林 博行


過去のガンガリータ゛の目

日本人にもほんとにいろんなひとがいるけれど、
アボリジニを追いかけ早10年。自分でも未だに
こんなアボリジニファンは研究者以外会ったことがない。
追いかけているうちにいつのまにか自分がミイラとなり、
ガンガリーダ氏族に入ってしまった。
成人の儀式を受けてしまうともう普通の社会生活は
歩めないので、思い止まっているぼく。
でも心のどこかでは、こんな物質主義の市場経済と
効率最優先の世界から足を洗って人間らしい生活を
歩みたいと日々思っていたりする。
そんな矛盾とどっちつかずの曖昧さから生まれた
靄(モヤ)のような人間がアボリジニと日本人の感覚で
つくるコラムです。


 その1 精霊エアコン

   ひとはいろいろなものを信じ、それに頼って生きているが、ガンガリーダの人々は
    ぼくらと少し違ったものを信じている。精霊と訳して良いのか魂と訳して良いのか微
    妙だが、彼らはそれをSpiritsと言う。目に見えるもの見えないものいろいろある
    が、ネイティブアメリカンの言うところのメディスンとかやはりSpiritsと似たニュ
   アンスだと思う。アイヌのひとたちに言わせればカムイ。日本人のイメージでいうと
    座敷わらしなどの妖怪も含めた“霊”だろうか。
    ぼくら文明の世界ではSpiritsは魂と訳され、どちらかと言うとSoulの方でイメー
    ジされると思う。だから神聖とか清らかなというものより、友情とか絆とか血潮など
    を想起させる。そのせいかあまり現実味のないTVドラマの世界の話として片付けられ
   ていると思う。現実味のないことは信じないし、考えもしない。だから何か身の回り
   で事件が起こってもそれを精霊の仕業とは考えないのが普通だ。
    アボリジニのキャンプで暮らしていると、このギャップが妙でおもしろい。キャン
    プサイトに4WDを走らせブッシュの中でユーカリに行く手を阻まれ、にっちもさっち
   も行かなくなる。地図などないのでアボリジニの方向感覚だけが頼りだ。地理に関し
    て恐ろしいほどの記憶力を有する地元のアボリジニでも、立ち木の数までは掌握して
    いない。車は走れないし、日は傾き始める。日が落ちたらもうそこでキャンプするし
    かない。そんな時我々日本人の感覚では来た道を戻って途中からやり直す、というの
    が順当だろう。しかし、彼らはそうはしなかった。車を降りて長老がぶつぶつ独り言
   を言いながら「方向はあっとるのにまったく…」と進行方向に歩き始めた。煙草を
   すって腰と頭に手をやり時に笑い、下を向き首を振ったり指を指したりする。何のゼ
    スチャーだろうか。精霊と話をしているのだ。彼らは行く手を阻まれたのではなく、
    「ちょっと止まれ」と精霊に止められたと理解している。そこで長老がその地の精霊
    と話をし、どこへ何のために行くのかを話しながら煙草をすって理由を説明し道を
    譲ってもらう話をつけているのだ。実際に車の横のユーカリを一本切り倒し、その後
    は同じようなユーカリ林の中でただの一度もつっかえることなく、数時間走行し目的
    地へ着いた。
    これをビデオに撮っていたら、道に迷った案内人が機転を利かせて難を逃れたよう
    にしか写らないだろうが、実際には違うのだ。
    真夏の東京で使用量に対する発電能力がおっつかず、メルトダウンするかもしれな
    い。これは実におもしろいと思う。もう馬鹿な暮らし方は止めなさい、と日本でもつ
    いに精霊がものを言い始めたのかもしれない。進んだ文明の国に暮らしていると自然
   環境に厳しいだけでなく、人間本来の感覚さえも壊していくと思う。真夏に暑くて仕
    事にならなくて都市機能が低下するさまざまな現象を是非味わい、都市の生活を見直
    すのではなく、人間そのそのの暮らし方を考えることができるいいチャンスではない
   だろうか。
   ガンガリーダのひとたちが暮らすムーンライトクリークでは、真夏には40度を超え
    る暑さだ。日陰にいても焚き火の脇に座っているような錯覚を覚える。そんな中でも
    長老はユーカリの木陰で煙草をふかして笑いながら涼しげに精霊と話をしている。長
    老いわく、精霊に涼しくしてもらっているそうだ。

