新しいスタイルとして
 歌人にとっての読者とは何だろうか。加藤治郎、穂村弘がこのサイクルエッセイでも触れているように、この設問はいきなり読者を二層に分離してしまう。つまり、主に結社や歌壇での交遊・寄贈をベースとして形成され、じかに感想や批評のやりとりをするダイレクトな読者層と、もうひとつ、主に商業ベースの流通によって形成され、著者からは顔や表情の見えない読者層である。歌集は一般に、寄贈というスタイルで強引に読者の候補者のもとに届けられる。総合誌や結社誌や同人誌で広告されたり書評されたりして話題にのぼると、関心のある人はときに読者となる。条件の恵まれたものは書店の棚にならんで愛好者が手にとればそこでも読者が生れたりする。何らかのきっかけから新聞などの一般メディアで紹介されると読者はまた増える。口コミの影響もある。条件が極限に近いところまで広がって俵万智の『サラダ記念日』のように数百万という読者を出す例もある。数百に満たない場合もある。こうした流れのどこかで、著者とダイレクトなコミュニケーションをもつ読者層とそうでない読者層とが、気づけば二層に分離している。
 著者にとっては、どちらが大切というものでもないはずなのだが、前者を重視する傾向が肥大して、歌壇という場所がたいそうにぎわっているように見えるのは事実だろう。利点はむろんダイレクトな読者のことばが自身では見えなかったものを見せてくれたり大きな刺激となることである。難点はときに人間関係の重みから読者としての本音が聞けなくなるということだろうか。後者を重視する例もある。たとえば林あまりとか枡野浩一といった歌人はそうだろう。書店でお金を払って買うというピュアな読者に向けて一冊一冊で勝負をかけているようなところがある。縁もゆかりもない読者なればこそ、永く愛読されることにもつながる。ただ、ダイレクトな読者のことばは、編集者のことばとかファンのことばという特定のものに限られてしまう。どちらの層を重視する場合も、多くは確信をもって選択をしているのだろうか。ぼくには歌人が何を基準にしてこの選択をしているのかが実はよく見えない。どっちつかずはだめだよと言われることが多いが、前者を重視して、濃密なコミュニケーションとひきかえに顔の見えない読者の増える可能性を大幅に削るのは淋しくないだろうか。後者を重視して、濃密なコミュニケーションの大半を棄てるのはあまりにも痛くはないだろうか。二層の境界は消えないものなのだろうか。

 読者論に思いをめぐらせながら、自分がこれまで読者をどう考えてきたのかを思い出してみた。過去の歌集のあとがきの、読者について触れた部分を引用してみる。「例へばどこかの喫茶店かスナックで、見知らぬ誰かが何かの話の途中でふと短歌を口ずさむ。どこかで聞いたことがあるなと思つてゐると、それが僕の歌だつた。そんな光景に出会ひたいといふのは、少年じみた僕が長い間抱いてゐる夢である。(『青年霊歌』一九八八年)」「歌集を通して到達したかつたのは、僕が僕自身である場所であり、僕にとつてはその場所でだけ、例へばこの歌集を読む人と出会ふことが可能であり、世界とつながることが可能なんぢやないかと思つてゐる。(『甘藍派宣言』一九九〇年)」「もつとも素敵なのは、ここに収めた二百六十のフラグメントのどれかが、各章に付した二百字弱のメモや、歌集全体から見たときの自分の役割などはころつと忘れて、読者がそれぞれに繁らせてゐる青葉の中に紛れこみ、あたかも最初からそこにあつたかのごとく風に吹かれてゐることである。(『あるまじろん』一九九二年)」「この歌集がどんな風に読者に届くのか、作者には想像できない部分が多いのですが、記述の外部に類似する世界のモデルを探すよりも、記述そのものに内在する歪みや震へみたいなものを感じてもらへたらいいなと思つてゐます。(『世紀末くん!』一九九四年)」等、どこか現実の向こうを見ているような夢みがちなことばが多いという点は脇におくとして、歌集を出すたびに読者を過剰に意識したことばを書きつらねていたことに自分自身で驚いた。作者がどれほど力んでみたところで、読者なるものは、その力のおよぶ範囲外の存在である。にもかかわらず、濃密さも人数も、やはりともに求めずにはいられない。ただ、問題は「読者におもねる」というかたちで作品の質や傾向に触れずに、何ができるかだろう。これを書きながら、以前に同じ話をしたある歌人に、いい作品を書けばすべてが解決すると言われて閉口したのを思い出した。いい作品が評価されて読者が増えるということと、自分の作品をめぐって読者とのコミュニケーションを深め、それを梃子にさらに新しい世界を探るということは、単純に重なることではないとぼくは考えている。

