横糸の見えない織物−水原紫苑論
 やや大雑把な言い方になるかも知れないが、現代の歌人たちの多くは、作品を「縦に読ませる力」と「横に読ませる力」との構成に腐心している。縦に読ませる力というのは、直立する一行の詩を文字通り縦に読ませる、つまり一首として読ませる力であり、作品のまとまりをより重視する者はいるとしても、これにまったく無頓着な歌人はいないと言っていい。対して、横に読ませる力というのは、まとまった作品として読ませる、あるいは歌集のページを先へ先へと繰らせてゆく力である。実は、こちらにはあまり関心のないといった風情の歌人たちがいる。たとえば井辻朱美であり、紀野恵である。そしてここで少し考えてみようとしている水原紫苑も、作品を横に読ませる力にあまり関心のない典型的な歌人の一人だと思われる。良い悪いを言うわけではないが、武川忠一が問題提起した「近代歌集の構成意識」とか、岡井隆の「主題制作と連作」といった近代短歌の歴史にまで関わる問題意識が、彼女(たち)の歌集にはすっぽりと抜けているのだ。高野公彦は、第一歌集『びあんか』(一九八九年)の解題で、水原のこうした作品質を称して、〈樹木〉型に対する〈泉〉型、また「成熟とは無縁の湧出」と指摘していた。高野はそこで、似た作品質を持った先人の例として葛原妙子等をあげたりしていたが、『びあんか』『うたうら』『客人』と三冊の歌集が刊行されてみると、作品を横に読ませる力への水原の無頓着ぶりは、もはや葛原のレベルでもない異常なもののようにも感じられる。まるで横糸のない織物のようだ。

 水原紫苑の歌集を読むとき、ぼくはまず物理的に制作されたページ順に読む。次に少し時間をおいて最後のページから逆に読み進めてみる。それからまた少し時間をおいてアトランダムにページを開いて読んでみる。普通この読み方をすると、はじめの読みで見落としていた作品が、二度目三度目の読みであらわれたりするものなのだが、水原の歌集の場合、ほとんどあらわれない。三通りの読み方でも歌集の印象はほとんど変わらないのだ。読み終えるといつも、ああやっぱり水原紫苑だなあと、不安のような安堵のような不思議な気分を味わいながら、この「横糸のない織物」について考えはじめることになる。

 こぼれたるミルクをしんとぬぐふとき天上天下花野なるべし 『客人』

 椎の木の梢に女優ひとりゐて死にゆくときにひかる椎の実    同

 去勢されし犬の苦しみしんしんと天の琴座をかき鳴らすかも   同

 人気(ひとけ)なき元日の街けぶるがに美(は)しきピラミッドをわれは見しかど                           同

 祈るときみづうみとなる部屋ぬちに耐へがたき数の白鳥棲まふ  同

 前述の方法で第三歌集『客人』(一九九七年)を読み終えて、強く印象に残った作品である。一首目の「こぼれたるミルク」にある底抜けの明るさは何に由来するのだろうか。覆水が盆にかえらぬことに対する後悔とかあるいは強がりといったものがこの作品にはない。生前か死後のように時間に追われない空間が広がっている。「天上天下花野なるべし」とは、実際の少年少女にも持てないほどの稚気だろう。二首目の「椎の木」に見る女優の生涯も、もう少し現実的な活躍や零落ぶりに具体的な関心が傾いてもよさそうなものなのに、「ひかる椎の実」以上のものとして何も感受していない。「椎の実」がメタファーとして具体的な何かを暗示しているようにも読めない。三首目の「去勢されし犬」にも、人間的な尊厳を見るようなはっきりしたそぶりもなければ、生物学的に理解しようとする様子も感じられない。ここでは「苦しみ」が作品世界での美に変質させられてしまっているのだ。四首目の「美しきピラミッド」、また五首目の「みづうみとなる部屋」も、いかにも幻を見ている様子だが、それがあまりにもまっすぐピュアに違和感のないものとして描かれている。この作者は一体何者なのかという逆説的な関心は生まれるに違いないけれど、歌集を構成する世界観を追ったり、共有したりするという行為がここから生まれる可能性は低いだろう。
 しばしば水原の作品を評して、幻想的とかメルヘン的とかいった言葉が使われるのを聞くが、つまるところ彼女の作品は、幻覚に対する実直なリアリズムなのだと思う。作品にあらわれる言葉や感覚には、ひずみ・ゆがみ・ねじれのようなものが頻出しているけれど、文体はいつもまっすぐに何かを指示しているのを感じる。シュールリアリズムの作品が持つ、共有された世界観に対する違和の提示でもない。どこかここではない世界での法則に準拠して書かれた作品なのだと考えざるを得ない。むろん読者はその法則の存在を感じることはできても、決して読み取ることができない。それが作品を横に読ませる力の欠落としてあらわれているのだろう。「横糸のない織物」は、少し正確に言えば「横糸の見えない織物」であるのかも知れない。

