誰も知らぬわれの空間得むとして空(から)のままコインロッカーを閉づ
『青年霊歌』
ひぐらしひなつ(ラエティティア)
すべてが曖昧に流されてしまいそうな喧噪と混沌の世界にあって、荻原さんはいつでも自分の輪郭を確かめ、描きだそうとしているように見える。
4冊の歌集を読んでゆくと、その文体がめまぐるしく変わりつづけてきたことに気づく。けれども、その根底にはずっと「変わらないもの」が流れているように思えるのだ。たとえば歌集未収録のこの歌を挙げてみる。初出は1998年。立風書房刊『新星十人』への書き下ろし作品「ポケットエンジェル」からの一首だ。

 もはや世界の感触もない水曜のポケットに天使を孵化させた

とくに第三歌集や第四歌集に収録された作品などは、アタマで理解しようとすれば、その修辞に目が眩んでしまうかもしれない。けれどそのみづいろの世界にココロを泳がせてゆけば、荻原さんが第一歌集の頃と変わらない場所を目指していて、しかも自分自身のやりかたを模索しながらそこにたどりつこうとしている様子が見えてくる気がするのだ。

いつもソツなくやわらかな笑顔でいるように見えるけれども、即物的なさまざまを超えた部分できっと、荻原さんは「そこにたどりつくこと」を強く希求しつづけている。むしろその希求の度合いが強ければ強いほど、外界との接点はやわらかくなってゆくのかもしれない。やわらかな空気に包まれた荻原さんの核はとても強い引力をもっていて、それはなんだかひとつの星みたいに見えるのだ。ひとはみな別々の星で、それぞれの引力を持っていて、決してひとつになることはない。でも、自分の輪郭を保ちながらまわりつづける星であることを互いに認めあうことはできる。そのときほど、ひととひととの存在が強く結びつく瞬間はないんじゃないだろうか。「誰も知らぬわれの空間」をひとつずつ持ちたいという願いを、ひとは共有してゆけるのだ。きっとどれだけ描いても描ききることはない輪郭を探しつづけてゆく孤独。それを受けとめて生きたいとねがうとき、わたしにとって荻原短歌は限りなくやさしくてさみしい、魔法の呪文になる。


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