添削と「場」の問題 |
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添削とは、端的に言ってしまえば、自作の推敲を他人の手にゆだねることである。マイナス面は、真摯に添削すればするほど、添削者の(短歌全体から見れば狭隘な)短歌観からの逸脱ができないこと。プラス面は、辞書や書物からだけでは学びきれない仮名遣い、文法、語法、用字用語、また定型における特殊な語法を、もっとも効率よく身につけられることだろう。文芸創作は個人の営為であるけれど、初心の(短歌観の形成されるまでの)時期に、作者が信頼する誰かからこうした手ほどきをうけるのは、プラスになったとしてもマイナスにはならないと思われる。ところが、この「初心の時期」というのがくせもので、まがりなりにも自分の短歌観がかたまれば、添削の有効性は半減(あるいは消滅)する。にもかかわらず、添削者も添削をうける作者も、それまでの関係をにわかに断つことができない。人間と人間との関係は、そう杓子定規にはわりきれないからだ。結果、添削のプラス面を得たのち、添削のマイナス面をほとんどの人が抱えこんでゆくことになる。
「短歌研究」四月号は、特集として「添削をする・添削をうける」を組んだ。添削希望者が増加している現況と、前述したような、なし崩し的に了解されている添削事情を考えれば、マイナス面を除去するための新しい視点が必要になるという編集サイドの問題提起であろう。多くの執筆者が、歴史に鑑み、添削の意義と難点をわかりやすく語っていたが、なかで、いささかかわった視点を出していた小池光の文章に注目した。小池は、添削の役割について「歌が上達するとかしないとかいう以上に、確かにあなたの作品を読みました、こころ入れて読みましたというサインになっている側面がつよい。いまこっちの方が添削の切迫した意味と機能を担っているのではあるまいか。/歌を作っても誰かに読まれる保証はない。活字になっても読み手の声は返ってこない。そのとき添削ばかりは確実に返ってくる」と述べている。なんだかものすごく淋しい話だが、ずっしりと重いリアリティのある視点だ。程度の差はあれ、ある種の「束縛」をうけるのがわかっているのに、それでもなお添削希望者が増加する事情の裏には、作者たちが読み手を求める気持ちが、ややいびつになってあらわれているのかも知れない。 むろん、仮に事情が述べたとおりであったとしても、共有できる「場」を求めるだけでは何もはじまりはしない。強引に成立させたスタート地点から、どこに向かって何をはじめるかが問われてゆく。発想の切り換えひとつで、マイナス面がプラスに転じることも、当然逆もあり得る。添削事情についてもこれはあてはまるだろう。添削者と添削をうける作者が、とざされた書き手と読み手の関係であるかぎりは、そこから何かが生まれるとは考えにくい。けれど、発想は転じられるのではないだろうか。たとえば、特集のなかで島田修三がとりあげていた、連句における捌きと連衆の関係に近づければ、コラボレーション(共同制作)という道筋もそこに浮かびあがる。添削をうけた作品を、あたかもその作者の力だけでつくったかのように発表・出版してしまった結果、作者の意図・世界観を読んでいるはずが、実は添削者の意図・世界観を読んでいたという奇妙な事態も消えるだろう。コラボレーションが現代の作家観にそぐわないとすれば、ダイレクトな添削からすこしだけ離れて、他ジャンル(というか他業界)におけるアドバイザーやプロデューサーのようにかかわる方法も考えられるのではないか。単なる一エコールのなかでのノウハウを伝えてゆくのではなく、付加価値としてのノウハウを伝えるのである。 |