かえるの絵本
第19話 なくした記憶
今回、ドワーフの村へ行っている間に、貸出期間を過ぎてしまったから、司書のシャルルに謝らなければならない。
「・・・悪い。昨日まで、冒険に出てたんで・・・」
そう言いながら本を差し出すと、穏やかな眼差しをくずすことなく受け取ったシャルルは、しかし、妙な応えを返してきた。
「冒険・・・アンジェさんとともに・・・ですか」
「え・・・うん。そうだけど」
・・・そういえば、ロンダキオンについては、シャルルが調べていたんだったな。
「アンジェさん・・・・・・何か、あったのですか?」
――予想外の問い。
「実は今朝方、ここにいらしていたのですが・・・」
午後の授業はパス。・・・受けている場合ではなくなった。
・・・それは、今朝早くのこと。
開館のため図書館を訪れたシャルルが、入り口の前で、膝を抱えて座り込んでいるアンジェを見かけたのだそうだ。
「組んだ腕に、顔をうずめるようにして・・・最初は、私が目の前まで近づいても、お気付きにならなかったご様子でした」
そこで、シャルルが伺うように声をかけて、アンジェも顔を上げたらしい。
「・・・ですが、その・・・。なんというか、ひどくやつれた感じで・・・私も一瞬、正直とまどい、言葉を失ってしまったのですが・・・。するとそのとき、アンジェさんのほうから、こうおっしゃってきたのですよ」
『レオンを・・・黒髪の剣士を見ませんでしたか・・・!』
(――!?)
「・・・・・・黒髪の剣士、と言われて、少し考えてから、私は最近ときおり図書館にいらしていた、ひとりの人物のことを思い出しました。旅人風で、おそらくこの街の冒険者ではないと思うのですが・・・」
「ああ、コロナのやつじゃないよ。・・・で、それでアンジェは!?」
「マーロさんもご存知なのですね。ええ・・・それで、見ませんでしたかとおっしゃるので、そういえば今までに一、二回見かけましたね・・・というふうにお答えしたのです」
それは無論、もっともな返答だろう。
なのに・・・なぜ。
「アンジェさんはそのまま、また無言でうつむいてしまって・・・。ですが、おそらくその剣士の件で、わざわざ開館時間の前からお待ち下さったのだろうと思ったので・・・『とりあえず、中に入ってお待ちしてみたらいかがです?』とすすめたのですが・・・」
・・・だが、アンジェは結局、その勧めを断ったのだという。
「帰り際に振り向き、ロンダキオンのことも話して下さいました・・・・・・が、そのときのアンジェさんの表情は・・・何かこう、本当に、無理した笑顔で・・・」
そしてシャルルは、こう続けた。
「例えるなら、そう・・・アンジェさんであって、アンジェさんでないような・・・・・・」
人混みを縫うようにして走り、大通りの酒場へ駆け込む。
それから、軽く叩く。
「アンジェ・・・いるか?」
少しの間のあと、ドアは開いた。
まだ小さく呼吸をしながら、マーロはとりあえず安堵した。
「・・・マーロ・・・」
・・・・・・それは確かに、その人の声。
「どう・・・したの? 授業は・・・?」
柔らかな物言いも姿も一見、いつもと変わらぬようだけれど。
・・・・・・けれど・・・・・・。
「・・・・・・ア・・・ンジェ・・・?」
(――っ!)
思わずそう言っていた自分に、マーロは焦った。
「ちょ、ちょっと話したいことあってさ。・・・入ってもいい?」
「・・・う、うん・・・」
やつれたような・・・。そうともいえる。泣きはらしたような顔。瞳・・・。
「話しって・・・?」
・・・マーロの中には、いまだ異様な空気が流れている。
「今日・・・朝イチで図書館行っただろ? レオンの・・・ことで・・・・・・」
単刀直入なマーロの問いに、アンジェは・・・・・・びくりと震えた。
「・・・な、なんでもないよ」
動揺の瞳のあと、一見して落ち着いたようにふるまうアンジェの返答は、しかし、どう見ても不自然極まりないものだった。
「なんでもないって・・・・・・」
マーロの表情に、いささかの不満が浮かぶ。・・・見え見えの反応は好きじゃない。
「なんでもないわけないだろ!? どうしたんだよ! いったい何が・・・!?」
「・・・何でもない・・・!」
「・・・・・・・・・ッ!!」
たまらず、マーロはガタリと椅子を立った。
「おれに秘密にするなよ!!」
・・・・・・いっときの静寂。
アンジェは、何かに貫かれたように、マーロを見上げて・・・。
「一番に・・・話してくれって言っただろ・・・」
マーロはたたみかけるように訴えた。
「・・・アンジェ・・・!」
・・・そのときである。
「アンジェ・・・」
小さく・・・自嘲気味の声が洩れた。少女の、口から。
「・・・そうだよ、私・・・それさえ全部思い出せなくて・・・」
瞳の行方が、ゆっくりと落ちてゆく。
「だから・・・それが、名前に・・・・・・」
部屋の空間を見つめるようにして、それから・・・彼女は何かを決めたようだった。
「アンジェリシア」
「・・・えっ?」
一転、歯切れ良く放たれた言葉に、マーロは思わず聞き返してしまった。
「アンジェリシア・マークス。・・・・・・それが、私の本当の名前」 |
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