大人になってもいやいやえん・過去の


●試写を見るのもいやいやえん

いやいやえん病が進んで、映画の試写に行くのも億劫な今日この頃
です。試写に出かけても今度は席を探すのが、いやいやえん。
最近、視力が落ちて真ん中より後の席だと画面がぼやけてしまうので、
なるべく前の方に座るようにしているのですが、それよりも何よりも
席探しの指針となっているのが「年寄りの隣」。携帯電話をもってい
ない年寄。たとえ持っていても絶対に上映中に電源を入れたりしない
モラルある年寄の隣に座ることに命をかけています(若い女の子や
業界系の男の隣には死んでも座らない)。

 たぶん、映画館ではもっとひどいのでしょうが、試写室でも携帯の
弊害は目に余るものがあります。映画の途中で時間を見るためにスイ
ッチを入れる(何度も)。メールをチェックする(何度も!)。メー
ルを送る(!!)留守番電話を聞く(!!!)。もう試写室とは思え
ない狼藉ぶりです。みなさんもご存じのように携帯電話は電源を入れ
ただけで光ります。発光するのです。真っ暗な試写室の中で発光させ
れば、そこに目が行きます。気が散ります。腹が立ちます。で、注意を
するわけですが、実はこれが命がけの行為だということに最近、気が
ついたのでした。

 まあ、普通の人ならば「気が散るから止めてください」と小声でいえ
ば、「すいません」とか、「はい」とか、あるいは無言でにらみつつも
携帯をしまってくれます。暗闇で携帯を発光させるのは、ペンライトを
振り回すに等しい行為だと気づかないまでも。
 でも、そのときは違っていたのでした。あれは『模倣犯』の試写の時。
中居くんが携帯電話をかけるシーンで、隣の女の子がおもむろに携帯を
取り出しました。思いっきり発光。あたり真っ白。1分、2分、彼女は
スクリーンを見ずにひたすらボタンを押します。小さい声でやめてくれ
といいました。そしたら彼女、場内に響くような声で、「今、電源を
切ってるじゃないですかぁ!!」。まったく覚えのないことで怒られた
みたいなヒステリックな反応にこっちがびっくりしました。

 そして、彼女はそれからずっと私のことをにらみ続けたのです。映画
なんか観ずに。殺気というものが正しくはどんなものかは知りませんが、
あのとき私はたしかに殺意に似たものを感じました。もしかしたら映画
が終わったら殴りかかってくるんじゃないか。殴りかからなくてもケンカ
を売ってくるんじゃないか。本気でそう思いました。ま、殴りかかって
きたら、それなりに対応させてもらうつもりでいましたが。けれども、
映画が終わった途端、いやクレジットが流れ出した瞬間、彼女は出口へと
ダッシュ! 次に予定があったのか、それとも反省したのかはわかりま
せんが、嵐のように去っていきました。
 
 これは特別なことではないと思います。あれが小娘なんかじゃなかった
ら。注意したのがおじさんで注意されたのが血の気の多い青年だったら…
…。試写室で刃傷沙汰なんて日がくるのも遠いことじゃないような気が
します(あるいそれを期にストーカー行為とか)。
 映画を観るのも命がけの時代になってしまいました。そんなわけで今日
も私は年寄の隣を探します。ああ、ほんとにいやいやえん。
               《ますだあーと通信 3月25日号掲載》

●古尾谷雅人さんを悼んで

 芸能人にはふたつのタイプがあると思う。テレフォン・ショッピング
の仕事ができる人とできない人だ。これは芸能界で「生き残れる人」と
「生き残れない人」を意味する。俳優として、歌手として、タレントと
してではなく、一介の芸能人、いや、芸人として生き残りたいか、否か。
つまり、どんな形であれ、芸人として人前に立ち続けたいか、否か。そ
れはテレフォン・ショッピングの司会ができるか、否かで決まる。
 岡田真澄は前者を選んだ。関根勤も間違いなくそうだろう。内藤剛志
もきっとそうだ。けれども、古尾谷雅人はテレフォン・ショッピングが
絶対にできない人だった。