 ところで、横に読ませる力の欠落をつらつらと思いながら、前述の考えを反芻しているうちに、いくつかの興味深い言葉に出会った。一つ目は、水原のエッセイ集『星の肉体』(一九九五年)に収められている。「空白の器」と題された葛原妙子論の冒頭の文章である。

  いま、短歌に何を満たすべきかというのは、つくづく皮肉な問い

 だと思う。短歌は、何かに満たされた時ではなく、内に空白を抱き

 こんだ時もっとも美しい調べをつくる楽器ではないのか。

 この一文に続き、葛原論が展開される。この秘密を熟知していた歌人が葛原である。人間と等身大の「われ」のレンズで対象をとらえる写実派とは異なり、「われ」をも他の対象と同じレベルに置くもう一人の「われ」の複眼的な操作があって、事物のエロチックな実存的感覚が作品にあふれた。「美のために作中の「われ」を存在感ある空白とした時に、彼女の表現は頂点に達した、と思う」と結ばれてゆく。葛原論と言うよりは、水原自身の歌論に近いものだろう。あらためて読んで、う〜んと唸らされた。水原の歌論を否定する材料をぼくはまったく持たないが、これは作者と読者の関係のみを支持する態度、つまり鑑賞というかたちで作品に接することは許容するが、批評というかたちで作品に接することは峻拒するといった宣言に読めなくもない。水原の言う「もっとも美しい調べ」は、作品を縦に読ませる力、「歌に満たすべき何か」は、作品を横に読ませる力に相当しているからだ。
 二つ目は、加藤治郎『昏睡のパラダイス』批評会(一九九八年一二月)の席上で、パネリストだった水原の発言として聞いた。できるだけ正確に再現してみると「加藤治郎さんの作品は嫌いです。いい作品とは思えません。もしこれが現代短歌なら、自分の作品は現代短歌じゃないと思います。倶に天を戴くことのない歌人だと思います」というような内容だった。発言によるパフォーマンスだと思われたのか、加藤治郎を含めた参加者のほとんどは笑っていたが、水原の作品・文章を読み直していたぼくとしては、あまり冗談めいては聞こえなかった。むろん加藤の作品だけが嫌悪や憎しみの対象ではないと思う。横に読ませる力を求めている現代短歌全体が彼女の敵なのだ。間違いなくぼくの作品も入るし、これを読んでいるほとんどの人の作品が対象になると思われる。誤解を招かないように言い添えておくが、彼女は作品だけを問題にしていて、他人の考え方は広く柔らかく許容している歌人である。
 三つ目は、穂村弘が最近書いて話題になっている「〈わがまま〉について」(角川「短歌」一九九八年九月)である。穂村は、現在から遡って短歌を見ると、近年のあるところで質的な変化が生じていることを指摘し、水原紫苑を含んだ同世代の特性を〈わがまま〉という語で捉え、以下のように語っている。

  この〈わがまま〉の感覚は、同世代の歌人に或る程度共通する

 もので、相互影響というよりも同時発生的なものに思われる。彼

 らの表現は、従来の短歌が根ざしていた共同体的な感性よりも、

 圧倒的に個人の体感や世界観に直結したものとなっている。彼ら

 自身の中にある、自分よりも大きな何かに対する憧れや敬虔さや

 愛の感覚は、従来の歌人に比べてもむしろ強いものだが、それは

 あくまでもひとりの信仰なのである。〈わがまま〉とは、この信

 仰心の強さに外ならない。

 同世代のどこまでをこうした見解で括れるかはわからないが、少なくとも水原紫苑に関しては、何かを的確に言い当てているなあと思わず頷いた。一首一首という観点からはやや強引だが、作品世界全体の持っている「横糸の見えない織物」という特性が見えやすくなる視点だった。

 水原紫苑は、作品世界で、共有よりも断絶を目指している、とまで言ってしまうと言い過ぎだが、縦に読ませる力によってのみ他者とつながり、横に読ませることつまり世界観の共有を峻拒している、とは言えるだろう。水原の作品は鑑賞できても、水原の世界は共有できない。他者との徹底した断絶によって自己の存在が確立されるという論理かと思う。それでほんとにいいのかという疑問はつきまとうが、従来目指された通りの、横に読ませる力を水原紫苑に求めても、つまらない結果にしかならないだろう。

 永遠に待てとふごとくうつくしき林檎きらきら匂ふばかりぞ 『客人』

 永遠に匂うなら、いつまでも美しい林檎であっていいと思う。さくっと割ってほしくないわけじゃないけどね。

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