主格のパレード−千葉聡「フライング」について
 「かばん」が創刊十五年になるという。現代短歌の中でもかなり大きな波のあらわれたこの十五年を進んで来たのだから凄い。いやもっと正確に言うと「かばん」の十五年自体が現代短歌の大きな波であると言うのが的確だろうか。中山明、井辻朱美、林あまり、高柳蕗子、穂村弘、山崎郁子、東直子、そんな名前がつらつらと思い浮かぶが、昨年十一月の新人特集号を見ると、彼等がすでに新人でも若手でもなくなって、さらに新しい顔ぶれが台頭している様子なので驚く。千葉聡の名前もそこにある。電子メールで知り合った彼は、私信では、元気がよくてわがままや悪いこともいっぱい言うとても楽しい青年なのだが、いざ人前に出ると、礼儀正しくおとなしくなる。おい、千葉、嘘っぽいぞ、といつも思っていたが、どうやら作品の方では、その嘘っぽさを徹底的に粉砕したようなのでうれしく思っている。そうこなくちゃね。

 一首の短歌を書きあげたとき、作者はそこから発生する一人称の主格のようなものに対峙することになる。あるいは、そこに人の姿を見ることになると言った方が感覚的にわかりやすいかも知れない。これは誰だ? という疑問が瞬時に発生して、でも多くの場合はすぐに消えてしまう。これは私の姿、もしくは私が書こうとした「私の姿」なのだと納得して。しかし、自分が書いた複数の作品を前にしたとき、作者はもう一度、今度は、これらは誰だ? という疑問にさらされることになる。「私の姿」であるはずのいくつかの作品が、それぞれに連関を欠き連続性を持っていないことに驚かされる。二度目の疑問は決定的なものであるはずだが、作者たちは、連作とか歌集とか文体の統一感とか私的体験といった精巧な「糸」を使って、「私の姿」を縫いあげる。糸の選び方や縫い方は、作者によってまちまちだが、大きな「私の姿」のために、素材である小さな「私の姿」=一首が加工されたりもする。説明すると奇妙な感じがするかも知れないが、群として作品を書くというのは、右のような経緯をどこかにはらんだものだと思う。そして真摯にはらむべきだと思う。千葉聡の「フライング」を読んで思ったことは、そういうことだった。
 第四十一回短歌研究新人賞受賞作である千葉聡の「フライング」は、全体がどこかぎくしゃくすることも厭わず、「私の姿」とひたむきに対峙した作品だと思った。私事だとか個人の世界観というのではなく、作品から見える「私の姿」と作者の意識の間で、これでいいのか、この「姿」を自分がひきうけていいのか、という葛藤がそこに確かにある感じがするのだ。比較の対象を選ぶのはちょっと難しいが、たとえば同時受賞の石井瑞穂の作品は、テーマが見えやすい、技術的にもそつがない、構成がしっかりしている、といった新人への要請らしきものをきれいにクリアしている。うますぎるくらいにうまい。これは近年の新人賞受賞者に共通する傾向だと思われる。小さからず大きからぬ「私の姿」があらかじめ想定されていて、それに沿って丁寧に一首一首を書きあげたように見える。実際はどうかわからないが、結果としてはそう見える。一方、千葉の作品には、一首が自分の想定を超えて暴れ回るのを許容しながら、辛うじて「私の姿」の中に収めているのが感じられる。決してうまくは見えないが、選考委員の言葉とはうらはらに、好感度が高い、と感じられた。

 明日(あす)消えてゆく詩のように抱き合った非常階段から夏になる

 「人の二大義務は死ぬこと、恋すること」息をすること、食べること、では?