 窮屈そうなガクランの中学生役で登場した『女教師』(本名の古尾谷
康雄で出演)からずっと、古尾谷は苦悩の人だったような気がする。どん
な陽気な役をやっても眉間にシワがよった。神経質そうに笑った。いつ
までたっても線の細い、うまいけど器用じゃない役者だった。古尾谷は
主役をはれる俳優として、いい作品をたくさん残したが、その「主役級」
というポジションが後年足を引っ張った。中年と呼ばれる年になってから
は、脇でいい仕事もたくさんした。といっても、完全な脇役ではなく、準
主役に近い、あるいは出番は少ないけれど重要な役。これまた役者としては
微妙なポジションだった。日本映画では年をとるにしたがって仕事は少なく
なる。役者の質うんぬんではなく、役そのものがなくなっていく。これは
大人向けの映画がつくられないことの証明でもあるのだが、古尾谷もまた
それを切に感じていたのかもしれない。

 最後に観た映画は『人斬り銀次』という竹内力主演の怪アクションだった。
総理大臣の役だった。古尾谷もついに首相の年になったか!と妙に感動し
たのだが、死はそれから間もなくのことだった。
 古尾谷は最後まで役者だった。役者であろうとしたのだと思う。芸能人
という名の「生涯現役」でいることより、役者として終わることを望んだ。
古尾谷雅人、享年45歳。同世代ならではの不器用な選択に合掌。

※古尾谷雅人さんは、去る3月25日、文京区の自宅マンションにて首つり
自殺されました。本メルマガでは彼を惜しみ心よりお悔やみ申し上げます。
                  《ますだあーと通信4月25日号掲載》

●タコが自らの足喰って考える

みなさん、お元気ですか? 私は貧乏ヒマで、この一年はタコが自分
の足を食うような文字どおりの[自給自足]生活を送っています。早い
話が仕事がありません。ほそぼそと続いている仕事はありますが、絶対
量は減り続け、今や存亡の危機です。入ってくる原稿料より、出ていく
お金の方がずっとでかい。毎月月末にはじっと手を見る生活です。
 もちろん仕事が減るには理由があるわけで、そのひとつは私自身にあ
ります。すなわち、原稿が遅い。〆切りにルーズ。そして「落とす」。
『たのんだオレがバカだった』といった編集者がいました。『ここから
先はもう未知の世界です』と電話で叫んだ編集者もいました。毎回、原
稿をあげたあとに猛省して、次回は絶対に遅れまいと心に誓うのですが、
いまだ同じことの繰り返しです。これでは仕事が減るのも無理はありま
せん。
 もうひとつは、年の問題。世代の問題といってもいいでしょう。気が
つけば、編集者も映画の宣伝部もみな年下ばかりになってしまいました。
仕事をはじめた20余年前は、誰もが年上の大先輩でした。それから、編
集部や宣伝部に同世代の仲間ができて、いっしょに仕事をし、遊び、た
ぶん、あれがいちばん楽しく、いそがしかった時代。こんな稼業ですか
ら、雑誌そのものがつぶれたり、連載が突然終わったりは日常茶飯事で
した。それでも、なにかが終わった後には、また新しい仕事が始まって、
あるいは単発の仕事が飛び込んで、と、なんとか“ものかき”生活は回
転してきました。
 30代の半ばを過ぎたころからでしょうか。少しづつ、原稿の量が失速
していくのを感じはじめました。仕事を依頼してくる編集者の大多数は
年下の男の子や女の子になり、試写室の入り口に立つ宣伝マンたちも一
世代も二世代も若くなっていました。同世代の仲間たちは、編集長や宣
伝部長といった位置になり、第一線から離れ、現場にはあまり顔を出さ
なくなりました。若い世代の編集者や、宣伝マンたちには、やはり同世
代のライターの仲間がいて、彼らのネットワークが回転しはじめていま
した。年上の「原稿の遅い」「おこりっぽい」「扱いにくい」ライター
より、「気心の知れた」「無理のきく」同世代のライターに原稿をたの
んだ方が、どれだけ気楽でやりやすいか。いつのまにか、雑誌の映画欄
は知らない名前ばかりになっていました。
 考えてみれば、あたりまえのことです。世の中はそうやって回ってい
る。私たちもきっと同じように先輩たちを無意識のうちに排除してきた
のでしょう。けれども、やはりものかきはものを書いて生活していかな
ければなりません。とにかく、今ある仕事を大切にして、精一杯やって
いくしかないのでしょう。続けていくこと。たぶん、それがいちばん大
切なことなのかもしれません。
 タコの足を食いながら、ふと考えます。ものかきにもテレフォンショ
ッピングの司会ができる人とできない人の二種類があるのかもしれない
と。同世代の友人の中には若い編集者や宣伝マンと巧みに歩調をあわせ
て、ばりばり仕事をしてる人もいます。売り込みに懸命な人もいます。
その一方でほとんど引退宣言をしてしまった人も。さて自分はどうだろ
う? まだ答えは出ないままです。ま、とりあえずは「原稿の早い」
「やさしい」「扱いやすい」愛される中年老年ライターをめざしてがん
ばろうと思います。                     
                《ますだあーと通信5月25日号掲載》