画像はムーンライトクリークのフルムーンです。

その2.正しきけじめ


 昨今物騒な事件が相次ぎ、犯人が少年だったり統合失調症だったりと、きちんと裁きの鉄槌
が降りず、消化不良の結末を散見する。ぼく個人としては「命は命でしか償えない」と考えてい
るので、交通事故であろうが人災であろうが加害者が特定されたら、その者が同じ目にあって
償えばいいと思っている。大量殺人を犯したのなら、加害者の家族が一緒になって責任をとれ
ばよかろう。

 文明社会では、裁判という制度が発達し、敏腕というべきか、敏舌と言うのか知らないが優
れた弁護士だと結果をどうにでもできるらしい。弁護士を褒めるべきか、そういった司法制度を
哀れむべきか、きわどい。

 アボリジニ社会では、金持ち(まずいない)がいわゆる“いい弁護士”を雇って裁判に勝訴した
としても、部族内での公平かつ神聖で逃れようのない裁きをもう一度受けなければならない。
ぼくはいつも実に納得のいく社会規範だと感じている。それは少年だろうと中年だろうと老若男
女まったく関係ない。部族のおきてと言うことで、ばっちり片付けてくれる。たとえばクラン(氏族)
の異なる少年同士が些細なことから殴り合いの喧嘩になったとして(しょっちゅうおきる)、オー
ストラリア政府の警察が仲裁に入り、一旦は収まる。しかし、その後お互いのクランの長老た
ちが、場所をきちんと決め、仕切り直して決着をつけるべく、もう一度少年たちを戦わせる。ど
ちらが勝とうが負けようがそれは問題ではない。大事なのは“双方納得のいく決着”である。

 部族や罪を犯した人間にもよるが、その罰は文明社会のそれよりかなり厳しい。ぼくの知る
限り砂漠に追放され、死ぬまでハンターの追っ手をかけられるのが一番つらいと思う。火を焚
けず足跡の残る水場には近寄れず、足跡を残さずに逃げ続けなければならない。近所の部族
にももちろん頼れないし、悪くすれば言葉の通じるところはどこもダメかもしれない。

 文明の発達した社会では、何か問題が起きるとたいてい“自分以外の何か”に責任や原因を
なすることをよしとし、うまくすれば逃げおおせたりする。ちなみに、この原稿が遅れたのはどこ
の誰のせいでもなく、ぼく自身のだらしなさである。決して読者のせいではないので、安心され
たい。
【03年8月末記】



その3.GPS標準搭載型人類

 クインズランド州西部にあるDoomadgee(ドゥーマジー)というアボリジニのコミュニティ
には、3〜4000人のさまざまなクラン(氏族)のひとびとが暮らしている。彼らはクラン
ごとにそれぞれ伝説の聖地を持ち、そこには神聖な儀式をする場合や、神聖に
なりたい気持ちの時、あるいはピクニック、精神静養などのときに訪れる。
はっきり言ってしまえば好きなときに行っている。

 ぼくが身を寄せているクランの人々にももちろん、そういう場所がある。コミュニティ
からブッシュを4WDで6時間ほど走った場所だ。ここは周囲100qに自分たちしか
人間はいない、そんな場所である。事故や大怪我の時はあきらめるよりほかない。
ワニがいて毒蛇がいて毒ガエルもあちこちで跳ね、ライフラインなどさっぱり
見当たらない。せいぜい大きな水たまりで水だけは手に入れられる。

 この地には先の大戦で生まれた新たな伝説があった。戦闘機がこの地に
墜落しているのである。当時のオーストラリア軍は何度となく捜索したものの、
ついに見つけることができず、その捜索を打ち切った。その何年か後にも
再捜索したのだが結局見つけられなかった。しかし、クランのひとは何度でも
その場に行くことができる。ただ、聖地なだけに白人を案内するのは気が引ける
のかきちんと説明しないし、教えてあげることはない。どうしてこんなに大きなものが
見つけることができないのか? と思うほど大きい機体がブッシュに刺さっている。
いくら大雑把なオーストラリア人でもこれを見逃すとはよっぽどのやつだ、と思える。

