かえるの絵本

第21話 竜、あらわる



暦の示す日――3月31日。
あと一日遅ければ、すべてが無に帰していた。

竜が現れたという知らせ。

窓の外に目をやりながら、アンジェは素早くマントを身につけた。
突然の凶報に、ざわめく街。大通りに広がる声がここまでも聞こえてくる。
十年前と同じ・・・恐れと不安の、人々の声。

「アンジェ」

呼ばれてアンジェは振りかえった。

「ぼくはアンジェの役に立てないけど、ここで応援しているケロ」

見上げる瞳に浮かぶ、緊張の色。
その緊張をほぐすかのように、アンジェは姿勢を低くして、かえるの頭をそっと撫でる。

役に立てない・・・?
ううん、きみはここにいてくれただけで、私の力になってくれたんだよ。

「待っててね、かえちゃん」優しく告げ、そして立ち上がり。「戻ってくる。必ず」

それから、いま一度部屋の様子を目に留めて、少女の身体は扉へと向かう。

「がんばるケロよ!!」

精一杯のかえるの声に、アンジェは強くうなずいて――。

「じゃ・・・行ってくる」
運命を決める最後の一日。その幕が今、開かれた。


焦りと嘆きが満ちている・・・。
コロナの街の、こんな様子は、できることなら見たくはなかった。
奥歯をぎゅっと噛みしめて、アンジェはとにかく大通りを走った。

それでもまだ、酒場のマスターの落ち着きだけは救いだったのかもしれない。
この一年、冒険に限らず、どこへ出かけるときにも一声かけてくれたマスター。
今もまた、そんなマスターの口から、アンジェはとある”貴重”な一報を耳にしてきたのだ・・・。

「・・・・・・・・・」

目的の店の前に着き、小さく一息ついて、ドアノブに手をかける。
聖なる神具・ロンダキオン・・・その修理を依頼していた鍛冶屋のロッドのもとへ。

・・・だが。

目の前の光景を見て、アンジェの足は思わず止まってしまった。

「そんな・・・ロンダキオンが・・・・・・」

すらりと長身の背中。
竜の情報を真っ先にアンジェに伝えてくれてから、一足先に鍛冶屋へ向かっていたレティルの、呆然と立ちすくむその姿――。

「・・・アンジェ!」

扉の閉まる音に気づいて、店主のロッドがすかさず声を上げた。

「アンジェ。すまん・・・・・・」

見るや否や、口惜しげに拳を握るロッドの様子に、アンジェはただならぬ状況を察知する。

「おまえから預かっていたロンダキオン・・・完成は・・・したんだ」

「だが・・・・・・」
続けて発せられたその言葉。

「オレが用事で家をあけてる間に、ロンダキオンが消えちまっていた・・・・・・」

「・・・!」

瞬間、アンジェはさっきのレティルと同じ状態になった。

・・・けれどもそのとき。ふいに脳裏にあらわれてきた、ある予感・・・・・・。

「そして」ロッドの話は、まだ終わっていなかった。

「ロンダキオンがあった場所に、こんな手紙が置かれていたんだ」


手渡された封筒。
白いそれには何も書かれてはいない。
生まれて消えない嫌な予感を巡らせながら、アンジェはそっと中身の封書を取り出した。

その手の中で、折られた手紙が広げられ・・・・・・数刻。

「・・・・・・!」

声にならない震えとともに、アンジェが手紙の両端をぐしゃりと握り締めた。

「アンジェ・・・?」

レティルが小さく呼びかけると、少女は無言で空間を見つめたまま、すっと手紙を差し出してきた。
尋常ではない。レティルは受け取った手紙を声に出して読んでみる。

「『アンジェ。勝手にロンダキオンを持ち出して、すまないと思っている』」

そこまで読んで、一瞬止まる。衝撃を呑み込むようにして、レティルは音読を進める。

「『いままできみが竜を求め、行動していたことは知っている。だが私も、どうしても竜と戦わねばならないんだ・・・・・・』」

「――レオン!」たまらずレティルは、『その名』を口にしていた。
・・・この手紙の書き手。ロンダキオンを持ち出していった、その人の・・・。

これは、私個人の勝手な言い分だということもわかっている。
でも、どうしてもこれだけは譲ることができない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

