〈私〉はどこにいる?
 「短歌朝日」三・四月号が「『私』を棄てた歌人たち」という特集を立てている。現代短歌を素材に〈私〉という視点から自在に書かれたエッセイが揃っていて読みごたえのある楽しい特集だ。ただ、〈私〉という概念の把握の仕方がほとんど執筆者ごとにばらばらで、少し困惑もした。たまたま〈私〉の問題の要点が、最近、別所で読んだ二つの文章に浮き彫りになっているので紹介する。
 小高賢が「かりん」一月号の「〈私〉の構造と読み」で、〈私〉と作品の読解の関係について述べている。曰く、面白く読むことの根底には「身につまされる」と「われを忘れる」という二つの要素がある。こうした共感や感情移入を作者自身がはらむ「他者」とかわすことにより〈私〉が形成されている。つまり「作るということは同時に読んでいること」という発想が小高にはあるわけだ。だから他者に読解可能であり、そこで〈私〉がさらに大きく豊かになるというのである。
 これに対して、「歌壇」三月号の「短歌の私、生身のあなた」で、穂村弘が面白いことを書いている。イベントで発表した自身の題詠が、題をうまく消化できていないと指摘された。批判を受けて穂村は「歌のなかに本当の〈私〉というものがくっきりと姿を現したのである」というのだ。作品が読解されたことによって、題について曖昧に認識していた未知の〈私〉が摘出され、結果、自身が未知の〈私〉に出会ったというわけである。
 ひらきなおりの感もある発言なので、一度は笑って読んだが、〈私〉をとらえる発想として、前述の小高の意見を根本的に否定しようとしているのだと思う。穂村は、作者自身がはらむ「他者」というのは未知の〈私〉であり、作者が意識的にはかかわることができないと主張しているのだ。現代思想が扱ったコミュニケーション論の入口、という気がしないでもないが、むろん短歌の重要な問題ではある。議論を尽くしてほしい。

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