●青春の映画館がまたひとつ消えていった。

渋谷パンテオンが閉館した。いや、パンテオンが入っていた東急文化
会館が閉館した。閉館イベントでは、先にクローズした最上階の五島プ
ラネタリウムも再開し、連日にぎわったらしい。パンテオンをはじめと
する映画館もしかり、である。
 だけど、だったらこんなことになる前にもっとちゃんと通ってくれよ
と、にがい気持ちでいっぱいだった。なんでもそうだ。映画館でも遊園
地でも、最後の最後になって、たくさんの人がかけつける。それまです
っかりその存在すらも忘れていた人たちが、「なつかしい」とかいって
押し掛ける。で、きっとすぐに忘れるのだ。東急文化会館をめぐる「な
つかし騒動」もそれに近いものがあった。
 私にとっての東急文化会館はパンテオンでもプラネタリウムでもなく
て、やっぱり東急レックス。晩年は東急3だかの名前で呼ばれてたよう
だが、レックスこそが、わが青春の映画館だった。
 文化会館には1000人以上のキャパを持つパンテオンと、ちょっとおし
ゃれ系映画(『マッドマックス』もやったけど)が得意な渋谷東急。B
級SF・ホラー・アクション、そしてアニメが多くかかった東急レック
ス、そして東急名画座があった。『フレッシュ・ゴードン』『続・恐竜
の島』『アトランティス7つの海底都市』『シンドバッド虎の目大冒険』
……、レックスで観た映画のタイトルをあげただけで胸が躍る。しょー
もない映画も多かったけど、いつも決して混んでないあのがらんとした
空間が好きだった。
 東急名画座は1本立ての名画座で、他の劇場に比べると少々格調の高
いセレクションも多かった。けれどもここは痴漢多発地帯でもあり、学
校帰りに制服で行くと必ず痴漢オヤジに遭遇した。『ネットワーク』を
観に行ったときなんか、劇場内をそのオヤジとおっかけっこした(私服
のときはそんなこと一度もなかったのに…)。それも今ではなつかしい
思い出になりかけている。
 閉館イベントがTVとかでしきりに取り上げられたころ、みな決まっ
てこんな言葉を口にした。「東急文化会館はシネコンのはしりだったん
ですね」。したり顔で言うキャスターやコメンテーター。ばかやろう、
シネコンってのは当たる映画を2館3館、あるいは4館5館でもやるん
だ。たとえその劇場が、昨日と今日で入れ替わっていても観客はきっと
気がつかない。なぜならどこも画一化された同じような器だから。
 文化会館の映画館にはそれぞれ色があった。劇場ごとに匂いと傾向と
そこにいついた観客があった。
 パンテオンが消えた今、東京の1000人以上入る劇場は片手の指に足り
ないくらいになった。シネコンは雨後のタケノコのように増え続ける。
映画の公開本数も年々増加の一途をたどっている。けれども、シネコン
では常時「当たる映画」がどんどんスクリーン数ばかり喰っていき、当
たらない映画の上映期間は短くなる一方だ。単館の劇場では上映待ちの
映画が列をつくっている。
 もうパンテオンやレックスみたいな劇場の時代は終わったのかもしれ
ない。人はきれいで座席もふかふかでポップコーンの匂いのする映画館
に行きたがる。たしかにそれもありだろう。でも私はやっぱり、昔なが
らの無駄にでかくてスクリーンもでかくて、だけど椅子にしても音響に
してももうひとつ良くない「恐竜」(東急レックス=T・レックスだ)
みたいな映画館が好きだ。ガタガタの座席も、トイレの芳香剤の匂いも
ひっくるめて映画。レックスで観た映画にはみなその匂いがあった。東
急文化会館という建物そのものに匂いがあった。今では「文化」という
言葉すらもなつかしい。
 新しい映画館については未定だそうだ。シネコンができるという噂も
ある。でもパンテオンクラスのキャパの劇場が入ることはないという。
新しい建物には「文化」なんて文字はきっとつかないだろう。横文字の
こじゃれた名前がついて、渋谷の街に呑み込まれていくのだろう。
 かつてここに東急文化会館ありき。それでいい。私たちはそこで間違
いなくかけがえのない時間を過ごしたのだから。         
                  《ますだあーと通信7月31日号掲載》

