21世紀の短歌(講演)
1999.10.9 合同歌集『セ パラム』出版記念会
では、これから「21世紀の短歌」というタイトルでお話をさせていただきたいと思います。自分で付けておいてこんなことを言うのはなんですが、「21世紀の短歌」というのはちょっと大袈裟なタイトルでしたね。今がすでに1999年の10月ですから、あともう1年と数か月もすれば21世紀になるわけです。ある意味では「これからの短歌」と簡単に言い換えてもいいわけです。ただ、「これからの短歌」と言うだけではどうしても言いあらわせないような、単純な「これから」ではないような変化が、現代の短歌におとずれている、という印象はあります。世紀の節目、それも千年紀=ミレニアムの節目を前にして、その変化をどのように考え、これからどのような気持ちで短歌を書いていけばいいのか、ということを、みなさんと一緒に考える糸口を見つけたい、そう思ってこのようなタイトルを付けてみました。

さきほどのご紹介の中でも触れていただきましたが、今、岩波書店の企画で、「現代短歌辞典」という本の編集に携わっています。岡井隆さんを監修者として三枝昂之さん、永田和宏さん、小池光さん、道浦母都子さん、俵万智さんたち、全員で11名で編集を進めている企画で、もう三年間もどっぷりとその仕事につかっています。この12月10日にやっと配本されることになりました。「現代短歌辞典」の現代というのは、およそこの100年のことなのですが、辞典のために20世紀の短歌史年表などをあくせくと作成しながら、さきほど申し上げた「変化」というものを、いっそう強く感じることになりました。短歌の20世紀というのは、一つには短歌を書く場所として、歌人たちの集まる場所として、結社の時代だったということが言えると思います。また、もう一つ、近代という時代、つまり安定した価値観のあった時代だったということが言えると思います。今はこの20世紀の2つの柱だった結社という「場所」と近代という「価値観」が大きく変化しようとしています。今から、この「場所の変化」と「価値観すなわち作品の変化」について、少し考えていきたいと思っています。はじめに「場所の変化」の話を少しさせていただきます。それから「価値観・作品の変化」について話を進めて行きたいと思います。

まず、「場所の変化」についてですが、これは作品を発表したり、批評しあったり、歌人が交流する場所の変化ということです。みなさんもご存じのことと思いますが、今もなお、ほとんどの歌人が作品を発表したり批評しあったりするために「短歌結社」に所属しています。書店で販売されている短歌総合誌に、作品や文章が掲載されるとき、筆者名の下にかっこ書きになってそれぞれの所属結社名が入れられていますね。たとえば「心の花」とか「短歌人」とか「かりん」とかいう具合に。あれが「所属結社」です。李正子先生の場合には所属に「未来・風」と入ったりします。「結社」というのは、従来は、主宰、つまり先生がいて、大勢のお弟子さんたちがいてグループを構成していました。先生から厳しい指導を受けて弟子が修行するというスタイルです。最近ではご時世ということもあってか、厳しいというほどの指導をする先生はかなり減ったと思います。また複数の先生がいて、お弟子さんは好きな先生を選んで学ぶというスタイルをとっている結社もあります。大学や予備校や学習塾みたいな感じですね。こうした結社のスタイルというのは、きわめてすぐれた歌人、きわめてすぐれた先生から、短歌の真髄を学ぶことができるわけですから、お弟子さんたちは努力次第でかなりのびてゆけるわけです。けれども、それは、これこそがもっともすばらしい短歌である、短歌はこう書かなければいけない、というはっきりした短歌の価値観というものが存在していてはじめて成立するシステムなわけです。現在のように、それぞれの価値の尺度によって、あれもいいこれもいいと言われる時代、また一人一人の書き手の個性を活かすことがいいと言われる時代には、あまり向かないシステムです。にもかかわらず、まだ結社はしっかりと存在しています。仮に弊害があったとしても、まだまだ歴史的につちかわれて来た多くの利点を活かせるからでしょう。ただ、いずれにせよ新しいシステムを導入しなければ、早晩、結社は滅びると思います。結社は存続していても、実り少ない集団とならざるを得なくなるでしょう。

もちろん結社の運営者たちもこういう事態に気づいていろいろな打開策をこうじているようです。たとえば一例をあげると、「アララギ」終刊後に分裂した「短歌21世紀」という結社があります。そこでは、20代30代くらいの若いメンバーだけを集め、一定のページを割いて、彼等に自由に編集できるスペースをもうけています。どことなく学生の同人誌のような雰囲気がありますが、結社内部での多少の摩擦を覚悟の上で、運営者たちが思い切ったのだと思います。そのメンバーの一人の、20代の女性に話を聞いてみたところ、うちの先生たちは若者にとても甘いので困ります。まだ一人前でもないうちから一人前扱いするものだから、それに追いつくための勉強がたいへんなんですよ、と言っているんです。驚きました。押しつけられるのを嫌がる世代だと思うのですが、自由にやれと言われるとほんとに一生懸命になるんですね。

