かえるの絵本 最終話

英雄



小さな森の神殿に、四季の初めの優しげな時が流れていく。

一年前と同じ風景。
ただひとつ違うのは、この石床の上で向かい合う神殿の主・老賢者と、戦い終えた少女の表情。

「ただいま・・・帰りました!」

そのまなざしには、揺らぐことない確信の希望が満ち。

「アンジェよ。よくぞ竜を倒した!!」

その声色には、大いなる賞賛と待ち望んでいた安堵が深く表れる。

アンジェは、ここに戻ってきた。

偽りの姿・・・かえるという姿から、今の自分に。そしてたくさんの経験と冒険をして一年、自らの運命をその手で勝ち取り、戻ってきた――。

「これで、おまえにかけられた竜の呪いも解けることじゃろう」

杖に手を置き、静かな変わらぬ立ち居にて、賢者ラドゥが穏やかに告げる。

「アンジェ!」

そのとき、後方の木々の中から、少女の名を呼ぶ複数の声が駆け寄ってきた。

「どうやら、おまえに会いに来てくれたようじゃな」

賢者の言葉に振り向く間もなく、盗賊の少女がいち早く帰還のその身を掴まえる。
彼女はがっしりと抱きついて、そのまま離さんとばかりに、柔らかなピンクの髪へと顔をうずめて・・・。

「あー、生きて帰ってくれて、ホントよかったよ・・・!」

「ルー・・・」

・・・うん、ただいま!
そう言って、アンジェも友の背に手をそえる。

ルーの後ろには、この街・コロナで出会った、たくさんの仲間たち。
ともに邪竜に挑んだ戦士と少年が、この場へと呼んでくれた――おそらく賢者が気を利かせ、魔法陣を直接街へと繋いだのだろう。

「みんなにもおまえのすごかったところ、見せてやりたかったな!」

アルターが誇らしげに笑う。
その鎧の布地には、死闘の爪あとがざっくりと残されているが、それさえも今は誇るべき勝利の跡。

職も境遇も違うさまざまな友たちがアンジェを囲み、勝利を祝い、絶えることなき喜びを表したのだった。

「アンジェ、よかったね」

その輪のなか、すっと少女の前に進み出た女剣士。

大事なひとを託した友。
レティルもまた、心からの微笑みにて、アンジェを迎えたのである。


「あなたのおかげで、あたしの目的も終わったみたい」

十年間・・・。彼女も同じく、棄てられぬ過去を宿して生きてきた年月。

「レオンを助けてくれて、ありがとう」

そしていま、その表情には、真の安らぎが訪れている。

アンジェは小さくうなずいた。
うなずいて、それから、やはり気になる一報を訊く。

「レティル・・・、レオンは・・・」

瞳にわずかな冷静さを浮かべたアンジェに応えて、レティルも、しっかりと事を伝える。

「ええ、診療所にいるわ。あとで会いに行ってあげて・・・」

「――その必要はない」

と・・・。声が重なった。

「私にも、礼を言わせてくれ」

「レオン!!」

現れた剣士の目前に、アンジェは駆け出していた。それは、親友のもとへと駆け寄る、ごく自然な行動だった。

「ケガは・・・? そんな動いて、大丈夫なの!?」

見上げるみずいろの瞳に向けて、レオンは自らの無事の証を知らせる。

「そこの御仁たちが、傷を回復してくれた。もう痛みはどこにもない」

――心の痛みも・・・な。

回復魔法を得意とする仲間たちの厚意を知り、アンジェは彼らに大いなる感謝を抱いていた。
レオンは、そんな少女の深いまなざしを見つめ・・・そして、ふっとすべての重圧が解かれた。