 読者論の解決策というわけではないが、印刷メディアと読者の問題に何か新しい光がさすのではないかと考え、この数年、インターネットでの活動に力を入れている。仲間たちが見返りのないボランティア活動のように感じているほど、どんな成果があらわれるのかまったくわからないままにやっていることもある。インターネットに接触できない環境の人からの批判があったり、その他、短歌の世界でメディアとしてのインターネットがあまりよく言われるのを聞いたことがなかったので、これまでほとんどインターネット上でしかPRすることがなかったが、この機会にいくつか宣伝/紹介してみようと思う。(以下の宣伝/紹介について、筆者に直接的な商業メリットはない。念のため。)
 一九九八年二月に、加藤治郎、穂村弘との共同運営というスタイルで「電脳短歌イエローページ」というホームページを立ちあげた。短歌に関連するホームページを紹介するためのホームページ(いわゆるリンク集)である。そもそもインターネット上にどのくらい短歌が出まわっているのか、それを調べるところからはじめようと思った。当時、他にも短歌のリンク集はあったのだが、掲載件数が数十件とあまりにも少なくて、それが実態だとは信じられない信じたくないという気持ちもあった。探しに探して運営者に連絡して掲載の許諾を得るとか消えてしまったものを排除するとか、いざ紹介してみると迷惑だというクレームに対応するとか、そういう紆余曲折を経ながら、現在では二五〇件を超えるリンク集となっている。短歌総合誌や結社のページがある。大学短歌会のページもある。俵万智や枡野浩一ら商業的なプロパーのページもあれば、趣味で短歌をというページもある。いわゆるフーゾクにつとめるかたわら書く日記に短歌を載せているものもあれば、不倫の遠距離恋愛者同士が匿名でつくっているものもある。他にも知られている名を列記すると、大谷雅彦、大塚寅彦、岡田智行、沖ななも、奥村晃作、加藤治郎、黒瀬珂瀾、小池純代、児玉暁、小林久美子、小守有里、斎藤すみ子、坂井修一、佐藤通雅、武下奈々子、田中槐、中山明、西王燦、東直子、藤原龍一郎、穂村弘、正岡豊、山田消児、米川千嘉子といった人たちのページがある。何がここから生れるのかは、まだぼくたちにもわからない。ただ、印刷メディアだけが主流を占める時代はすでに終っているのである。これからどういうかたちで短歌の世界に浸透するのか。濃密でかつ広い読者とのよくばりなコミュニケーションの可能性が見えるような気がしている。

▼「電脳短歌イエローページ」のURL
http://www.imagenet.co.jp/~ss/yp/

 また、二〇〇〇年四月には、友人のひぐらしひなつさんの厚意で、個人のホームページ「デジタル・ビスケット」を立ちあげた。作品、日記風なエッセイ、雑誌掲載原稿、荻原の作品の一首評、荻原についての論、その他に、電子掲示板でコミュニケーションができるようにしてみた。印刷メディアで比較すると、個人誌にいちばん近い内容である。アクセス件数は月に八〇〇件ほど。ホームページとしてはかなり少ないと思われるが、読んで嫌になるくらい短歌にからんだことを詰めこんだページとしては、予想を超える数字だった。こちらもまだはじめたばかりで、楽しみながらとにかく自分の世界の一部を掲示しようそして継続しよう、という以外の見通しはない。ただ、確実に言えるのは、今よりもさらにインターネットが普及した時点を想定すると、歌集という印刷メディアとの相乗効果によって、自分の仕事の全体を見てもらうための方法論のひとつにはなっているということ。印刷メディアでは大枚を投じた個人誌でやらなければできないことがインターネットではあまり費用がかからない。しかも読者にもほぼ負担をかけずに見てもらえる。怖ろしいのは、負担をかけずに見てもらえるにもかかわらず、読者が反応しないという悲惨な事態だが、それは自分の力や世界観の問題である。新しいメディアでそうした読者の審判を受けるというのも、歌人の新しい生き方のひとつになるかも知れない。

▼「デジタル・ビスケット」のURL
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/

 ホームページに話がかたよったが、他にもインターネットを活用したメディアとして、電子メールによる雑誌「@ラエティティア」を企画している。加藤治郎、穂村弘、東直子、小林久美子とぼくが発行や編集のスタッフになって、メーリングリストを媒体とするグループ「ラエティティア」から外部に向けて発信する機関誌の体裁をとる。超ジャンルでかつ超結社のグループであり、総合誌と同人誌の中間的なものを小規模にしたような具合だ。結社や歌壇というつながりでもなく、商業ベースでのつながりでもなく、またなかよしグループでもなく、新しいメディアを模索するという点でつながった不思議な集団でありメディアであると、かかわっている自分にもよく見えないところが多い。グループの内外あわせて読者が四〇〇名余りになりそうで、創刊を控えて落ち着かない時間を過ごしている。無償配布。希望者は左記へ。

▼「@ラエティティア」の申込先
ss@imagenet.co.jp

 思いきって宣伝めいたことをたっぷり書いた。むろん宣伝という以上に、こうしたスタイルが、近い将来に、歌人の選択肢のひとつとしてスタンダードなものになればうれしいと思っている。歌人名簿にメールアドレスやURLが併記される時代も、もうすぐそこまで来ているはずだ。


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