「かばん」あるいは東直子あるいは快い不安について |
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会社勤めをはじめてから二年になる。三十歳で就職したため、まわりはぼくより年下なのに就職歴が長い同僚ばかり。言語も価値観も違う「外国」での生活をはじめたような気分だった。彼等は、それまでのぼくがほとんど価値を見出すことのできなかったあれこれに価値を見出す。驚かされっぱなしの毎日が延々と続いた。彼等の中にいると何だかひどく不安になり、自分の世界が大きく傾いたような感覚をいつも味わっていた。二年が過ぎ、彼等の価値観を受け入れることに徐々に慣れては来た。おしゃれな店で食事をしたり、バザールのシーズンに買い物にまわったりなんてことも含め、何が楽しいのかを理解できるようにはなった。もちろん不安がなくなったというわけではない。彼等はあいかわらずぼくにとって「外国人」なのだ。「他者」という呼び方をしてもいい。自分のつくる安定した世界を壊し続ける存在なのだ。ただ、この不安な感じはとても貴重なもので、むしろこの不安が今のぼくを「ぼく」として成り立たせているような気もする。 先日、ある歌会で東直子さんに会ったのをきっかけに、実に久しぶりに「かばん」をじっくり読んだ。会社の年下の同僚たちから感じる不安と同種の感覚に不意に襲われた。何か中心が見えない。焦点が見えない。中山明が編集をしていた時期の「かばん」にも理解できない部分はあったけれど、今ほど不安な気分になることは決してなかった。自分の安定した世界を壊す存在として「かばん」が目の前にあらわれた。 少し遅れてきた人の汗ひくまでのちんちろりんな時間が好きよ 東 直子 「…び、びわが食べたい」六月は二十二日のまちがい電話 同 痛がりの乳房をもっていたころに初めて噛んだこのタブレット 同 逃げだした十姉妹(じゅうしまつ)たち探すため すわ大阪へすわ父島へ 同 七月号の特別作品「ちんちろりん」からの抜粋。東直子は、ぼくの不安の中心に近いところにいる作家だ。何なのだろう、この「ちんちろりん」というのは。松虫だとか松毬だとか辞書的に意味を解釈しようとすると、まるで手の届かない世界になる。逆に、外国語の文献を辞書なしで読む感覚で、意味のわからない単語をそのままに、コンテクストだけで把握してしまおうとすると、にわかに身近な世界に感じられる。この、感じられるのに説明できないあたりが、不安をかきたてるのかも知れない。間違い電話も過敏症の乳房も十姉妹の逃避行も、その確信を持った文体がたしかな手ざわりを何も与えないというアンバランスな状態が新鮮だ。この「外国人」あるいは「他者」と呼びたくなるような不思議な印象は、決して「かばん」とぼくとの距離によるものではないと思う。仮に「かばん」の仲間となって、同じ「場所」で書くことになったとしても、おそらく不安は不安のまま残り続ける。 何度でも終わるはじまる美術館きみの両手と魚と花と 杉山美紀 なすのはな花の天ぷら好き夏の塾に小さなふたり駆け来る 同 宇宙は膨張してると真っ先にいいだしたのはシャボン玉です 杉崎恒夫 ブレストの突起をみれば二点間の最短距離は曲線である 同 左手に読み終えた本右手にはまだ読まない本〜〜蛙の卵 白糸雅樹 喋り方忘れてしまったわたくしを沢山拾い途方にくれる 同 てのひらを電車のドアに押し当てて緑の街をすーっと滑る 成瀬しのぶ 麦藁帽かぶってすぐに出かけよう 砂丘へ逃げた「ら」をつかまえに 同
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