ふたたび『うたう』と「場」 |
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「短歌研究」臨時増刊『うたう』に掲載された座談会「若い世代と現代短歌の接点」は、若い世代が書き手としてどのような「場」でどのように短歌と接するか、結果として何が見えるかを論じた座談会で、詳細な分析が楽しめる。出席者の加藤治郎が「歌壇という世界は本当に特殊な世界で、その周りには本当に膨大な短歌人口、それは新聞歌壇もあり、カルチャースクールもあり、そういったインターネットの世界もあり、本当に広い世界があるというのを、なにか今回の企画でそれにコツンと当たったような気がするんです」と述べたのを受け、穂村弘が「そうすると自分はどこにいるのかがよくわからなくなるし、どこにいたいのかというのを決めなくちゃいけないところがあるでしょう。だってすべてに偏在して存在することはできないわけだから。自分はあくまでも高野公彦に挑むというのでもいいのでね(笑)」とコメントしているくだりがあるが、話の空気の明るさに反して、拡散した「場」から生み出される作品を、作品のテキストの質という固定した尺度で判断することのむずかしさに苦悶する表情が見えるやりとりだと感じられた。
歌壇というのが具体的にどういった「場」をさししめすのかを言うのはむずかしいが、たとえば、穂村が言う「高野公彦に挑む」という感覚が理解されるような場所、ということは言えるのではないだろうか。歌会などで、この作品は詩的な結晶度が高いのだけど、高野公彦にこれこれこういう作品があって、どうしてもその二番煎じに見えてしまうといった批評を聞くことがある。こうした場合、書き手もどこかで高野の作品を意識しているケースが多いわけで、挑んだり敗れたりしながら、高野公彦・短歌史・世界観といったものを書き手と読み手が共有して、そこに一つの安定した「場」が形成されてゆく。微差はあっても微差自体が議論の対象となるため、その「場」はさらに活性化される。ところが、『うたう』応募者の作品を読んでいると、その多くに、歌壇におけるコミュニケーションの安定した足場と考えられる、高野公彦とか短歌史といった共有事項の欠如が感じられる。どうも歌壇とはかなり違う「場」から書きおこされている。だからこそ先月述べたように、その「場」をまるごと提示してみせたところにこの本の真価があると思うのだが、問題は、ここから先、どのように個々の「場」に踏みこんでゆくか、ということになるだろう。 たとえば、前述の座談会で、穂村弘が、応募者の加藤千恵の「あの人が弾いたピアノを一度だけ聴かせてもらったことがあります」をあげて、「どのくらいいい歌か、僕、決められなくて困った、というのは、三十首の中でこれがあるタイミングで出てきたとき、ああ、いいってすごく僕は感動したんだけど、同時にそれを自分としてどういいのかというのをちょっとうまく言えないところがあって……」と、作品にふれた際の軽い困惑を「棒立ちのポエジー」と述べている。この種の、具体的なシチュエーションを欠如させた作品は、東直子の作品などによく見られるが、文体の表情が加藤千恵の作品のようにつるっとしてないので、「あるタイミング」を要さずに、ああいいな、がやって来て、テキストを分析することでその理由に比較的早くたどりつける。だが、加藤千恵の作品には、テキストにはりつく「場」を透明化しようとする意志が強いのか、表情がつるつるで、中に入りこみづらい面があるのだ。 |