少女主義の王女道−芹沢茜「窓のない部屋」に寄せて |
---|
芹沢茜さんをはっきり意識したのは、たしか昨年の秋、ニフティサーブで短歌フォーラムが開設されたときだったと思う。電子会議室のボードリーダーとして颯爽とデビューした芹沢さんは、花の香や星の光につつまれた妖精みたいな存在で、ぼくの考える歌人のイメージとはおよそかけはなれた人だった。以来、芹沢さんの名前を見ると、反射的に、花やら星やらが眼前にきらきらして、何だか不思議な気分が訪れるようになった。作風にもそのきらきらは反映されている。井辻朱美さんや山崎郁子さんや東直子さんともどこか遠くでひびきあっているのを感じる。かばん的少女主義の道をひたすらに進む芹沢さんの作品は、とにかくきらきらとして眩しい。眩しすぎて捉えどころのない感もあるが、じっくり読んでみると、ほっと安心させてくれる何かを持っているのに気づく。その世界では夢見る少年少女の昼と夜が永遠に繰り返されているにもかかわらず、この日常にやわらかく降りてきて、不思議なくらい読み手の気持ちにすんなりとおさまってくれる。きらきらしてはいるけど、飾らない、力まない、等身大の文体ということなのかも知れない。
たわむれに描いた月の絵のようないびつなまるの恋をしました たとえば、こう言われてみても、実のところどんな恋なんだかさっぱりわからないはずなのに、何だか質感のあるイメージが内部でたちあがるように感じる。修辞のうまさというのでもなく、うまく言えないが、語り慣れた口調のもたらす説得力のようなものかと思う。芹沢さんが日常的にどんな風に語る人なのかは知らないが、つね日頃から語り慣れた調子で語るときのようなとてもリアルな印象がある。書かれた情報の虚実ではなく、文体という観点から、とても生な感じの私的存在がはっきり見えると思った。 ねえ雨はやまないみたいもういちどねころんできこう雨のやむ音 てのひらをいったりきたりしてるだけ銀河鉄道色の約束 まつげからさきになみだがいかないようにまばたきをして空をみている 窓のない部屋から誰かを呼ぶときの声に似ていた留守番電話 出会い、とまどい、うねり、そして結末というように、一首一首にまつわる恋のエピソードまた情景は、わりあい見えやすく、誰にでも訪れそうな、と言ってしまいたくなる内容ではないかと思う。それがなぜかきらきらしていて、しかもすとんと胸の内に落ちてくるのは、芹沢さんの独特の語り口によるものだろう。これだけ綺麗に短歌を書き、かつ読ませる人というのは、つらつらと考えてみても記憶にない。かばんの怖〜い先輩たちからは、あま〜い、と言われそうなスタイルではあるが、ちょっとじっくり研究してみたいと思わせる口語/散文体だし、どこまでこのスタイルを崩さずに書けるのかというのも興味がある。成長したり羽化したりせずにこのまま自分の道をつき進んで欲しいと思うのは読者としての勝手な願いかも知れないけど、芹沢さんにはそれができるんじゃないかという予感みたいなものはある。 つるつるの心じゃ何もきざめないしわくちゃにしてそれがはじまり 三十首の末尾に置かれたこの一首、どうも優等生的な発言に聞こえてしまって……。たしかに世界や日常やこころは、つるつるのままじゃ何もきざめないんだとは思うけど、しわくちゃにならずにきらきらでぴかぴかのままでどこまでも果てなく続く芹沢茜的な世界というのがあってもいいんじゃないかな。
たわむれに描いた月の絵のようないびつなまるの恋をしました 突然の雨しみこんでくるように出逢った人をわすれられない ねえ雨はやまないみたいもういちどねころんできこう雨のやむ音 てのひらをいったりきたりしてるだけ銀河鉄道色の約束 ゆくところまでゆくそう決めているから明日は笑うひまわり くちびるに答えられないくちびるはキスじゃないからくちびるを噛む ほっぺたにごはんつぶがついてるよなんてしあわせごっこかもしれない まつこととまたせることのあいだにはおなじにおいのためらいがある うっかりとしゃべった言葉に自分さえうろたえている本当すぎて 鏡文字みたいな言葉のやりとりのとぎれた夜にうまれたわたし ひだりてにもった手紙は砂色で差出人は不明のままです しあわせをやぶいてしまった指先にぬってねむろう桃の花クリーム さみしくても誰にもあいたくない日にはまちがい電話にやさしくなれない おはようもおやすみもない週末にひとりという意味かみしめている 存在の意味をなくせばとけだした薄氷よりも不確かないま つるつるの心じゃ何もきざめないしわくちゃにしてそれがはじまり |