 大地と深いつながりをもって生きてきたアボリジニにとっては、ただの砂漠やブッシュで
ひとに道を教えることができる。それは歌であり、伝説であり、言い伝えだったりする。
どうしてそんなことができるのかと言うと、自然に手を加えることをまったくしない民族
なので、「大きな穴のあいた岩から見える蟻塚」といえば数百年そのままなのである。
だから地元の伝説やクランの聖なる土地についての言い伝えなどを覚えてさえいれば、
あの日本の22倍もの広さの国でも迷うことなく、生きていけるのである。地形の
うねりや蟻塚の位置などは、我々にとっての角のタバコ屋さんだったり、ポストだったり
する。それから星の位置なども彼らは組み合わせて自分の位置を考えられるので、
夜でも平気で道のないブッシュを目的地まで車を走らせることができる。

 ナビの話をアボリジニにするととてもおもしろがられる。かえってわかりにくいだろう、
と言われる。ナビを頼りに友人の家についに、たどり着けなかった話などしたら
それこそぼくは彼らの伝説になってしまいそうだ。

その4.アボリジニ式格闘技



いろんな民族にいろんな格闘技があるのはいまさら言うまでもないが、アボリジニに
ついて言えば、“棒術”というのがある。はっきり言ってこれを知ってるひとはかなり
アボリジニ通といい。かと言って、かの地に行っていきなりアボリジニに「棒術を教えて
ください」などと言わないことを薦める。なぜなら、棒術は長刀(ナギナタ)同様女性の
格闘技だからである。また、そんな大そうなものでもない。

棒術と言っても、武道のように級や段があって師範免状があったりはしない。
強い者は強く、弱き者は怪我ばかり…、と非常にわかりやすい。こう書くとデタラメな
棒での殴り合いに感じるかもしれないが、それなりに各自技を磨いており、切磋琢磨
していたりするのである。ある村にはとっても強いおばちゃんがいて(見かけもすごい)、
そのおばちゃんは警察のピストルにも負けなかった、という伝説を持っている(まだ生き
てるけど)。警官がピストルにさわる前にノックアウトさせたらしい。どこをどんなふうに
殴ったかは聞くひとによってそれぞれ異なるので割愛する。でも、股間を打ち上げて地面
からおまわりさんの両の足がいくらか浮いたとか浮かないとかの話が一番恐かった。

ところでこの棒術に使う棒は意外に短く1mあるかないか。喧嘩相手と殴りあうなら
もっと長い方がいいだろうと思うが、実はこの棒、アボリジニ女性の日常に使用する
道具なのだ。ウディと言われたり、エアーズロックより北方ではナラナラと呼ばれて
いたりする。意味はもちろん“こん棒”。棒は通常、根菜類の採取や調理、険しい
ブッシュ歩きの時の杖や露払いなどにも使用される。決して嫁入り道具なのではなく、
昔のアボリジニ女性が、ごくあたり前に使用していたものだ。男の子の多くが持ってる
10徳ナイフのような感覚だ。だから男性が持つ槍ほどに長いと不便なのだろう。

アボリジニの婆ちゃんで今は政治的活動をしている方がいて、「昔は私もずいぶん
ならしたものよ」などと言い、ぼくは想像がつかなかったので、どんなふうに? とちょっと
デモンストレーションを見せてもらったことがある。滑稽さはあったものの勇ましさは
なかったが、頭を殴られないようにするのがポイントで、棒を持つ指を殴られないように
気を使いながら、かんかんと打ち合う。しかし、指をぶたれないように握ると実に持ち
にくく、相手の会心の一撃を棒で受けたりすると棒を手放してしまう。こうなると降参だが、
そもそも女性の喧嘩なので、フェアプレーの精神など微塵もない。だから棒を落としたら
最後、一目散で逃げなければならない。そうしないとしこたま棒でぶたれるのである。
勝者は戦利品を悪態ともに持ち帰り、薪にしてしまうそうだ。

