デジタル感覚、ゲーム感覚

 白鯨が2マイル泳いでゆくあいだふかく抱きあうことのできたら

              大滝和子『銀河を産んだように』

 デジタルというのは、昨今ではもっぱらパソコンの属性として使われることばだが、作家の感性の問題として考えるには、アナログ時計とデジタル時計の比較がわかりやすいと思う。つまり、不確かな数量を定数や定量で捉える感性である。現代短歌には「デジタル・リアリズム」とでも呼びたくなるような作品がかなりある。ぼくの知るかぎり、これがもっともわかりやすいかたちで露 出している作家は大滝和子だ。引用の「2マイル」などにもあきらかだが、いかにもそうでありそうだという共感に読者を導くのではなく、絶対的にこうだという鮮烈な独断によって世界を把握している。読者の反応は、強い納得か首を傾げるか、極端なことになるようだ。

 兵ら互に嗤ひ合ひつつ黒黒と大蔵省の壁に Fuck! と

                     高島裕『旧制度』

 コンピュータゲームが現代人にもたらしている感覚に、二度以上生きられるとか別の世界を生きているという擬似的な実感というものがある。従来の文学における虚構の感覚とも違い、仮想された世界での実感は、この世界について考えるための仮定やシミュレーションをリアルに提示することを可能にしたようだ。高島裕の「首都赤変」は、少年少女が仮想の東京で蜂起するクーデターを描いた連作である。作者はあきらかに自己の恣意的なゲームに没入することを楽しんでいるが、引用の「大蔵省の壁」のような、ゲームと現実が瞬時に交差していると思えるような作品が散見されて興味深い。ゲーム感覚も、真摯につきつめれば現実への窓となるのだろう。

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