よこがほの林静一風をんな首だけ切つてしまつて置くか
『青年霊歌』
藤原龍一郎(短歌人・ラエティティア)
荻原裕幸の歌集の中でいちばん鮮烈な印象があるのは、やはり第一歌集の『青年霊歌』ということになる。この歌集が上梓されたのは一九八八年五月。私は「短歌人」に所属してはいたものの、自分の歌集を出すことになるとは思ってもいない頃だった。翌年の二月から三月にかけて、私は第一歌集を出す決心をして、現在の歌集のレベルを知るために、数十冊の歌集を買って、読みまくった。『青年霊歌』はその中の一冊だったと思うのだが、記憶がはっきりしない。ただ、この歌集の代表歌である<まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す>や<剥がされしマフィア映画のポスターの画鋲の星座けふも動かぬ>や<「きみはきのふ寺山修司」公園の猫に話してみれば寂しき>を知ったのは、この時期だったと思うので、歌人としての自己形成期に影響を受けたことはまちがいない。

掲出歌は、ながらみ書房の『現代の第一歌集』にも新書館の『現代短歌の鑑賞101』にも選ばれていない、私のひそかなフェバリット。林静一という固有名詞を触媒としてのイマジネーションの展開が私の感性に沁み込んでくる。林静一は一九六八年頃に「ガロ」でテビューした漫画家で「赤色エレジー」が代表作。これは、あがた森魚の歌にもなっている。一九七〇年代の前半には、「現代詩手帖」の表紙を描いていた。竹久夢二を彷彿とさせる、はかなげな美少女像が特徴。荻原裕幸が「よこがほの」と詠い出しているのは、この少女のイメージをはっきりとらえている。ただ、そこからの展開がシュールで、首を切断してしまっておくというのは、むしろ近藤ようこの「美しの首」あたりを読者に連想させる。そして、今読めば、もちろん、酒鬼薔薇事件も連想することになる。
私がしばしば引用する箴言に、高柳重信の言葉の「真の詩人の魂の持ち主は、過去を予言し、未来を思い出す」というのがある。この一首はまさしく、一九九八年に神戸で起こった惨劇を思い出しているのである。

実はこの歌をめぐって、よみがえってくる個人的な思い出がある。一九八九年に私は初めての歌集『夢みる頃を過ぎても』を出した。そして、当時、俳人の大井恒行氏が編集長をしていた伝説の俳句誌「俳句空間」が、その歌集の書評を載せてくれ、執筆してくれたのが、荻原裕幸であったのだ。その中で、荻原裕幸は私の<上村一夫風美少女という比喩もむなしく朽ちてゆく秋風に>という作をひいてくれている。上村一夫も一九六〇年代の後半から一九七〇年代の前半にかけて活躍した劇画家。代表作は『同棲時代』、『マリア』、『関東平野』などがある。この『同棲時代』も歌がつくられ、大信田礼子が歌っている。『赤色エレジー』は幸子と一郎。『同棲時代』は今日子と次郎。林静一と上村一夫がつくりだしたカップルは確かに、時代の喪失感のシンボルになりえていた。
「林静一風をんな」を詠んだ荻原裕幸が私の「上村一夫風美少女」に言及してくれたのは偶然ではなかったはずだ。実際、現在に至るまで、私の「上村一夫風美少女」の歌に触れてくれたのは荻原裕幸ただ一人なのである。そう思えば、私が『青年霊歌』に魅かれ続ける理由も、この歌集に散在するノスタルジックな時代感覚のベクトルへの共鳴ということなのだろう。<われの歌ふ光GENJIを父は知らず時代の流れ幾らか寂し><青春はたちまち揺るる人生観たとへば団鬼六読み終へて><夕映の0戦に散る父ならばかつこいいけどわれは生れず><あだち充の描く劇画のごと淡き風景の中ひとり散歩す>というような固有名詞が詠み込まれた作に、私はあらためて限りない魅力とせつなさをおぼえる。それはこれらの歌がまぎれもなく「未来を思い出し、過去を予言している」からにちがいない。

 

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