私だけの秀歌人・正岡豊
ヘッドホンしたままぼくの話から海鳥がとびたつのをみてる  正岡豊

 人の話をきちんと聞けよ、と思う。かすかに漏れてくる音楽をかき消すように、こちらの声も次第に大きくなっている。ヘッドフォンを付けた相手がどのくらい話を真剣に聞いているのかはわからない。でも、その眼はあきらかに話題にあわせて動いているようだ。聞いているというよりは見ているという感じで、海鳥がとびたつくだりを彼女の眼が正確に追っている。なんだか落ち着かないけど、対話なんて、ヘッドフォンを付けていてもいなくても、そのような不確かなものなのかも知れない。コミュニケーション不全の時代の真ん中にいるぼくたちにとって……。掲出歌から読みとれる風景、感情、哀愁などは、こうして別のことばにしてしまえば平凡になるが、透明度の高い湖の深みを泳いでいる魚のように、手の届きそうな、でも遙かなところで、一首は魅惑的に光っている。
 正岡豊は一九六二年生まれ。早熟で、十代の頃から秀歌をばりばりと書きあげていた。ぼくは同い年なのだが、彼は先輩という感じが強く、前衛短歌風な詠風からも、そこから転じて口語などを導入する方法からも、彼に学んだことはとても多い。一九九〇年に第一歌集『四月の魚』(まろうど社)を上梓したが、以後しばらく歌人たちの前から姿を消したため、この歌集は、藤原龍一郎等、かぎられた人の文章で取りあげられただけだった。むろんそのことばのきらめきは、いま読んでも鮮烈なものである。
 三年前、アットニフティ(パソコン通信)の会議室「短歌フォーラム」で偶然、彼に再会することができた。その頃すでに作歌も再開しており、最近では、以下のような作品を、同人誌「かばん」やホームページに発表している。

・身をもたげ世界最後のガス燈をともしにゆかねばならぬ ひとりで

・留守電にあった 潜ったときにするこぽっこぽこぽこぽっという音

・包丁で彼氏を刺したあなたから林檎の花がこぼれてました

 正岡豊の、私的体験や世界の常識的法則の中にとらわれない作風は、ことばの力をめいっぱいまで引き出して、いつも体験以上にリアルな感触をぼくに与えてくれる。早く第二歌集が刊行されて、彼の作品がもっともっと多くの人に読まれてほしいとつねづね思っている。


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