「ありがとう、アンジェ」

「・・・!」

いま、この時。本当に穏やかとなった心を表した剣士。
一方、あらためてその口からの『呼び名』を聞いて、思わず驚きをあげた少女。

「・・・フッ・・・。いや・・・やはり、私にはこの呼び方のほうがしっくりくる」

『アンジェリシア』――。
そう言って、剣士はひとつの答えを導く。

「おめでとう。そして・・・さらばだ」

レオンは、忘れえぬ友の瞳をまっすぐと見つめ、告げた。
別れの言葉。まわりを囲んだ仲間たちは、みな一様にわずかな驚愕を隠せないでいる。

呪われた運命に切り離され、やがて失くしたものを取り戻し、ようやく再会できた友。

・・・十年の月日は、おたがいの年齢さえも、それだけ離してしまったけれど・・・。

「うん。・・・レオンも、はやく『ただいま』を言わなくちゃね」

「アンジェリシア・・・」

「ジムさんや、バレンシアの人たちに、はやくその無事な姿を見せてあげなくちゃ」

アンジェは・・・アンジェリシアは、にっこりと笑って答えた。

背中を押すように、光のように微笑んで、そうしていつも少女は親友の心の力となっていたのだ。

「ありがとう・・・、元気でな」

「あなたもね、レオン」

故郷へと足を向けた剣士の後ろを、同じ街に生まれたひとつの姿が続いていく。

流浪の女剣士・レティルは、しなやかな長身を颯爽とひるがえして、同郷の勇者とともに旅立っていったのだった。

・・・二人の背中が見えなくなるまで、アンジェは大きく手を振り続けた。

「・・・! あっ・・・」

と。それまで様子をあえて黙って静観していた魔術士の少年が、そのとき一番に声を上げたのである。

「おお、この光は・・・!」

ラドゥも思わず、杖の握りに力をこめる。

少女の身体を、ゆっくりと神秘の光が包み込んでいく・・・。
邪竜の力・・・赤き竜の悪意の呪いが、青白い光の粒子となって解け消えていく。

ほのかな輝きが静かに消え去ったとき、そこには。
小柄な背丈。白き肌。みずいろの瞳と、ふわりと風になびいたピンクの肩下の髪。
人間の――音楽生から冒険者となった、十七歳の少女、アンジェリシア・マークス。

一年前の賢者の魔法は、ほぼ正確にその姿を映しとっていたのであった。
もちろん、彼女の生み出す雰囲気さえも、いまや変わることはない。

森の奥に、再び大きな喜びとねぎらいの声々が響いた。

呪いという少女の運命は、ここに完全なる終わりを迎えたのだった。


それから・・・。
コロナの街では、歓喜の宴が盛大に繰り広げられた。

この世の恐怖・赤き竜フレイスを打ち倒した『英雄』アンジェは、連日のように街中の至る所へ呼びに呼ばれて、人々の感謝と賞賛を一心に受け入れた。

街をあげての沸きあがりは尽きることなく続き、二週間あまりたった今でも、世界中からたくさんの声や表情が次々と届いてきている。

・・・そんな喧騒をふっとわずかに抜け出して、アンジェは桜咲く並木道の中に佇んだ。

「アンジェ」

やがて待ち合わせていた人物も現れて、ふたりは近くのベンチに身を寄せる。
気疲れをおとすように、力を抜いて息をついて、彼は・・・マーロは、少女と同じ視線のまま言葉をつなぐ。

「・・・さすがに、疲れちまうよな」

そして、微笑。

竜に挑んだ英雄の一員。
歓喜の渦への囲まれようは、マーロも、むろんアルターも、それぞれの場所で連日同じ模様だったのである。

並木の向こうの魔法学院から、生徒たちの楽しげな声がそよ風に乗って聞こえる。

「マーロ・・・」

いつか自分の記憶のかけらが少しずつ甦り始めたとき、アンジェはここでこうしてマーロに話をした。

「私・・・そろそろ旅に出ようと思うんだ」

だから今日。この決意の答えを、一番に伝えるために。

「もう、旅の準備はできてるの・・・」

・・・マーロは驚かなかった。
わかっていた・・・。アンジェにも、生まれ育った場所がある。

「うん・・・。故郷の、ヴィエナって街に・・・行くんだろ?」

それは、ずっと考えていたこと。

うなずいた傍らの少女を感じて、マーロはゆっくりと瞳を向けた。

「・・・でもさ。故郷に帰ってしばらくしたら、またここに戻ってくるよな?」

この、コロナの街に――。

桜が風に揺れる。春色の花びらが、ひとつ、またひとつ。

「・・・・・・」

答えは、返らない。

「・・・・・・アンジェ・・・」

・・・返らない・・・。

「アンジェ!!」


たとえ生まれが違ったとしても、これからもずっと、ずっとこの地で共にいられるはずだった。
彼女も、自分も・・・今までどおり、この一年のとおり、毎日を楽しんで。この街で。

けれど、ひらかれたその口は、違う答えを伝えていた。

「コロナの街には、必ず戻るよ」

――でも・・・それがいつになるかはわからない――。


少女は『英雄』としての道を選んだ。


「・・・、マーロ・・・」

瑠璃の少年は立ち上がって、ただ、無言のまま。
小さくふるえる真紅の瞳に浮かぶのは、苦渋の光か、・・・不承の色か。

「・・・・・・わかった」

そして、それだけ言い。

(――!)

走り去るローブの影。
アンジェは手を伸ばした。伸ばしかけたその手は、けれども・・・。

桜の下。とどまった足に、やがて、ゆっくりと落ちた。


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