われにはわれの時間流るる悲しみよ追憶はつねに一人の青葉
『甘藍派宣言』
穂村弘(かばん・ラエティティア)
一人の青葉
 昔から、親しい人にときどき言われるんだけど、ぼくの近くにいると、何かの瞬間に、ふっと遠のくというか、冷たくなるというか、自分がいてもいなくても同じ、という気持ちになることがあるらしい。自分でも、なんとなく、そうだろうな、と思いつつ、それってすごくまずいんじゃないかと不安になる。
 そんなことを考えてるときに、そういえば、荻原さんに対しては、ぼくも似た感覚を持つことがあるな、と思ったのだ。
 荻原さんの対人的な対応って、ぼくのすべての知り合いのなかで、たぶんもっとも安定してて誠実なんだけど、同時に、その確かさの底に、何か、自分が次の瞬間に「切られる」ことがあり得るという感じが潜んでるみたい。いや、自分がというよりも、彼にとっては、周囲のすべてが「全とっかえ」可能なんじゃないか、と思わせるような感覚。
 実際には、荻原さんと知り合って十数年になるけど、一度も関係がネガティヴになったことはないし、ここ数年は、一緒にエスツー・プロジェクトを始めたりして、ますます親しくなっている。それでも、先の不安な感触はやっぱりどこかに残っている気がする。
 また、ぼく自身を含めて、荻原さんに一方的に世話になったり迷惑をかけたりした人はたくさん知ってるけど、その逆の話はきいたことがない。
 彼はすごく孤独な人間なんじゃないかな。
 人間は強くないと孤独にはなれないと思う。弱い人間は浅い孤独感でたやすく音を上げて、すぐに世界と仲良くしてしまう。強い人間だけが深い孤独のなかに入ってゆけると思う。荻原裕幸の並外れた強靱さは、彼をとても孤独な場所に連れてゆく可能性があるんじゃないか。
 第二歌集『甘藍派宣言』所収の掲出歌は、はじめて見たときからすごくいいなと思ってたんだけど、この「青葉」はとっても孤独で且つ甘美だよね。一首のなかでそれが普遍的なレベルにまで高められていると思う。
 荻原さんには「青葉」の歌がいっぱいあって、いずれも佳品なんだけど、改めてみてみると、どれも孤独で張りつめたうつくしさを湛えている。

・夏木立ひかりちらしてかがやける青葉の中にわが青葉あり  『青年霊歌』
・少年のわれを殴(う)つ父にくみしをこころの奧の奧まで青葉『青年霊歌』
・遠景に翳る青葉の窓辺にて待つべきものもあらずただ待つ  『甘藍派宣言』
・照りかへす青葉の光がわが窓に棲むことも「権力」の兆しか 『甘藍派宣言』
・世界病む朝のあかるきトイレにて虹、青葉、愚痴その他嘔吐す『甘藍派宣言』

 どの一首をみても、すごくくっきりと<一人>でしょう?


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