией-то матери, вот про который я давеча рассказал, возьми уж себе, унеси с собой. 　И в монастырь воротиться позволяю... давеча пошутил, не сердись.　<...>
新訳380p	<…> これがさっき話した聖像だがね。聖母さまの像だが、これをおまえにやるから持ってお行き。それに修道院に戻ってもかまわんよ・・・・あのとき言ったのは冗談だからな、怒るなよ。 <…>
コメント	最初の下線部の原義は「聖像のことだけどな、聖母さまの、ほらさっき話して聞かせたやつだよ、あれお前にあげるよ、持っていきな」であり、新訳のニュアンスとはまったく違う。おそらく 関係代名詞“который カトールイ” の前にある “вот　ヴォット（ほら）” に 幻惑され、あたかもフョードルが聖母像をアリョーシャに実際に手渡している図を思い浮かべたのであろう。しかし、ここで父子は件の聖母像を眼前に見ながら 会話しているのではない。原文は、聖像は家のどこかに存するものの、具体的にどこにあるのかまでは読者にはわからない、そういう書き方だ。明らかな誤訳で ある。 　それからもうひとつの下線部が「あのとき言ったのは」と訳されているのも間違い。ここでもまた新訳は副詞“давеча ダーヴェチャ”に躓いている。正しくは「さっき言ったのは」である。
〇	米川正夫訳「<…> さっきわしが話した聖母マリヤの像も、おまえにやるから持っていくがよい。<…> さっきのはほんの冗談だから <…>」（164）
〇	原卓也訳「<…> さっき話した聖母の像だが、あれをお前にやるから、持っていくといい。 <…>さっきはちょっと冗談を言っただけさ <…>」（168）
〇	江川卓訳「<…> あの聖像な、ほら、さっき話した聖母の像な、あれはおまえにやるから、持って行くといい。 <…>　さっきのは冗談だ <…>」（180）

ﾃｷｽﾄ	<...>— Брат! Чем весь этот ужас кончится у отца и Дмитрия? — воскликнул Алеша.　<...>
新訳383p	<…> 「兄さん、お父さんとドミートリーのあの恐ろしい事件、どんなふうに片がつくんです？」アリョーシャは叫んだ。 <…>
コメント	下線部分の直訳は「この恐ろしいこと全て」である。これを「お父さんとドミートリーのあの恐ろしい事件」と訳出したのはまずい。ここだけが不自然に浮き上がってしまう。読書の自然な “流れ” を乱さぬよう、たとえば「お父さんとドミートリーのこのひどい諍い」とかなんとか、もっと適切な訳語を考えて然るべきであろう。ご存知のとおり、この時点では“お父さん”とドミートリーの間には“あの”と特定されるような恐ろしい“事件”など起っていない。些末なところながら、訳語選択の不適切さの一例として敢えて取り上げた次第。
〇	米川正夫訳「<…> あのお父さんとミーチャとの恐ろしい事件 <…>」（166）
〇	原卓也訳「<…> お父さんとドミートリイ兄さんとの間の、こんな恐ろしいことは <…>」（170）
〇	江川卓訳「<…> お父さんとドミートリイ兄さんのこの恐ろしい事件は <…>」（181）

	X. Обе вместе　１０　二人の女
ﾃｷｽﾄ	— Давно знаю, и знаю наверно. Я в Москве телеграммой спрашивала и давно знаю, что деньги не получены. Он деньги не послал, но я молчала. <...>
新訳395p	<…> 前から知っています、たぶん知っていると思います。電報でモスクワに問い合わせましたから、お金がまだ送られていないことは前から分かっていました。お兄さまは、お金を送らなかったのです。でもわたし、黙っていました <…>
コメント	下線を施したロシア語の副詞 “наверно ナヴェールナ” は19世紀には、現代ロシア語におけるような「たぶん」の意味ではなく、「間違いなく、確かに」の 意味で使用されていた。これはドストエフスキーのみならず、同時代の他の作家の場合も同様である。殊更に露々辞典などを持ち出すまでもなく、ふつうの露和 辞典にもこの説明はちゃんと出ている。「たぶん」と訳したのでは、カテリーナの語りの内容と完全に齟齬を来してしてしまう。あまりにも不注意な誤訳だ。
〇	米川正夫訳「<…> とうから知っていますわ、ちゃんと知っていますわ。私モスクワに電話で問い合わせて <…>」（171）
〇	原卓也訳「<…> とうに存じてますわ、たしかに知っています。 <…>」（175）
〇	江川卓訳「<…> とうから知っていますとも、ちゃんと知っているんです。 <…>」（186）

