外部者=他者として
 電子メールの普及もてつだって、ほぼ毎日、歌人の仲間たちと何かしらコミュニケーションをとるようになった。このサイクルエッセイの執筆者たちもよく似た環境にあると思われる。坂井修一とはときおり、加藤治郎、穂村弘とはほとんど毎日、電子メールの往来がある。手紙や電話、まして実際に会うということになればこうはいかない。ぼくが今、結社にも同人誌にも所属せずに活動を続けていられるのは、こうした環境にたすけられている部分が大きい。書くときはつねに一人という孤独な事態には何の変化もないが、短歌を書きはじめた頃にはまったく想像もしなかったような現実に、少し戸惑い、どこか間違ってはいないだろうかと、根拠のない不安に襲われることもある。わからないことや迷っていることをうちあけると、十分もしないうちにレスポンスがあるというのも珍しくなくなった。限られた場所で限られた人としか会えなかったことが、今となっては懐かしくもある。あのときあの場所にいなければ、という一回性の感覚が消えつつあるのだ。むろん今の状況が間違っているとは思わない。ただ、消えることに不安をおぼえる感覚はある。いくつかのエピソードを書いて、あらためて記憶にとどめておきたい。固有名詞をできるだけ省かない、個人的な体験の中に、現代短歌の風景が少しでも立ちあがれば幸いである。

 高校時代の日記を繰ると、短歌を書きはじめた頃の、作品とも呼べないような断片や、無知をおそれぬ短歌観などが綴られていて、苦笑する。「短歌とは、ぼくにとって、生命を具象化するための一つのフォルムだ。生命という名の神秘に触れようとするとき、幻想という行為は正当化される」だとか「社会的な存在価値を問うのならば、現代短歌は永遠の闇夜だ。ならばブラックホールのような絶対の闇夜をつくる悪性因子になってやる」だとか、威勢はいいが内実のともなわないロマン派風な文学小僧といった風情である。一九八〇年の日付がある。受験を控えていたにもかかわらず、勉強もそこそこに書いていたものらしい。そこにはまた、次のような一節があって、苦笑はいっそう深まった。

  岡井隆は『辺境よりの註釈』の中で、塚本邦雄の歌には多く

 のものが含まれているが、決定的に欠けている要素が少なくと

 も二つあるという。社会的真実を剔抉しているのだという傲慢

 な態度と「ねばらならぬ」という人間の行為の当為に関する示

 唆であるらしい。岡井がどんなつもりでこれを書いたのか、そ

 の真意は知らないけれども、命題や行為について「社会」とい

 う場所から正しい答を得ることがあり得るのだろうか。たとえ

 ば歌人が集団になれば、そこにも社会が発生し、悪歌が良歌を

 駆逐するのではないのか。塚本の孤高の理由もそこにあるので

 はないのか。

 言葉足らずの文章だが、つまりは「社会」へ出ることに対しての恐怖感のようなものを、何とか正当化しようとしていたのだと思う。今でもここに一片の真実は紛れていると思うけれど、その「一片の真実」の何たるかを知るためにも、歌人の大勢いる場所で短歌を書くという選択は正しかったのではないかと感じている。もっとも、この文章を書いてからも五年ほど、塚本邦雄以外の歌人には会ったことがなく、他の歌人とは口をきいたこともなければ電話とか手紙のやりとりをしたこともなかった。無所属というスタイルで一人作品を書いている人もいれば、結社等のグループに早くから所属する人もいると思うが、師弟のコミュニケーションだけで五年間を過ごすというのは、あとから考えてみれば少し異質の習作期だったのかも知れない。是非はよくわからないが、結果として今の自分がある。

 師弟だけの「蜜月」を終えて、多くの歌人に会った頃、歌会というものにはじめて参加した。一九八五年のことだったと思う。当時中京大学の大学院生だった加藤孝男が、坂野信彦や島田修三といった研究者たちを引っぱり出し、また学生を集め、学外からも大塚寅彦や小澤正邦といった若手を招いて「中京短歌会」というグループを組織していた。その月例歌会への参加だった。国文科学生の多い場所で、そのとき他の大学でフランス語を専攻していた自分が何か異端者のようにも感じられて、つねづね「負けてはいられない」という気持ちが強かったのをおぼえている。アルバイトを終えて駆け込んだ研究室には、それまでまったく知らなかったような緊張した空気が流れていて、座席には無記名詠草が配られていた。指名を受けてはじめて他者の作品をいきなり評するという経験をした。次のような作品だった。