それで、もちろんこうした例外もあるわけですが、新しい集団のスタイルが求められるべきだという事実はかわりません。これから、ぼくたちが実験的に運営している集団をご紹介したいと思うのですが、その前にもう一つ、みなさんにとっても大事なグループの話をしておきたいと思います。大事なグループというのは、ここにいる多くのみなさんがかかわっている「風」のことです。ぼくは、外から見ているだけなので、李正子先生がメンバーのみなさんに対してどれくらい優しいかあるいは怖いかというのは存じあげていないのですが、決して古い体質の「先生」ではなく、現代風な集団のリーダー的な存在であると思います。「風」を読んでそれを強く感じました。「風」は、古い結社の体質から抜け出した新しいタイプの集団だと思います。もしかすると内部からは自覚しにくいかも知れませんが、これはとても大事なことです。5年という時間で合同歌集『セ パラム』にいたったということはほんとにたいへんなことだと思います。みなさんの多大な努力もあったでしょうし、李先生のリーディングもすぐれていたのだと思いますが、グループの在り方そのものが新しくてすぐれているわけなんです。先程の批評で、一通り触れさせていただきましたが、実に多彩な個性を許容し、ここぞというポイントでは李先生が指導的にアドバイスをされている様子で、ほんとにいきいきと活動されているんですね。これからもどんどんのびてゆくグループだと思います。同人誌でも結社でもない新しい集団として、さらに期待したいと思っています。

さて、それで、さきほど申し上げたぼくたちが実験的に運営している集団なのですが、名前は「ラエティティア」と言います。舌を噛みそうな名前ですが、ラテン語で、英語のJOY、よろこびというような意味です。加藤治郎さん穂村弘さんとぼくが三人で企画・運営しています。この「ラエティティア」の何が実験的かと言いますと、実はこのグループは、活動の大半を電子メールでおこなっているんです。電子メールというのは、ご存じと思いますが、パソコン通信やインターネットを通じてやりとりをする手紙、パソコンに入力した文面をそのまま他人に届けられる手紙です。このシステムを利用して、一年半ほど前から実験的に開始し、活動を続けています。いまメンバーはちょうど80名、平均年齢は三十代です。歌人が中心ですが、詩人、俳人、川柳作家、小説家、出版の編集者もメンバーにいます。大袈裟に言うと文芸的なグループですが、やはり短歌中心で、一日平均十数通くらいの電子メールがそれぞれのメンバーから発信され、各メンバーに届いています。一年半で合計一万通を超える電子メールが配布されています。普通の短歌のグループと同じように、作品を見せあったり、歌会をおこなったり、批評をしたり、そしてまた雑談もしたりしている他に、歌仙、連句の、あの、歌仙をおこなったりもします。それなりに勉強もそれなりに遊びもと思っているわけです。やっている内容はそんなに他の短歌のグループと違いませんが、何が大きく違うかというと、一切の強制がなく、自発的な参加だけで成り立っているということが一つ、また、どれだけ遠くにいても、まったく同じ条件で歌会などができるということなどもあります。九州に住むメンバーと東北に住むメンバーとが、電車にも乗らず、机にすわったままで交流することができるわけです。むろんときどきは実際に顔をあわせる機会もつくっていますが、たとえば体の調子が悪くて外出できない人も、そこに参加できますし、仕事の合間にオフィスで参加するというケースもあります。また、インターネットは世界中どこでもつながりますから、実際に、ヨーロッパを旅行しながら「ラエティティア」の短歌の議論に参加していたというケースもありました。まだわずか一年半のことで、成果も結論も出せるものではありませんが、ビジネスの忙しさから短歌にかかわる時間が薄くなってしまったというケースが解消されたりもするようですので、これからの歌人の活動にとって、大きな転換を生むのではないかと期待しつつ運営を進めています。

みなさんの「風」ですとか、ぼくたちの「ラエティティア」ですとか、まだ未知数の要素を多くはらんでいます。「場所の変化」だけで短歌がかわるということはもちろん言えないわけなのですが、「21世紀の短歌」の大きな変貌を予感させる、片鱗くらいはのぞかせているのではないかと思っています。言い方を変えると、こうした新しい場所が生成されて、そこで何かが生み出されて行かなければ、短歌の未来はあまり明るくないということでもあります。「風」短歌会がこれからどのような活動をしていくかというのは、「21世紀の短歌」がどうなってゆくかを見るための大きなファクターになるとぼくは感じています。ぼくたちもがんばりますので、どうぞみなさんもがんばって下さいね。

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