俳句と川柳、と短歌
 十代で短歌を書きはじめ、ほとんど同時に俳句を書きはじめた。あこがれていた寺山修司が、複数のジャンルにわたる活動をしていたのをまねたかったという気持ちもあり、また短歌と俳句を、外国詩のフォルム(たとえばソネットとかアレクサンドランとか)のように、モチーフによって容易に書きわけられるのだと誤解していたことにもよる。塚本邦雄に出会い、創作の比重のほとんどが短歌に移行するまでは、自分は複数の詩型を書きわける詩人になろうと、かなり真剣に考えていた。むろん実際に触れてみると、短歌と俳句の間には、フォルムの違い、モチーフの違い、文体やことばの感触の違い等がある他に、さらに説明しがたい壁があり、同時代に向けた作品を二つのジャンルで同時に書くのは、不可能なことにも感じられた。説明しがたい壁の正体は、後になっておぼろげに掴めたのだが、短歌と散文、あるいは、俳句と散文の併立は可能だとしても、短歌と俳句の併立だけは不可能だという実感が、幸か不幸か、自分を一つのジャンルにのめりこませることになった。
 短歌にのめりこむことになってからも、俳句への志向が消えてしまったわけではなく、第一歌集をまとめた後にも、俳句結社その他の句会に参加したりしていた。句会の仲間と同人誌をつくったこともあった。ただ、その頃には、俳句で立とうとか俳人になろうと考えていたわけではなく、十代の頃からあまりかわりばえのしない作品を抱えたままで俳句の現場にのぞむのは勇気のいることだった。短歌と俳句の間にある何かが見えれば、自分の世界観が随分かわるのではないかという、どうしても避けられない、強迫観念のようなものに支えられていたのだと思う。

 実際、俳句に触れていて、短歌についての考え方にも大きく影響があった。具体的には、坪内稔典句集『落花落日』の作品に触れたのがきっかけだった。

 江川投手は征露丸です咲くさくら      坪内稔典
 陰毛も春もヤマキの花かつお
 春の坂丸大ハムが泣いている
 春の風ルンルンけんけんあんぽんたん
 三月の甘納豆のうふふふふ

 アバンギャルドというのとはまた違った感触のある破天荒な作品で、一九八〇年代の後半から九〇年代のはじめあたりまで、俳句の現場のいたるところで話題になりながら、大半の俳人たちが、あれは俳句ではない、という批判を浴びせかけていた。ちょうど短歌で、ライトバースやニューウェーブが浴びていた批判とよく似ていたと思う。従来の短詩型における狭隘な価値観を粉砕する作品で、「文学批判」という一九八〇年代の文芸の潮流とも合致する坪内の思想が体現されていた。ただ、短歌と何か感触が違うなと思ったのは、坪内の作品に、それでもなお色濃く「俳句である」という匂いがまとわりついていたことである。どこか「俳句である」ことを守ろうとしている感触が強かった。たとえば、季語というキーワードでこれらの作品を語るとすれば、従来の俳句観から一歩も出ない領域で語られるのではないか。当時「短歌である」ことがどこまでも限りなく崩れていってしまうような現場に直面していたため、坪内の作品が抱えるこの保守的なファクターが、ぼくにはどうも不思議でならなかった。坪内が踏みとどまっているように短歌もどこかで踏みとどまらねばならないのかも知れないという不安にかられた。
 坪内が踏みとどまろうとしている感覚の先に、川柳という同フォルムの異ジャンルがあるのではないかという考えにいたったのは、それからまもなくのことだった。現代川柳というのはそれまでほとんど読んだことがなかったが、坪内の作品から数少ない保守的なファクターを外してしまうと、川柳のイメージにとてもよく似てくる。同じフォルムでジャンルを越境してしまうという、短歌ではおこりえない事態が俳句ではおきてしまうのだ。事実、現代川柳をひもときはじめてみると、坪内が踏みとどまろうとしていたのは、保守的というわけではなく、川柳とのボーダーレスな状態を回避するためのものではないかという印象がより強くなった。

 急がねばまた夕焼けが遠くなる       大西泰世
 あじさい闇 過去がどんどん痩せてゆく
 男の背後の蒼いけものを抱きしめる
 しあわせに不慣れで合鍵を落とす
 銃口を見ている山を見るように