アボリジニは、ローテクの道具を目を見張るほど上手に使う民俗でもある。何気ない棒も
そのひとつで、力の加減で子供をあやすおもちゃにもすれば、ピストル相手の武器にもする。
われわれ文明人も多くの道具を使いこなすが、ハイテクな道具ほど応用使用が利かない
ものが多くないだろうか。

人間そもそもの生きる力を強化させるものが進化だとすれば、能力を低下させることは
退化と考えるべきだろう。するともしかして、このハイテク文明社会は退化なのでは
ないか。そして、ITやさまざまな器械は退化促進の道具なのではないだろうか。

ところで、ぼくは北朝鮮との交渉にあのおばちゃんを薦めたい。お父様が何を言おうと
「なぁに言ってんだい、このバカ!」ガチーン…、将軍様もこれで目からウロコが落ちる
かもしれない

その5.転ばぬ先のナラナラ

スティックファイティングの話の続きを書く前に、ワルピリ族という今回の主役
のひとたちについてちょっと書いておこう。

彼らはウルル(エワーズロック)の北側、かなり広範囲にその生活圏が広がる。
その土地は主に砂漠で、イギリス人たちは侵略当初からそもそもあまり目を
向けていなかったようだ。と言うより、東側の海辺の快適で食物や造船資材の
豊富な土地から、わざわざ離れる理由がなかったと考える方が正解かもしれない。
そのせいか今だにノーザンテリトリー(北部準州)に暮らすアボリジニには、完全なる
英語が浸透しきらず、太古からの言葉とオージーズイングリッシュがメタメタに絡み
合った言語を使用している。実際に砂漠の奥深くのひとたちと話をしてみると、泥酔
状態の秋田弁のひとが英語のような音を発しているようにしか思えない。音としては
「グルーンガラーンゴローン」を繰り返しているように聞こえた。ラ行の後に音引きを
つけたがるように感じたが、これが彼らの巻き舌口調だったのかもしれない。

彼らは女性の道具の棒のことを「ナラナラ」と呼んでいるそうだ。砂漠ではそれほど
多くの人間がいないせいか、争いごとに使用する話はついに聞かなかった。だが、
なんと、アボリジニのバレンタインデーみたいな日にその棒を使うのだ。アボリジニ
は母系社会なので、婿入りがごく当たり前な結婚の姿。いまでもその習慣はかなり
残っている。

バレンタインデーに果たして、年頃の女の子たちはいったい何にどうあの棒を
使うのか。それは、長老が定めた晩にいくつかのグループと合流し、やはり年頃の
男の子(結婚しても良いレベルの儀式修了者に限る)が名乗りを上げ、祭りに参加
し、焚き火を背に囲んでうずくまる。土下座をするようにして、ただ手は頭をしっかり
と覆い、地面にひれ伏し目を閉じて、決して何も見ないようにする。女子はその周りを
踊りながら歩き回り、お目当ての男の子の背中をその棒でひっぱたく。男子はそれ
を喜びとし、苦痛のうめき声でもあげようものなら、根性なしの役立たずということで
輪から去らねばならない。女子は近い将来自分の夫になるかもしれない男の子を
試せるのは、この日この時だけ。愛と不安を込めて、でも死なない程度に思いっきり
ひっぱたく。モテる男はさぞつらいだろうし、モテない男はさぞ愉快なイベントだろう。
何周か回って、きりの良いところで長老が終わりの合図を出す。周りで大人や子供
らは、激しい告白とそれを受け止めている男子に歓声と励ましの声をあげる。一旦
ここで告白タイムは終わり、そのあと男子のお礼参りが始まる。とは言ってもよくも
やってくれたな、という意味ではなく、ほんとのお礼だ。

「君だよね。僕をとっても愛してくれたのは」と激しい愛を告白したと思しき女性にその
真相を確かめる。ところがお礼をもし間違ってしまったら、次回のバレンタインデー
まで結婚のお話はなし。厳しい。ボコボコにされたあげくに結婚一年お預けだ。そんな
ことも分からないでは二人の結婚はまだ早い、という判断なのだ。集団見合いで集団
結婚なのかと思ったら、そうではなかった。

