二〇〇一年と場の問題
 一九八〇年代、九〇年代、短歌の世界はかなり様変わりした。女歌という視点から新しい価値観が流れこんだのを契機に、それまでにつちかわれた伝統や文学観だけを根拠に作品を問うことができなくなった。口語短歌の台頭を契機に、レトリックや方法論や定型観が多様に広がっていった。あきらかに眼に見える変化としてはこうしたことが数えられるだろうか。結果として、短歌の世界は活発な状態になり、多くの作者を得て新鮮な作品に遭遇することができた。一方で価値観が乱立してしまい、作品と歌論の全体を見渡す安定した視点がなくなったため、すべてが騒音のように鳴り響いている。二十年を粗っぽくスケッチすると、こんな感じかと思う。
 加えて、もう少しスケッチしてみると、多様に広がっていったとか乱立したという状態は、すべてを相対的な地図の中に位置づけるという現象をもたらしている。広がりすぎた短歌の歴史と現在とを作歌の核に抱えきれなくなっているため、そうしたいという明確な理由・意志が見えないまま、過去の技法に閉じこもるように書かれた作品、まるで短歌史など存在しないかのように書かれた作品が増える。つまり、何にどのようにこだわって書いたのかが読者の側からはきわめて見えにくくなるのだ。そこから連鎖的に批評にも影響がおよぶ。作品のよしあしを論じても、論者の思考や立場があきらかにならず、どの作品は受け入れてどの作品は受け入れられないかという基準の提示になってしまう。何がよくて何がわるいか、誰は誰にくらべてどのような傾向にあるか、といった相対的な地図は見えるが、地図そのものを支えるための根拠はあやふやなままになるのだ。
 いいとかわるいとか言ってみてもはじまらないが、現状では、すべてが、他を許容しない短歌観同士で共感しあうかただ反撥しあうか、あるいは、好き嫌いの問題に収斂してしまうのではないだろうか。

 このスケッチに、蓋然性がそれなりにあるものとして考えてゆくと、そこには、ある一つのキーワードの欠如が見えてくると思われる。それは「場」という語である。作者が実際に暮らしている場(生活圏)、作品を書いている場(世界観)、作中の主格が存在している場(文脈やシチュエーション)、作品を読者に提示する場(結社・歌集・歌会等をふくむ広い意味でのメディア)などだ。かつては、これらの場と作者との関係が、あるところまで作品を通して提示・理解され、提示しない部分・散文的には理解できない部分において、作者と読者との関係のもっとも重要な要素とも言える「詩的伝達」が発生していたと考えられる。ところが、場もことごとく多様になったため、作品のテキストレベルにおける情報提示の匙加減というものが、従来とはまるで変ってしまったと言えるだろう。場の性質そのものの変容を加味して作品を書いたり読んだりしないと、作品の多くはただの伝達不全を引き起こす結果に終りかねない状況になっている。
 たとえば、昨秋から今年にかけて、シンポジウムや総合誌誌上で、飯田有子の、

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔

という一首がずいぶん取り沙汰されたが、現在を生きることを体現している、という肯定的意見と、歌の姿として望ましくない、という否定的意見との対立は、この一首を生み出した場というフィルターを通さなければ、永遠にふれあうことはないだろう。この一首のみにかぎった話ではないが、私生活と作品とは切り離して考えるべきだと言ってみたところで、日本語圏で育ったか否かとか、都市型生活か非都市型生活か等の情報が、作品の形成や読解に影響を与えないわけはない。結社誌の詠草かイベントで朗読によって発表された作品かなどを問わず、テキストのレベルで強引に同一の場にもちこんで論じてしまっては、作品が抱えていた何かが欠けてゆく。むろん、だからと言って、すべて作者の私生活や作品の初出メディアを提示しろとか調べろというのではない。書くこと読むことにおいて、場そのものの性質が従来とは変容したことを加味するのが必要になっている、という話である。

 こうした場の問題にしぼって短歌を考えてみると、一九九五年頃から(時期はきわめて私的な感覚にもとづくものだが、それほどずれてはいないように思う)、歌人たちの動きに異常な感じが見えはじめたのが思い出される。「題詠の時代」と言われて、歌会への動きが盛んになったり、パソコンの普及にも後押しされながら電子ネットワーク上のコミュニケーションが活発になったり、朗読イベントが次々に企画されたり、あるいは、歌合わせや批評会が、結社を超えて頻繁におこなわれているという状況も見える。ぼくにはこれら動きが、場そのものの性質が変容していることを受けて、状況に敏感な歌人たちが、何か仮にでも場として共有できるファクターを増やし、その中で書いたり論じたりしようとする一連の反応であるように思われてならない。さらに言えば、世紀の区切りという名目で辞典やハンドブックが重ねて出版されたこと、比較的若い世代による入門書の出版が相次いだことなども、出版のニーズという以上に、本質的には歌人たちの場の希求の産物ではないかと思われるのだ。この五年ほどの動きを、他に説明する方法はないだろう。
 自分たちがやっていることの意味や価値を問おうとするのは、自然かつ当然の行為であり、どんどん深められてしかるべきことであるが、現在の短歌および歌論は、これまでにない奇妙な困難に直面している。それは、短歌とは何かという立論そのものが、論の強さや説得力やわかりやすさなどにおいて一つの方向へと結ばれてゆくような場を喪失しているということだ。短歌とは何かが問われる以前に、短歌とは何かという立論を成り立たせる場とは何か、を問わなければ何もはじまらない。言い換えると、どのような短歌がいいのかわるいのか、という論を成り立たせるために、まず、短歌(が書かれること読まれること)が、現在を生きる中で、かけがえのない時間・空間であることを成り立たせる場を見ださなければならないということだ。


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