 大西泰世は、俳句(あるいは口語俳句)と呼んでも川柳と呼んでもそれほどさしつかえない位置で川柳を書いている作家だ。実際、彼女のことを俳人だと考えている人も大勢いるらしい。大西の川柳(史)観の中に、俳句の一部がそっくりそのまま入っているからおきる現象だと思われる。坪内の考えるボーダーラインと大西の考えるボーダーラインはあきらかに違っているわけだ。ぼくの俳句観・川柳観は、大西よりは坪内に近いものだが、いちばん大切な問題は、ボーダーラインがどこにあるかではなく、個人のレベルにおいてはボーダーラインが可動のものだということ、「俳句である」「川柳である」ことは、個人の俳句観・川柳観よるもので、歴史に鑑みた蓋然性の規定に優先するということだ。つまり「短歌である」こともまた、あらかじめ決められているわけではなく、個人の短歌(史)観から発生し、その後に歌人や読者に問われているに過ぎない。批判そのものはあってあたりまえだが、短歌とはそもそも〜、という文脈でライトバースやニューウェーブが批判されたのは、批判の方法そのものに何か間違いがあるのではないかということを、俳句と川柳を比較しながら読むことで気づき、確信を深めていった。

 俳句に、正しくは俳句と川柳に触れることは、その後もぼくの考え方を刺激してくれている。自分の作品を従来想定していたボーダーラインの外側で書いたことはもとより、自分よりもさらに下の世代が書く作品には、可動のボーダーラインという発想なしには読めないものが多い。千葉聡の第一歌集『微熱体』(二〇〇〇年、短歌研究社)などもそうだったし、枡野浩一の一連の作品群は、保守的だろうが先鋭的だろうが、ともかく、既成の短歌の価値観、でははかれないものがほとんどだろう。

 殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である
           『てのりくじら』(一九九七年、実業之日本社)
 年齢を四捨五入で繰り上げて憂えるような馬鹿を死刑に
 寝返りをうつたび右の鼻水は左へ(世界の平和のように)
   『ドレミふぁんくしょんドロップ』(一九九七年、実業之日本社)
 時効まであと十五年 もしここで指の力をゆるめなければ
 カッコして笑いと書いてマルを打つだけですべてが冗談みたい(笑)。
 こわいのは生まれてこのかた人前であがったことのない俵万智
             『ますの。』(一九九九年、実業之日本社)

 私的空間も見せず、詩的レトリックも見せず、短歌のフォルムがもたらすほんのわずかな飛翔感の中に、日常のことばに近い、作品として加工されていない印象のことばを綴っている。読んで笑いころげたり、皮肉な表情を浮かべたりすることはあっても、短歌の読者が求めている(らしい)感動という種類の感情が奔ることはないように思われる。けれどこれらの作品が抱えている刺激の強度は、いわゆる短歌らしい短歌と比較して弱いのかというとそうではなく、むしろ逆に圧倒的な強さをもって(少なくともぼくの中には)飛びこんで来る。歌壇でほとんど話題にならない、あるいは話題にできないのは、枡野の作品が、俳句の位置から見た川柳のようなファクターを抱えているからではないかと思う。最近書いた「文学の彼方へ」という文章(『現代川柳の精鋭たち』解説・二〇〇〇年、北宋社)で、俳句と川柳のジャンルとしての差について触れたので、それを引用しておく。

 誤解を怖れずに言ってしまえば、現在の俳句とは、詩あるいは文学とは何かということを、575というフォルムで問いつづけているジャンルである。ことばの質からダイレクトに世界観が問われるのではなく、俳句というフィルタを通して文学観が問われ、そこから間接的に世界観が照射されるという構造を持っている。歴史を壊しても(ニューウェイヴ俳句等)、フォルムを壊しても(自由律俳句)、詩・文学とは何かという問いが俳句につながる。詩・文学自体の価値を否定したにせよ、それもまた文学観のひとつとして否応なく俳句につながる。
 一方、現在の川柳とは、575というフォルム(ときに77というかたちもあるが)の中に何をどう盛りこめば、あるいはことばの質をどういった位相におけば、他者であるところの読者の感覚や感情や思想や信条などを大きくゆさぶり刺激できるのかを問いつづけているジャンルである。テーマやモチーフやことばの質が日常に近似した地点でダイレクトに問われ、読者の世界観への震度のようなものの絶対値が問われる。ことばにパワーがあればよいというわかりやすい価値観は、裏返せば、作品に含まれた詩性も文学性も川柳を単純には擁護しないということである。時代や人間の深部に到達できないことばは、はかなく消え去るしかない。
 枡野浩一が川柳と似た位置にいるとすれば、俳句と似た位置にいる歌人にとっては価値のない作品かも知れない。しかし、同フォルムで異ジャンルのない短歌においては、価値そのものを考える必須の作品のようにも思われる。論じられてしかるべきではないか。俵万智をはじめ、加藤治郎、穂村弘など、そして荻原裕幸も、この文脈にマッピングすると、俳句とも川柳ともはっきりしない位置にいると思う。枡野が「特殊歌人」と自称するのは、この意味できわめて的確だろう。

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