あいつはいつも言っていた。
苦しめられるのは、いつも弱者だ。
だから、そんな人たちがいつも笑顔でいられる、そんな場所を守りたいと。

「『私はあいつのようにはなれないかもしれない。だが、たったひとつ私にもできることがあるとしたら、それは竜と戦うことなのだ』」

すまない・・・私のわがままを許してくれ。   レオン

・・・手紙のすべて。
最後の署名を読み終わった時、鍛冶屋の店内は否応のない静寂に包まれた・・・。

「レオン・・・。そんなに苦しんでいたなんて・・・」

レティルが悲痛を表した。――そのときである。

「・・・ばか・・・」

・・・聞き慣れた声から、聞き慣れない言葉。

「レオンの・・・バカ・・・。どうして、ひとりで・・・」

「・・・、アンジェ・・・?」

肩をふるわせ、両こぶしを握り、やるせない瞳で空間に向かって。
初めて見せた表情だった。・・・少なくとも、ここにいる女剣士と鍛冶屋には。

「・・・ううん・・・」

と、一転、アンジェは小さく首を横にふり、いつもの柔らかな顔に戻って言ったのである。

「ごめんねレオン・・・。私はここにいるのに・・・あなたはまだ、知らないから・・・・・・」

(――!?)
ロッドとレティルは、まさに同時の反応だった。

「アンジェ・・・、今、なんて・・・?」

すると――。
レティルの問いに重なるように、アンジェがふっと目を瞑った。
一呼吸の間。
そして・・・ふたたび開かれたその瞳は、一度ずつ、仲間の姿を交互に映す。

アンジェは語った。
思い出したすべての記憶。
レオンと自分のこと。竜との戦いのこと。
呪いを受けて、かえるになって、この地にやってきたことを。

初めてマーロに話したときとは違う・・・。今や心の整理がついた少女は、あくまでたんたんと、二人に自分の真実を語り知らせていた。

「・・・まさか、本当に、あなたが・・・?」

レティルの脳裏には、今この瞬間、きっと『あの時』の光景が甦っていたことだろう。
十年前。何もできずにレオンの背中を見送ったあの日。・・・そのレオンの隣を歩んでいった、バレンシアでは見かけたことのなかった人物・・・。

簡素な旅着と、腰に提げた剣。
あのときは髪を上に結っていたように見えた。けれど確かに、その色は・・・。

目の前にいる『姿』を見る。そう・・・桜のようなピンク色の髪。

「そうすると、アンジェ。おまえは竜と戦ったことがあるのか」

ロッドの話にうなずきながら、アンジェは、まだいくぶんの驚きを隠せないでいるレティルの顔を見上げた。
・・・何か言うべきだと思った、そのとき。

『――聞こえておるか、アンジェよ。わしじゃ、ラドゥじゃ――』

店内に突如神聖な雰囲気が満ち、彼らの前に賢者の幻が現れたのである。

『――アンジェよ、大事な話がある。竜と戦う前に、わしの神殿まで来るのじゃ――』


とにかく今は――。
ラドゥの出現で、アンジェはハッとした。
今はゆっくり話をしているときではない。今、一番にしなければならないことは・・・!

「行かなきゃ!!」

竜の現れた場所・・・レオンが向かった場所。
――カナ山――。

「あっ、アンジェ、待って――」

・・・と。とっさに追おうとしたレティルの足が止まった。

開けられた鍛冶屋の扉。
そこに立つアンジェ。
そして、そんなアンジェが驚いたように見つめる先・・・・・・。

「ルー・・・カリン・・・」

アンジェは、真剣な瞳の二人の名を呼んだ。

「やっぱりココにいたんだね」

少し走ったのかもしれない。鍛冶屋から出てきた顔を見て、上気しながら微笑むルー。

「あたしたち、アンジェと一緒に戦おうと思ってきたんだよ!」

そのとき、雑踏を駆ける金属音が近づいてきて、その音の主もまたアンジェを追ってきていたのである。

「アンジェさん・・・よかった・・・。宿のマスターに聞いたのです。あなたがここに向かったと」

「デューイ・・・」

「竜を倒しに行くのなら、私も行きます! あなたひとりを危険な戦いに送り出すことは、私の騎士としての誇りが許しません」

(・・・・・・・・・)
アンジェは、すぐに答えを返せなかった。

いつものような冒険であったなら、きっと二つ返事でお願いしたに違いない。
けれども今は・・・。
自分を心配して来てくれた、仲間たちの気持ちは本当にうれしいと思う。けれど。けれども。
一緒に来てとは言えない。あの恐ろしい戦場へ、軽々しく「一緒に」とは・・・・・・。