 銀河系から脱皮せよ「さよなら」の「さ」と「よ」と「な」と「ら」舌で書く空

 引力に負けて地球に貼りついたイデアだ海も光も僕も

 これらの「フライング」の作品に見られるのは、それぞれ「この世界」に対して、冷静に受容したり、茶化したり、理屈で説明できない不可解な態度をとったり、稚気の感じられるような世界観を拮抗させようとしてみたり、読めば読むほどどこに本音があるのか見えない主格のパレードだ。何がお前の本音なのだという疑問にさらされたとき、たぶん千葉には答える方法がないと思うが、一つの角度に絞って世界に対峙する主格の自然な連続ということに対する違和感を、これらばらばらに見える作品群の裏側に読みとってもいいように思う。主格が、いまここ=ある時のある場所においては「そうだ」、ということのリアリティは、いまここ1といまここ2においてそれぞれに違う「そうだ」を持っていても失われない。逆にどんな「いまここ」に対しても、主格が連続したものとして存在するかのような統一感にはリアルな感じが失われることがある。作中の、俳優の卵であるケントやボクサーであるヒロが、「僕」の視点から見たときに持つ三人称主格としての連続性と対置することで、「僕」の散漫さ、およびそこから生まれるリアルな感じは、いっそうはっきりしたと思う。仮にケントとして俳優の卵になることもヒロとしてボクサーになることもできたのに、千葉はそれをしなかった。「僕」の在り方を見る限り、私的事情に反するからという理由ではないところにケントでもヒロでもなく「僕」として非連続な主格を生きた理由があると思われる。受賞後第一作の「虹飼ホテルにて」や「かばん」新人特集号の「青空症」にも同じような傾向があった。歌集をまとめることになったとき、ぼくが感じたこれらの印象が、より鮮明になるのを期待している。

 あともう一つ、「フライング」のタイトルについて触れておきたい。こういうアレゴリーが受賞作のタイトルになるのは、何だか珍しいことだと思っていたのだが、言及されたのをほとんど聞いたことがない。

 君であること僕であることさえも笑っちゃうほど朝焼けを見た

 もちろん自己と他者の問題は、二人で見る朝焼けなどに解消はされないが、「フライング」=飛ぶこと=重力に抗すること、というタイトルからも推測できるように、宇宙や空中や引力に関わるものは、作中ではすべてアレゴリーとして用いられている。何々が寓意されているというアレゴリーではない。「言葉では見えない何か」に世界が影響を受けているという感覚だけが提示されている。神とか死とか言葉で言ってしまった瞬間に消えてしまう何かに似ている。描かれたケントの死よりももっとずっと「死」に近い何かが感じられるようなものだ。千葉がどれだけこのアレゴリーを意識的に提示したかはわからないが、読後にしこりのように消えないこの感じが気になって仕方ない。「連作」の新しい方法を胚胎しているような気がしてならない。



   フライング   千葉 聡

明日(あす)消えてゆく詩のように抱き合った非常階段から夏になる

空の果て見とどけたくてサングラスはずしても宇宙的にはOK

「人の二大義務は死ぬこと、恋すること」息をすること、食べること、では?

君であること僕であることさえも笑っちゃうほど朝焼けを見た

「Y」よりも「T」よりも「个」になるくらい手を振り君を見送る空港

銀河系から脱皮せよ「さよなら」の「さ」と「よ」と「な」と「ら」舌で書く空

殺される役でケントが五秒だけ出ている映画をケントと見に行く

オーディションに落ちてもハードボイルドでいく俳優の卵(マジかよ?)

自販機の取り出し口に置き去りの自意識過剰っぽい缶コーラ

ボクサーであり続けるため海沿いの道を走っているヒロである

パンチには嘘つかないこと 牛乳は噛んで飲むこと 生きてゆくこと

俳優の卵がカレーの大盛を食いながら読むジャンプは臭い

ボクサーはラーメンライスを食いながらテレビでバリの海を見ている

熱帯夜 背後霊氏に抱かれつつ叫んでみたい「さらば地球よ」

引力に負けて地球に貼りついたイデアだ 海も光も僕も

ケントからはしゃいだ電話「九月から舞台に立てる」二十二時 晴れ

第三次選考で落ちた小説と僕は別れた 燃えるゴミの日

コンビニのおにぎりたちは夕虹に気付かぬ者に売られてゆくよ

人が見ていないときだけ噴水は空になるのをあきらめてみる

ケント死す 交通事故の現場には溶けたピリオドみたいな今日が

喪服など持たないヒロはジーンズで来た 命より赤い目をして

五十音さかさに「無(ん)」から唱えだす「吾(あ)」になるまでに泣きやむつもり

友の死を君に知らせる手紙には無性生殖したような「……」

ポスターはこの夏に灼け出演者変更のビラ白く貼られる

唾を吐く 体の中にまだ白いものがあったと驚きながら

ボクサーと走る夜明けの海沿いの道 足音の残響を聞く

「おまえにしか書けないものがきっとある」賢人(ケント)のことば寄せかえす海

台風が近づく夜更けペンを取る 僕は闇でも光でもない

ワープロのキーを叩いた この星の引力に負けないほど強く

蛇行せよ詩よ詩のための一行(いちぎょう)よ天国はまだ持ち出し自由

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