口語短歌の現在、未来  対談/荻原裕幸・穂村弘
■八〇年代の口語短歌

荻原 今回は「口語短歌の現在、未来」という、やや語りにくいテーマです。前月号で篠弘さん、馬場あき子さん、大島史洋さんが「短歌にとって定型の生かし方」という鼎談をされていまして、そこでは現代の口語短歌についてなかなか厳しい意見が出ていました。とくに前月の鼎談の内容を受けて話すというかたちはとりませんが、現在の口語短歌について、昭和三十年代生まれのわれわれの意見を重ねてみて、何か新しいビジョンを見出す糸口を模索するつもりで話を進めたいと思います。
ご存じのように穂村弘さんは一九八六年に新人賞(角川短歌賞)の次席となられたときから、口語とりわけ会話体を作品のなかに生かしたことが注目されていました。一九九〇年に第一歌集『シンジケート』をまとめられて、<体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ><「「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」>など、同時代の口語的なセンスを短歌定型のなかに生かした作品が絶賛されましたが、一方で、おもしろさがわからないという批判も浴びました。最近ではしばしば文語を用いた歌も書かれています。
ぼくは塚本邦雄さんの影響を大きく受けて出発していたので、はじめは徹底した文語、定型でしたが、一九八〇年代の半ばに、同時代の空気をつかみたいという意識が強くなると、それにともなって作品のなかに口語的な要素が少しずつ流れ込んできました。『青年霊歌』の<まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す>などがそのころの作品です。穂村さんの作品に出会ったとき、ほぼ同じ時期に加藤治郎さんや俵万智さんの作品にも出会っていますけれども、迷いつつ使おうとしていた口語が、なるほど、こういうかたちで短歌のなかに生かせるのかと感心し、たいへん心強くも思いました。
一九九〇年代のはじめころ、ぼくの分析では一九九四年、大震災と地下鉄サリン事件の前年まで、従来の短歌定型に対して、口語を入れる、記号を入れる、あるいは過剰なオノマトペを入れるというかたちでの異化効果を狙った表現が、定型を壊すのではなくて新しいかたちで定型を生かすという効力があったのですが、その後、バブルが崩壊したかのように効力が失われたような感じがしています。
また、一九九〇年代に口語のスタイルで現れた人たちの作品は、何か自分たちの世代の口語文体の感触と若干違うという気もするのです。そのあたりを比較してみるところから、大ざっぱですが八〇年代の口語短歌、九〇年代の口語短歌、それを俯瞰して今後の可能性などについて考えてみたいと思います。
まず八〇年代の口語の短歌について、出現の経緯とか、穂村さんのご自分の実感なども含めて、お考えを聞きたいのですが、いかがでしょうか。

穂村 荻原さんと私は実は同年齢、同学年ですが、短歌に関しては若干、入り方に時間差があります。私はいまのお話にあったように八五年くらいから短歌を書き始めてますから、八〇年代といっても実際にリアルタイムで体験したのは後半の五年間だけです。それに対して荻原さんは私よりも五年、もうちょっと長いキャリアをおもちだと思いますので、高校時代からフルに八〇年代、九〇年代を通して、その変遷というものを見てこられたと思います。だから、そのへんの差がけっこう大きいかなというところがあって、私は林あまりさん、俵万智さんの作品を図書館の短歌雑誌で見て、ああ、そういうことかって簡単に納得したというか。

荻原 ああ、そういうことかって?

穂村 ルールがわかったというんでしょうか。口語定型詩というルールを自分で勝手に思い込んで、それだけで書き始めて、実際に書きながら、たとえば伝統詩としての部分とか、そういったものをあとから実感してくるような感じだったんです。そのへん、荻原さん、五年の差はどう思われますか。

荻原 五年の差ですか。あると言えばあるのかな。ぼくが書き始めたのは七〇年代の後半です。小池光さんが第一歌集の『バルサの翼』を出されたころです。まだ自分のなかには同時代の短歌のイメージみたいなものがなくて、前衛短歌が同時代の短歌とまったく等しいような感じでした。八〇年代の前半の阿木津英さんたちが書いた非常に元気な作品が奇矯なものに思えましたから、まだうまく見えてなかったわけです。その後、自分らしい文体を模索する過程で、いつかしら前衛短歌的なもののすべてが古めかしいものに感じられはじめたんです。
八〇年代のなかごろかな。自分も時代の大きな変化を感じはじめて穂村さんの作品や俵さんの作品に出会ったのか、あるいは出会ったときに時代の変化を思ったのか、はっきり記憶してないですが、同世代、同年代で、書きたいモチーフの質にそんなに大きな差がないうえに、それまでの自分が禁じ手にしていた方法、文体でも歌はできるんだということはものすごい発見で、自分の以後の動きがそのときに決まってしまったみたいなところがありました。
そのころ、前衛短歌的な文体に呪縛されていた大きな理由は、自分のなかにある、短歌で書きたいもの、表現したいものが短歌の世界ではほとんどプラスの価値をもってなかったということです。たとえば恋愛ひとつをとってみても、どこか世界を俯瞰してうたいあげるようなところがあった。そうしなければうまく価値に結びつかなかった。だから自分にとってはおもしろく感じられるようなモチーフがいっぱいあったにもかかわらず、短歌というフォルムのなかでは書きあぐねていた。新しいモチーフを価値として成り立たせるための文体や方法をうまく確立できていなかったんです。
だけど、ちょうど口語というかたちで新しいタイプの作品が書かれはじめたのと同時に、一気に視界がひらけました。世の中の価値観が大きく揺らいでいた、価値観が多様化していた時期だったから、なおさら加速度を得て波及したのでしょう。自分のなかにあった従来は短歌で価値だとみなされなかったモチーフが、さまざまなかたちで表現できるなと実感できました。
だからタイム・ラグはあるんだけれど、同じ経路をたどったんじゃないのかな。よく穂村さんからは五年の差が大きいと言われるけれど、こちらとしては同じ世代で同じものを見ていて、たまたま自分の方が文語定型で短歌の「修行」をしていた時期が長かったのかなという程度の感じです。

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