答えをためらうアンジェの横から、そのとき、押しのけるように低めの姿が進み出た。

「おい、おまえたち。一刻を争うんだ。あんまりこいつを困らせるな」

ずいと前に現れたのは、この鍛冶屋の店主ロッド。
するとロッドはふたたび振り返り、アンジェの顔をまっすぐと見据え、こう言った。

「アンジェ。本当なら・・・せっかく仕上げたロンダキオンだ、どうあってもこのオレの手で取り返してやりたいところなんだがな」

「・・・ロッド・・・」

「だが、おまえさんは何より、あの竜と戦ったことのある張本人だ。竜の強さを誰よりも知ってる。だからこそ――」

なにげないロッドの一言に、集まった三人が揃って声を上げる。無論、竜とアンジェの初耳の情報だ。

「・・・ああ、わかったわかった。あとできっちり話してやる。・・・というわけだ、アンジェ。おまえの記憶の件と街のことはオレたちにまかせて、早く竜のもとへ急げ!」

一転、結論を早めたようにも聞こえたが、「おまえたちも、それでいいな」ロッドは念を押す。

ルーやカリン、デューイたちは、ロッドの言葉にすぐには納得できない様子であったが・・・。

「ありがとう」

アンジェは言った。

「竜のせいで、街のみんなが大変なことになってる。だから・・・大丈夫だって伝えてくれるとうれしい」

「アンジェ・・・・・・」

「私は、必ず帰ってくるよ。竜を倒して、このコロナの街に帰ってくる。だから・・・」

待っていて――。その声と、瞬間、もうひとつの声が重なった。

「・・・そうですね。あなたが大切に思う街の人たちは、私がきっと守ってみせます!」

ルーの隣で控えめにうかがっていた、精霊使いの少女カリン。

「だからアンジェは安心して戦いに臨んでください!」

カリンは笑顔だった。
けれども、その気丈な笑顔の裏には、大きな大きな決意があったに違いない・・・。
痛いほどわかるその決意。だからこそ――大切な友だちを戦いに行かせる、そのつらさをぐっとこらえて、明るい盗賊のルーは言ったのである。

「街のことはまかして! ・・・死んだら、ダメなんだからね!」

騎士のデューイは、なかなか自分を納得させることができなかったが、そのとき、ふと先ほどのロッドの話を思い出した。
そして、瞬時に『何か』に気づいたデューイは、すぅと小さく息をつき、応えた。

「私には、街を守るという騎士としての使命がある・・・。わかりました。アンジェさん、あなたの勝利を祈っています」

戦いの地へと駆けていく少女と女剣士の背中を見つめながら、デューイはいくぶんの後悔を胸に感じつつ、そんな自分を戒めるように『任された場所』への足を進めていく。

『竜の強さを誰よりも知ってる。だからこそ』
・・・・・・何度もともに冒険した、戦い慣れた者たちと・・・・・・。

コロナの街やその周辺で、アンジェの力になりたいという想いは数多くあった。
それぞれの場所で、施設で、彼らは友の無事を願いながら、勝利の帰還を待ち望んでいたのである。

――街を出て、神殿への森を走る。

仲間たちの気持ちに迷いを見せていたアンジェが、自分には「行こう」と自然に言ってくれた。
それは正直、とてもうれしいところではあったのだけど・・・。

「ねぇ、アンジェ」

走りながら、レティルは湧き上がる『疑問』を口にする。

「あたしたちの力なら、きっと竜にも立ち向かえるとは思うけど・・・。でも、二人だけじゃやっぱり・・・・・・」

心もとないのではないか――?

すると、アンジェは一言。

「大丈夫!」

やがて森がひらけて、石造りの目的地が見えてきたところで・・・。
レティルは、アンジェのその”自信”の真意を知った。

「・・・・・・遅かったな」

こちらを見つめる、ふたつの影。

青いローブの少年と、赤い鎧の戦士が、神殿の正面にて待ち迎えていたのである。


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