ﾃｷｽﾄ	<...> Это тело, может быть, обещало формы Венеры Милосской, хотя непременно и теперь уже в несколько утрированной пропорции, — это предчувствовалось. <...>
新訳400p	<..> その体つきはもしかすると、ゆくゆくはミロのヴィーナスのスタイルを約束するものであったかもしれない。もっとも、そのことはすでにいまも間違いなく、少しばかり誇張されたプロポーションに予感されることではあった。 <…>
コメント	原文は「このからだにはミロのビーナスの姿態が見込まれていたかもしれない。しかし、今でも既にそのプロポーションには些か誇張されたところがあり、将来それは必ずや極端なものになるであろう。それは予想し得た」という意味である。おそらく新訳は下線個所に躓き、辻褄合せの“創作”に走ったものと思われる。非常に難しいところではあるが、誤訳は誤訳だ。
〇	米川正夫訳「<…> このからだは将来ミロのヴィーナスの形をとるかもしれない。もっとも、それはもう今でも、その誇張されたプロポーションの中に予想されるのであった。 <…>」（173）
〇	原卓也訳「<…> この身体なら、ことによるとミロのヴィーナスの肢体を約束するものかもしれなかった。もっとも、間違いなく今でもすでに、やや極端なほどのプロポーションに、それは感じられた。 <…>」（177）
〇	江川卓訳「<…> この肉体は、ひょっとしたら、本来はミロのヴィーナスのスタイルを約束するものであったかもしれない、ただまぎれもなく、いまからもういくぶんかプロポーションが誇張されていて、それが危惧をさそった。 <…>」（189）

	XI. Еще одна погибщая репутация　１１　もうひとつ、地に落ちた評判
ﾃｷｽﾄ	<...> Он рассказывал минут десять, нельзя сказать, чтобы плавно и складно, но, кажется, передал ясно, схватывая самые главные слова, самые главные движения и ярко передавая, часто одною чертой, собственные чувства. <...>
新訳416p	<…> 話していたのは十分ほどで、整然と淀みなくとはいかなかったが、肝心な言葉や肝心なしぐさを的確にとらえ、しばしば自分の気持ちをひとことでぴったりと言いあらわし、その場の雰囲気をはっきりと伝えた。 <…>
コメント	下線を付した “часто одною чертой チャースタ・アドノーユゥ・チェルトーイ” は、言い換えれば “часто лишь движением лица チャースタ・リーシ・ドヴィジェーニエム・リッツァー” ということで、その逐語的意味は ― 「しばしば顔の動きだけで」である。日本語訳としては「しばしば顔の表情だけで（自分の感情をはっきりと伝えながら）」くらいが妥当なところだ。新訳の「ひとことでぴたりと」というのは、確信を持てぬまま思い余って編み出された苦肉の“創作”でもあろうか？
〇	米川正夫訳「<…> かんじんな言葉やかんじんの動作をつかむとともに、ただ一語で自分自身の感じを伝えるようにしながら <…>」（180）
〇	原卓也訳「<…> いちばん肝心な言葉や、肝心な動きをつかみ、しばしば自分自身の感情を特徴的な一点でありありと伝えながら <…>」（184）
〇	江川卓訳「<…> 肝心の言葉、肝心の動作は的確につかんで、なんとか状況をはっきりと伝え、また自分の感想も、ほとんどはほんのひと言かふた言をはさむだけで、目に見えるように描きだしてみせた。 <…>」（197）

ﾃｷｽﾄ	<...> Сердце его загорелось любовью, и он горько упрекнул себя, что мог на мгновение там, в городе, даже забыть о том, кого оставил в монастыре на одре смерти и кого чтил выше всех на свете. <...>
新訳426p	<…> 彼は今さらながら、苦々しい自責の念にかられていた。自分がこの世でほかの誰よりも敬愛する長老が、修道院で臨終のときを迎えようとしている。にもかかわらず、たとえ一時とはいえその長老のことを忘れることがあったからだ。 <…>
コメント	「忘れることがあった」 というのはまったくの誤訳。文脈が正しく摑めておれば、このような誤訳はあり得ない。ここは作品の第一日目の終り、アリョーシャが、長老に促されて修道院 から町に出た後、複数の他者が抱える様々な問題に捲き込まれ、臨終を間近にした敬愛する長老のことをその間すっかり忘れてしまっていたことを深く悔やむ場 面である。「忘れてしまっていた」としか訳せぬはずだ。文法的にも「忘れることがあった」などとはなりようがない。“мог モーク(不定形： мочь モーチ)” は完了対動詞（“забыть ザブィチ[忘れる]”は完了体動詞である）とともに使用される場合、“具体的・特定的な一回きりの動作” を表す。ところが、新訳では逆にアリョーシャの「忘れる」という行為が “反復されていた” かの感を醸してしまっている。文脈及び動詞の体への目配りが欠けていることに起因する誤訳と言えよう。
〇	米川正夫訳「<…> 彼はたとえしばらくの間でも町へ出て、僧院へ残した人を忘れえた自分を、強くとがめずにはいられなかった。 <…>」（185）
〇	原卓也訳「<…> たとえ一瞬とはいえ、町の中でその人のことを忘れていられた自分を、彼は苦々しく責めた。 <…>」（189）
〇	江川卓訳「<…> たとえ一瞬にもせよ、僧院の死の床に残してきた人のこと、この世界でだれにもまして尊敬している人のことを忘れたりできた自分を、きびしくとがめないではいられなかった <…>」（202）