第二歌集という概念
 「歌壇」五月号の特別企画として「第二歌集の功罪−いかに第一歌集を超えるか」が組まれている。第二歌集という観点から近・現代歌人の在り方を問う小論が展開され、大辻隆弘をはじめとした執筆者七人の短歌観が生な感じで露出しているのが面白かった。第二歌集を、作家が主題を意識化する過程としてとらえる黒木三千代から、第一歌集と同じく師の選が大事であるとする御供平佶まで、これほど幅があるのかと吃驚させられたが、むろん共有事項もある。それは、第一歌集の世界を深化させたり変革させたりともかく何らかのかたちで成長し自らの過去を超えることの必要性、といってもいいだろう。ある意味では当然とも感じられることだが、この当然が当然でなくなりつつあるところに現代短歌が動こうとしている気配もある。
 例をあげれば、紀野恵、水原紫苑、林あまり、枡野浩一という作家たちは、手持ちのカードを順々に切るような具合に歌集をまとめている。それぞれに変化はしているが、深化とか成長とは異なる次元での変化というべきだと思う。異色作家という扱いではなく、彼等の歌集を正面から論じるとしたら、第二歌集という概念そのものが成立しなくなるのではないか。第二歌集論をきわめるなら、「異色作家」たちも視野に入れることが、いま必須の要件となっているのではないか。

 骨張って野草のような十代のわれを知らずに手を引く君は  梅内美華子
 火星人某千年ぶりに来日しぬばたまのビデオショップをめぐる 山田消児

 この半年ほどの第二歌集をいくつか読み直してみた。梅内の『若月祭』(雁書館)はすでに描いて来た「自己」という枠を梃子のように活用し、山田の『アンドロイドK』(深夜叢書社)は仮想現実を自在に楽しみながらも現代のリアリティに肉迫している。第一歌集に縛られる縛られないは、必然ではなく意志的な選択としてそこにあるように見える。


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