1999年の縦と横
 一九九九年になった。世界が終るのかどうかは知らないが、一九九〇年代は確実に終ろうとしている。個人的な感触で言えば、短歌の一九九〇年代は、一九八〇年代に兆した作品質の大きな転換に、とてもゆるやかに対応した時代だったと思う。あるいはその異変にとまどって停滞した時代だったとも言えるだろうか。『サラダ記念日』の出現といったにぎやかな事件こそなかったにせよ、この変化の波は、徐々にそして確実に広がっているのではないかと感じている。この大きな転換というのは、ほとんど誰もが感じているらしいのに、まだ実感のある言葉で語られることが少ない。たとえば「ポスト近代」だとか「主体の変容」とか「価値観の多様化」とか、現代思想系のテクニカルタームにのせて語られるのだ。歌人たちは、どうやらそれを聞くたびに変化の実感をむしろ失うらしい。何かもう少し短歌の世界の実感をともなう言葉で考える必要があるのかも知れない。

 ぼくは今、一九八〇年代に兆した作品質の大きな転換を、作品を「横に読ませる力」の欠落として考えはじめている。今のところ転換についての価値判断は留保せざるを得ないが、近代以降の短歌がめざしたものを丸ごと欠いたままで提示される作品が、みるみるうちに増殖している印象だ。とても乱暴な掴み方だが、短歌を作品一首単位で読ませる力である「縦に読ませる力」と、もう一つ、まとまった作品(多くは連作・歌集)として読ませる力である「横に読ませる力」というものを想定してみてほしい。たとえば、正岡子規や伊藤左千夫等の連作とその論理、与謝野晶子『みだれ髪』や石川啄木『一握の砂』などにおける主題構成の意識など、いずれも作品を縦に読ませる力と横に読ませる力とのバランスを整える姿として、また、そのバランスのうちに主題や世界観を提示するという姿として、きわめてよく似た共通の感触を持っている。時代を経た後々の前衛短歌にしたところで、この点だけは大いに共通している。もちろん例外がないわけではないのだが、近代以降の短歌において、作品を縦に読ませる力と横に読ませる力の交響のうちに主題や世界観を提示するというのは、短歌を文芸として成立させ、短歌滅亡論や第二芸術論に対峙するための必須の方法だったと言えるのではないだろうか。
 ところがこの共通の感触も、一九八〇年代あたりからは、にわかに転換しはじめている印象がある。井辻朱美、紀野恵、水原紫苑という名のあげ方をしてもいいし、俵万智、加藤治郎、穂村弘という名のあげ方をしてもいいのだが、彼等の作品に共通にあらわれているのは、作品を横に読ませる力の欠落だ。井辻朱美、紀野恵、水原紫苑に、作品を横に読ませる意図がきわめて薄いのは周知のことかと思われる。俵万智、加藤治郎、穂村弘をあげることには意外な印象を持つ読者がいるかも知れない。だが、彼等の作品が持つ横のつながりというのは、時間の流れや空間の設定や一人称の統一感といった、作品を入れるフレームとしてのつながりであり、そこに主題や世界観をひらめかせる種類のものではないと言えば首肯する人も多いのではないだろうか。彼等の作品の横のつながりは、あくまでも縦に読ませる力を強化するための補助的な方法として存在しているのだ。

 佐佐木幸綱が感じているという「歌壇カラオケ状況」(短歌研究社「短歌年鑑」一九九八年一二月)というのも、こうした横に読ませる力の欠落と無縁ではないだろう。「自分が歌うの大好きだし、仲間が歌うのも、まあ聞くけども、あとはもう全然聞かない」と佐佐木は言う。確かに最近、こうした商業的執筆の世界と雰囲気が似ていると思われる状況はある。しかし、他人の作品を読んでいる読んでいないというのは、きわめて感覚的で漠然としたものであり、個人的には、先に述べた横に読ませる力の欠落した作品の増殖がそんな印象を持たせているのではないかと感じている。なにしろ共有する世界観といった接点が作品上にあらわれないのだから、同じ情報に接しているとは感じにくい。しかし、そこにものたりなさを感じても、作品を批判する根拠として成り立つのかどうかはまた別の話ではないかと思う。作品を縦に読ませる力によってのみ他者とつながり、横に読ませる力の欠落したスタイルというのは、他者の世界観との徹底した断絶(違いの存在を明確にすること)によって自己の存在を確立する方法論の一つとも考えられるからだ。

 穂村弘は、一九八〇年代に顕著な作品質の転換や同世代の特性を、〈わがまま〉という語で捉えようとしている(角川「短歌」一九九八年九月)。共通する世界との接点を持たずに、自己の世界への「ひとりの信仰心」を徹底するような作品(例にあがっていたのは井辻朱美、紀野恵、水原紫苑、俵万智、山崎郁子、早坂類、東直子)について、「読み手はその作品世界全体を受け入れるか、或いは全く手を伸ばさないか、という二者択一を迫られる」と述べている。同世代であることが理由かどうかはわからないが、ぼくにはこの穂村の主張は感覚的によくわかった。同時に岡井隆が、穂村の同文に対して、例にあげられた紀野恵や水原紫苑は、従来の短歌の感覚でも接することができるのではないかという疑問を呈している(角川「短歌年鑑」一九九九年一月)のも論理的によくわかった。両者の意見のすれ違いは、先に述べた、作品を縦に読ませる力と横に読ませる力の問題にあてはめて考えてみると少し見えてくるのではないだろうか。つまり、穂村が二者択一と述べているのは、縦に読ませる力一辺倒で横に読ませる力を欠落させた作品に見られる、個人的な世界観を丸ごと認容するかしないかの問題であり、岡井が従来の感覚で接することができると言っているのは、縦に読ませる力によって成立する作品を一首の単位でなら受け入れられるということなのだと思われる。

 縦に読ませる力/横に読ませる力という発想は、ぼくの中でもまだ熟していない大掴みなものだが、案外とこれで割り切れていくものも多い。機会があれば近代の作品や歌論を素材に明確に組み立てたいと思っている。


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