  かがまりて臀さらしゐるくらがりに孤独な鮭の一生をこそ思へ

 今でこそある程度は自在な評もできるが、前衛短歌以外となると古典のわずかな知識くらいしかなかったその頃のぼくには、なぜこの作品が現代の短歌として成立するのかということがわからず、その後もこれ以上の酷評をしたことはないというほどの酷評をした。言いたい放題に喋り終えた頃、座のボスといった風格の男性から作品弁護の反論を受けた。近代短歌の歴史に鑑みた言葉が連発されて新鮮だった。茂吉が何々、空穂が何々、荻原くんの言うこともわからなくはないけどね、それほど悪い歌でもないよ、という具合に。それが島田修三だった。こちらも早く事情を察すればよかったのだが、負けてはいられないとばかりにさらにがんばって反論を展開し、歌会の座は思いきり紛糾した。加藤は随分はらはらしたとあとから教えてくれた。実は、歌会後に詠草の作者名を見て愕然としたのだが、くだんの一首の作者は、溌剌と弁護の発言をしていた島田自身だったのだ。えっと思わず声をあげた。島田が苦笑しながら、きみはなかなかみどころがあるよ、と皮肉でもないような口ぶりで言っていたのが忘れられない。ぼくはと言えば、自分の作品が評されるとき、無記名であるにもかかわらず何となく照れくさくてうつむいていたと思う。自分はまだ青いと思った。そこまで自身で肯定することのできる作品が書いてみたいと切実に思った。ぼくがそのときに出詠した作品はもう記憶にもないが、島田の作品は五年後に刊行された『晴朗悲歌集』に収められていた。あのときの淡い敗北感のようなものは、その後の作歌活動にいい刺激となって昇華されていっていたような気がする。

 作歌年数の割に歌人たちの中で活動した年数が短いというのは、その後もしばらくの間、ハンディのようなものとして感じていた。年次の記憶が曖昧だが、たしか一九九〇年前後に「短歌人」の全国大会に招かれたとき、作品の「読み」の問題で奇妙な壁にあたった。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」を素材に、パネリストとして話をしていたとき、「白」砂というようにわざわざ色彩を出して、蟹の赤と対比させている部分があるのではないかというコメントをしたところでクレームが入った。小池光だった。荻原くん、それはおかしいよ。蟹は赤じゃないだろう。茹でて赤くなるんだというのである。それは海老の話じゃないんですかというきわめて真面目な反論をしたのだが、会場に笑いが起きてしまい、クレームも反論も半ば冗談だろうという空気になってしまってそれ以上話が詰められなかった。たしかに種類によっては赤くないし、赤と言うにはきわめてくすんだ色をしているように見えるが、それにしても茹でなくても赤っぽいだろうと考えながら、はたと気づいた。歌人にとって蟹は赤くないのかも知れない。小池が冗談を言ったのだとしても、蟹は赤いという短歌の歴史みたいなものがなければ、蟹=赤ということにはならない。赤いものとして蟹を扱った作品を書いても歌人には通じないのかも知れないという事実に愕然とさせられた。短歌には短歌固有の言葉の質のようなものがあるということをそのときやっと実感した。こういう方言にも似た特殊な言葉の質には、大勢の歌人の中で活動しないとなかなか触れられないものだ。昨年末に刊行された『岩波現代短歌辞典』の中の「蟹」の項目には「形状、またその歩き方の特徴から、歌の素材とされることが多い。食べ物として詠まれることも多い」とある。永田和宏が執筆している。ゲラでこの記述に触れたときになるほどなと思ったものだった。ちなみに少しは自分の弁護もしておきたいのだが、俳句の歳時記をひらくと、ものによっては蟹の朱色について触れたものがある。また、西東三鬼に「滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し」、加藤楸邨に「山蟹のさばしる赤さ見たりけり」、角川源義に「川蟹の踏まれて赤し雷さかる」などという句もある。

 個人的な体験に話が偏り過ぎたかも知れないが、思い出して書きつらねながら、自分自身で思うのは、ぼくにとって歌人同士のコミュニケーションというのは、つねにこうした外部者=他者の感覚として周囲にあったということである。短歌は「外国語」であり、歌人は「外国人」だったと言ってもあながち大袈裟ではないように思う。多くの歌人に接するたび、作法を知らない田舎者的な気おくれを感じることは、その後もしばしばあった。いや、今でも折に触れて感じることは多い。歌歴もついに二十年を数えるようになったのに、どこか情けない気もするが、知識としてではなく、感覚として今ある短歌の歴史になじめないのだ。これはもはや自分の属性の一つと思わざるを得ない。歌人とのコミュニケーションが日常化することに対して感じる不安のようなものは、あるいはこの外部者=他者の感覚が薄らいでゆくことにあるのかも知れない。もはやあともどりはできないし、それならそれでもいいという気持ちはある。外部者=他者の感覚がぼくの属性であるとすれば、短歌になじもうとすればするほどこの感覚はかたちを変えていっそう顕著になるだろう。昨夏あたりから、ぼくとしては「実験的」に「短歌になじもう」とする作品を書いている。「永遠の、さう言ひかけて」(「短歌研究」一九九九年八月号)、「人格の明るきひとつ」(「短歌往来」十月号)、「永遠青天症」(「短歌」十一月号)等である。ニューウエーブと呼ばれた実験作を書いたとき以上に、短歌が自分をどこかへ弾き出そうとしている強烈な感触がある。外部者=他者という属性は変わらないのだろう。


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