ジャンルを超えて
 復本一郎が、俳句と川柳の「境界」をめぐる意見を提示して議論を呼んだのは記憶に新しい。復本の『俳句と川柳』(講談社現代新書)は、フォルムを論じながらもテリトリーへの示唆が含まれているところなど、大きな抵抗を予想させる部分もあったけれど、少なくとも、種々の短詩型の作家たちに、ジャンル論の必要性を強く喚起したはずだ。他ジャンル、とりわけ隣接して影響をおよぼしあっているジャンルとの関係を考えるのは、その内部だけに通用している約束事が、文芸としてほんとに妥当なものかどうかを検討する良い機会になると思う。内部ではあたりまえのことが、何を根拠にしているのか。ジャンル相互の比較によって見えて来るものは多いだろう。とかく閉ざされた場所となりがちな短歌の世界においても、再三認識されるべきことではないだろうか。
 坪内稔典の歌集『豆ごはんまで』(ながらみ書房)は、この隣接ジャンルの問題を考えさせる多くの要素をはらんだ一冊である。俳人が歌集を出版する、というのは、俳句と短歌を同時に書いているのとはまた違い、自負や決意なしにはできないことだろう。「歌人たちの苦心のしどころを体験的に知りたかったのである」とみずから語る短歌への動機だけでは、一冊の本を出版することにはならないわけだ。そこには当然、現代短歌への提言がこめられていると考えるべきだと思う。

 とはいえど明日の傷のかたちしてかりんは光るこの神無月

 恐竜のかつて歩いた道にいて恋人に放つ秋の草の矢

 木がどれも垂直に立つ夕暮れはどんぐりころころどの人か死ぬ

 わずかの引用に多くを語らせることはできないが、季節の表現への過不足のないことばづかい、私的空間を描きながら「私的」な匂いを感じさせない文体、軽薄にならない口語/散文表現など、静かな主張が随所に見える。

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