 ちなみに、そんな硬いこと言わないで良いじゃないか、痛い目にもあってるし、結婚
したいと言ってるんだから、とも思うのだが、実は狩猟採集の生活では部族の中に
妊娠中の女性や乳飲み子が一度にたくさんいると困るのだ。砂漠という過酷な環境
の中で移動しながら部族全員が安全に暮らしていくには、年寄りが多すぎても子供
ばっかりでも成り立たない。また、少人数だとどうしても起こりえる近親結婚を避ける
ためにも、いくつかの部族と合流し新しい血を分け、あるいは受け取りながら暮らして
いかないと破綻してしまう。

 規模は違うが、こういう自然の人口バランスがよく理解できずにお金ばかり追い
かけると、どっかのニュータウンみたいに、老人ばっかりの町に変わってしまうの
だろう。

アボリジニのお婆ちゃんたちは、あの棒を最後は杖に使っていたのかもしれない。
僕はアボリジニのことを、ただ永く砂漠に石器人として暮らしていたのではなく、ずっと
自然の世界の均衡や“ちょうど良さ”を見続けた民族なんだと思う。ぼくら北半球の文明
の国に暮らすひとたちの“このくらいでいいか”という地点はいったいどこなんだろう。


【03年11月記】

その6.赤い砂煙

 年末年始になると他府県ナンバーの車をよく見かける。ぼくとしては泥だらけ
の4WDにどうしても目が行ってしまう。トヨタのランドクルーザーには特に。

  ガンガリーダの地に行くにはまず、飛行機で南半球へ行かねばならない。その
後は予算の都合から陸路で彼の地へ向かう。時間はかかるが最もさまざまな
道具が積めて、自由が利く。この時“どうしてもこの車でないとダメ”というのが
 4WDで、選択の余地なくランドクルーザーになる。三菱や日産あるいはマツダ
の4WDはまず見ることがない。信用の度合いかなと思ったら、コストパフォー
マンスが高いだけだった。ランクルは日本で走っているのとはデザインが多少
 異なり、角張った丸みのないものだ。たぶん何代も前の型なんだと思う。仕様
は必要最低限で、ギアもマニュアルだ。ちなみにオーストラリアのレンタカーは
ほとんどがマニュアルなので、右ハンドルで運転し易そうな印象だが、オートマ
免許しか持っていない方は残念だが役に立たない。

レンタカー屋でまず確認しなければならないのは、タイヤの溝の深さ。浅いと
途中でバースト(爆ぜる)し、交換しなければならず、砂漠の一本道で交換が
 必要な事態になると先行きが不安で、車内のムードが一気に悪くなる。快適な
超ロングドライブのためには、まず足元から。また、車の後ろに括り付けて
あるスペアタイヤも使用する確率の高いものなので、充分に確かめておきたい。
日本でもそうだが、オーストラリアでも車載工具は使えない代物が多いので、
ちゃんとした工具が載っているかも確かめなければならない。なぜ使いにくい
工具を、よりによって緊急事態に駆使するようになっているのかは分からない
が、使いにくい工具は30分で終わる仕事を2時間にも3時間にもしてくれる。
これではたまらないので、工具を確かめるのである。最後にカンガルーバン
 パーの上に座ってみてきしみがなければOKだ。少しでもきしみがあると、本当
にカンガルーと当たった時に、バンパーごとフロントガラスを破ってカンガルー
が乗車してくるはめになる。カンガルーならいいが、暗闇で野良牛にでも当た
った時にはひとたまりもない。だからこのカンガルーバンパーだけはメッキ
で美しく仕上がってなくてもいいから、充分に強固なものであって欲しい。

ガンガリーダの地へ向かう旅はイヤと言うほどこの車と付き合わなければ
ならず、狭い車内に荷物と食料とメンバーが押し込められ、ほんとにつらい
時間を長く長くすごす。だから思い入れもつい大きくなってしまい、泥だらけ
の4WDを見ると何だかワクワクしてくる。砂漠の中をぽつんと赤い砂塵を
巻き上げて走る漫画みたいなシーンを思い出してしまうからだ。今の日本で
  走っているランクルをそのまま向うへ持っていったら、さぞ快適なんだろうなぁ。


【03年12月記】
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