※Fuji Rockで仕事してきました。イラスト・リポートです。スマッ
シュのホームページかFuji Rockers EXpressでたぶんみつけら
れると思います。覗いてみてください。今までにこんなに描いたことの
ないくらいイラストを描きました。でもどうしてこうも観たいアーチス
トのステージがかぶってるんだろう。エンケンと三上寛、ビョークとイ
ギー・ポップ……ひどすぎ。
http://www.fujirockers.org/





●いやいやえん救急車に乗る

 みなさん、お元気ですか? 突然ですが、私はこのあいだ生まれて
はじめて救急車に乗りました。
 8月、お盆の雨の日の深夜のことです。少々、アルコールも入って
ました。なんとか終電車を乗り継いで帰宅して、マンションの玄関で、
鍵を出そうとしたそのとき、つま先からすべって顔から着地。気がつ
いたときは血まみれでした。歯が折れてました。その折れた歯で唇を
切ったらしく、その血が服や手やコンクリートに飛び散ってプチ犯罪
現場のようでした。
 うちの前だったので、とりあえず部屋に入って手を洗い、顔も洗って、
ついでにブラウスも洗剤に漬けました(お気にいりの白いブラウスだっ
たので傷の具合よりもこっちが先でした)。で、バスルームの鏡で顔を
観ると、唇は見るも無惨な姿になってました。今だからいえますが、ほ
とんどホラー映画です。切れたというよりは、一部ちぎれかけていると
いった感じで、血まみれでぶらぶら(救急病院の先生によると折れた歯
が唇を内側から外へ貫通したとのことでした)。前歯一本は2/3くら
いを残して折れてました。お酒を飲んでいたせいで出血は止まらず、唇
はみるみる腫れてきます。さてどうしたものか。この場合、救急車を呼
ぶのがいちばんいいのでしょうが、深夜のこの時間、ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜
と派手に路地に入ってくる救急車を思うと、ちょっと腰が引けます。猫
ほどの脳みそは考えました。そうだ。交番に行って救急病院を教えても
らおう!
 交番のお巡りさんは親切でした。「この時間だったらやっぱり救急車
の方が確実」といってすぐに救急車を手配してくれました。さすが都心
です。救急車は5分足らずで到着しました。そして、簡単な問診と脈&
血圧のチェック。一部ぶらぶらの唇を指して「ここ、なんか取れそうな
んですけど」といったら、「さわっちゃダメです!」といわれました。
救急隊の人たちも親切でした。受け入れ先の病院を探すのに無線ではな
く携帯電話を使っていたのにはちょっと驚きましたが。この間、10〜15
分くらい。私のようなケガ(見かけはちょっとすごくても命にはかから
ない)のときはいいけれど、これが重篤な場合は致命傷になる時間かも
と思いました。病院が決まれば、それから先はあっという間です。救急
車は夜を裂いて猛スピードで走ります。赤信号を突破し、反対車線を走
りぬけ、気がつけば、もう病院の救急受付です。ただし、乗っている方
はどこをどう走っているのかは全然わかりません(救急車の窓は目張り
されているので)。で、車から降りた私のひとことは「ここ、どのあた
りですか?」。血まみれのくせに間抜けです。
 救急病院の宿直の先生も看護婦さんも親切でした。でもこの場合、縫
ったりすることはできないとかで、消毒をして薬をつけてもらって帰さ
れました。行きは救急車でしたが、帰りは自力です。タクシーで帰りま
した。
 翌日の再診では傷の中に折れた歯の破片がいくつか入っていることが
わかりました。思ったより激しいケガだったようです。
 通院は約一週間。適切な応急処置と治療と、猫目小僧のような治癒力
で、傷はぐんぐん回復していきました(人間の再生能力ってすごい!)。
折れた歯も歯そのものや根の部分にダメージがなかったとかで、〈かぶ
せる〉という形できれいに治せると、かかりつけの歯科でいわれました。
しかも保険で。
 後日談になるのですが、ケガをした翌日、そのときにしていた時計を
見つけました。電池がはみ出て完全に壊れてました。転んだときに手を
ついたりした記憶もないのですが、それを見てちょっと怖くなりました。
 みなさんも足元には十分ご注意を。それから、つま先のすり減ったス
ニーカーは捨てましょう。雨の日は特に危険です。
 人生いろいろ。“STEP YOUR WATCH!”の意味を体で
知った●●歳の夏でした。

《富士見堂通信9月16日号掲載》


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