桜をうたう
 わがくびにこぼれる飛花のやさしさが性愛めいてゐたその春の 荻原裕幸

 名古屋市瑞穂区の山崎川周辺は桜の名所だという。生まれたときから家も学校もずっとこの近辺だったせいか、どうも「名所」という言葉はピンと来ないが、毎春かならず川沿いの桜を観賞しては春ののどかさを満喫している。先日、十代の古い日記帳を繰っていたら「密会に透き通りたる桜かな」という俳句が出てきた。十九歳のときのものである。当時、塚本邦雄が選をしていた「サンデー毎日」の俳句投稿欄に入選したものだ。くだんの名所を散策しながらつくった句だとぼんやり記憶しているが、密会というのが自分自身の体験だったのかどうか、もはや思い出せなくなっていた。埃をかぶった雑誌を探し出してみると、塚本の選評が記されている。曰く「桜は元来無色透明、あってないような花ではあるまいか。密会の方が桜のために無防備となるのだ」という。いままではっきりとは気づいていなかったが、その後も、ぼくの「桜」観というのは、このときの塚本のわずかなコメントに随分影響されていたらしい。桜は元来無色透明。そう、日本の文化や歴史の重い影をひきずりながらも、植物としての桜は、爽やかで透明感のあるただひたすらにきれいなものなのだ。あの頃に見ていた桜にはまださほどかげりはなかった。つまりぼくの中にあの歴史的なイメージが定着していなかったのだ。そんなことを思い出しながら掲出の一首を書いてみた。
 むろん桜というのは、華やかで豊かでかつ歴史のかげりをも帯びてしまった、日本の文化や日本人の精神のシンボルと言うべき花である。華やかな表情だけを豊かな水脈だけを愛せれば楽しいのだろうが、それでも歴史が刻んだかげりは消えない。日の丸とか君が代ほどには拒まれないにしても、昭和三十年代生まれのぼくが口ずさめるほどに「同期の桜」というイメージは流布しているし、国家というものがなくなりでもしない限りどうにもならないことなのかも知れない。歌人はこれからも桜をうたうだろう。そこには国家の輪郭のようなものが見えてしまうだろう。これは簡単には避けられないと思う。課題は、桜の持つ負のイメージを無意識に増強させないこと、か。新しい時代の新しい桜の歌は可能だろうか。佐佐木幸綱の「青き桜」は、そんなことを考えているぼくの、愛誦歌の一つである。

 君の内部の青き桜ももろともに抱きしめにけり桜の森に  佐佐木幸綱


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